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ヤイユーカラパーク VOL37 2001.08.30
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連載フォト・エッセイ


第九話 『春はいつ立つのか……?』

『大寒』をはさむ格好で最大の寒波がきて、『暦』というのはなかなか良くできているものだと感心をしていたら、2月に入るとすぐ『立春』だ。これには参った。この真白な北海道のどこに春の始まりを感じられるだろう……。やはりアイヌ・モ・シリ(人間の・静かな・大地)はチュイ・ルプ・チェプ(激流・凍る・月)だ。3月になればト・イ・タンネ・チュプ(日の・長く・なる・月)。4月になってやっとアッ・ラッヌ・チュプ(樹皮の・氷解する・月)になる。

ト・イ・タンネ・チュプ。……ある朝、配達が済んでふと気がつくと空がうっすらと白みはじめている。東雲の明るさは日毎に増し、春分の頃には配達の途中で朝日が顔を出すようになる。朝日を浴びながらの配達は実に4ヶ月ぶりだからさすがに気分が良い。身体が冬の緊張から解放されていくのがよく分る。雪ではなく今シーズン初の雨が降った朝は嬉しくて長靴のまま走る。そして雨に濡れた氷の上で勢いよく滑った。濡れたお尻のぬくもりが今年の僕の立春(?)の記憶。

アッ・ラッヌ・チュプ。……路上の雪が消え、清掃車がひと冬分の土ぼこりやタバコの吸殻などを吸込んで、散水車が街中を駆抜ける。その頃になるとあちこちの庭や街路樹の根元にも花が顔を出しはじめる。街中のそんな小さな変化を観察するのも新聞配達の楽しみになる。いつもなら雪を割って花を咲かせる福寿草が今年は雪解けの早さに追いつけず、堅いつぼみのまま土の上に姿を見せる。僕は風にゆれるチオノドクサのあの輝くブルーが好きだ。

1年を24等分して、それぞれに名づけたものが二十四節季。だが、札幌に来てからの『立春』にはいつも違和感を感じさせられている。東京に暮していてもその頃はまだまだ寒いのだけれど、梅のつぼみもふくらんできて春の近さは感じられる。梅と桜が一緒に開花するこの土地ではやはりアイヌ語の表現のほうが季節にあっている。シャモ(=和人)の感覚をそのまま持込んであてはめることに無理があるのだろう。やはりこの土地はアイヌモシリなのだと思う。


第十話 『L・S・D』

ゴールデンウィークが始まると、新聞配達を始めて丁度一年になる。心配していた冬道もどうにか乗越えて、また気持ちの良い季節が始まる。早起きの習慣は、もう、すっかり僕のものだ。とにかく毎朝が気持ち良い。……梅の花が一輪開いた朝、家の近くでウグイスの鳴く声を聞く。

新聞少年(?)一年の具体的な成果は、なんと言っても体脂肪が減り、軽肥満から脱却できた事だろう。夜の時間が短くなったのでお酒の量も減り、食事も、朝、昼を中心にしたのが良かったのかも知れない。そして、新聞配達を通じて走る楽しみを覚えたのも良かっただろう。それが目的だとも言えるのだが、走ることの気持ち良さを知る。Long Slow Distance、略してLSD。その名のとおり、長く、ゆっくり、距離を踏むことだ。走っていると、自分の中に、原初的な感覚がよみがえってくる。

この一年間の、成果を確認したくて「春さわやかマラソン」に参加を申込む。高校以来、実に40年ぶりの挑戦だからなんだかとてもワクワクする。しかしその翌日、高揚した気分のままにスピードを上げて走り過ぎ、膝を故障してしまう。そう言うことは、いつも過ぎてから思い出すのだが、初心者や高齢者によく起こる故障だと、ランニング本に書いてあったっけ……。付けられた病名は、膝蓋軟骨軟化症。当然練習はできない。氷で冷やした後、蒸しタオルで暖める。という治療法を教わって毎日続ける。

大会には出場した。「1キロごとに百歩歩け」と言う医者の助言に従い、スタートラインでは一番うしろにつく。赤ちゃんを背負った若い夫婦も参加していたので、ゆっくりと話しながらスタートする。やはり、その場の雰囲気として(?)1キロごとに歩くのは難しかったが、給水所では必ず立止って水を飲み、所々で記念写真を撮る。すっかりお祭り気分だ。真駒内競技場を昼にスタートしてミュンヘン大橋で折返し、十キロの道のりを丁度1時間で戻ってきた。心配した膝や足腰の痛みは翌日になってもない。今朝も走れる自分が楽しい。


第十一話 『寒い夏・暑い夏』

梅雨がないと言われた札幌に連日の雨が降り、真夏日を迎えることもなくお盆が来る。今年は、短パン・Tシャツで夜明けの街に飛出せば、冷気にふるえる日も多い。老人保健施設のリハビリに入った義母は、本州の熱暑の様子をテレビで見ながら、まるで避暑に来たような気分らしい。「北海道は本当に涼しくて良い……」。「暖かい冬!?」と共にすっかり北海道ファンになってくれた婆の言葉を素直に喜びたい。

56年前の8月15日は暑い日だったらしい。「……らしい」と言うのは、自分には何の記憶もないからだ。その翌日が3歳の僕の誕生日。毎年8月16日に行われる京都の大文字焼きがお盆の送り火だと知って、送り火に迎えられて生れてきた自分の因縁を考えた子供の頃が懐かしい。子供心にも、終戦記念日は不思議な日だった。大人たちに逆らって、僕は密かに敗戦記念日と呼んでいたが、韓国や中国の人々には『解放記念日』である。

ある日父と銭湯に行く。湯あがりに、大人の真似をして二つ折りにした手拭いをパシッと宙にはたく。……それをとがめた時の父の言葉と、苦悩に満ちた表情が今も頭のどこかにこびりついている。その重く乾いた音は、人の首をはねた時と同じ音がするという。

……僕が生れた時、父は中国にいた。勇敢な兵士であったらしい。一貫して子供に優しかった父との間に生じた一本の深い溝は、父の死後も埋まることがない。

僕の誕生日が近づくと、新聞が急ににぎわしくなる。広島、長崎、そして終戦。毎年、毎年、熱い熱い夏が来る。誰もが平和を願うと口にする。そして又、明日になれば何事も無かったように忘れ去られていく。終戦記念日に3年を足して自分の年齢を確認してきた僕も、小さく「平和」とつぶやいてみる。一度も実現したことの無い「平和」が口元からだらりとこぼれ落ちる。……寒い夏。朝刊を抱えて走る足が重たい。

<次号に続く>