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ヤイユーカラパーク VOL42 2002.10.30
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カナダ/ファーストネーションを訪ねる旅

いつもながら、終わってみると長かったような、あっという間に過ぎたような、そんな旅で、しかもなんだか妙に寂しいのです。だからというわけでもないのでしょうが、今回の報告は無闇に長くなってしまいました。どうぞ退屈になったら跳ばしてお読みください。ただ、インディアンからのメッセージだけは、しっかり受け取っていただきたいと思います。では、はじめます……。【K】

8月11日(日)

打ち合わせより30分早く迎えに来た、山下車・三上車の二台に分乗して千歳空港へ。やがて10名が集合したが、やっぱり早すぎた。時間を持て余しながら思う、「カナダ到着まで時間が余るのは、これが最初で最後になるかも……」。

予定通り着いた羽田空港で成田までの所要時間を確かめて、ガックリ。1時間半は掛かるだろうというのである。13時に着いて14時に成田で東京組と合流という計画は、あっさり崩れてしまった。最後に羽田〜成田の乗り継ぎをやってから、余りにも時間が経っていた――JTBが知らない訳はないのに、なんで言ってくれなかったんだ……!? しかも、預り荷物を受け取って、運ばなければならないのだ。前途多難である。リムジンバスに乗り込んでから、成田合流のふたりに到着が遅れる旨を連絡。携帯電話の有難さを痛感する。

それでも15時過ぎには国際線ロビーに着き、無事全員顔を合わせることが出来た。搭乗券を受け取り荷物を預け終わるまでに、あちこち移動させられてイライラするが、なんとかそれも終わって出国審査へ……。

成田へ着いてからの私は、例の“ブラジル渡り"のハンティングナイフを空港警察から受け取るべく、電話の掛け通しだった。担当者があの後何度か電話をくれて、「結局国内には持ち込めないので、カナダへ行くのなら、その時に返却するから、国外で処分してきてくれ」ということになっていたのだ。「ANAのカウンターから電話をくれれば、届けさせる」ことになっていたのに、なかなか現われない。担当者が休みで、代わりの人が要領を得ないのだ。「他の処を回ってからそっちへ向かいますので、もうしばらくお待ちください」……何度かそれを繰り返し、他のメンバーがすべて消えた荷物検査場で「こりゃあ間に合わないゾ……ナイフの受け取りは次の機会にしよう!」と、トランクをX線透視機(多分、そんなものだろう)を通した直後、「遅くなってスミマセン!」と駆け込んできた二人の刑事。「いや〜、間に合ってよかった!」……そりゃあ、オレの科白だ。

件のナイフを受け取ってトランクに入れる。受領証に署名をした私を「行ってらっしゃい!」と見送ってくれたのは、成田空港警察の刑事であった。いやはや……。

それでも皆に追いつき、いつも出国時に体験するロスタイム(?)もなしに搭乗口へと向かったのだった。無事にウイスキーと煙草をゲットできたのは、何よりである。

満員の機内で座席に“はまって"、妙にグッタリする。慌しかったここ数日のせいなのか、全員が無事出国できた安心感なのか、あるいはこれから続く長い飛行疲れの前倒しなのか……。とにかくウィスキーを飲みながら、なんとか寛ごうと努力する。

実は、今回の旅では密かに期するところがあった。新書版『たった100単語の英会話』を往きの機中で読破・マスターし、カナダでは幾分かはマシな英語で、大いにコミュニケーションの巾を広げようという計画である。2本のワインと夕食を片付け、私は勇躍「100単語」に取り組み始めた。重要100単語が自由に操れれば、ほとんどの日常会話には困らないという前説を読み、“get"“take"を済ませ、“have"に入ったあたりから頭がぼやけ始めた……。“give"になると、もう半睡状態である。ついにgive up、ウィスキーと映画『WASABI』に活路を求めたが、ほとんど意識は残っていなかった。

やがて朝食を終えた我々は、サンフランシスコ空港へと降りていく。10時間の飛行が終わった。この後は、“get・take・have・"だけで、何とかしなくてはならない。ま、3パーセントほどは、私のコミュニケーション・エリアが広がるかもしれない……それも、うまく使い方を思い出せば、だが。

サンフランシスコ空港。長い長い行列にくっついて、入国審査。全員、○。次に、税関審査。順調……と思ったら、山下さんが引っかかった! あまりに時間がかかっているので、行ってみる。若い男性係官が、説明をしている。問題は、お土産用の“鹿肉ソーセージ"である。「国内への持込みは出来ない」と。押し問答――どの程度“押し"ているのかは分からないが――を続けていると、日本語のできる女性係官が来てくれた。山ちゃんは懸命に「これはカナダの友人に食べさせるために、自分が撃った鹿で作ったソーセージで、真空パックになっているし、絶対安全だから、通過させてもらいたい……」。係官同士の会話の後、結論は「BSE問題以降、アメリカは肉類の持ち込みにとても厳しくなっている。とくに、日本からのものは難しい」。ムムム……日本の脳タリン省のしわ寄せが、こんな処で現われるとは……!「これには何のスタンプもないが、ホームメイドか?」「その通りである」「ならば余計に、絶対に入国させるわけにはいかない」……「入国しても、すぐに出国するんだから、いいだろう?」最後の抵抗は「飛行機が出る前にこれが開けられないという保証はない」と、あっさり拒否された。

女性係官(多分日本人だろう)は、「気の毒ですが、没収・焼却処分しかありません」……6本入り2パックのソーセージに別れを告げ、トランクを閉じた。ひどく軽くなった――ように感じられる――荷物を抱えて税関を離れながら、「皆で食べるといい……おいしいんだから……」言ってみたが、声に力はなかった。

心配していた皆と合流し、そのまま出国口へ。長い通路をたどって、アラスカ・エアラインにチェックインし、やっと寛ぐことができた。「アルビンに食わせたかったのに……」「あそこで、皆で食っちまえばよかったナー……」……山ちゃんの悲痛な呟きであった。サンフランシスコ空港とソーセージ――忘れることはないだろう。

軽食を食べて3時間、17:00にバンクーバー空港到着。日本では12日10:00だが、ここはまだ11日。長ーい1日は、まだ終わらない。


空港での出迎えは、賑やかだった。松井さん、デヴィッド(ちょうど1週間前に電話があり、東京からバンクーバーへ引越しをした直後だった)、金 健牧師(札幌在任時に知り合っていたのが、現在はUBCで神学を学んでいるという)……心配していたアルビンも現われて――小松吾郎君と三浦克己君と一緒に――全員がそろう。予約してあったレンタカーを借り、アルビン車・松井車・デヴィッド車に荷物と人が分乗、我々は出発した。

まず、リルワットでの食料を仕込まなければならない。4台の車はバンクーバー郊外の巨大スーパー「YAOHAN」に向かった。中国系資本が経営しているというこの店は、日本製品も含めてアジアの食材が驚くほど豊富だった。そして安い――多分。もっとも純日本製品は、類似品に比べて3倍位の価格である。

その中の食堂(街)で、それぞれが好みの食事を済ませてから、リルワットへと出発した。時間は20時を過ぎたのに、太陽はまだ沈まず、明るい。夕景ともいえないほどである。

途中コーヒーブレイクを挟んで、24時直前にアルビンの家に到着した。さすがに、暗い。荷物を運び、モニーと抱き合い、それぞれが寝場所を確保してから(?)、キッチンで到着・再会・初対面パーティー。4人の女性たちが寝室を確保できたので、安心して飲むことができる。男たちは、どうにでもなるのだ……。

日本酒(桜井持参)・ウィスキー(免税店)・ビール(途中ペンバートンあたりで調達)を順次片付けながら、夜が更けた……明けた、か? ブラジル・ナイフは、無事アルビンの手に。私は、3時頃就寝。最終組は、5時だったそうだ。

長い、長い1日が終わった。

8月12日(月)

それでも7時頃に寝床から這い出し、キッチンへ。コーヒーを飲み、飯を炊き――これは淑子さん――しているうちに、ボチボチ皆が起きだしてくる。庭のテントで一人寝の山ちゃんも、日差しの暑さにたまらず逃げ出してきた。昨夜の打ち合わせでは「10時に出発し、リロエットあたりで昼食をとって、サーモンキャンプでゆっくりしよう」ということだったのだ。全員が朝食を済ませて、アルビン待ち。いつものパターンだ。

「グッドモーニング!」……満面笑みのアルビンが朝食を済まし、車を連ねて我々が出発したのは、11:30だった。ま、オン・タイムか……。

途中、メルビン・クリークのピースキャンプ『シュティカ(SUTIKALH)』に寄る。伝統的な聖域で“冬の魂"という意味を持つシュティカには、テントと冬の宿泊小屋などが建てられ、二人のインディアンが泊り込んでいた。1968年の第10回冬期オリンピック(グルノーブル)女子大回転で優勝したナンシー・グリーンによるスキー・リゾート開発計画を阻止しようと、2000年5月に作られたキャンプである。幹線道路からちょっと入り、清流に沿って歩きながら木イチゴをつまみ食いし、着いたテントの内外で彼らの話を聞いた。

リルワットの住民による食料の差し入れや支援によって続けられているキャンプ生活で、この地域に棲むグリズリーや黒熊の家族、数種の穴熊、絶滅種とされているフクロウの数種、山羊たちが確認されたという。しかし、ナンシー・グリーンの会社がおこなった(と称する)環境アセスメントの結果は、「スキー場開発は、この地域の自然に影響はない」というものだったそうだ。

オリンピックの金メダリストでアルペンスキー・ワールドカップの初代チャンピオン、ナンシー・グリーンの名前を、我々はこの後訪れるセクウェップムゥでも、嫌というほど聞かされることになる。

キャンプとそこに住むインディアンに心を残しながら、我々は出発した。

前回と同じ中華料理店でおそい昼食をとり、フレーザー川のフィシュ・キャンプに着いたのは、15時近かった。とにかく、暑い。テントの日陰から現われたボボが、「Again……」。3年ぶりだった。暑さもあってか、疲れたような表情である。それでも、差し入れの冷たいビールを飲んでにっこり。

日中の暑さにサケは川底に潜ったままで、漁にならないと言う。夕方まで休憩だ……と言いながらも、流した網に一匹。さっそく桜井さんが“チャンチャン焼き"用に捌きだす。強い日差しに背中を焼かれて心急いたのか、刃物の具合が悪かったのか、自分の手も切ってしまった。「カムイノミの前に自分の食い代を取ろうとしたから、罰があたったんだヨ」などと言われながら応急処置。――幸い、かなり深かった傷も、数日後にはきれいに付いていたので、まずは一安心――。

次に掛ったサケを供えて、火を起こしカムイノミ。暑かった……!

3年前よりも水量が多く、勢いも激しく流れるフレーザー川。何匹かを捌き、17:30に我々は出発した。ボボのいつものセリフ「オレはgood-byは言わない、別れではないんだから」を聞き、「See you!」を繰り返しながら、しばしの別れである。この次には、ゆっくり飲もうな……。

19:30に帰り着いたアルビン宅の庭に、数人のおばちゃんたちが座っていた。やがてドラムが響き、歌声が聞こえてくる。夕暮れが迫るなかで、歌声は延々と続いていた。

やがて夕食。チャンチャン焼きとサケ汁。桜井夫人が仕込んでくれた味噌ダレのチャンチャンは絶妙の味わい、粕汁のサケも美味かった!……ここまでがんばった桜井さんは、風邪の発熱でダウン。

暗くなってきた川岸にキャンプファイヤー。囲んで座り、再開されたドラム・ソングを聞き、ビールを飲む。最高のロケーションと音楽だ。これを贅沢と言わずに何を贅沢とするか……。焚き火のぬくもりが丁度いいくらいに涼しくなった頃、見上げると木々の梢に触れているのではないかと思われるほど間近まで、満天の星である。いつもながら、ここの星空は凄い。「私も歌う!」と彩ちゃんのソプラノも、夜空に響いていった。

今回もたくさんの人びとが集まっているアルビン家。3年前にはデビューを目指してロディオの練習を重ねていた真司君が、今は各地の大会に出場しているという。「いま、ちょっとスランプなんです」と言いながら、大会で荒牛の背に乗っている写真を見せてくれた。いやはや、たいしたモンだ。その真司君が、「プロで食えるんだから、凄いよー」と一目置いているのが、吾郎君。ウイッスラーを拠点に、メーカーと契約して写真や映像用に滑っているという、プロのスノー・ボーダーである。アルビンが「クレージーだ」と言うほど大胆な滑りをするらしい。一度見てみたいモンだ。吾郎君の恋人、ゆきちゃんもスノー・ボーダーだ。カナダ人と日本人の間に生まれた樹央君と克己君の兄弟。樹央君はアルビンの家からペンバートンの農家へ通い、畑仕事をしている。克己君は広島大学からカルガリー大学へ1年間の交換留学生で、休みの間樹央君を訪ねてきたらしい。名古屋出身の尚君は、アルビンの母ジョジーナの家にスティしているということしか分からない。寡黙な青年だった。'96年にバンクーバーでお世話になった鹿毛さんご夫婦のお嬢さんも、リルワットの男性と結婚して近くに住んでいるといって来てくれた。そして、入れ替わり立ち代り訪れるインディアンの大人たちと子どもたち……。モニカの「疲れるヨ」は実感できる。

おばちゃんたちが引きあげた深夜、若者たちが「泳ごう!」。次々に川に飛び込んでいく。ついには私と山ちゃんもパンツ姿になり……。「頭も沈めないと駄目!」……暗い川のなかに、完全に沈んで、OK。確かに、気持ちは良かった。

身体とパンツを乾かしながら、ウィスキーの回し飲み。5時に寝床へ向かった。

8月13日(火)

10:30起床。昨日醤油に漬けておいた筋子が、美味い! ハラスの塩焼きも脂がのって、美味い!

やっぱりサッカイ(ベニサケの種類)は最高だ。美味いものは自分で確保、腹に入れる。

それにしても、暑い。時差のせいか寝不足のせいか分からないが、とても日差しの下にはいられない。ウェインのところで乗馬ができるということなので、2班に分け、それぞれの時間に行ってもらうことにして、日陰でダラーっと過ごす。室内では桜井さんが、大汗をかきながら布団の中。モニカが子どもたちと川の中で遊んでいるが、入っていく元気がない。

指定された時間に出かけた乗馬組が戻ってきた。肝心のウェインが出先から戻らないという。うまく連絡がとれないまま午後が過ぎていき、結局夕方になって1グループだけが乗馬することができた。山下さんはカレー作りの手が空かず、今回も乗ることができなかった。「俺はカナダの馬には縁がないんだなぁ」と、ぼやくことしきり……。

午後やって来たMr.フレッドとベランダでおしゃべり。州政府とバンドで魚の調査員をしているフレッドの話は興味深い。サケの生息(回帰)調査のために、幼魚を捕まえてプラスチック製の認識バンドをつけて放すということが長い間行なわれてきた結果、死んだり奇形になったりするサケが増えてきたこと。彼らはいま、その方法を止めさせる運動を続けていること。孵化事業による魚への影響も出はじめていること(北海道と同じだ)。密漁の監視や生態調査で、川で過ごす時間がほとんどであること、などなど、静かに語り続ける声が快い。

やがて、カレーが出来上がった山下夫妻も一緒に、「サケの遡上を見に行こう」とアルビン。フレッドの案内で車で20分ばかり走り、山間の渓流を歩いた。が、まだ水温が高いせいか、サケの姿は見えない。あきらめて戻る途中、1万2千年前(測定の結果)の住居址を案内された。松林の中に点々と窪地が残り、竪穴住居の跡であることがわかる。土器なども出土したそうだが、林の中は薄暗くなり、細部までは見ることができなくなっていた。

アルビン宅のキッチンでは、夕食も終わりかけ。カレーライスはじき底をつき、松井さんが握るサーモン寿司も出来る片端から消えていく。もう11時だもんなぁ……。居間では、二人のおばちゃんが桜井さんの風邪を治すべく、ヒーリングをおこなっていた。見守っている我らがメンバー。やがて治療が終わり、キッチンへ出てきた美穂さんの目は潤んでいた。「すごーい。感動した……!」と。


23:00頃から、女性の長老ロザリン・サムさんのレクチャーを受ける。これまで30年間、リルワットの人びとが行なってきた解放運動と闘いについて。

1974年、一人の長老が漁をしていた魚網を壊され逮捕されるという事件をきっかけに、大規模な道路封鎖をおこなった。サケの捕獲権という、インディアンにとっては生死に関わる問題だっただけに、カナダ中から支援が集まったが、50人が逮捕され、有罪の判決を受けた。その内17才以上の者は、封鎖地点から17km以上離れた地点まで連れ出され放置されたのだ。彼らは自宅までの道のりを、ほとんど歩き通したのだという。

元々この事件の背景には、道路開発の問題があった。現在アルビンの家の川向こうにある道路は、馬車が通れるだけの狭いもので、それを州政府が拡幅・舗装して幹線道路にするためにリルワットの保留地を収用していった。その土地に対する補償と電柱を立てる土地に対する補償が、最初の約束通り行われなかったという問題が後を引いていたのだ。しかも州と電力会社は、一部のインディアンには補償金を払い、他のインディアンには払わないという常套手段で分断をはかり、インディアン同士の確執が長く続いたという。

1990年の道路封鎖は、リルワットの森林が乱伐されることに対する抗議行動だった。同じ頃、東部ケベック州のモホークがゴルフ場建設に反対して大規模な道路封鎖を行なっており、西と東のインディアンの共闘が実現した。

その時期、B.C州を中心にカナダの21ヵ所で道路封鎖闘争が行なわれていた。リルワットでもその他に、保留地内の鉄道線路敷設に反対する闘いがあり、線路を封鎖した中の67人が逮捕されている。逮捕者には警察による暴力がふるわれ、首を締められた1名が後に死亡、鼻を骨折させられた1名もいたが、警察のメディアへの発表は「交渉は平和的に進んでいる」というものだった。逮捕者に対して、「今後封鎖には加わらない」という誓約書に署名を迫るという圧力は強く、署名を拒否して長く勾留された者も多かった。

1991年春には、湖の傍にある墓地――19世紀に天然痘の流行によって死んだ多くの先祖たちが眠っている――を、森林伐採しようという行為に対して林道封鎖によって闘い、逮捕者を出している。我々が自分たちの土地や先祖から受け継いだ自然を守ろうとすると、いつも警察によって攻撃されてきたということを分かって欲しいとサムさんは言った。

この頃、東部オタワ近くのイパオシという町でおきた紛争の際、W・E・ジョージというインディアンが警察に背中から撃たれている。しかし警察は「正当防衛」だと主張した。また、さらに東のバーント・チャーチでは、漁業権を主張したインディアンに対する漁業省と警察による弾圧が激しく、ロブスター漁が禁止され、小型漁船が大型船によって破壊されるという出来事が続いた。

「ピースキャンプ」建設の動きは、そういう中から生まれてきた。

メルビン・クリークに「ピース・キャンプ」が作られたのは、2000年5月2日だった。ナンシー・グリーン夫妻によるスキー・リゾート開発計画に反対して、女性が中心になって作られた情報センター(テント張り)は、当初は幹線道路に面して立てられていた。しかし、2001年7月に行った道路封鎖闘争の結果7名が逮捕され、テントの撤去命令が出されたことで、現在の位置にテントを移し、今日に至っている。

開発側は「先住民はこの土地を利用していない」と主張しているが、我々にとっては数百年に渉って伝統文化と精神文化を守るために不可欠な土地だったし、今もそうである。この豊かな土地を破壊することは許されない。スキー・リゾートの開発予算は約5兆円で、その中の30億ドル(3900億円)が道路拡幅と森林伐採に使われる。これを放置することによる環境破壊は、計り知れないものがある。


この2年間の成果は、リルワットの人びとの団結が強まったことだ。11人のチーフすべてが反対声明に署名したし、子どもたちの理解も深まっている。自らの伝統と文化を守っていくことに、コミュニティのすべての人が結集することが出来た。多くの人びとがキャンプを訪ねてきて、さまざまな学びを深めている。すべてが寄付によって賄われているこのピース・キャンプを、いろいろな人びとのヒーリングの場として守り続けたい。開発側は「いくら出せば賛成に回ってくれるか?」という働きかけをおこなって我々の分断を図ってくるが、それは基本的に間違っている。昨年秋以来、キャンプに対する発砲や放火などの事件も起きているが、資金が続く限り、我々はキャンプを維持し闘いを続けていく。

このキャンプを訪れる人びとへの期待は、ここメルビン・クリークで起きていることを自国で伝え、広げて欲しいということだ。カナダのメディアが伝えるニュースには間違いが多いので、真実を知らせて欲しい。そして、とくに日本から来た人には、『日本ケーブル』に対して、メルビン・クリークに関与しないで欲しいという働きかけをして欲しい。ナンシー・グリーンの働きかけによって、日本ケーブルもこの地の開発に加わろうとしている形跡があるから……。皆さんが帰国して、多くの日本人にこの現実を話し、広めてくれることを願っています。

ロザリン・サムさんの話は終わった。


スキー・リゾート開発が各地で計画され進行している最も大きな理由は、開発による地価の高騰・投機であるという。州や企業、投資家は、彼らの利益のために、手つかずに守られ、残されてきたインディアンの土地・森林を奪い、「開発」し続けている。とくに、ここリルワットでは、2010年の“バンクーバー,ウィッスラー冬期オリンピック"開催・招致の当該地とされたことで、『シュティカ』に対する開発攻勢が激しくなっているが、アルビンは言う。「スキー場だけで、投下された資金が回収される見通しなんかない。目的は、それによって高騰する地価によって利益をあげることだ」と。地上げの本舗=日本企業の面目躍如、である。…………!


時計は1時を回っていた。川辺の焚き火に席を移し、朝方まで……。

8月14日(水)

早朝からピーカン、暑い。セクウェップムゥへの移動日。

アルビンが「オレも送っていく」ということになったので、例によって“アルビン待ち"で出発。アルビン車・松井車・レンタカーの3台に分乗してリルワットに別れを告げたのは、予定より2時間遅れだったが、発てただけでよしか? これまでレンタカーを運転してくれた吾郎君と別れて、ここからはドライバー山下。慢性寝不足が、若干心配である。

リロエットで、サーモンキャンプを対岸の高い崖の上を走る道路から見下ろす。その近くには、アルビンの祖母が暮らしていたという家が、廃屋になって残っていた。

途中レストランで昼食。恐ろしいボリュームのステーキだった……。「セクウェップムゥでは、完全禁酒です」という宣言にすっかり落ち込んでいた桜井さん(勿論、父のほう)は、「最後のビール」というわけでガッツイている。どうやら、風邪は治ったようだ。さらにアルビンの旧友で、道路封鎖の同志だという男性の家に寄り、彼の作ったドラムを見せてもらったり、「汗で着るものがなくなった!」と叫ぶ桜井さん(これも勿論、父のほう)のために、巨大な倉庫風ショッピングセンターに寄ったりで、ネスコンリス・バンドのアーサー宅に着いたのは19:00を回っていた。

2階のベランダではバーベキュー、居間にもご馳走が並び、ちょうどいい時間に到着したらしい。冷たいリンゴジュースで乾杯し、食べながらお互いの紹介、雑談、交流。ベランダのテーブルに陣取っていた長老が、山下・桜井がハンターであることを聞いて「オレは、山の向こうにいる鹿を仕留めたことがある」と言い、「明日朝、君たちハンターを狩りに連れて行く」と宣言した。ビビる山ちゃん。「ハンターだなんて、言うんじゃなかった……!」しかし、長老が迎えに来たら、行かないわけにはいかないだろう。「参ったなぁー」と、ぼやくことしきりだったが、結局、翌朝も翌々朝もその長老は迎えに来なかった。いや、ここを立ち去るまで、彼の姿を見ることはなかったのである。どうも、すべて彼のジョークだったらしい。インディアン・エカシのジョークは、アイヌ・エカシのそれに勝りこそすれ決して劣らない。……どうも山下さんは、真剣に早朝の山行きを心配していたようだ……。

やがて満腹の我々は、それぞれがホームスティ先に引き取られて散って行く。私と山下夫妻は、そのままアーサー宅。階下の部屋に荷物を運んだ淑子さんが、「すごーい。ベッドがあるー!」私の部屋も、ビヴァリーが用意してくれた。

23:00、ひとり個室。信じられないほど静かである。………この1行だけ打ち込んで、寝た。

8月15日(木)

7時頃起き出すと、アーサーがコーヒーを淹れていた。飲み終わると、「リザベーションを案内する」というので、彼の車で朝のドライブ。17のバンドからなるセクウェップムゥ・ネーションの中のネスコンリス(NESKONLITH)・バンド。チーフがアーサー・マニュエルである。国道沿いの傾斜地に、27家族・87人が住む家が点在している。20分ほどで一回りできた。

戻ると山下夫妻も起きており、朝食。木イチゴのジャムにメープルシロップをかけ、焼きたてのパンケーキにはさんで食べる。美味かった。

チェイスの町の高台に建つプロテクションセンターに集合。女性の長老アイリーンから、サンピークス・リゾートと彼らの闘いについてレクチャーを受ける。以前からあったスキーリゾートを、東京に本社がある「日本ケーブル」が買い取った1992年以来、このあたりの様相は一変してしまった。スキー場のリフトやゴンドラの製造・販売会社だった日本ケーブルは、バブル崩壊後の日本国内では経営が立ち行かなくなり、カナダのリゾート開発に活路を求めたのである。現地法人「サンピークスリゾート社」は、周辺の州有地をB.C州から借り受け、巨大リゾート建設にとりかかった。それまでホテルや別荘など合わせて4000室だったものを、24000室の規模にしようというのである。

“スクウェルクウェックウェルト"と先住民が呼ぶこの辺り一帯は、標高2000mのトッド山を中心とした山々が連なる動植物の豊かな森であり、17のバンドからなるセクウェップムゥ・ネーションの内3つのバンド(アダムズレイク、リトルシュスワップ、ネスコンリス)の伝統的領土だった。それは1982年カナダ憲法に加えられた「現存する先住民族の権利を認める」という条項や、1997年カナダ最高裁の「伝統領土への先住民族の権利を認める」判決(デルガムークゥ判決)によって明らかに保障されているはずなのである。しかし、現在までB.C州はそれを無視し、サンピークス社は森林破壊を続けている。

先住民が開発・破壊を阻止しようと立ち上がり、情報センター・開発反対の非暴力示威行動・開発行為の監視を目的に要所要所に作ったプロテクションセンターは、次々に破壊され、撤去させられて

きた。彼ら自身の“領土内"においてである。そして、若者から長老に至るまで、多くの人びとが逮捕・拘留されてきたのだ。

全員が出発前に『先住民族の10年市民連絡会』の機関誌に連載されていた松井さんのレポートを読んではいたものの、現地で当事者の話を聞くというのは格別である。心なしか、我がチームの表情が引き締まったかに見える。気合を入れて、我々は出発した。

今日一日は付き合うというアルビン(と、克己君)車も一緒に、国道1号線をカムループスまで走り、そこから国道5号線を16キロ行ってから、サンピークスへの山道へ入っていった。

山道を登って“サンピークスリゾート"の看板が見えてくる頃から、我々の後ろにはパトカーが追随してきた。サンピークスのセキュリティ・ポリスだという。「何かあっても自分が対応するから、関わらないように」とアーサー。車が止まるたびに、ポリスはビデオカメラで我々を撮っている。

サンピークス境界のバラ線の外に立つテント(これもプロテクションキャンプ)前で、昼食になった。我々にはおなじみのキャンプ食だ。サーモンスープが美味かった。道路からビデオ撮影を続けるポリスに、長老アイリーンの辛らつな言葉が飛ぶ。何度も逮捕・拘留を繰り返した彼女にとっては、いかにも鉄面皮な彼らの存在は、はらわたが煮え返る思いなのだろう。

リゾート内を車で回る。周りの山々には新しいスキーコースが造成されており、切り開かれた森林が痛々しい。自然への強姦だ。

既設のゲレンデにはリフトが動いており、ゴルフの打ちっぱなしに興ずる人びとがいる。ビデオを撮り続けているポリスに、床田さんがビデオカメラ(奴のホームビデオと違い、こっちはプロ用のカメラだ)を構えて近づき、インタビューをはじめた。

立ち並ぶホテル群のなかに、ナンシー・グリーンのホテルもあった。そしてそれらに倍するホテルの新築現場。裏手の高台には、別荘群。新規造成工事現場……。24000室、3兆円の投資という数字が、現実のものの感じられた。

さらに山奥へ入り(そんな印象だった)美しい湖のほとり。ここは古くからインディアンにとって神聖な場所で、道路をはさんで男性用と女性用のスェットロッジもあったという。去年ここに建てたプロテクションセンターが、完成直前の12月、州警察によって破壊された。本格建築で住居も兼ね、反対運動の重要な拠点になる筈だったのが、一夜のうちにブルトーザーによって跡形もなく消されてしまったのだ。また、彼らのスェットロッジも破壊されていた。

我々は破壊されたスェットロッジの跡地で手をつなぎ、円陣を作って、この地の神々と彼らの先祖への祈りを捧げた。男性、女性、2ヶ所のスェットロッジで祈る長老サラさんの声が、森の中に悲痛な響きとなって広がっていった。

湖を半周し、車を降りた我々は、森の中へ分け入った。シダーや松の間をくぐって辿りついた所には、新しいプロテクションセンターが建てられつつあった。ログハウスになるのだろう、その1段目が並べられていた。屈強な若者がひとり、そこを守っている。始めたときには空が見えないほどだったというが、周りには切り倒されたスプロール松が転がり、ちょっとした広場になっていた。切り倒して運び、皮をむいて切り込みを入れ、重ねていくのだ。すべて人力である。ムムム……何時完成するのだろう……? 何にしても、次に来るときが楽しみだ。

山を降りる。パトカーの姿も見えなくなっていた。それにしても素晴らしい景観であった。

8月16日(金)

朝食。昨夜のうちにリルワットへ帰っているはずのアルビン(と克巳君)が「グッドモーニング!」。美味そうにパクついているのを見て、何も変らぬアルビンに何故かほっとする。それでも全員が集まり、改めてアルビンたちに別れを告げて、我々はサーモン・アームバンドの保留地へと向かった。今日も晴天で、暑い。

ドロレス・パーダビィさんの家で、豪華な昼食をご馳走になり、彼女の手仕事――白樺樹皮のバスケットや松葉で作るバスケットを見せてもらう。以前我が家にビヴァリーが置いていったバスケットは、彼女のお母さんが作ったものだという。素晴らしい仕事だった。

やがて近所の男衆が、「サケを突きに行こう」と言うので、皆で出かける。草原の中の川に着き、水の中に目を凝らすと「いる!」。深みの底に2〜30匹のサケの姿が見える。けれども、やはり暑すぎるのだろう、さっぱり浅瀬には寄ってこないのだ。とても銛の届く距離ではない。30分程待ってみたが変化がないので、あきらめて戻った。どうも今回はサケに縁が薄い。

次に別の男性が、彼らの伝統的な冬の住居に案内してくれた。数年前に復元したものだという半地下式の住居は、アイヌの“トイ・チセ"と同じ構造で、北の民族の智恵は変らないことを実感した。

ドロレスさんに松葉のバスケット作りを教えてもらい、我々はアーサー宅へと帰った。

ビヴァリーが「中華でも食べに行こうか、ビールも飲めるし……」。否のあるはずがない。カムループスの中華レストランへ行った。中華はともかく、ビールは……美味かった。山下さんは車なので、ノンアルコールビール。「いやぁ、美味いもんだ!」と初体験の味に感激していたが、2杯目は残したところをみれば、やはり不味かったのだろう。

とても“酔う"なんてものではなかったが、気分が落ち着いたのだろう、ゆったりと眠ることができた。

8月17日(土)

バンクーバーへの移動日。車が1台減ったので、アーサーが送ってくれることになる。けれども彼は午後お葬式に出なければならないということで、終わるまで我々はカムループスの民族博物館で過ごすことになった。朝の内は、アーサー宅の居間で過ごした。

前日アーサーがデジタルカメラで撮った写真を、「CDにコピーしてやる」と言う。そりゃあ有難いけれど、「一枚あれば、帰ってから皆の分を作るから……」と言う私たちに、「いやいや、全員の分を作る」とアーサー。「コーヒーでも飲んで待っていなさい」と、次々にコピーをはじめた。“こりゃ、出発が遅れるゾー"と覚悟して、おしゃべりしながら待つ。やがて各家族の分(9枚)が出来上がり、プレゼントされて、我々は出発となった。

外に出て荷物を積み込んでいると、アーサーとビヴァリーが民族衣装を着て現われ、「写真を撮ろう」というので、我々もあわててアイヌ衣装を引っ張り出して記念撮影。お葬式に出席するために着替えたのだろうと思っていたのだが、写真を撮り終わると、再び着替えて現われた。“我々のために着てくれたんだぁー!"……最後まで優しい心使いだった。

家の前のガソリンスタンド(ビヴァリー経営)で給油。ビヴァリーが、従業員で若いインディアン女性を紹介してくれた。エド・バーンスティック(1989年、北海道での世界先住民会議に来た)の親戚だという。エドのことを訊ねると、「2〜3年前に亡くなった」と言う。「!!!……」心臓麻痺による急死で、姪にあたる彼女もしばらく後で知ったという。ショックだった。1999年、アオテアロア(N.Z)のNFIP会議で一緒になり、サンライズ・セレモニーに誘われ、参加したっけ……。北海道では、まだ小さかった子どもたちが可愛がってもらったっけ……。ハワイのカワイプナも死んだし、エドも逝ってしまったのか……。

エドの映っているビデオ映像や写真を、彼女に送ることを約束して、そこを出た。

ビヴァリーとネスコンリスの若者たちに別れを告げ、我々はカムルーパスへ向かった。

“川の合流するところ"を意味するカムループス(kamloops)は、この地域の中心地で、セクウェップムゥネーションのインディアン・チーフ連合事務所もここにある。かつての“インディアン寄宿学校"の校舎やパウワウ会場、セクウェップムゥ・ミュージアムが、川の傍に集まっていた。

ミュージアムを見る。小さいけれども、セクウェップムゥ17バンドの概略が分かりやすく展示してある、落ち着いた施設だった。そして、なんと日本語の案内リーフが置いてあった。

とはいえ、時間が余る。ミュージアム職員の若いインディアン男性に案内されて周辺を探索するグループや、前庭でのんびり過ごすグループ。お腹も空いてきたので、ミュージアム前に広がるりんご園(?)の小さな青いりんごを摘んで食べる。なつかしい味で、おいしかった。

やがて、待ちわびたアーサーが到着。「同じ店だけれど……」と言いながら、昨日の中華レストランへ。食べながらの話。アルビンが言っていたことを聞いてみる。リロエットの中華料理店でアルビンが訊いてきた。「インディアンが中華料理が好きな訳を知っているか?」「……美味いからじゃないのか?」「それもあるけれど、少し前まで――80年代中頃まで、我々インディアンが入れるレストランは、中華しかなかったんだ。白人のレストランがインディアンを締め出していた時も、中華レストランは我々を入れてくれた。だから外食といえば中華しかなくて、そんなことで中華料理の味が分かるようになったんだ」……そのことをアーサーに確かめると、「まったくその通りだ」と答えた。さらに「自分はともかく、ビヴァリーはよくそういう目に遭っていたよ……」と。

アルビンと松井さんから聞いた“在郷軍人会"でのインディアンに対する差別――軍服を着て集まりに出たインディアンが、白人から「同じ服を着てたら(インディアンと)間違われるから、お前らは自分たちの衣装を着て来い」とののしられるという――も思い出し、やりきれない思いがする。

国道1号線を、アーサー車を先頭に吹っ飛ばす。山、森、渓谷が、平均時速140kmで走り抜けていく。まさに“フリーウェイ"だった。

23:00、ホテル到着。山下さんが「140キロでカーブを回ると、車が持って行かれそうだった。怖かった……!」お陰で、今日中にバンクーバーに入れたのだ。アーサーは、明朝用事があると、そのまま帰っていった。あのスピードで飛んで帰るのだろう。気をつけて、アーサー!

ホテル近くに開いている日本料理屋を見つけ、寝酒を飲んで就寝。

8月18日(日)

ガスタウンの「First Nations」(First Nations Creation Co-Operative Art Gallery)へ。休日なのに、我々のために開けてくれたのだ。インディアンの運動誌『RED WIRE』の編集者タニアさんとアーチスト、ピーターさんが待っていてくれた。

ここは、インディアン・アートのギャラリー、ハンドクラフト・ショップ、アトリエからなっている、ゆったりとした素敵な空間だ。ギャラリーにはピーターさんの絵画作品が展示してあった。ここを拠点に、若いアーチストの創作活動が盛んになってきたという。「アイヌ・アート」について考えさせられる、いい機会になった。

昼には出勤してくるという店員さんが来るのを待って買い物をし、三々五々ホテルへ戻った。

午後はUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)の人類学博物館へ。はじめての人に、松井さんの解説つきという恵まれた見学だ。ビル・リードの諸作品と久しぶりの対面。いつもながら、素晴らしい博物館である。

食事をしてホテルへ戻りながら酒屋を探すが、日曜日とあって開いてる店がない。ウイスキーなどスピリッツを売っている店は皆無だった。意気消沈して帰る。バーもないホテルだった……。「バンクーバーでは、日曜日には酒は買えない」―肝に銘じておこう。

そこで夜は、近くのテラス・バーで飲み、以前にも行ったビア・バーで飲んで食べて過ごした。これなら飲みすぎることはない。

8月19日(月)

4時起床……目が覚めると、松井さんが各部屋に電話をしているところだった。頼んでおいたモーニングコールはなかったという。なんてホテルだ!

それでも5時にはホテルを出発してバンクーバー空港へ、7:00発アラスカ・エアラインに乗り込んだ。9:30サンフランシスコ空港到着、11:50出発まで(今回は)余裕があり、免税店で買い物が出来たが、外へ出なかったので煙草を喫むことは出来なかった。あと10時間だ。

8月20日(火)

満席の機内で飲み、食べ、映画をみている内に「台風のため成田到着が遅れる」とアナウンス。羽田からの乗り継ぎが間に合うかどうか心配になる。“飛行機の中で本が読めなくなったのは、眼鏡が合わなくなったせいだな、きっと……"などと思ったりもするが、単に飲みすぎで焦点が合わなくなっただけかもしれない……。そうこうしている内に、15:40、なんとか成田着陸。

慌しく入国手続き・税関審査を済ませ、“羽田行きバスのチケットを買わなければ"と気が焦り、気がついてみると、12枚のチケットを握っていた。羽田へは10名だった……!何でも「12名」に慣れてしまったのだ。綿引さんとはここで別れ、横浜の美穂さんとは羽田で別れることにして、一緒にバスに乗り込んだのである。

案の定、羽田では係員に急かされながらの搭乗となった。美穂さんとの別れもそこそこに乗り込んだ機内はガラガラで、我らがチャーター機風のANA73便は無事千歳空港に着陸した。千歳は寒かったけれど、1日ぶりの煙草は美味かった……。


始まりと終わりはきついスケジュールで時間に追われ、中はゆったり・のんびりと時が流れた今回のカナダ・ツアー。参加したそれぞれに、収穫が大きかったと思います。誰かが言っていた「この旅は、学習の旅ですね!?」という言葉がぴったりでした。多くの出会いと体験から学んだことは、これから自分のものにしていかなければなりません。そして………また、出かけましょう。