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ヤイユーカラパーク VOL41 2002.07.25
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おもな内容

食いものノート/3

自他楽写真館 平島邦生

レシピ 05

久しぶりである。したがって洗いもののコツは十分に身についたと思う。洗いものと片づけは親父料理術の基本であるから、まだ納得のいかない諸君は努力を続けるように。


さて、今日のテーマは『クッキング・ブック』の食べ方。あらためて言うまでもなく、料理本それ自体は煮ても焼いても食えない。それでも大きな本屋さんには、その煮ても焼いても食えないものがずらりと並んでいる。書店の実用書コーナーは、家庭医学書、育児書、それにガーデニングなどの趣味の世界が加わって一角をなしているが、その量において「クッキング・ブック」は圧倒的である。それだけの需要があるのだろう。著者は有名な料理人。料理好きのタレントや俳優。それに、料理研究家という人もいる。美しい料理写真にレシピを添えたものが主流のようであるが、エッセイ風のものや、料理大全のような分厚いものまで、料理も、本の体裁もそれぞれに種々雑多の「アラカルト風」である。

拙者も、少しはまじめにこの連載を書こうと一念発起して、過日、参考書を探しに出かける。しかし、和食、中華、フレンチ、イタリアン、それに子どものお弁当からデザートまで、手当たりしだい手にとって眺めているうちに、次第に胃のあたりがむかついて気分が悪くなり、なにも買わずに帰ってくる。


「クッキング・ブックを読んで美味しい料理が作れるなら、料理の下手な人なんていない」と、師匠は明快に言うのだが、さりとて入門者にはそれなりの指導書があれば便利だ。ところが、そういうものはほとんど見当たらない。クッキング・ブックは、基本的にある程度の料理体験がある人を対象にして書かれている。前号に書いたような「男の料理」や「アウトドア・クッキング」を除けば、その大半が主婦向けである。「主婦」は料理が出来て当たりまえ(?)……。その前提の元に出版される料理本の大半は当然のことながらアイディア料理のレシピ集になる。「簡単で美味しい今夜のおかず」「365日の献立」、「子どもが喜ぶお弁当」など、主婦の要望をすっかり見抜いて付けられた本のタイトルがそれを物語っている。

親に料理を教わらず、「家庭科」のママゴト遊びのような料理体験しか持たない「にわか主夫」は初めから対象にされていない。「ご飯の炊き方」や「味噌汁の作り方」を丁寧に書いた本は皆無に等しい。もっとも、それぐらいは見よう見まねで小学生にも作れるから、仮に出版されたとしても売れないだろう。

結論を急ごう!我々には、『クッキング・ブック』は食えない。……のである。

レシピ 06

頼りにした「クッキング・ブック」が食えないと知ってもがっかりすることはない。そもそも「料理本」など無かった時代から人間はちゃんと食って生きのびてきた。人類が火を使えるようになって、初めて料理というものが生まれたのだと思っていたが、ある種のサルが食料を海水で洗って食べるという記事を読んで、サルも料理するのだと知る。料理をあまり難しく考える必要はない。そのままでは食べられない物を食べられるようにすることから始まって、より「美味しく」食べられるようにと発達してきたのが料理である。しばしば飢饉にみまわれた中国大陸の民衆が生みだした中華料理は、鍋ひとつで何でも作ってしまう。押しなべて中国の男たちが料理上手なのは、食べることがいつも身近だったからに違いない。内陸にある京都は保存の効く食文化を発達させる。四方を海に囲まれ、新鮮な魚介類や農産物に恵まれた北海道にこれと言う料理がないのも然り。料理の目的が「より美味しく食べる」ことにあるなら、なにも手を加えないのが最上の場合もある。


拙者はフランス料理が苦手である。まず、皿ばかり大きくて料理が少ないのが貧乏性の拙者に合わない。だがそれにも増して、せっかくの肉や魚を、訳の分からぬソースでまぶしてしまうのには我慢がならない。フランス料理は革命の時代に発達したと聞くので、当時は新鮮な食材が手に入らなかったのだろう。拙者には「ごまかし料理術」の気がする。フランス料理を食べると、食後にいつもラーメンが食いたくなる。

また話が飛んでしまった。つまり「より美味しく食べる」ための技術という点では、フランス料理も当然ながら立派な料理技術である。しかし、どんなに一流のシェフが腕を振るっても、個人の味覚の好みは変えようがない。そこで親父料理術の登場である。親父料理術は「親父による、親父のための料理術」である。要するに自分の食うものを自分で作るのだから、好みは作る本人が一番よく知っている。「何を、どんな風にして食べたいのか」それが分かれば、それを作ればよい。……簡単である。


「本当に自分が食べたいもの、作りたいもの。それが明確にイメージ出来れば作れる」と師匠は拙者を励ましてくれる「一度で出来なくても、二度目には作れる」。「二度失敗しても三度目には出来る」と。これは、四度目、五度目と続けていくと誰でも必ず真理に往きつく。得阿耨多羅三藐三菩提。「ありがたき幸せ」の『行』である。

「自分は何を食べたいのか……」。それが分からないからアイディアレシピに頼る。しかし、アイディアレシピは百万通り以上もあるだろうから、その中から一品を選ぶのは容易ではない。ましてや、レシピに書いてある通りの食材を買い漁るのはもっと大変である。季節を無視した食材の組み合わせぐらいは当たりまえ。場合によっては南米やフランスまで買出しに行かねば作れないような料理も登場する。

「食べたいものがなければ食べなければいい」と拙者は思う。本当に空腹を感じれば、食べたいものは自ずと生じる。それもなければ、あとは何を食べても美味しく感じるだろう。より美味しく食べられるよう「はかり収める」のが料理の技術なら、空腹こそは最高の技術だ。

実習の手引き その2

バブル経済がはじけ飛んで、この国の飽食時代もついに終わるかと思えば、価格破壊とやらで値段が下がり、犬や猫まで肥満をもてあましている。肥満方程式の「根」は「食った量−出た量」で決まる。出るのはエネルギーに変換された基礎代謝量や運動量であり、こちらの方が少なければ、残りは蓄積され、すなわち肥満に至る。いかに『雲古』の量を増やしてもこちらは効果がない。

この国では「生きるために食べる」時代は、すでに昔話となって久しい。現代は、食った分だけ使い切れないことに頭を悩ます時代になる。そこで断食(あるいは小食)のすすめである。なにも、「悟り」を求めて骨と皮になれと言うのではない。医師のコントロール下にあるのでなければ、一食二食抜いてみるのは至って健康に良い(ただし、その後にまとめ食いはしないように)。脂肪分を抜き取った牛乳や、糖分を減らしたサプリメント。それに、ノンカロリーの食品を食べ続けながら無理なダイエットをするよりは、一食抜く方がいい。適度な空腹は食事を最高に美味しくしてくれる。ファーストフードやコンビニ食からの脱出。そして、加工食品の多用を避けて自分で作るようにすれば、質素でも、本当の美味しさを味わえるようになる。「親父料理術」と銘打ってこの連載を始めたが、本当の意味で料理に必要な技術はそれほど多くはないし、これと言って特別にむずかしい技術もない。「何をどんな風にして食べたいか。それが分かれば作れる……」。その師匠の言葉には、何の誇張もない。


今回の「実習の手引き」は、思いもかけず『断食』が飛び出してしまった。次回の実習は是非とも美味しいものを味わってみたい。受講者諸君においては、それまでに『空腹』という天然調味料の味わい方を各自よく研究しておくように。

<次号へ続く>