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ヤイユーカラパーク VOL41 2002.07.25
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ごまめの歯ぎしり

周縁から

金城実さんの『100メートルレリーフ』展(まだ完成はしていないが)を見るため5月に沖縄に行ってきた。偶々そのあと、福岡のTさん経由の依頼で西日本新聞に原稿を寄せることになった。7/17の文化欄に掲載されたものは、紙幅の関係で多少切り詰めた形になったが、以下はその原文である。


5月15日、私は沖縄の那覇にいた。読谷村のアトリエでひらかれている彫刻家・金城実氏の『100メートルレリーフ展』を見るため、妻とともに訪れた二泊三日の旅の帰途であった。労働組合員による街頭での「有事法制」反対のビラを受け取り署名をしながら、沖縄の「本土復帰三十年」への思いを新たにし、気温三十度の炎天下をバス停へ向かって歩きながら、前日アトリエで泡盛を啜りながらの金城さんの熱弁を思い返していた。

金沢の護国神社が『大東亜聖戦大碑』に『ひめゆり部隊』『鉄血勤皇隊』の名前を無断で刻んだのは、宗教的人格権の蹂躙だ」「牛島中将をモデルに建てられた摩文仁の丘の『黎明之塔』が典型だが、国内の戦争に関するモニュメントに見られるのはほとんどがヤマトナショナリズムであり、ファシズムの復活だ」「何故、牛島中将自決の日が『慰霊の日』なんだ?」「国中に『平和の像』はあるが、何故『反戦の像』がないんだ?」……そして、取材に来ていた新聞記者への説明も交えながら、友人であった彫刻家・砂沢ビッキ(1989年没)が旭川市に建てられた『風雪の群像』に抗議した運動について語った。

北海道開拓百年記念として1970年に本郷新が製作したブロンズ像は、それぞれに命名された五体からなる群像で、動的に立つ和人像に対して末座に座るアイヌ像は「コタン(集落)」と名づけられていた。砂沢ビッキは、「何故、アイヌはコタンという偏狭な地点に座していなければならないのか。この大自然と大地は、われわれアイヌのものではなかったのか」という抗議文を、街頭でひとり黙々と配り続けたのである。

「モニュメントは人間の間違った営みを告発するものでなければならない」と言い、「芸術家の存在根拠はそこにしかない」と噛みしめるように呟く金城さんの近著『民衆を彫る』は、「民衆が彫る」と同義の重みを私たちに感じさせる。


幕藩期、松前藩と幕府による民族の異化政策と同化政策が交錯するなかで生活の場と生業を圧迫され、あるいは奪われてきたアイヌが、民族としての存在を決定的に抹殺されたのは、明治政府の北海道開拓政策によってだった。1872(明治5)年、戸籍法によってアイヌを日本国民に編入した国は、北海道の土地すべてを「無主の地」として国有財産にする。その上で『北海道土地売貸規則』『北海道地券発行条例』『北海道土地払下規則』『北海道国有未開地処分法』などによって、和人移住者や企業、団体に無償か、それに近い価格で土地の払い下げを行なった。しかしアイヌは、その居住していた土地さえも「官有第三種地」に編入され、借地住まいに追い込まれたのである。さらに狩猟・漁労・採集による食料調達のすべてを「法」によって禁じられ、生存さえ危うい状態に陥ったアイヌに与えられたのが、1899(明治32)年制定の『北海道旧土人保護法』だった。

国がアイヌの農民化と定住を意図し、「保護法」と銘打った同法は、結局アイヌを「保護」する結果にはならなかった。荒地や河川敷を一戸平均2.5町歩給付されたアイヌが、それによって農業で生計を立てるのはほとんど不可能だったのだ。同法で給付された土地の17パーセントしかアイヌ自身の手に残されていないという、1976年の実態調査がそれを物語っている。

1869(明治2)年に5万8千人だった北海道の人口が、百年後の1969(昭和44)年には520万人を超えている。この間殺到する移住和人によって、「異人種・異民族」なるがゆえに持たれてきたアイヌに対する差別意識は、国が作り、社会が育み、個人の中に沈潜しながら、今日まで続いていると言わざるを得ない。1997年、いわゆる『アイヌ文化法』が成立し、同時に98年間続いてきた『北海道旧土人保護法』が廃止されたが、それによって国や社会、個人の中の「アイヌ観」が変わったとはいえないだろう。


前大戦において「国内で唯一、地上戦が行なわれた沖縄」と言われることがあるが、それは正しくない。大本営の停戦命令が届かなかったため、当時日本領だった北千島の占守島では8月18日、樺太では17日以降、上陸・侵攻してきたソ連軍との間に激戦がくりひろげられた。8月20日、樺太真岡に上陸したソ連軍と、迎撃する日本軍の死闘のなかで、真岡郵便局の交換台を守った九人の少女が「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の通信を最後に、青酸カリを飲んで自殺した。樺太の停戦は23日である。

樺太をのぞむ稚内の丘の上に、その言葉と少女たちの名前・像版レリーフをはめこんだ『九人の乙女の碑』が立っている。沖縄の『ひめゆりの塔』とこの碑は、南と北の「辺境」を、国がどう扱ってきたか明らかにする証ではないだろうか。


長く「異境」の「化外の民」とされた後、「辺境」の「滅びゆく民族」とされてきたアイヌ。いま「北海道」が辺境と呼ばれることはない―観光案内以外には―が、アイヌが民族として復権したとは到底言えない。その「旧文化」だけを抽出して飾り立てるという国の施策は、むしろアイヌの民族的アイデンティティを後退させるだけである。

21世紀、「周縁」に生きる民たることこそ、私たちが選びうる展望ではないだろうか。追いやられた周縁ではなく、自らが「マージナル・パーソン(marginal person)」として、体制に同化しない批判性と想像力をもち、創造性をかち取り高めていく。そこにしか、未来はないだろうと思うのだ。

6月23日、沖縄の平和祈念公園での全戦没者追悼式会場で、「有事三法案 絶対反対」と書いたうちわをかざして立った宮城盛光さん。その姿に、「100メートルレリーフ」中の「銃剣とブルドーザー」で銃剣と対峙する阿波根昌鴻の姿が重なり、静内真歌丘の砦跡に立つシャクシャイン(1669年、松前軍に謀殺されたアイヌ軍のリーダー)像が重なった。それぞれの闘いの姿のうしろには、幾多のマージナル・パーソンたちが、確かにいるのである。