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ヤイユーカラパーク VOL41 2002.07.25
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ブラジル日記

いんとろだくしょん

南米大陸の半分、日本の23倍の面積に1億6千万人が住むブラジル。220を超える先住民社会に23万人が暮らすといわれるが、実数は誰にも把握されていない。まだ「発見されていない」人びともいるらしい……。そのブラジルへ、行ってきた。

発端は「サンパウロとリオでやる先住民のイベントに、参加できるアイヌ・グループがいる?」というエリザ(サンパウロ在住の日系二世)からの電話。「経費さえ出れば、いるよ」と、私。いつもながらの“安請け合い”であった。

やがてFedexで届いた主催団体IDETI(Instituto de Desenvolvimento das Tta-di鋏es Indgenas/インディオ伝統文化開発協会)からの招待状、今回のプロジェクト「RITO DE PASSAGEM/通過の儀礼」についての説明を要約すると……最初の帆船がこの地に着き先住民の領土が占領されてから500年になる現在、大方のブラジル人は、独自の250の言語・文化・伝統を持ち、異なった世界観を持つインディオのグループがこの国に住んでいることを知らない。IDETIはインディオ文化のパワーと美に接する場を提供し、都会の人々にアプローチし、未来のために連帯し責任を果たすために、サンパウロとリオで国内6つのインディオ・グループによる儀式的舞踊と歌のショーを開催してきた。3回目となる今回のプロジェクトに、初めての国際参加者としてアイヌを招きたい……云々。そして同封のアンジェラ(アユトンの前妻)の手紙は、「この招待状を東京の国際交流基金に送って、渡航のための助成金を受けてください」というものだった。

「こりゃ、難しいゾ」………日本では大方の機関・組織・会社が、4月2日を新年度のスタートとしているのだ。1月1日スタートなんてのは、貧乏団体『ヤイユーカラの森』位なもんで、ここはこと金に関してはまったく無力である。4月初めの事業に対する助成を、12月初旬までに結論づけることは、不可能であろう。

予想は見事に的中。国際交流基金はじめ、お金を持っていそうで、話を聞いてくれるところは、すべて「時間が必要です……」。10人分の渡航費用となるとおおごとなのだ。「こっちでは、お金ができないよ」とエリザに連絡。「今後のために、一人で見に行くから」と……。

ところが年明けにエリザから衝撃の電話。「こっちで何とか頑張ってお金を作るから、準備を進めてネ!」……そこら辺のことは前号に書いてあるので、その後の出来事を……。

阿寒湖ユーカラ座に、10名のチーム編成を依頼。座長の秋辺日出男さん(通称デボ)が、実現に半信半疑ながらも、頑張ってメンバー決定。その直後ブラジルから、「全員のパスポート・コピーをファックスして」。ところが、メンバー中数人がパスポートなしか期限切れ。急遽、有効パスポート保持者で新チームの編成。「ビザ申請に要るので、全員の両親(亡くなっている場合も)名を送れ」、「阿寒チームは就労ビザでなくちゃあ駄目なので、必要書類を揃えてネ」……JTBにSOS。「“経歴書”“住民票”と“無犯罪証明書”が要ります」……「何だ、それ!? どこへ行けばくれるんだ?」「居住地の警察署です」…………「!」。「所持金の証明が必要ですけど、航空券があればOKです。間に合いますよね?」「そう思いますけど、急いで送るように言います」。「写真のサイズが変更になってました。5×7センチで、撮り直してもらってください」……ブラジルと阿寒湖へファックス、電話、メールが飛び交う日々……阿寒湖では、全員走り回って書類や写真etc.を揃える日々……。

ハイライトは、ブラジルから届いた航空券と阿寒から届いたすべての必要書類をJTBに持ち込んだ時だった。パスポートや書類、証明書(“無犯罪証明書”っていうのは、警察が犯行歴(無犯行歴)を証明するものだそうだが、封筒はしっかり糊付けされていて、未開封で大使館に持っていかなければならないということだ。向こうで開けて、犯罪行為が書いてあったらどうするんだ?)をチェックしていた担当者が「航空券の名前のスペリングが、パスポートと違う人がいます」「え? どうなる?」「出るのは問題ありませんが、ブラジルで入国できない可能性があります」……「どうしよう……?」「幸いJALですから、持って行って再発行してもらえばOKです」「良かった!」。パスポートのコピーと航空券を持って、道路を挟んで向かいのJALへ。事情を話すと、あっさり新しい航空券を作ってくれた。ほっとしてJTBに戻り、念のため他の航空券をチェックすると、「これもだ!」……もう一名。再びJALへ。“これでOK……”と戻りながら新しい航空券を見ると、女性の航空券がMr.になっている! 三度戻ったJALで「Mr.とMs.が違っていたらどうなります?」「ブラジルに入国できないかもしれません」……もう一度、再々発行。JTBへ戻り、すべての航空券をチェックし直してから担当者に預けることができた。ハーッ、“JALで良かった!”(機内食は不味いけど……)

東京のブラジル大使館に持ち込まれたビザ申請……「2週間あれば大丈夫でしょう」という、ぎりぎりのタイミングだった。ビザ待ちの間、阿寒湖ユーカラ座の公演準備のためにファックス・メール・電話が忙しくなる。阿寒湖では、送られてきた舞台図に合わせての稽古が続いていたし、私はブラジルでの通訳兼世話係を引き受けてくれた“みどり”さんと、連日メールのやり取り。

みどりさんは、2年前『ヤイユーカラの森』がブラジルを訪れたときに智子さんたちが会ったことのある翁長 己酉(おなが みどり)という沖縄出身、ブラジル在住12年のパーカッション奏者で、エリザの友人ということで今回ボランティア参加している女性である。智子さんの言の通り、「豪快な」人であった。

それにしても、全員が初めてのブラジル行で、滞在中のスケジュールや宿・食事など細々とした情報が欲しいのは当然なのだが、問い合わせてもみどりさんにも「分らない」ことが多すぎた。はっきりしているのは4回の公演日とホテル名だけで、他の予定や行動についてはIDETIでも未だ判然としていないらしい……ということのようだ。私の“旅”はいつも大体そういったものなのだが、初めての阿寒チームの不安は良く分る。まぁ、なんと

かなるだろう位で、全員出発してもらえれば……。

4月9日、阿寒チームの就労ビザ印が押されたパスポートをJTBで受け取った。私の観光ビザは(何故か)間に合わず、明日、成田空港で受け取ることになる。とにかく、出発できる! 


4月10日(水)

10:00に最後のメールをみどりさん宛に送り、荷物を抱えて家を出た。

ひとり千歳から出発の私は、16:00過ぎに成田空港に着き、国際線ターミナルへ移動。荷物が直接千歳からサンパウロまで行くので楽だ。まず空港JTB事務所に連絡して、自分のパスポートを受け取る。これでブラジルへ入国できる。

入口近くで待つこと暫し、17:00過ぎ、帯広空港から羽田経由でやってきた10名の阿寒組と合流。それぞれにパスポートや航空券を渡す。荷物を預け、米ドルへの両替えを済ませ、搭乗口へ。出国。免税店で煙草と寝酒を買い込んで一安心だ。今回は時間がたっぷりで、懐かしいシーバスリーガル大瓶と再会できた、良かった!

19:00、離陸。「とにかく、出発できたゾ!」……地球の裏側へ24時間の旅が始まった。

ニューヨークまでの12時間は、長かった! 満席ということもあり、まず身体がきつい、機内食は不味い、飲んでも眠くならない……。疲れ果てて到着したニューヨーク・ケネディ空港が、さらにきつかった。

聞いてはいたものの、アメリカの空港チェックは、本当に厳しかった。まず入国チェック。ずらりと並べられて、審査官の所にたどり着くまで2時間近くもかかった。やっと「入国」したと思ったら、そのまま出国チェックだぁ!? 「おいおい……」と言いながら、1時間。そのまま我々は「出国」となり、飛行機のなかへ……。トイレはともかく、「一服」もできないアメリカ滞在だった!

つまりは“すべてはテロリストが悪いせいだ”と思わせるための陰謀だ……ぶつぶつ文句を言いながら、空の旅の後半を楽しむべく頑張ったのだが、そろそろ体内時計が狂い始めたらしく、なかなか快適にはならない。室内乗務員が交代してブラジル人(多分)が多くなったようだが、食事は相変らず不味い。仕様がなく、アルコールで栄養分を補給した。

それでも『地球の歩き方』でブラジルを学んだり(今頃?)、話題の映画『ハリー・ポッター』を見たり、窓の下にアマゾンの密林(多分)を眺めたり、うとうとしたりしているうちに、飛行機は降りはじめた。今日は(もう明日か?)長い1日だった……。


4月11日(木)

6:30、サンパウロ・グアルーリョス国際空港到着。荷物を出すまでに時間がかかり、ぐったりしてロビーに出ると、エリザとみどりさん、それにシャバンチの青年が待っていた。とにかく、一服……。チャーター・バスで、アグア・ブランカ公園内のベイビバリオネという宿舎まで40分ほど。

この公園は市の運動公園で、地方から来る人びとの宿泊施設に使われているというベイビバリオネは、6階建てのしっかりした建物だ。4階の二部屋に男4名・女7名が分かれて荷ほどきとシャワー。合間にエリザやみどりさんへのお土産を渡したり、打ち合わせをしたりとにぎやかである。その間、スタッフの若い男女が、寝具・タオル・洗面道具を運び込み、Tシャツとジャージーを配り、それぞれの足の大きさをはかってビーチサンダルまで配給する。せっかく荷物を減らしたのに、かえって増えてしまった。いやはや……。

10時頃、「下でコーヒーを」と声をかけられ、1階のレストランでコーヒーブレイク。

「散歩しましょう」というみどりさんについて、公園内のイベント会場へ。ゆっくり歩いて10分ほどの距離だった。広い馬場の一角に、仮設の観客席が三方を囲んだ真ん中が円形舞台になっている。1000人が座れるという客席にはテント地の屋根がかけられているが、舞台は青天井である。先週金曜日には2時間ほど大雨が降り、赤土の舞台がぬかるんで使えなくなり、翌土曜日に二公演を行なったそうだ。

舞台の説明を聞き、大まかな打ち合わせ。道具係のスタッフに、必要な道具類を説明し、用意を頼む。隣接して設けられた売店と展示コーナーでは、前回智子さんたちが来たときに半日を過ごしたという民芸品店の店主に紹介され、図録をプレゼントして感激された。

12時を回り、宿舎へ戻って昼食。そのあと新聞の取材があるというので会場へ行ったが、15:00に延びたというので部屋へ帰り、シェスタと洒落こんだ。うつらうつらが気持ちいい。ドアを開けたままのせいもあって実ににぎやかなのだが、まったく構わず昼寝の男、4名だった。この間隣の女性部屋では、鍵が壊れて雪隠責めにあうというアクシデントがあったことを、後で聞いた。

15:00に4名が会場へ戻り、日本語新聞「ニッケイ新聞」記者の取材を受ける。15:40エリザがリオへ発ち、その後道具スタッフ・パウロと“かがり火”“たいまつ”の打ち合わせ。そして、やはり道具係をしているアユトンの娘とは、“タクサ”の材料調達を行なった。宿舎へ戻る途中、馬用品の店へ寄る。デボが帽子を見たいという理由で入ったのだが、そこで私は、例によって刃物に引っかかってしまった。とにかく、安い!……使い勝手のよさそうなハンティングナイフと山刀、ポケットナイフまで買ってしまった……。お土産だよ(誰に言ってるんだ?)。

夕食後、部屋にアンジェラがやって来た。エリザと交替で、今夜はこっち(サンパウロ)だという。20:00から音響のリハーサルに会場へ。けれども実際には音響ではなく、プログラムに沿っての「場あたり」であった。セッティングしてあった“かがり火”への点火も行なわれた。真面目なパウロは、よほど心配だったのだろうが、“かがり火”も“点火棒”も問題なくOKだった。

1時間程でリハーサルが終わり、みどりさんの提案でビールを飲みに。噂通り、ブラジルのビールは美味かった。そして、安かった!

暗い道を宿舎に帰ると、カラジャ族の若者たちが部屋前のバルコニーでトランプに興じていた。我々は自室で、――本当は禁止されている――ビールとウィスキーを少々……。12:00過ぎには、眠った。

今日は、短くはない私の人生のなかで最も長い一日だったろう。これほど多くのことを24時間で体験したことは、なかったように思う。家を出てずいぶん経ったような気がするが、まだ1日しか過ぎていないのだ。さすがに、すぐに熟睡に入った……ようだ。


4月12日(金)

今日は午前中はフリーということだったので遅くまで眠れるかと思ったが、6:30には起きだしてしまう。青空が広がって、好天気である。すでに気温が上がりはじめ、暑い。

朝食後、大方の人びとは街へ出て行った。何人もが、「あのナイフを買いに行ってくる」と。あれから計算をし直してみると、考えていた値段のさらに半額だったことがわかり、“あまりにも感動的な安値だ”ということで衆議が一致したのだ。私はどうにも身体がだるく、シャワーの後でベッドにごろ寝状態。幾分かの時差ぼけと、暑さのせいだろう。

ゴロゴロしている内に皆が帰ってきて、パパイヤを買ってきてくれたので食べる。熟れていて、冷たくはないが美味しかった。それにしても、あの店では店員が驚くほどのナイフの売上だったろう。

暑さを我慢して昼食を食べているときに、エリザがリオから戻ってくる。リオの新聞記者と一緒だった。午後は会場でインタビューと写真撮影。次の日曜版にカラーで掲載されるということだったが、30℃を越える暑さの中で、着物を着て、カメラマンの注文に合わせて何度も繰り返し踊っているメンバーは可哀想だった。私は、日陰で見ているだけで息切れがしてくる位だったのだから……。16日の午前・午後、子どもたちのために行なうパフォーマンスは、1回20分とはいえ、大変だろう。

宿舎へ帰り、シャワーを浴びたり洗濯をしたり、夜の公演に備えてカラジャのメンバーがバルコニーでボディペインティングをしているのを見たりしている内に午後が過ぎて行き、18:00にみどりさん率いる我々一行は、3台のタクシーに分乗して“ブラジル式焼肉”の夕食へと出発した。ラッシュが始まっているのか混みあう道を、タクシーは強引に突き進む。ソウルのタクシーといい勝負だ。街中を走る車の速度が異様に速いと思ったら、標識には制限速度が70kmとなっていた。とくに、バスの速度が印象的だった。

“ブラジル式焼肉”(シュラスコというらしい)については、一回は食べてみないとわからないだろう……。かなり高級なレストランで、気持ちがいい。次々に短剣に刺されて運ばれてくる肉――さまざまな種類があり、説明はされるが、みどりさんと離れて座った私たちにはよくわからない。想像するのみである――を、「どこを切るか?」と訊かれ、「ここら辺」と指すと切り取ってくれる。ほとんどビールに口をつける間もない程忙しいのだ。いやはや、食べ疲れてしまった。そして、「頭が痛くなった」「歯に沁みた」という悲鳴のような感想が出るほど甘い、デザートのケーキ群。割り勘にして1人1000円を切る価格には、改めて驚かされた。

その後、買い忘れてきたデジタルビデオのテープを探しに、サンパウロ一の規模を誇るというショッピングセンターへ。ところが、カメラ店や家電製品店を回っても、どこにも「ない!」。みどりさんの話では、ブラジルではまだデジタルビデオはほとんど普及していないのだそうだ。今晩の公演を撮るために、せめて1本だけでも……。我々の切実な気持ちを哀れんだのか、やっと1本だけを“Panasonic”の店で見つけ、ホッ!……1時間だ

けは撮れる……。69レアル(約3500円)と、これだけはえらく高かった。

領収証の発行をパソコン相手に奮闘している店員に痺れを切らし――10分経っても出てこないのだ――、何とかレシートだけを受け取ってタクシーに乗り、会場に着いたのは開演15分前だった。

やがてカラジャのプレゼンテーションがはじまった。男たちばかり25人くらいのダンスは、単調な繰り返しが多いが、伸びやかに続く群声、華麗な羽根飾り、ロープを使った

コスチュームとボディペインティングが一体となって、力強さと美しさを感じさせる。ほ

ぼ満員の客席からは、いいタイミングでかけ声や拍手が湧き起り、実に気持ちがよかった。

宿では賭けトランプに遊び興じているかに見えたカラジャだが、侮るべからず、である。

1時間半が、あっという間に過ぎた。鳴り止まぬ拍手に、アンコールのダンス。戻ってから聞いたが、彼らは“アンコール”というものを演ったのは初体験ということだった。観客の好反応にあっけにとられているような彼らに、改めて好印象をもった。

終演後エリザに、IDETIの代表であるシャバンチの男性を紹介された。ジュランジール・シリジーウェ……シリジーウェがシャバンチ名ということだった(彼とはこの後、とくにリオでは一緒に夜を過ごすことが多くなる)。

宿舎では、4階のバルコニーにカラジャが帰ってくるたびに我がメンバーの拍手が起こり、握手が続き、にぎやかである。運ばれてくる彼らの民芸品も次々に買われ、レアル札が飛び交っていた。全員のテンションが、確実に上がっていたし、気温も下がらず、暑い夜だった。


4月13日(土) 6:00日の出

昨夜はとにかく暑く、眠られない夜だった。バルコニーでは遅くまでアイヌとカラジャの交流が続いてにぎやかだったが、さすがに2:00過ぎには静かになり、裸の腹にバスタオルを乗せて寝入ったようだ。突然外のスピーカーから、大音響のサンバ。はね起きて時計を見ると、4:30である。パレオを巻きつけてバルコニーに出、下を見ると、停まったトラックのあたりに作業中の人影が動いている。隣室からFさんも飛び出してきて、二人で様子を見ていても、さっぱり事情がわからない。「何か、音響のテストみたい……」「なんで、いま頃?」「さあ……」……週末に大きなイベントがあるらしく、午後からその飾り付けやら何やらで、忙しげに動いている人びとの数が増えてはいたけれど、何も朝の4時半に音響のテストをやることはあるまいに……。

ベッドに戻ったけれど、すっかり目が冴えてしまった。電気をつけるわけにはいかないので、パソコンを持ち出して、バルコニーのテーブルで日記つけをはじめる。昨夜の暑さは嘘のように、空気が涼しく気持ちがいい。6時過ぎに人びとが起きだして来るまで、久しぶりに画面を眺めて過ごすことができた。

9:30、15人乗りベンツのマイクロバスで出発し、サンパウロに住む先住民グァラニーの村を訪れた。ブラジルに3万人位、サンパウロ市内には9千人が住んでいるというグァラニーは、土地権はじめ生存のためのほとんどの権利を保障されず、無権利状態のまま都

市のスラムで生活をしているという。この村――“村”と呼べる状態ではなく、国道に面した傾斜地に、20戸ほどのバラックが建っているだけなのだが――には70家族・300人ほどが住んでいる。この時は子どもを抱えた女性がほとんどだったが、男たちは街中へ拾い仕事を求めて出かけ、不在なのだろう。

500年前、おそらくブラジルのインディオの中では最も早く白人に接触したグァラニーは、先住の地を追われ、各地のスラムに転々と居住地を変えながら、それでも彼らの言語による生活を頑なに守り続けてきたという。この村でもポルトガル語を使えるのはほんの

僅かで、グァラニー語と伝統的な信仰による生活が守られていると説明を受けた。しかし歓迎のために歌われた彼らの歌の伴奏には、ギターとバイオリンが使われ、かつて宣教師によって持ち込まれたバイオリンが、今では彼らの文化表現にとって不可欠な要素になっているのが興味深かった。

1時間ほどの交流を終えて、我々の車は東洋人街へ向かった。車中で「NPO“アイヌ”を作って、何か我々に出来ることを始めなけりゃあねぇ……」という話になった。真剣に考えなければ……。

中華料理の昼食を済ませて、街(リベルダージ)の探検に……。汗を拭きながら人ごみを歩き回り、文字通りの“多民族国家ブラジル”を実感する。

さてその後、日本出発前から懸案だった“アイルトン・セナの墓参り”に車は向かったのだが……。

――何故セナの墓参りなのかについて詳述はしないが、とにかく、「サンパウロではセナの墓にお参りする」というFさんと、その希望が実現することを切望する他のメンバーの希望が叶っての“墓参バスツアー”となったわけだ――

ところがこの日のドライバー――痩身の女性だったが――、セナのお墓のある墓地を知らなかった……! サンパウロ郊外の起伏にとんだ道を走り続け走り抜け、着いた墓地にセナの墓はなかった。再びバスは走り、やがて別な墓地に……ついにたどり着いたモルンビー墓地。“音速の貴公子・アイルトン・セナ”は、ここに眠っているらしい。Fさんはじめ二、三人がバスを降り入口にある花屋に駆け込んでいく。残った我々は、「ここか?……降りようか?……」などと言っているうちに、バスは動き出し「駐車場に移動しているんだナ」と思っていると、猛烈な勢いで走り出したのである。何がなんだか分からない……頼みのみどりさんもバスを降りていて、ドライバーとの意思疎通はまったく不可能なのだ。「どこに行くんだ?」……「分からん」……「別の入口に向かってるんじゃあ……?」などなど、キツネに抓まれたような気分で走り過ぎる景色を眺めている私たち……。

やがてバスは、石塀に囲まれた瀟洒な建物と庭園のある場所に止まった。とりあえずは降りた私たち――トイレが必要な人もいたのだ。その駐車場には、屈強な黒服のガードマンが数人いて、「この者たちは何か?」といった目つき。「ここは、何処?」……と、廻りを見回している内に、バスは走り去ってしまった。

建物にはレストランやバーもある風で、何人かの人々がそこ此処に座っている。闖入してきてうろついている私たちの前に、一人の中年男性。「あの……日本の人ですか?」たどたどしいとはいえ、確かに日本語だ。「そう、日本人です。ここは、何ですか?」「えー、私は、えー、日本人の三世……です」「そうですか!助かりました!」ホッとする私たち。「えー、日本語はよくわかりません……。書いたものがありますから、ここのことは、それを見てください」「トイレはどこですか?」「えー、向こうです。カフェもあるので、ゆっくりしてください」「ありがとうございます」「では……いいですね?」と、いなくなってしまった。やがてウェイターが持ってきてくれた紙には『カーザ・ダ・ファゼンダの歴史』と題された日本語の説明が書かれていた。

「モルンビーのカーザ・ダ・ファゼンダは、1813年、皇帝時代の執政者アントニオ・フェイジョー神父が建てた19世紀の遺産です。(中略)その後、時代とともに、数々の名家がここに移り住みましたが、1978年を最後に人は住まなくなりました。その間、歴史の舞台としてたくさんの映画のシーンがここで撮影されています。その後20年もの間利用されないまま風雨にさらされた為、天井や壁から浸水した雨水により建物は朽ち果てた状態となっていました。 近年、ブラジル芸術・文化・歴史アカデミーが当施設の運営に携わることとなり、修復工事を行い、1940年代の最後になされた改修当時を復元することができました。 こうして、この邸宅と庭園およびアカデミー本部は、芸術・学術活動を促進する文化施設となり市民に開かれるようになりました。ブラジルのコロニアルな伝統的農園の姿を残し、そこから歴史を学んでもらうこともこの施設のひとつの目的です。(後略)」……なーる程、そういう場所だったんだ……!

やっと納得がいき、それぞれがビールやお茶を注文し、飲み終わるかどうかというタイミングでバスが戻って、墓参り組が到着した。やっと、建物の中を探検しようか……?という気になったのだが、すぐに出発である。“はじめっからここに連れてきてくれれば、ゆっくり見ることができたのに……”腹の中では燻っていたが、ま、ブラジルだからなァ、と、すでに諦めていたのだった。

墓参り組の報告と、墓参り行けず組の憤懣とを乗せて、バスはサンパウロ市内へと向かった。

19:00過ぎに夕食を済ませ、ボロボの公演を見る。宿舎にいてもシャイな感じの彼らのパフォーマンスは、地味でしっとりと落ち着いた印象だった。

21:30の終演後、22:00からリハーサルを行なった。位置を決めて照明の確認と、各種マイクのチェックとボリューム調整、出入りの確認を行なって、24:00近くに宿舎へ戻った。疲れた。


4月14日(日)

前日の予定では、8:00の朝食後ボロロの希望で交流会を持つはずだったのが、彼らがサーカスを見に出かけることになり(!)、フリーになった。そこで、地下鉄に乗って街へ出かける。――これだけではなく、マスコミの取材やら夕食会の招待やら、何やかやが突然ドタキャン、変更になるという事態に、我々は頻繁に出会うことになる。しかしそれは「ブラジル・プリ」とでもいうべき、ここでは当たり前のことらしく、われわれも遠からずそれに慣れてしまうのである――

地下鉄駅に近い「南米博物館」を見てから、地下鉄へ。駅構内も車両も、とてもきれいだった。

再び東洋人街。ニッケイ新聞の深沢記者夫妻が合流し、二手に分かれて散策(?)とショッピングを楽しむことが出来た。

日本を出る前に「お金は、米ドル――それも100$紙幣の換金率が一番いいです」というみどりさんからの助言で、我々は100$札の束(?)を懐にやって来ていた。サンパウロに着いてから、「銀行で両替を……」と言う我々にエリザは、「闇の方がレートがいいから」と、知り合いの両替商に連絡をとってくれる。それぞれが、「100$もあれば十分」という二人の言葉で100〜200$をレアルに換えて生活がはじまったのだ。

1レアルは、52〜53円。わかり易く1レアル=50円として使い始めたレアル札で、最も頻繁に必要になるのは1レアル札。10レアルは使えないことがあり、50レアル札はまず受け取ってもらえないと考えたほうがいい。何せ、物価が安い! いつも欠かすことができないミネラルウォーターは1レアル(スーパーなら0.65レアル)、缶ビールが1.5レアル。もちろん我々が徘徊するのはいつも下町の商店街ということもあって、1レアル札なしでは水も飲めないのである。仲間内で1レアル札が飛び交うことになる。「3レアル貸して?」「2レアルならあるよ」「○○ちゃん、1レアルある?」

……程なく“レアル”が消えてしまう。「1ある?」「5しかない」「誰か2貸して?」……という具合。やがて宿舎のバルコニーに店開きしたカラジャの兄ちゃんたちの民具――マラカスや羽根飾り、バスケットといった――を買うに際しても、「いち」「にー」「さん」が定着し、兄ちゃんが何やらアクセサリーっぽい物を突き出して「さん」と言ったりするようになった。

汗でぺたぺたのレアル札を広げて、東洋人街の露天で「2かぁ!」「これ3なら安いよね?」「ちょっと、1ない?」……これは、帰国後もしばらく続くかもしれない。

深沢さんの案内で、おもしろいレストランで昼食。ビュッフェ形式で好きなものを好きなだけ皿に取り、最後に皿ごと重さを量って金額が決まるというものだ(ポル・キロというらしい)。久しぶりでカレーを食べた。美味かった。

日曜日とあって、東洋人街の路上は露天商で埋まっていた。その間を、小額レアル札を握り締めて“掘り出し物”を物色する我が女性軍。何か懐かしさを感じさせる光景であった。

地下鉄とタクシーで宿舎へ戻り、男たちは会場へ行ってタクサを作る。舞台にはすでに“焚き火”がセットされていて、パウロの作品はなかなかの出来栄えだった。

宿舎へ戻りシャワーを浴びて休憩した後、軽食を済ませて、20:20に会場へ向かった。楽屋になっている建物へ、エリザのお母さんからお握りなどの差し入れが届いた。リオへ移動する前に一度夕食に、と招かれていたのが、スケジュールの変更が相次いで不可能になってしまったのだ。

20:50に始まったアイヌのプレゼンテーションは、思いのほか順調に進み、10:15に

終わった。深沢記者がビデオ撮影を受け持ってくれたので、私はスチール撮影を。1000人を越える観客は、充分満足したようだった。

サンパウロ在住の旧い友人松井宮子さんが、終演後来てくれた。25年ほども前、旭川

に住んでいた彼女を何度か訪ねたが、当時小学校5〜6年生だった娘さんが、そんな年齢の男の子をはじめ3人の子どもを連れてきてくれた。当時の面影を残し、美しい女性になった彼女を見て、感無量だった。慌しい再会と別れだったが、心に残った。

あとで聞いて残念だったのは、’89年の先住民会議にアユトンとともに北海道へ来たパウロ・シパセが会場に来ていたということだった。そうだ、たしか彼はシャバンチだった……。

宿舎へ戻ってシャワーの後、差し入れを食べ、――こっそり――酒も飲みながら、デジタル・ビデオカメラの小ちゃな画面を覗き込む。初めて扱う機械と初めて見るパフォーマンスなのに、実に見事な出来映えで、深沢記者のセンスに感嘆させられた。酒を飲まない(飲めない)アンジェラやエリザ、みどりさんまでもが、コップに手を伸ばしていたのだから、我々のテンションはかなり上がっていたようである。2:00過ぎに、寝た。


4月15日(月)

当初予定と変って1日早くリオへ移動することになり、忙しい1日が始まった。翌16日にリオを発って帰宅する先発の3部族が、「帰る前にアイヌと会いたい」と言っているというのだ。メヒナク、カシナワ、シャバンチは5日から7日までのサンパウロ公演を終え、12日から14日までのリオ公演も終わって帰途につくという。我々も彼らのプレゼンテーションを見ることは出来なかったが、せめて短時間の交流だけでもと、出発を1日早めたのである。

午後1回だけの予定だった学生(小学生〜高校生)向けのワークショップ――と言っても、小規模なプレゼンテーションである――が、会場に入りきらず、午前・午後の2回おこなわれた。3部族が20分ずつと短時間だが、とにかく暑い! 午前中はアイヌが最後で、9:30に始まり10:30に終わった。シャワー、昼食、荷造り。

午後はアイヌを最初にしてくれたので、公演後に幾分かの余裕をもって出発の準備が出来た。宿舎のスタッフやスタッフでもリオへは行かないメンバーたちとの抱擁、記念写真、プレゼント……。予定にあまり遅れず到着したバスに乗り込み、出発するまで、にぎやかな別れのシーンが続き、17:30、リオへ向けてバスは走り出した。さらば、サンパウロ……!

途中一度の休憩を挟み、500kmを6時間で走ったバスは、予定通り23:30にリオのホテルに到着、エリザが迎えてくれた。急なスケジュール変更で本来のホテルが取れず、と

りあえず2泊だけということだが、そんなことはどうでもいい。とにかく腹が減ったと、ピザの出前をとる。

部屋は男女が一部屋ずつに納まる。ブラジルでは、こんな大部屋があるのが普通なんだろうか? 我がベッドを確保し、冷たいビールを飲み、ピザ――美味かった――を食べて、寝た。


4月16日(火)

9:00から――といっても、当然9:30過ぎから、公演会場で交流会。メヒナク、カシナワ、シャバンチそしてアイヌ、それぞれの代表が挨拶し、踊りを披露し、プレゼントを交換し、抱き合う……短時間だったが暑いリオの空の下、熱い交流会だった。

昼食後、三部族が出発するというのでその見送りに……ということになったのだが、待てど暮らせど迎えのバスが来ない。ホテルのロビーや舗道に大荷物と一緒にたむろして待つ人びとと共に待つこと1時間……2時間。午前中の交流会を補って余りある個別交流ができた。やがて到着したバスに荷物を積み込み――巨大なアルミ鍋が何個も――、ひとしきり別れを惜しみながら乗り込んでいったのだが、それからバスが走り出すまでにさらに時間がかかったのである。

今回最も遠い所から来ているメヒナクは、リオから飛行機で丸1日飛び、乗り換えた飛行機で3時間飛び、カヌーに乗り換えて3〜4日――水量によって所要時間が変るそうだが――漕いでいった村まで帰るのだという。「大体、5〜6日かかる」という説明に、「24時間で来られるアイヌは、一番近いんじゃないか!?」。

15:00、「我々が使える車がある」というので、最後のバスの見送りをパスした私たちはマイクロバスに乗り込んでコルコバードの丘へと出発した。駐車場から階段を上り、高さ30mあるというキリスト像まで、息を切らせて登った。そして記念撮影。

帰り道にはコパカバーナの海岸に車を停めてもらい、白い砂の上を散策。夕暮れの海岸は人も少なく、気持ちがいい。「これが、コパカバーナか……!」波打ち際でしばらく遊んでからホテルへ戻った。

夕食後――と言っても21:00過ぎだが――エリザやアンジェラに誘われて「サンバを聞きに」出かける。分乗したタクシーで繁華街に入っていき、見ると路地のそこ此処に裸同然の姿でたむろしている女性たち。背が高くスリムな身体、とくに腰からお尻がほっそりと見える。ブラジルでは、美女の条件が“お尻が大きいこと"ということで、街を闊歩している女性たちは皆立派なお尻を誇示しながら歩いているように映る。暑さと相まって、正直「鬱陶しいよなぁー」と感じていたので、「おっ!リオの街娼は美人が多い!」と感嘆したのである。

少人数でサンバを演奏している店で、ブラジルの酒ピリンガを飲む。甘いのが気に入らないが、まずは地酒に敬意を表して……。2時間ほども居たろうか、そろそろ眠くなりかかった頃、「次の店に行こうー」と移動。店内に骨とう品があふれているアンティックな店に連れて行かれた。テーブルと人間と骨とう品の隙間で、思い思いにサンバを踊っている。我がチームも入れ替わりながら踊っていたが、私はもっぱら、汗を拭きながらビール。

多分、1:00頃にはホテルに戻った、と思う。


4月17日(水)

朝食後、荷物をまとめてロビーへ降ろす。後刻ホテル移動があるのだ。

今日は車が使えるというので、博物館へ行くことにする。ドライバーのお兄さんが「博物館が開くのは10時だから、それまで少しドライブをしよう」と気を利かせてくれて、リオ市内観光に。カテドラルやサンバ大会の会場などを見てから、「もういいだろう」と連れて行かれた博物館は『歴史博物館』だった。500年前に白人が入ってきてからの“ブラジル開拓の歴史"が展示してある、とガイドブックにはある。「そんな所へ行きたいんじゃない!もう一つ博物館があるだろう?」と、ガイドブックを見せる。彼はその博物館を知らなかった。

それでも住所を頼りに目的の博物館に辿りついたのは、11時を回っていた。広い博物館の中を、先住民の展示を探して歩き回った。……「あった!」……一番奥の展示室に、それはあった。シャバンチはじめ幾つかの部族の風俗と民具の展示である。200を超えるといわれるブラジル先住民族の、わずか数部族だけの紹介でしかないが、それはブラジル社会の先住民族に対する位置付けを端的にあらわしているように思われた。

急いで戻り、ホテルを移動した。すぐ近くのインペリアル・ホテルが、今日からの我が家で、居心地のよさそうなツインの部屋があたった。デボ(秋辺日出男氏)がルームメイトである。各部屋に「虫除けクリーム」が配られた。リオから100km程離れたあたりでマラリア患者が発見されたので、「念のために」ということだ。

午後も車が使えるとあって、我々は海岸めぐりへと出かけた。昨日雰囲気だけしか味わえなかったビーチを堪能しようというのである。コパカバーナ、イパネマ、レブロンと続く海岸は、砂浜も海も美しい。軒を並べた――表現が適切ではないが――ホテルに泊まることは一生ないだろうが、我々のような貧しい外国人をも気楽に遊ばせてくれる寛容さが、そこにはあった。

ホテルへ戻ってシャワーを浴び、サッカーのブラジル・ポルトガル戦をテレビ観戦してから、夕食のために三度目のコパカバーナを訪れた。海鮮料理を食べよう、というのだ。名だたるリゾート地の、有名レストラン……我々としては、かなり気張ったのである。

バイキング形式の海鮮料理――全体に塩辛くて、あまり美味くはなかったが、ビールとワインは美味かった。そこそこに飽食して、1人87レアル(4500円位)は確かに安い……というのは日本人の感覚で、ブラジルの一般市民が食事に使える金額ではないだろう。

夕食の席でのトピックス……。「昨夜行った店の周りで、街娼を見たよ」と、みどりさんに。「そう」「皆ほっそりとした美人だったよ」「あんねぇ、奴ら安いんだよー。15分で20レアル!」「へえー!」「ハハハ、男なんだけどさ!」「えっ?」「分かんなかった? みんな男さ」「…………」「お尻、小っちゃかったっしょ?」「うん」「男、おとこ……!」「へえーっ!」「最後まで気がつかない奴もいるって話だけどネ」「………手術してんのかなぁ?」「いろいろだってサ。最近、お尻にシリコン入れるのが流行ってるんだって」「へえー……!」……勉強になった。

冷房の効いた新居で、寝酒を飲んで寝た。


4月18日(木)

近くのビーチで泳ごう!」ということになり、男3人、みどりさんに付き添われて水着を買いに。何軒か回って、安いパンツを見つけ、日焼け止めも買った。昼食後、それぞれ何やら忙しそうだったので、一人でビーチを目指す。ホテルから10分程歩くとフラメンゴ・ビーチ。屋台が並び、ビーチチェアやパレオに寝そべった人びとが点々と……。とにかく海に入って身体を冷やす。見ると、水はあまりきれいではない。濁っているしゴミも多いようで、思わず銭函の海を連想してしまった。それでも日焼け止めを塗って白い砂浜に寝転がると、ウーンいい気持ちだ! 南国である。

ビキニ姿の老若レディに混じって白い腹を太陽にさらし、1時間ばかりでホテルへ帰った。中庭のプールで塩気を落とす。泳ぐのは、やっぱりプールがいいようだ……。

15:30に今回の「RITO DE PASSAGEM」最大のスポンサーに表敬訪問のため、三部族全員がバスで出発する。“PETROBRAS"は石油公社で、ブラジルの大規模産業のほとんどが国営か公社によって経営されている中でも、この企業は最大規模を誇るという。文

化事業への寄付はかなりの割合で税制の優遇措置が受けられるということで、今回も相当額の寄付があったようだ。「石油産業のお陰で、先住民がどれだけ酷い目に合わされていることか……」と、腹の中では思いながらも、つつましやかに行列のなかに混ざって豪壮な

ビルに入っていったのである。「幾分かは罪滅ぼしと思っているのかもしれない…」なんてのは、恐ろしく甘い考えなんだろうが……。

広いロビーの一角には参加部族の写真や民具が飾られ、挨拶の応酬と各部族のパフォー

マンスがおこなわれた。最後にPETROBRASの社長(あるいは会長)が全員と握手を交わし、プレゼントを受け取ってセレモニーが終わり我々は帰った。

19:00から、会場で“場当たり"と照明・音響の打ち合わせ。全員で行くことはないと、デボと私で出かける。サンパウロとリオは、まったく別のスタッフで行なうので、再びサンパウロでと同じ作業が必要になる。会場の規模も違うし、当然機材も異なるので結構時間がかかり、2時間程を要した。

二人とも夕食を食べてなかったので、「イタ飯を食おう」ということになり、エリザたちと出かける。落ち着いた雰囲気のレストランの中庭で、美味いパスタとワインを楽しむ。ボロロ・チームに発生したトラブル――女の子を巡ってどうした、こうしたとかいう説明を聞いたが、詳細は分からなかった――を処理したシリジーウェ(シャバンチ)とアンジェラも合流しての夕食会になった。

涼しくなった夜更け(私の感覚では)の街をぶらぶら帰り、シリジーウェの部屋でビールを飲みながら取りとめのない会話を楽しみ、2:00頃には寝た。


4月19日(金)

11:30〜12:30の間にテレビのニュースへの生出演があるというので、暑い会場で過ごす。

昼食後、5〜6人でフラメンゴ・ビーチへ行き、デッキチェアを並べて肌を焼く。その後ホテルのプール。大して泳いだわけでもないのに、シャワーの後眠ってしまった。目がさめたら22:30。隣のベッドからもぞもぞとデボも起き出してきた……仲のいいことだ。カラジャの本番を見に行けなかった……。

レストランで夕食。夜本番があるときは、本番後に食事が出来るように、遅くまで食事が出来るのだ。そこで一緒になったエリザやアンジェラ、シリジーウェたちと我々グループは、“飲み"に出ることになる。何処へ行ってもサンバである。最後に「アサブランカ」とかいう、体育館のように広いライブハウスかダンス場のような店で、ビールを啜りながら踊り――踊らせられ、気がつくと5:00を過ぎていた。結構元気じゃぁないか?

この夜も、暗い街のそこ此処に細身の“街娼"を見た。近くまで寄って行く勇気はなかったが、遠目ながら私にはやっぱり「彼女」に見えたんだがなぁー。


4月20日(土)

目がさめたら11:00だった!

プールに入る。部屋にはシャワーだけでバスタブがないので、水に浸っていると気持ちがいい。ボロロの女の子三人組が水に潜ったり泳いだり、喚声をあげている。12,3歳なのだろう――15〜16歳で赤ん坊を抱いているのが普通なのだから。体つきはともかくまだ子どもなのだ。

昼食後、みどりさんが会場前に開いている“アイヌ土産店"――メンバーが持ってきた小品類を販売している――を覗いたり、ホテル近くの古書店や書店を見て歩く。先住民関係の本を探すが、ポルトガル語では皆目分からない。やっと“XINGU(シングー)"の写真集を見つけることができた。

のんびりと午後が過ぎ、17:00には一昨日約束していた、サンパウロの本番ビデオを照明チーフに見せるために会場へ行った。サンパウロのスタッフが作った照明の進行表とビデオを合わせて見ながら、彼のプランを考えていたようだ。「助かった、有難う!」と言っていたから、多分役に立ったのだろう。

21:00からのボロボの本番が終わって、我々のリハーサルを行なった。場当たりと音響レベル、照明器具を決めていく作業は順調に進み、24:00過ぎには終了した。サンパウロもそうだったが、ここでもスタッフがなかなか優秀だ。何しろ“ブラジルタイム"と“ブラジルペース"で進むので、「大丈夫か?」という不安が拭えないのだが、この分なら明日も大丈夫だろう。


4月21日(日)

午前・午後と、会場の売店を覗いたり街をぶらついたり、のんびり過ごす。寝転がって本を読んでいると、いつの間にか眠ってしまう。部屋のテレビは有線らしく、かなりの数のチャンネルがあり映画などもやっているのだが、ポルトガル語では今一ピンと来ない。CNNやABCニュースも流れるけれど、ごく限られたニュースだけが放映されているような印象を受けた。どうにも、“世界と繋がっている"という気分にならないのだ。日本の話題がニュースになることは、一度もなかった。それにしても、コマーシャルのセンスの良さが印象的で、明らかに日本のそれを超えていた。

プールサイドに用意された軽食をつまみ、17:00に会場に集まって音響チェックを行なう。昨日5〜6人の屈強な若者たちが鋸で切っていた薪が積まれ、立派な焚き火が完成していた。これは華やかに燃え上がるに違いない……。

18:50、楽屋入りの時には、会場から延びた人の列が長く続いていた。切符はすべて完売だと聞いていたが、当日券での入場を求める人びとなのだろう。20:00に本番が始まるまでに、それらの人びとは、客席前の地面の上に席を確保し、キャパ700人の会場は1000人余りの観客で埋まっていた。

サンパウロに比べると一回り小さな舞台空間は、踊り手にとっては演じやすいようで、締まった舞台になった。踊りの後の暗転に時間がかかるという難はあったけれど、ま、そ

れもブラジルのペースで、観客にはちょうど良かったのかもしれない。コミカルな踊りに

特別出演のカラジャの若者二人は、サンパウロに出た仲間には負けられないとばかりに完

全正装で臨み、たっぷり演じて、大拍手を受けていた。

終演後、日本の総領事が楽屋に来た。若い――と見えた――女性であった。

遅い夕食の後、「打ち上げ"に行く……!」と、エリザやシリジーウェ。とても朝までは付き合えないので、私は辞退した。――翌日聞くと、「多分、5時過ぎだと思うけど、よく覚えていない……」ということだった。パスしてよかった……。


4月22日(月)

ブラジル最後の日。

午前中は、なんとなくホテルを出たり入ったりしながら、基本的には荷造り。各人が何とか荷物を減らそうと苦心している。かさばるお土産を買ってはいないのに、荷物が減らないのだ。その合間にシリジーウェの弟で、サンパウロからビデオ撮影を続けているカイミがやってきて、プレゼントを配っている。木の実と鳥の羽で作った首飾りを3個ももらってしまった。

陽気で話し好きな兄のシリジーウェと対照的に、カイミは寡黙で目立たない。シャバンチは4人まで妻を持てるそうだが、彼は現在2人の妻を持ち、最近死んだ兄の妻を引き受けたので近々3人目を娶ることになっているそうだ。一方兄のシリジーウェは、妻が日系の白人で多妻を認めないため、妻は1人だけだという。村へ帰って3人の妻を養うことになるカイミは、えらい。寡黙になるのも、なんとなく分かるような気がする。

『森』のメンバー床田さんが取材に行った2000年6月のシャバンチの儀式[ワイア](『森』ニュース35号/2000,12)について話したとき、シリジーウェは「自分の村では来年[ワイア]をやる。これが終わったら自分も村へ帰って、その準備をしなければならないんだ」と言い、「来年は俺の村へ来い」と誘ってくれた。カイミの3人の妻たちにも会えるし、なかなか魅力的な招待ではある。

14:00に楽屋入りし、14:30から観客席に学生を迎えてのワークショップ。


大汗かいてホテルに戻り、シャワー、着替え……ブラジルでは1日に何度も着替えをしたが、これが最後になる。最終的な荷造りを終え、ホテルをチェックアウトした。

カラジャやボロロと別れを惜しみ、リオの空港へとバスで。空港ロビーで、エリザ、アンジェラ、シャバンチの兄弟たちとにぎやかに別れを惜しんでから、我々はみどりさんとサンパウロ行きの飛行機に乗り込んだ。さらば、リオデジャネイロ!

サンパウロ空港には、浄土真宗大谷派のKさんが待っていてくれた。東本願寺の南米開教監督部で仕事をしているKさんとは、初対面である。日本を出発前にハワイの同派僧侶Fさんから連絡があり、6月末に来道するハワイアン・グループとの交流の打ち合わせをしたときに、ブラジル行きのことを話してあったのだ。サンパウロにも半年居たことがあるというFさんは「サンパウロの友人Kさんに連絡して、公演を見に行ってもらいます」ということで、みどりさんの掲帯番号を教えてあったのだが、Kさんから連絡が入ったのは、我々がリオへ移動した後だった。旅行から帰ってメールを開き、アイヌの公演を知ったのがサンパウロ公演の翌日だったということだった。「サンパウロ空港でお会いします」の言葉通りに来てくれたKさんは、初対面の挨拶もそこそこに我々の国際線への移動を手伝ってくれ、荷物を預けたり両替を助けてくれたのである。

23:55発JAL047便まで1時間余り。pm11:15という文字が搭乗券に見えたので、「もう中に入った方がいいんじゃー」と言う私に、みどりさんは「いいや、11:15から搭乗受付だから、お茶飲む時間はあるよ」と、喫茶コーナーへ行くことになる。それじゃ、というんで最後のブラジルビール。皆それぞれに飲み物を選んでくつろいでいる内に11:15が過ぎたので、みどりさんとKさんに別れを告げ、出国口から搭乗口へ……。「誰もいない!」

搭乗口の係員が「急げ、急げ!」と声をかける。走り出して思ったのは「やっぱり、11:15までに搭乗しろということだったんだ!」。前を走るデボが叫んだ。「最後にみどりにやられたぁ!」……免税店でうまいウィスキー位は……という心積もりは無惨に崩れ、無人の通路をひたすら走る二人であった。

へたり込んだシートで、飲んで食べて映画見て……。うつらうつらが気持ちいい。

トランジットのニユーヨーク空港。相変わらずの行列だったが、今回は少しばかり時間の余裕があり、搭乗待合室でコーヒーを飲み(無料だった)、煙草の喫み溜めもできた。

そして再び機内へ……。飲んで食べて映画見て……今は、23日だ。


4月24日(水)

アラスカを過ぎ日付変更線を越えて24日になった。

定刻より30分程遅れて、無事成田空港へ着陸。入国手続きを難なく済ませて税関審査口へ進んだ私に「!」。何の問題もないはずの荷物の中の、例のナイフ類が引っかかった。お姉ちゃん審査官が、「これは……私にはちょっと判断できないので、警察に見てもらいます」……ムムム……。現われた男性審査官に「こちらへどうぞ……」と丁重に案内されながら「他にもこういったものをお持ちの方がいらっしゃれば、ご一緒に……?」と言われて廻りを見回したが、既に誰一人そこにはいなくなっていた。とくに荷物の中に数本のナイフを仕舞いこんでいるメンバーの姿は跡形もない。さすがアイヌ、逃げ足の速さは見事なものである。

税関事務所で空港警察の現われるのを待つ。若い職員たちは、非常に丁重な物言いである。なんにしても、煙草が喫めるのがうれしくて機嫌よく20分程を待った。やがて現われた警察官(私服であった)の説明を聞く。「(全部で3本のナイフのうち)これだけが、形状が日本刀と同じ形になっているので、規制の対象になる、かもしれないんですよ……」「こっちのうんと長いのは、問題ないんですか?」「これは、長いだけで、形の上では“刀"に該当しませんから、いいんです」「はぁー、そんなもんですか?」「何かおかしいんですが、現状ではそうなっているもんですから……」「ま、いいですよ。で、どうしましょうか?」……結局、一本だけを“預け"て、警察の方で検討し、結果を知らせてもらうことになり、“預り証"をもらってそこを出た。もし合法ということになれば、何らかの方法で返してもらえるらしい。また、違法という結論になれば、国内には持ち込めず「高価なものなので没収というわけにはいかないので、次回国外へ出られるときにお返ししますので、どこかで処分してください」ということになった。

今後のために、その違いを図示しておこう。 まことに、その杓子定規は噴飯ものである。

ともあれ30分ばかり遅れてロビーに出てみると、心配そうな顔でみんなが待っていた。顛末を報告して一安心。「何せ俺たちも同じ物を抱えているから、引っかからない内に逃げてきたんだ」……それが正解だ。杓子定規にとっ捕まるのは、一人で沢山だ。

阿寒組は羽田近くのホテルで一泊し、明日の帰宅となるし、私はこのまま千歳行きの便で帰宅となる。時間があるので食事をして……という話にもなったが、皆(私も含めて)カート一杯の荷物を抱えているのである。とてもそのまま食堂街に移動する気にはなれない。「大変だから、ここで別れよう」と、彼らは羽田へのシャトルへ、私は国内線の方向へと別れたのだった。2週間苦楽(?)をともにしてきた仲間との、成田の別れであった。

国内線の待合室には食堂がなく、売店の一隅で立ち食い蕎麦をすすったのが、帰国直後の食事となった。「面倒でも、向こうで美味いものを食って来るんだった……」と、臍を噛んだことである。

喫煙席で本を読んだり居眠りをしながらの4時間は、長かった。やっと機内へ入り、週刊誌でこの間の“政局(?)"やらスキャンダルやらを読んでいる内に、滑走路で1時間ばかりも待機していることに気がついた。今日の成田は「大変混みあっている」そうだ。「まいったなぁ、バスがなくなってしまう……」気をもんだところで、仕様がない。やがて、やっと飛行機は飛び立った。最後まで“ブラジル時間"であった。

幾らか遅れは取り戻したものの、到着した千歳空港からの高速バスは既に最終便が出たあとだった。「重い荷物抱えてJRは億劫だし、タクシーだな」と諦めながら、預り荷物の出てくるのを待ちながらロビーを眺めていると、「ややっ!」見覚えのある顔が……。寝ぼけ眼をこすって見直しても、それは正しくハンター桜井であった。

同時刻に羽田から着く娘さんを迎えに来ていたという桜井さんは、私にとっては、神の贈り物、幸せの天使である。東京帰りの二人のお嬢さんよりもでかい荷物とでかい態度の私は、まんまと自宅前まで送ってもらったのだった

帰り着いた家の居間では、ストーブが燃えていた。久しぶりに浴槽で身体を伸ばし、載った体重計の目盛りは……400gの増加! 流した汗が報われない旅だった……。