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ヤイユーカラパーク VOL36 2001.04.30
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おもな内容

ごまめの歯ぎしり

書評/意図にそむき差別を助長する行為に加担する可能性は常にある

若岡直樹『カムイ健太物語』(総和社/2000,12,30)

徳永一末『コタンの花嫁―アイヌ民族秘話』(健友館/2000,6,30)

菊田英世『森都に風が吹く―ある民族の伝承』(自由現代社/2000,10,30)

この三冊を続けて読んで、すっかり落ち込んでしまった。「参ったなァー」と「勘弁してくれよー」が交錯する、というのが正直な感想である。その中身には触れたくないと思いつつ、それではいけないとも思い、まことに複雑な心境で2、3日を過ごしてしまった。

前二冊の"帯文"を見ると、これらを評する元気が湧いてくるように思われるので、まずそれを紹介したい。

「渾身の児童文学/少年・少女に伝える 自然への畏敬と先住民の誇り 『神々の遊ぶ庭(カムイミンタラ)』/児童文学は、夢と希望でなければ――。そんな著者の熱い想いが込められた物語。原生林の秘境で凍寒と斗い、羆と戯れながら成長する、心美しく勇気あるアイヌ少年をモデルに、著者の理想の少年像と児童文学の本質を追及した感動の長編作。」(カムイ健太物語)

「北辺の謎に包まれた アイヌ民族の哀歓を初めて 解明した日本文学の金字塔!/アイヌ民族は文字を持たないために、これまでその歴史も文化も世に知られていない。真実のアイヌの姿を究明した愛と感動の巨編登場!」(コタンの花嫁)

『森都に風がふく』には"帯"がない。

これらの著者3人のことを、私は全く知らない。若岡が現在北海道に在住していることは本書中の著者紹介でわかり、九州に住んでいた徳永が本書刊行前の昨年86歳で逝かれたことは、他からの情報で知ることが出来たが、それですべてなのだ。――「詩人ではあるまいか?」と読みはじめに思った菊田だが、多くの誤植を放置してあるところをみると、詩人とは考え難い。東京都在住の建築工事家と、著者紹介にはあるのだが……。

しかしこの三冊に共通しているのは、"アイヌについての無知と勝手な思い込み"、"書かれている物語の無時代性と地域不詳"、そして誤植の多さである。前の二点について付箋を挟みながら読んでいくと、付箋の花に飾られた一冊が出来あがるといった具合だ。驚き呆れという段階を越して、ついには怒りを覚えることになる。

若岡直樹『カムイ健太物語』について

物語の舞台は、"大雪山の麓"ではあるのだが、一体どのあたりを想定しているのだろう? 美瑛・東川・上川……? とにかくその辺りの山深い集落にある小学校の分校と、山から下りた町の中学校。そこに暮らすアイヌの少年健太が主人公なのだが、何故少年が"アイヌ"でなければならないのかが分からない。山奥から町に下りてきた"自然児"が、町の子供たちからのイジメを、持ち前の明るさと鍛えられた体力、スポーツによって跳ね返し、乗り越えていく――という物語であれば、彼が"アイヌ"である必然性はない。

物語の中に何箇所か、「アイヌだから」、「アイヌのくせに」といった表現が出てくるが、それを口にする少年たちに、"アイヌ"の何を排除しようとしているのかの意志や意識はない。たとえば「チビ」、「ブス」といった言葉によってイジメるくらいの中身しかないのである。「アイヌはイジメられ、差別される存在として登場しなければならない」という作者の思い込みと、「被差別者・アイヌ」が、一般的に読者には受け入れられるという安直な決めつけが、そこには感じられる。アイヌに対する差別の実態も、それに対するアイヌ自身の心情についても、作者は知らない。それは物語中の少年の担任教師の言葉にもあらわれる。「ん、根拠のない思い違い。毛が濃いとか、膚の色が違うだけで、わけもないのにバカとか言って弱いものイジメするな。……ん、いや、先生のおれにもむつかしくてよくわからないが。ただなあ、アイヌを嘲笑う都会っていうか……文明人も、いまは地球をゴミやヘドロで地球を汚していることを棚に上げているからな。文化的でないなんて言うけど、アイヌの自然な生き方こそ本当はいいと思うぞ。…………」さらに、「……ところが和人はアイヌから鮭を買うとき、十二匹で十匹だといってその分しかお金払わなかった。はじまりで一匹取っておいて一から十まで数えて、はい終わりでまた一匹たした。だからアイヌは怒った。ほかにもいろいろなことで日本人はアイヌを騙し、挙げ句のはてに自分の罪を隠すため、アイヌを未開人とか、いろいろバカにしたレッテルを貼って、人間扱いしなかった。いまでもアイヌを知らない人までがそれを信じている」そして、アイヌも同じ人間でしょという主人公の質問に「そうだ、おまえはこれからいろいろ波をかぶることあるだろうが、ぜったい逃げるなよ。もとは人間みんな同じだ。進一も英津子も、これからは一人一人の違いは認めても、国や人種で人を視るのは間違いだと、それだけ覚えてくれればいい」……つまり、これが作者の"アイヌ"認識なのだろう。

北海道のどの地域が舞台に設定されているのか? という疑問は、彼らが生活しているのが「原始林・原生林」と表現され、町へ下りた時期が「青葉では桜も終わりの四月も末」と書かれていることなどから起きてくる。北海道中に"原始林"や"原生林"がすでに存在してはいないことは常識となっているし、"四月末に桜が終わる"地域も実際にはない。つまり作者は、東京辺りでの常識と、北海道についての誤認識に基づいて物語を構築しているのである。

さらに物語の時代性でいえば、少年の父親が生まれる以前の台風(一九五四年九月二六日)という記述があるから、現代――あるいは現在の物語と言っていいであろう。"ソーサー"の名前が出てくることからいっても、山麓の小集落とはいえ、それは現代の人間たちの物語なのだ。

野球について、その存在さえ知らなかった少年が考えられるだろうか? 山奥の分校で6年間6キロの道を歩いて通学していた少年が、町(これまでの環境に比べれば)の中学校への2,5キロの道のりを、ドサンコにまたがって通学する必然性は何なのか?

私にはそれは、作者による"自然児"の捏造としか思えない。それらの虚構に寄り縋って作られた少年が"アイヌ"でなければならないのは、ある意味では当然だったのだろう。

"山奥から出てきたアイヌの少年が、イジメにかかる番長グループを小熊と遊んで鍛えた腕力で撃退し、生まれて初めて体験する野球の試合でホームランを打つことで彼らの友情を獲得し、「カムイ」というニックネームをつけられる"という物語。

20年ほど前、日高の中学校で「シャクシャイン」と呼ばれて苛酷なイジメを受けた少年のことが、教研集会で取りあげられた。普段は敬意をこそはらわれる呼称が、差別の意志をもって使われるときには人を傷つけるのである。「カムイ健太=神の健太」が、愛称や敬意の表われであるとは、私には思えない。人と神の間に厳格な境界を意識していたアイヌにとって、人間を「カムイ」と呼ぶことなどは、冒涜とさえいえるだろう。

アイヌ語やアイヌの習俗、そしてアイヌの存在さえ"素材(道具)"でしかない――と私には思われる――作者の感性を、私は認めることができない。

物語の最後は、少年の祖父が自室で行う"カムイノミ"で終わるが、そのでたらめさが本書の本質をあらわしている。また引用した部分にもあるが、"児童文学"と銘打っていながら、大人でさえ難しい漢字や言い回しに終始している本書は、とうてい児童文学たり得ないし、"児童文学の本質を追求した感動の長編作"となり得る訳がないのである。

                         

『コタンの花嫁』について

著者は昨年亡くなっているということなので、酷評は心が痛むのであるが、刊行された書物は別人格をもって社会に流布されるわけで、一定の評価や批判はされるべきであると考え、要点だけをまとめたい。

あるコタンの19歳のメノコが、出会った和人の若者(松前藩士とされている)と相思になり、父母の反対と制止から逃れて男のもとへ駆け込むが、その時男は事故のため傷ついており、娘の到着と同時に死ぬ。娘は川へ身を投げて後を追う……という物語。

北海道のどこが想定されているのか? よく分からないが、樺太なのかと疑わせる個所もある。時代については、幕末の幕府による一度目の蝦夷直轄が終わり、松前藩が復領した後の時期のようだが、定かではない。地域と時代の設定が不明では、描かれている世界の真偽を計りようがないのだが、帯にあるように「アイヌ民族は文字を持たないために、これまでその歴史も文化も世に知られていない」わけではないのだから、歴史の捏造は許されないだろう。

作者の歴史認識――というよりは、単に歴史的な知識であるが――は、極端に誤っている。コシャマインの戦い以後のことを、娘の母親に回想させている場面。

「アイヌ民族には文字がないかわりに、口伝があった。イヨは、まだ娘(メノコ)の頃、祖父から聞いて覚えていた。

攻めてきたのは、蝦夷松前藩の武士という日本人(シャモ)だったそうな。

その戦いに敗れてアイヌは、函館から江差付近の一帯を追い立てられた。

そして、それからは、日本人(シャモ)の交易船は、堂々と、宗谷、厚岸までも入ってきて交易を強要した。

その結果で、

「まあ仕方ない、長いものにはまかれろ」

の、穏便主義で、しぶしぶながら交易に応じる者と、

「いや、断乎、断る!」

と、主張して、譲らぬ者との、二派が出来てしまった。

同じアイヌ族でありながら、二派の間に争いが起こった。

その争いを、鎮圧する名目で、また松前藩が攻め込んできた。

これが世にいう、シャクシャインの乱である。

この戦いで、アイヌの勢力は半分に消え去った。

それからというものは、北海道の大半が日本人(シャモ)のものになり、交易商人の非道な搾取は、つのるばかりだった。

それでアイヌは、また怒った。

そして、また戦いとなった。

それが、国後蝦夷の乱である。

この戦いで、北海道北部に残っていたアイヌは壊滅したという。

この乱のあと、あまりの殺戮の、むごたらしさに、江戸幕府は、松前藩から蝦夷地の支配権を取りあげてしまった。

「アイヌは、神の民である。自由にさせておけ」

と、アイヌの懐柔策をとった。

しかし、これに対して、

「アイヌが蝦夷地を、神の土地と称するは、あたかも、日本に、もう一つの国があるようで怪しからん」

と、言い出した、松前藩の言い分が、

「もっともである」

と、幕府に入れられて、また支配権が松前藩に戻ると、日ならずしてアイヌの人口は、全人口の三分の一になるほどの惨状にさらされた。

本当に、アイヌが、みじめになったのは、それからだった。

国家的一群の集団性は失われ、アイヌは転々と、北辺の雪国の不毛の土地を彷徨した。

二十戸か、三十戸が、一団となって、それぞれのコタンを作り、山や、川辺の幸で露命をつなぐことになった。

一つの民族の、衰退に、哀哭の痛恨はあるに違いないが、最も新しい国後蝦夷の乱を口伝した、祖父の話は、今も、イヨの耳に、こびりついていた。

勇敢に戦った、アイヌの戦士達は、善戦むなしく、雪の曠野に、累々たる屍をさらしていた。

禿鷹が、その屍に群がり、肉を裂き、骨を啄ばんでいた。」

……さらに続く母親の回想の中で、ある日コタンを訪れた和人の考古学者という人の言……「私は、面白い民族のアイヌに、大いなる興味を持っている」「奥の知れない、深い神秘と謎に包まれた人種だ」そして、「先ず体質だが、体質の点では、東アジアの古民族という説と、白色人種という説との二つがある。もとは北海道・樺太・千島・カムチャッカ半島から、日本本土の東北地方にも住んでいた。その証拠には、東北地方に、アイヌ語の、コタン名が、そのまま、地名となって残っている」………。

明らかに誤った歴史上の知識と、荒唐無稽ともいえる登場人物によって構築された物語が、フィクションだからという理由で肯定されることはない。さらに、何から得た知識・情報によってなのかは分からないが、いわゆるアイヌプリ(=アイヌの伝統的な習俗)の描き方の誤りは、目を覆うばかりである。幾つかを拾ってみると……。

男女が婚姻に到るまでの道筋。樹皮衣の材料である樹皮の採取と加工法。入れ墨を施す理由、時期と方法。"フチイキリ"とは何か?(メノコイキリ、エカシイキリは別の内容で存在したのだが)。"天地十二神"とは何か? "ウタラパケ(アイヌ種族の長)"とは何か? 熊送りには毒矢を12本打ち込むのが作法とは、何に拠っているのか? 竹を材料にイナウを作るのか? ……などなど、際限がないのである。

本書の最後に作者は書いている。「現在のアイヌは、日本人との急速な混血によって、独立した人種の集団としては、ほとんど消滅の状態であるが、これはその同化の先駆けのエピソードである」。

作者が生きていれば尋ねたい。「現在の日本人は、独立した人種の集団として、存在しているのか?」と。アイヌを"消滅"させ続けているのは、本書に類した"歪曲・変容させられたアイヌ像"の蔓延だったのだと、私には思われる。

                             

『森都に風がふく』について

副題が「ある民族の伝承」となっているので、架空の"民族"に仮託して作者が心象世界を構築していくのは自由である。その中身がいかに夢幻的なものであろうと、荒唐無稽なものであろうと、むしろ、だからこそ描ける世界というものがあるだろうと思う。

しかし、本書中に頻出する「アイヌ」の文字と、挿絵にあらわれたアイヌの姿は、"ある民族"が"アイヌ"であることを示している。したがってここに描かれた世界は、アイヌの"伝承"物語として考えざるを得ない。

本書中の個々の表現や事象について、その真偽を検証することはしないが、"シャクシャイン"戦争から傷ついて帰郷した男の物語の最後が、「それから後、アイヌの人々は、戦いには敗北の道をえらび野山で静かにくらすことにきめたのだった」と結ばれていることは、作者のアイヌ観を端的に物語っており、容認することができ難い。

作者が"アイヌのひと"に好感をもって物語を綴っているらしいことは感じられるのだが、「アイヌの人は、濃い。豊かなあらい髪、こく太いまゆ、大きな眼、巨きな鼻、強い口、がんじょうな頭と顔。北国の大地に、むっと、立っていて、大自然とすばやい野獣とともに生きている」であるとか、「いつも遠く見ているような大きな眼。利口なのか馬鹿なのかわからない眼のひかり。大自然の中での聡明さとはおそらくアイヌの人の眼のようなどこを見ているかわからないおおきなひかりになるのだろう。この大自然のなかにおいては、アイヌの人のなにを考えているのかわからない聡明さには誰もがわけが解らないまましかたがなく心服するのであろう」、また「アイヌの人が笑うと、笑いのない人が笑ったようなこわいようで、それでもふってわいたような親しみを感じるのだ。おばけがにこっと笑いかけてきたようなものか」といった表現を受容できるアイヌがいるとは思えない。

「アイヌ」とは、"過去に生きていた民族"でも"想像上の民族"でも"抽象的な概念"でもない。歴史上の過去を生きてきた、現存する人間の呼称なのだ。現在"民族"の態を為しているかどうかは、いまを生きているアイヌの個々人とは別の問題である。したがって、抽象語として"アイヌ"を使うことには、もっと慎重さが要求されるのである。

結果的には三作を斬り捨てた形になったが、アイヌに関わるフィクションを否定しているわけではない。ただ、過去、現在を通して"アイヌ"についての偏見や誤認識が広範に広がり、定着し、その結果が差別意識の潜在化と差別事象の顕在化となってきていることを、書き手は自覚しなければならないと思うのだ。意図にそむいて、差別を助長する行為に加担する結果になる可能性は、常にあるのだ

※【読書北海道メール版】2001.4.20発行に掲載

              

明日はすでに今日なのでは……?

例年より少ない雪が早く溶けたこの春、気温が上がらず、いつまでも寒い日が続く。日高の山菜も、いつもより伸びが遅かった。その山菜を探して山に入った人が熊に襲われる事故が、今年は全道で頻発している。ほとんどが出会い頭の惨事であり、熊は山狩りのハンターによって射殺されている。殺された人が土中に埋められているのを発見されたケースもあった。あとで食べるために隠していたのだと、専門家は言う。

この春はとくに山に食料が足りなかったのだろう。日高の山奥にまで広がる牧草地を見ながらそう思い、山頂まで点在する落葉松の植林地を眺めながらさらにその感を強くする。どちらが犠牲者なのだろう。

熊に殺される人間よりも、人間に殺される熊の数が多く、動機も分からぬまま衝動的に人間に殺される人の数は圧倒的に多い。共存・共生という"空念仏"から脱却しなければならないのではないか? 共存できる環境へ、共生が可能な状況へ、我々は撤退するべきではないのか?

3月24日から6回にわたって北海道新聞夕刊に連載された『仮説・北海道学/第2部・新えぞ共和国独立の日』は、実に不愉快だった。

北海道の独立を論ずるのに、何故"えぞ共和国"なる命名が為されるのか? どう書こうとエゾは蝦夷である。「蝦(えび)のごとき夷(未開人)」を言い、東北地域の古代人やアイヌが該当されると考えられ、蝦夷の住む地=蝦夷地=北海道とされてきた。アイヌがその名称に、いい思い出や印象をもっているわけがない。

なかの「独立宣言」は以下のようになっている。「北海道は200X年4月1日をもって、570万道民の総意に基づき国として独立する。(中略)1868年、榎本武揚らが旗揚げした蝦夷(えぞ)共和国の志にならい、国名は新えぞ共和国とする。共和国はアイヌ民族の先住権を尊重し、道民の幸福と世界平和を至上の価値とし、あえて困難な自主独立の道を選ぶ…」

そして6回の連載中"アイヌ"の文字が現れるのは、この後「次はアイヌ語の授業だよ」の一度きりである。"先住権の尊重"を看板にするなら、新生共和国とアイヌの間にいかなる「取り決め」が為されたのか位は書かれなければならないだろう。アイヌ語・アイヌ文化だけが残り、人間・アイヌは死滅したのか?(それならば、"日本国"政府の思惑通りではある)

『―とすれば、榎本政権の首脳決定の投票行為だけから、これを"蝦夷共和国"論へと飛躍させることはやや短絡すぎるだろう。/たしかに、この榎本政権が、みずからを「事実上の政権」と錯覚したであろうことは、すでにみた通りである。彼らは徳川氏の最後の拠点を蝦夷地に求めた。しかし、この政権は、「榎本武揚等嘆願書」がいうように、「王政復古」による天皇政府の存在は、大前提として肯定しているのである。そのうえで、「一には皇国の為め、二には徳川の為め」に、旧幕臣をこの地で養い、北門の警固に当たろうという意図を明白にしていたのだ。/かりにこれを"蝦夷共和国"というのであれば、それはまさに「サムライだけ」の「共和国」にほかならない。それは民衆とはなんら関係のないものであった。維新政府の官吏公選が、およそ民衆とはなんの関わりもなかったのと大同小異なのである。/それのみではない。この榎本政権は財政的に窮乏していた。財政窮迫は、民衆へ転嫁される。地元商人からは1万両の御用金を徴収し、農民からは翌年の年貢を皆済させる計画さえある、という情報が伝えられていたのである。―』(田中 彰『北海道と明治維新――辺境からの視座』2000,12,10/北海道大学図書刊行会)

アイヌのアの字さえ、"共和国"の一員として意識されなかったであろう榎本政権に倣っての命名は、極論すれば、"新しい教科書を作る会"の思想と何ら変わるところがない、と私は思う。

さらに北海道新聞。人物紹介の記事中に「当時のアイヌ民族学校を卒業」という文言があったので、執筆記者(署名記事だった)に以下の質問をファックスで送った。

『お尋ねします。/4月11・12日付の記事、<あるアイヌ民族詩人の肖像>の11日の記事中に、「(伊賀ふでさんは)当時のアイヌ民族学校を卒業し〜」とありました。/私は浅学にして、過去の歴史の中に「アイヌ民族学校」が存在していたことを知りません。何かの間違いでは……? と思っていたのですが、12日付の記事を見ても、訂正その他がありませんので、記述は正しかったのだと理解します。/そこで、恐縮ですが、その「アイヌ民族学校」について、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか? 年代と地域が分かれば、あとは自分で調べることが出来ると思いますので、概略だけで結構ですからご教示ください。/ご多忙中申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。』

しかし、北海道新聞からも執筆した編集委員からも、何の音沙汰もなかった。

おりしもこの国は"政権交代"茶番劇の真っ最中。茶番劇……とは言い条、何やら国内の雰囲気はヒットラー/ナチズムが"人気"を得、国民に浸透していった当時のドイツと似てきてはいないか?

歴史の歪曲や偏向がメディアを巻き込んで国民に襲いかかってきたとき、我々は余りにも無力である。

「九州のツキノワグマが絶滅」………明日は我が身と、思い定めねばなるまい。しかし、明日はまだ明日なのか……?