瓢箪から駒で南太平洋へ
それは3月はじめに入った1本のメールから始まった。
'98年のピースボートに当時フィジーにいた娘(吾夢)が乗り、タヒチ〜フィジー間でPCRC(太平洋問題情報センター)やNFIP(非核太平洋独立運動)についてレクチャーするということがあった。その時彼女と一緒に船上でセミナーを行なったKさんからで、「8月末からの南太平洋クルーズに吾夢さんのお父さんに乗ってもらいたいという希望が(ピースボートに)ある」というものだった。そのコースをみて、「これはおもしろい」と思ったのが発端だった。
1982年、教科書検定で日本のアジアへの「侵略」が「進出」と書き換えられたことにアジアの国々から激しい抗議が起きた問題をきっかけに「戦争を知らない我々が正しく判断するためには、直接アジアの現地に行って、人々の話を聞くしかない」と、若者たちが金を出しあってチャーターした船で現地を訪ね洋上セミナーを行なう……1983年に始まったピースボート活動のことは、我々の年代の者なら多少は知っている。けれども、いまやそれが通年で行なわれており、クルーズが30回にもなんなんとしているとは知らなかった。
船を下りた吾夢が「あたしゃ、お金を貯めてフルクルーズに乗るんだ!」と、東京でフリーター生活をはじめたこともあり――初志貫徹を目指しているのかどうかは分からないが――"ピースボートは彼らのもの"と思い、自分が乗り込む羽目になるとは思ってもみなかった。少年期の"青函連絡船体験"後遺症で、船はてんから駄目だと思ってもいたし……。
しかし、「南太平洋」は魅力だった。昨年12月のフォーラムに続いて8月には女性フォーラムに太平洋から人々が来る。彼ら彼女らにも会える。よーし、行っちまえ!
春から夏にかけて、クルーズ――第30回ピースボート『南十字星クルーズ』――説明会に札幌へ来るスタッフと顔合わせ、打ち合わせを行ない、担当になったR君とは会う機会も多くなった。19歳の彼の感性と意欲、勢いに乗せられてのクルーズ参加となった感もある。
「初めてのピースボートだから、フルクルーズ・45日間乗ってみましょう」ということになり、船上でもたれる"地球大学"のためのテキスト作りにも関わった。これには札幌の若者たちが"ピースボート札幌"として集まり、アイヌの歴史と生活(文化)についてA4版・20ページのテキストをまとめあげた。なかの一人、ヤマゲンが『南十字星』に乗ることになった。
6月には仕事で東京へ行った折りに、ピースボート事務所を訪ね、講座を行なったりもした。……と書いてくると、着々と準備が進められている印象だが、まったくそうではない。5月の2回のキャンプ以降、東京・帯広・阿寒・広島を走り回り、夏のキャンプ、先住民女性フォーラムを済ませ、刺繍講習会を続け、ニュースを発行し、カトリックや西本願寺の催しに参加し……という中で、準備や計画ができるわけもない。いつもの私スタイル、「ま、出港してから考えるか!」
そもそも何故今回のクルーズに私が必要だったのか? それはこのクルーズのコースによる。
<神戸〜フィリピン(スービック)〜東チモール(ディリ)〜オーストラリア(ダーウィン、ブリスベン)〜アオテアロア(オークランド)〜ニューカレドニア(ヌーメア)〜パプアニューギニア(ラバウル)〜ミクロネシア(チューク)〜東京>
そして『南十字星クルーズ』のテーマは「東チモールを知ろう」「先住民を知ろう」「戦争責任を考えよう」の3つで、それぞれのテーマについての専門家が講座やワークショップを行なう。最寄りの寄港地で乗船し、下船していく講師を"水先案内人(水案)"と呼び、乗客・スタッフ以外にこうして乗り込んでくる多彩なメンバーを含めて船は進んでいくのである。
初めて『森』事務所に現れたR君。「寄港地に打ち合わせに行って、アオテアロアのマオリ女性に水案としての乗船を依頼したら、こう言われたんです。"先住民のことを知りたくてやって来るんなら、ここへ着くまでに日本のアイヌについて勉強をしてから来なさい。それならば、協力してもいい"と」……「その女性の名前は?」「ポーリン・タンギオラ……」「やっぱり!」
それから"アイヌについてレクチャーしてくれる人"を探して、Kさん経由で私のところに来たということらしい。偶然とはいえ、いかにもポーリンだ。
「そうやって太平洋で乗り込んでくる先住民がいるのなら、船の上で"ミニNFIP"が開ければ楽しいね」の一言に、R君おおいに乗り気になる。PCRCに連絡をとって、可能性を打診してみることになった。
その後紆余曲折がありながら、結局この企画は実現されることになった。5月以降ロペティの後任となったヒルダ・リニ(PCRC代表)が乗り気で、8月の女性フォーラムに札幌へ来たときには、詳細な会議の企画書を持参していた。これも瓢箪から駒であった。
そんなこんなで、準備なしのぶっつけ本番とは言いながらやはり気ぜわしい毎日が飛ぶように過ぎていき、ついに出港前日となった。「本やビデオは、大量に持ち込んでください」というリクエストだったので、ダンボール4個の本類と1箱のビデオ資料、2個の私物は3日ほど前に宅急便で船宛に発送してあった。教えられた"最強の酔い止め薬"30日分も……。荷物を抱えての移動をしなくてもすむのが、フルクルーズの特典だろう。不在中のあれこれや刺繍講習会の準備などのすべてを智子さんに託し、身(これは疑問だが)も心も軽やかな私は、出港地神戸へと旅立った。
8月31日 晴れ/神戸出港
9時には港のターミナルに着いた。人が一杯。札幌へも来たピースボート・スタッフやR君、疲れた顔のヤマゲンもいた。やがて行列につながって受付を済ませ、船内へ入る。
身体の大きなスチュワーデスに案内されたのは、船首近くのスイート・ルームだった。豪華とはいえないが、広々として落ち着いた部屋だ。これが、45日間のわが家である。入り口には、7個のダンボール箱が積んであった。
11時半、ボートデッキ(私のフロア)で出港式。シャンペンが配られ、見送りの人々との間にテープが飛び交い、華やか。以前に子どもたちが少年の船で出かけたときを思い出す。立つ位置が反対になったのだが、岸壁に私を見送る人はいない。12時に船は出た。
さっそく昼食。部屋でダンボールから必要なものを出して……と思うが、いくらかシャンペンも効いたのか億劫である。そのうちに船内生活説明会があり、その後やっと衣類や私物をそれぞれに収納させた。
夕食後、水先案内人とスタッフ、通訳を交えての打ち合わせ。航程中の仕事とそのスケジュール概要を決める。忙しい日々になりそうだ。終了後、ヤマゲンが部屋でビデオを棚に並べる。何冊かの本は渡したが、あとはまだ箱の中。少し飲んだが、疲れて寝る。12時過ぎか……。
9月1日 晴れ
朝、避難訓練。その後、通訳中心の打ち合わせ。講座には必ず英語の同時通訳がつくということで、資料類を渡しておかなければ大変だろうと……。その後若い通訳が2名部屋にやってきて、図書の箱をあけ棚に並べていった。思ったほど分量がなかった(100冊程)のは意外だ。
午後は船内企画や催し、その中心メンバーの紹介。フィリピン在住上田敏博さんの講座(スモーキーマウンテン)。フォーマル・ディナー。船長招待のパーティー。ウクライナ・ミュージックとダンスを、クルーたちが達者に演じていた。(船はウクライナ船籍「オリビア号」15791トン。船員のほとんどはウクライナ人で、ロシア語が日常語)
今朝方4時前に、船の揺れが急に大きくなったような気がして目がさめた。デッキに出てみたが、回りの波は静かである。気のせいか……。それでも外洋に出た分、いくらかうねりは大きくなったのかもしれない。船首に近いので、波がぶつかる音が時折響いてくる。日差しはだんだん強くなり、気温も上がってきているように感じる。部屋は冷房が効いて快適だが。
薬が効いているのか、船酔いはない。いつ薬を止めるかが問題だが、まあもうしばらくは続けてみるか。
9月2日 晴れ
7時過ぎのアナウンスでは、沖永良部島の沖合32マイルを航行中。気温28度、海水温度29度。午前中は右舷、午後は左舷デッキで本を読む。気持ちがいい。「辺境から眺める」(テッサ・モーリス=鈴木)読了。最後のほうはおもしろく読めたが、この書評を「読書北海道」にメールで送らなければならない。唯一片付けきれなかった仕事だ。さて……。
夕食後、入港地説明会。船は予定より4〜6時間遅れているという。黒潮の勢いが強いらしい。このままだとスービックでのオプショナル・ツアーは中止になるだろう。初めてのフィリピンには数時間の滞在しかできなくなる可能性大。シアターで「海の上のピアニスト」を観た。
9月3日 晴れ
朝食後はデッキで本を読む。波も風もなく爽快。大小の鳥が飛び回っている。島が近いんだ。
昼食後、R君からノートパソコン借りて、書評。夕食までに半分。午後にはフィリピンの島々が見え、その間を船が行く。
21時からは、上田敏博さんプロデュースによるファッションショーがあった。勿論素人の男女50人が、2日間の特訓を経て華麗にモデルデビュー。たっぷり1時間半のショーは、途中居眠りもしたが、おもしろかった。とにかく、真面目である。「今時、こんなに真面目な人々がいるの?」という思いを、改めて強くした。
9月4日 スービック(フィリピン) 曇り・強風/下町は雨
時差調整で、1時間戻す。得をした気分。
夜半から波が高くなった模様で揺れが激しくなり、船首にぶつかる波の響きも強くなった。デッキは潮のしぶきで濡れ、身体もすぐにべとついてくる。書評の残りを何とか打ち終えて事務局へ持ち込み、送信してもらう。あー、宿題が終わった!
ルソン島に沿って南下を続けた船がスービック港に入ったのは17時半。出港が24時だから、6時間ほどの自由時間。先住民アエタに会うというツアーは時間不足で中止になり、がっかり。デッキから見えるのは、いかにも殺風景な軍港。米軍が撤退したあとも、やっぱり風景は基地であった。
ヤマゲンとぶらぶら歩き出し、何となく一緒になったチエさん――後で名前を聞いた――と3人でゲートを出てタクシーを探す。ない。ヤマゲンに「どこへ行く?」ときくと、「ダウンタウン――オロンガポへ……」。もらった地図では、距離もよく分からない。5分ほど歩いたが、タクシーらしい車は見つからない。どうするか?と言ってるところに、止まっていたパトカーの警官が「どうした?」と聞いてきた。ヤマゲン、一生懸命説明している。警官も回りを探しているが、タクシーがないらしい。その内に三菱パジェロのような小型トラック型パトカーの荷台を開けて「乗れ」と言っている。タクシーのたまり場まで乗せてくれるらしい。初めてのフィリピンは、パトカーで走った。
4〜5分で、いわゆるメイン・ゲート――かつての基地ゲートなのだろう――へ着く。駐車場でパトカーを降り、ヤマゲン、タクシー運転手と交渉。オロンガポまで15$と言うのを10$にさせて、タクシーは走り出した。
雨が降っている。小粒とはいえ、叩きつけるような勢いで降る。盛り場を抜けて、マーケットのようなところで車を降りた。傘を開いても、まつわりつくような雨は、足元を濡らし、全身を濡らしてくる。市場のテント伝いに歩くが、すぐに濡れ鼠になった。合羽を出して着る余裕もないし、大体が暑いのだ。ま、いいか……。
市場を物色しながら一回り。チエさんが「腕時計を忘れてきたから、買わなくちゃ!」と、テント掛けの時計屋(?)を覗いて歩く。やがて、明らかにインチキなセイコーのGショックを購入。「いつまで動くかなあー」
「なんか食べよう」と周りを探すが、ピザ屋やバーガー屋しか見当たらない。ま、いいかとバーガー屋に入り、とりあえずの夕食(?)。雨が小降りになってきたので、ぶらぶら歩く。と、「5分ください!」と言って、ヤマゲンが入ったのは、床屋だった。バリカンで丸刈りに約10分。店先で待っている二人。雨も上がり、涼しい。
その床屋の向かい側に見えているのは、食堂ではないか? 行ってみる。そうだ。ビールが飲める! サンミゲルを頼み、タガログ語(らしい)メニューを3人で判読・推測しながら、何品かを注文する。美味かった! レッドホースというビールも飲んだ。
ジプニーに乗り込んで帰路につく。一人3ペソ。(1$=54ペソだったと思う)
メインゲート近くで降りると、「JAPANES SHOP」というような感じの看板が掛かった明るい大きな店。「入ってみよう」。何と、100円ショップ風の商品が満載されていた。
帰船。大ホールでは、フィリピンの人気グループ「グルポンペンドン」のライブが始まっていた。ホール一杯に大いに盛り上がる。そして24時、予定通り船は動き出した。
9月5日 晴れ
1回目の講座。なぜか『太平洋への招待』というタイトル。太平洋を中心に世界の先住民について話して欲しいという注文だった。
私は乗船の直前まで、太平洋と太平洋の先住民について詳しい"水案"が乗ってくると思っていたのだ。念のために「どなたが乗るんですか?」………「いえ、計良さんだけです」「!?」そりゃあないよ! 俺は、アイヌだけをやればいいと思っていたんだから……。
急遽『反核パシフィカ』の荒川さんを電話で捉まえて乗船交渉。「船上でNFIPをやることになったんで、立ち会ってもらいたいし……太平洋についての講座も持って欲しいし……」と。仕事の融通がつけばなんとか……と言ってくれてはいたのだが、結局は無理だった。2週間以上も抜けるわけにはいかないと。そりゃそうだ……。
というわけで、私の仕事は2本立て。45日間のんびりと船旅を……なんてうまい話がある訳がないか。
数日前から通訳グループが熱心に資料を読んで準備していた。面倒な言葉や用語、概念が多すぎるのだ。太平洋の概略説明についてはヤマゲンに振ってあったので、彼のデビューである。
まあ、物足りないと言っても1時間半じゃ仕様がない。イントロとしてはこんなものか?
受講者の年齢や経歴、現在の生活はさまざまである。質疑のなかでかなりの年配者から「民族だなんだといって、いつまでも根にもっているのが間違いだ。八紘一宇で、世界が一つになればいい……云々」が出てきて、やっぱり、の感を強くする。今日から参加した古沢希代子さん、松野明久さんが怒っている。それに浅野健一さんを加えて、ひとしきり賑やかな夕食だった。
夜の浅野講座(インドネシアの侵略と日本の責任『サンタクルスの虐殺』)でも同じ人の同じ趣旨の発言があり、「まあ、じっくりやりましょう」と……。
9月6日 晴れ
オリビア号が神戸を出港した日から、船内新聞が毎日発行されている。その名も『海鮮弁当』。海の上の一番新鮮な情報がつまったものを手作りする、という意味で命名されたという。毎日のタイムテーブルと船内企画の案内、いくつかのコラムがB4版裏表に載っており、タイムテーブル以外はすべて手書き。学級新聞を思い出して、なにやら懐かしくなる。しかもやがて、朝発行されるこの新聞がなければ、その日のスケジュールが立てられないという重要文書になっていくのである。まさに、船内唯一の"メディア"であった。
その『海鮮弁当』創刊号(8/31)に、「参加者データ」が載っている。
総乗船者(スタッフを含む) 497名
男女別(一般参加=船客のみ) 女性 210名/男性 169名
年代別 10代未満…0.5%/10代…7%/20代…54%/30代…10%/40代…3%
50代…8%/60代…11%/70代…6%/80代…0.5% <最高・88才/最少・4才>
国籍 18カ国
さて、松野・古沢に浅野も加えて「東チモール」連続講座シリーズがはじまる。なかなか忙しいが、中身が濃くて迫力があり、続けて聞くとさすがに疲れる。
河内家菊水丸の「吉本興行の裏話」も、楽屋落ち話なりに楽しめたし、息抜きができた。
夜、オープンしたカジノ――何せ船上は"外国"。お金を賭けての賭博が可能なのだ――で遊ぶ。ルーレットとブラックジャック。まだあまり客は集まっていないが、それなりにちゃんとしたカジノである。ウクライナ人クルーのディーラーを相手に楽しんだが、結局3000円を負けた。しかしドリンクがフリーなので、「ま、いいか」。
9月7日 晴れ
早朝30分ほど、デッキを歩き始めた。「いつまで続くのか……?」と思いながら。
地球大学・先住民コースの講座「教科書を読んでみよう」が始まり、その1回目。我が部屋がいよいよ教室スペースになってきた。
赤道通過、12時59分56秒。"時間当て宝くじ"は外れた。
さすがに日差しが強く、赤道祭はオイルを塗って汗をかきながら座っていた。
夜は盆踊り大会。プールデッキは大騒ぎだった。
9月8日 晴れ
インドネシアの領海に入っているのだろう。穏やかな海を、デッキチェアで本読んだり、うつらうつらしたり。明日のディリ上陸へ向けて、説明会。
深夜デッキに出る。べた凪。聞こえる波の音は、船首に当たる水音だろう。星はたくさん見える。けれど、明るくはない。海は、暗い。「クンネ」という言葉が分かったような気がする。「黒い」ではない。「暗い」なのだ。が、それは気持ちを暗くするような暗さではない。「暗い海を私は行く」……何か清々しい気持ちにさえなれる、そんな海だった。
9月9日 ディリ(東チモール) 晴れ
夜明けとともに船首デッキに集まった人々が見守るなか、6時に船はディリ港に着岸した。先乗りのスタッフと数台の車が出迎えてくれるが、早朝の港はひっそりと静まっていた。しかし、暑い! 乾季の終わりで、1年中で最も暑い時期だという。
7コース組まれたオプショナルツアーの内「東チモールの歴史とこれから―検証と交流」という1泊2日の"地球大学生"コースは、10時頃に3台のトラックで出発した。
予備知識はあったものの、銃撃され、焼かれ、破壊された街と建物は衝撃だった。その街中に、生き生きと人が溢れている。とくに子供たちの顔が、輝いて見えた。
街なかの車の多くに"UN"の文字。銃を持った兵士の乗ったPKFの車も見える。東チモールはUNTAET(国連東チモール暫定統治機構)とPKFによって支えられている。
そのUNTAETの副代表高橋さん(日本人だった)からレクチャーを受ける。
'99年8月30日の住民投票による独立への歩みが10月20日、インドネシア国民協議会による東チモール併合撤回と独立承認によって確かなものになった。しかし併合派民兵による独立派住民に対する虐殺や破壊はエスカレートし、西チモールへ逃れる難民が激増した。UNTAETとPKFによる治安回復活動によって、ひと頃は27万人いたといわれる難民が16万人にまで減ったという。現在まで難民帰還活動は続いてきたが、3日前の9月6日、民兵による現地事務所への銃撃と焼き討ちによって3名の難民高等弁務官事務所職員が射殺され、400人の職員が避難してきたということで、帰還活動がストップしている状態だと報告された。極度の緊張状態の中で、再開のめどは立っていないと……。
4名の東チモール人と4名のUNTAETメンバーによる仮内閣が組織され、1年後の独立を目指して活動しているが、障害があまりにも多く難航している。インドネシア語、ポルトガル語、テトゥン語のうち公用語をどれにするのか? その年代が受けた教育によって、使える言語が違うのだ。現地語であるテトゥン語も、すべての東チモール人が話せるわけではなく、文法や語彙が公用語の役割を果たせるかどうか疑問であるという。しかも国連主導の現在、公的な言語は英語なのだ。"公用語は英語で話し言葉はテトゥン語に"という声も無視することはできない。使用貨幣の問題、物流の問題etc.etc.etc……。「独立」への道は、あまりにも多難である。
UNTAET本部を見学し、会議室でデメロ代表のスピーチを聞いた後、昼食をホテル・オリンピアで。それは港に停泊する巨大な船だった。世界の紛争地などで国連が仕事をするときに使われ、職員の宿泊や食事が賄われている。岸壁に並ぶリヤカー屋台の売店とその下で泳ぎ遊ぶ素裸の子供たち。長い吊り橋を渡って入った1泊300$ともいわれるホテル船のレストラン。このギャップがあまりにも激しい。食事にあまり手が延びなかったのは、外の暑さのせいばかりではなかったようだ。船内は充分冷房が効いていたのだから……。
携帯電話で連絡がとれたセゥは、午後訪れたNGO"チモール・エイド"に現われた。彼女の仕事が終わる5時に会うことにして、去っていく。懸案だったセゥとの再会が果たせて、まずは一安心。壊し尽くされたディリの街なかには、公衆のトイレも電話もなく、現地スタッフの携帯電話だけが頼りなのだ。
夕方、ドンカルロス財団という救援組織の事務局前に、今晩ホームスティをするメンバーとホストファミリーが集合した。200人をこえる人々が寝袋を受け取り、あらかじめ決まっている迎えのホストファミリーの車に乗って散っていく。迎えの車は車種や新旧も多様だが、つけているナンバープレートも様々であることに気がついた。オーストラリアやアメリカ、日本のものもあり、文字が解読できないものもある。つまり、車の登録などというものがないのである。以前走っていた国のプレートが、そのままついているのだ。稀にBMWやベンツなどもあり、それらにはナンバープレートがついていない。どこか間が抜けて見えるが、新車で輸入された車なのだろう。ナンバーなしの車は、数少ない金持ちのステータスらしい。
その喧騒の中に、やがて女友達と一緒にセゥが現われた。朝にはホームスティで夜を過ごすつもりだった私だが、汗まみれの不快感にたまらず、ちょうどホームスティ先が決まっていないことも幸い(?)して、"一抜けた"にする。すると、一日ツアーリーダーと通訳で疲れたのかR君も「僕も一緒に抜けます」ということになり、セゥの友人の車で喧騒の場を抜け出した。
ひとまずすぐ近くの彼女たちの家――3人で借りているという――で一休み。オリビア号の夕食時間に間に合うように船へ戻ったのである。
レストランで食事をし、デッキのバーで夜風――さすがに幾分かは涼しくなっていた――に当たり酒をちびちび飲みながら、セゥや東チモールの8月以降のことを聞く。やがて彼女たちは帰っていった。
9月10日 ディリ(東チモール) 晴れ
朝、1991年11月、500人以上の東チモール人がインドネシア軍に虐殺された"サンタクルーズ墓地"に案内され、その時に生き残った若者から詳しい話を聞くことができた。予定していた献花は、「花屋がない!」ため、できなかったが……。
10時半に市内のグラウンドに集まり、サッカーの交流試合が始まる。そこへ迎えに来たセゥと友人の車で私、R君、M子(地球大学生)はディリ郊外へ向かった。
岬の丘の上に、巨大なキリスト像が立っている。下の駐車場から頂上まで、歩いて登った。階段を登って行く。途中に、十字架を背負ってゴルゴタへの道を登るキリストの姿が銅板レリーフで飾られている。やがて、それらを鑑賞する余裕もないほどの暑さと息切れに苦しみながらの苦行が続いた。酸素が足りない! ゴルゴタのイエスもかくありなん……。たどり着いたキリスト像は、巨大な地球儀の上に乗っていた。
さらにその上に展望台がある。恐ろしく急な階段を、それでも登った。酸素が足りない!
頂上から見える岬の向こうの海は、美しかった。白い砂浜と遠浅の海、さんご礁……。しかし、セゥによると、海岸には地雷が埋められていて危険なのだという。
階段を下りながら教えられた。このキリスト像は、1976年インドネシアによる東チモール併合によりインドネシア27番目の州になったことを記念して、27メートルの高さのものを作ったのだと。……そんなことなら、下りる前に台座に小便掛けてくるんだった……。
セゥの友人――チバルさんという、日本の共同通信特派員の現地スタッフをしていたこともあるという30才代の男性――は、インドネシア国軍と併合派民兵がディリを支配していた時には、山中に逃れた家族の食料を運んでこの丘を越えたのだと話す。
12時にサッカーグラウンドに戻り、R君とM子を降ろす。彼らは港近くのスタジアムでひらかれるフェスティバルへ行かなければならないのだ。我々3人は、海岸のレストランで魚料理の昼食を取った後、ディリ郊外をドライブした。
山中を走っている時セゥが「北海道の道みたいでしょう?」と言う。植生が違うだけで、支笏湖を通り白老へ抜ける山道と、そう言われれば似ていないこともない。ただ、どこも道は狭かった。「この道は、インドネシア軍が走るために舗装したのだ」と言う。
山を越えて田園地帯を走る。水田やバナナ畑、パイナップル畑を通るたびにセゥがひとつづつ教える。「バッファロー!」と叫んだので「え!?」と指さす方を見ると、水牛が放牧されていた。
セゥは、争乱さえなくなれば東チモールは自立できることを教えたかったのだろう。農作物の自給やコーヒー、白壇などの資源、領海にある海底油田の開発など、可能性は大きいのだ。
しかし現在石油はすべて輸入に頼り、道路沿いにガソリンや灯油のビン詰めを売るテントが並んでいる。ビール瓶に詰められたガソリンは単車用で、車にはポリタンクから給油されている。値段がとても高いのだという。海岸では、流木を集めては運ぶ人々が多い。頻繁に行き過ぎる薪を満載したトラックを見ていると、やがて山の木々がなくなりはしないかと心配になる。
東チモールでは、すべてのものが道端で売られている。ガソリン、薪、食料品、衣料……。街全体が巨大なバザールのようだ。そして真新しい屋根工事業者の看板が目を引く。破壊され焼け残った建物も、屋根さえ掛ければ使用できるからだろう。セゥたちが借りた家も、戸や窓、網戸をつけて使えるようにしたのは自分たちだと言っていた。
問題は、路上のテント掛け屋台以外の商行為のほとんどが、オーストラリア人によって行なわれていることだ。我々が昼食を食べたレストランも、経営はオーストラリア資本だった。
山と田園、海岸を巡って、3時間ほどのドライブだった。フェスティバル会場のスタジアムにつくと、盆踊りの大きな輪ができていた。ものすごい数の人だ。……暑い!
PARC(アジア太平洋資料センター)の「東チモール平和再建プロジェクト」でリキサ県で小学校建設などの援助活動を行なっている越田清和さんと会場で再会。彼はこの後ダーウィンまで水案として船に乗る。
ここでセゥたちは帰って行った。人ごみと喧騒のなかでの方が、別れは辛くない。また会える日まで、とにかく元気で……!
船に戻り、17時半に出港。港一杯に見送りの人々。昨夜のホストファミリーが集まってくれたのだが、何百人いるのだろう。飛び交う紙テープと歓声、歌声……。ピースボート始まって以来とスタッフが言うほど、豪華な出港シーンだった。
自決権、自治権を確立して、名実ともに「チモール・ロロサエ=太陽の昇るチモール」になる日の1日も早からんことを……。
9月11日 晴れ
明日はダーウィン入港ということで、オーストラリア入国審査や入港説明会など忙しい。ディリから東チモールのサッカーチーム「アンダー21(U21)」が、ブリスベンでの親善試合出場のため乗船してきた。21才以下の16名。朝からトレーニングを続けているが、明るく賑やかである――あたりまえか? 暗くて静かなサッカー少年が16人いたら、不気味だもんナー。
夜、越田さんの講座『東チモール「私たちに何ができるかな?」』。東チモールでのボランティア活動の話と、フィリピン在住中交流していたアエタについての話も聞けた。久しぶりに一緒に飲めたし、ダーウィンからディリへ戻る彼に、セゥとの連絡役を頼むこともできた。
24時に時差発生、1時間30分時計を進める。
9月12日 ダーウィン(オーストラリア) 晴れ
7時、ストークス ヒル ワーフ(Stokes Hill Wharf=火夫たちの丘埠頭……何のこっちゃ?)着岸。手荷物の検査があるのないのとゴタついたが、予定より少し遅れながらも「アボリジニの聖地とウラン採掘」班は2台のバスで出発、途中休憩しながら3時間でカカドゥ国立公園に入った。四国より広いという公園の片隅を歩いたに過ぎないけれど、本当に広い! そして大地は、確かに赤かった。
ウビア・ロックで岸壁に描かれたアボリジニの古い岩絵をたくさん見た。カナダでアルビンに見せられた彼らの先祖たちの岩絵を想い出す。しかし、ここの絵はいかにも饒舌である。なんとなくキャシーの早口も連想してしまった。
帰国してから「ガクッ!」ときたのが、ここで撮った写真だった。一つはこの岩絵。間近にたくさんの赤い線画を見た嬉しさに、――触るわけにはいかないので――数多くの写真を撮ったのだ。しかし出来上がった作品は、その後博物館で買った図録や絵ハガキの足元にも及ばぬ出来だった。何のおもしろさもない……! もう一つ、岩場の上から360度の地平線に感動してパノラマで撮った連続写真。……無闇に細長い、ただの風景写真に過ぎなかった!
巨大なアリ塚を眺めながらバスへ向かう。シキナ(ガマ)に似た大型の草が群生していた。「こりゃ、ゴザの素材にいいなぁ」と思い触ってみた。「痛!」……裏側の中央に、鋭い針が並んでいる。「こりゃ駄目か……」。
公園内にある「レンジャー・ウラン鉱山」へ入る。20年前から操業され、採掘と精製による放射能に汚染されたゴミや水が年間6500万トン公園内に排出されているという。ここで生産されたウラン燃料の4割が日本へ輸出され、採掘会社ERA(Energy Resources of Australia Ltd)には日本企業も出資している。採掘場を見下ろす高台にはウラン鉱石の塊が飾られ、そこに嵌め込まれたプレートには「九州電力」「四国電力」「イトー忠」の名前が浮き彫りにされていた。
案内役の会社の広報員(多分)に質問。「オーストラリアには、原発が幾つあるのか?」「オーストラリアは水も石炭も豊富なので、原発は一つもありません」…………。
ここの資源はそろそろ底を尽くので、隣のジャビルカ地区に新たな採掘場が作られ、採掘が始められようとしている。今はアボリジニと白人の環境保護団体などによる反対運動で工事は中断されているが、いつ再開されるかわからない現状がある。
反対運動の一つの拠点「グンジャミー・アボリジナル・コーポレーション」事務所を訪れ、ジャビルカの経過と現状を聞いた。
政府と企業による分断策と恫喝・懐柔に揉まれ苦悩する先住民の、あまりにもおなじみの図式がそこにはあった。 (ジャビルカでの採掘阻止の運動に日本で最も先鋭的に関わっているのは、佐賀大学の細川弘明さんで、「ジャビルカ通信」を発信し続けている。ホームページは「ストップ・ジャビルカ・キャンペーン・ジャパン」http://SaveKaKadu.org)
予定より遅くなり、夕闇がせまる道を帰途についた。大きな太陽がバスの真正面に輝いていたが、やがて地平線に沈んでいった。地球の自転速度と同じ速さでバスが走れれば、太陽はいつまでも目の前にあったのだが……。代わって一面の星空が、私たちの周り360度に広がった。