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ヤイユーカラパーク VOL37 2001.08.30
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南太平洋ひとまわり(3)

9月18日  晴れ

午前中、ミックの講座「なぜアボリジニの若者は投獄中に死んでしまうのか?」。オーストラリア人口の1.4%に過ぎないアボリジニが、国の投獄者数の20%を占めている現状。不当な逮捕、獄中での虐殺、そして自殺……。89年に開催した『世界先住民会議』に来演した「バンガーラ」(アボリジナル・アイランダー・ダンスシアター)の演目の中にあった、獄中死していく若者を表現したモダンダンスを思い浮かべた。底抜けに明るい歌や踊りのなかに、沈痛なその演目を加えなければならないメンバーたちの思い。10年後にも、状況は変わってはいない。

午後、「ブリスベン上陸説明会」と「地球大学・先住民コース」の補講。

夜、講座「太平洋入門 V/NFIPって何?」……NFIP(非核独立太平洋運動)に参加している太平洋の国々(島々)の歴史と現状を概観するだけで、時間が一杯になった。

その後22:00から、ブリスベンで下船する東チモールのサッカーチーム「U21」のお別れパーティ。歌って、踊って……。忙しい一日だった。

9月19日 ブリスベン(オーストラリア)  晴れ

10:00、ブリスベン入港。バスでオプショナル・ツアー「先住民族 アボリジニのいま」に出発する。

都市で生活するアボリジニを支援するNGO「FAIRA」訪問。70年代の政府や州による差別政策から先住民を守るために、77年、"アボリジニ・トレス海峡諸島民活動センター"が設立されて以来の活動についてレクチャーを受けた。中の一人Mr.ボブ・ウェラーが、「81年に、キャンベラの先住民会議で二人のアイヌに会った」と言っていたが、多分88年の会議で秋辺得平さんと横山孝雄さんに会ったのだろう。(ハチとイチの聞き違いだと、後になって思った)

河畔の公園で昼食後、アボリジニの現状についてのレクチャーを受ける。

マース・グレイブという公園で、ブーメランの飛ばし方を習う。競技用だというブーメランは、私の持っているものより小型で軽量だった。そういえば89年にそれをくれたアボリジニ女性キャシーが、「これは人間用だから、飛ばすときには気をつけて……」と言っていたっけ。何度か試みたが、これまで一度も飛ばせたことがなかった。しかし今回は、言われた通りに投げると、なるほど見事にブーメランは空を飛んだ。「…!」帰ってから練習すれば、大型の"人間用"も飛ばせるようになるだろう、と、その時は思った。

公園内の文化センターで、アボリジニのパフォーマンスを見せてもらった。語り、歌い、踊り、デジリドゥを鳴らし……そのすべてを、一人の男性がやるのだ。夢の時代の物語、カンガルーやミューの踊り、歌、その合間にデジリドゥー。30分ほどの独演は、見事なものだった。さすがに最後には息切れがし、それが可笑しいと自分でも笑いながら演じきってみせた。凄い!アイヌの友人で伝統芸能のオールマイティ・Hさんも、これは真似できないだろう。ウポポを歌い、弓の舞いを踊り、ムックリの演奏をはさんで剣の舞いを踊り、最後には鶴の舞いを演じるようなものである。とても、不可能だ。いやはや……!

ブーメランをお土産にもらって帰船すると、フィジーやトンガからのNFIPメンバーが乗船していた。アルフレッドやスタンリー、フコー夫妻と、再会を祝ってバーで乾杯。いよいよ、賑やかになってきた……。

9月20日 ブリスベン(オーストラリア) 晴れ

今日は夜のサッカー観戦までフリー。通訳のジェーンとブリスベン博物館へ行く。

彼女はオーストラリア人で、札幌北星女子高校に留学し、札幌で過ごしたこともあるという。オーストラリアで大学を卒業後、この船に乗るまでは日本大使館に勤めていたそうだ。さらにこのクルーズ終了後は、インドネシアの大学院に留学の予定とか。とにかく真面目な人だった。

ショッピング・モールを歩いていると、なんと昨日のパフォーマーが路上パフォーマンスをしているではないか。しばらくお喋りをする。(ジェーンと一緒は正解だった)「一番前に座って、一番よく笑っていたので、お前のことはよく覚えている」ということだ。記念写真を撮って、博物館へ。

昼食をはさんで、博物館と美術館を楽しんだ後、買い込んだ図録や本を抱えて船へ戻った。

そして、夜はオリンピック・日本対ブラジル戦のサッカー観戦。

1万人ともいわれる日本人観客のなかの、400人のピースボート組。これまで船中で日毎にヒートアップしてきたエネルギーを昇華させるべく、懸命の応援だった。しかし、終始、少人数のブラジル応援団には負けていた。なにせサンバの演奏が途切れることがなかったのだから、敵わない。我々にはひとつの楽器もなかったのだ。

一人私が「君が代」斉唱のとき座り込んでいたせいではないだろうが、試合は負けた。素人の私にも実力の差は見てとることができたのだが、若者達にとっては「惜敗」だったのだろう。

帰船後、水案の新メンバーとNFIPメンバーの顔合わせ。ポーリンとも再会した。

<次号に続く>