「イオル再生」で失うもの
8月20日、カナダツアーを終えて帰宅した。今回はBC州の2ヶ所(メルビン・クリーク、サン・ピークス)で、リゾート開発による伝統的な領地の破壊を阻止しようと非暴力で闘っている先住民族を訪ね、交流する旅になった。道路封鎖の跡に立ち、闘いの前線基地となるキャンプを訪れ、破壊されたプロテクションセンターがあった空き地を歩き、新たなプロテクションセンターのログハウス建設現場で切り倒されたスプロール材に触ってもきた。アイヌの辿ってきた足取りと現状を、否応なく重ねて考えざるを得ない重い旅であった。
8月24日、北海道新聞一面に『アイヌ文化再生を推進/「イオル」構想で振興財団』の見出し。「国と道によるアイヌ民族の伝統的な生活空間「イオル」の再生構想を進めるため、文部科学省などは来年度、アイヌ文化の研究や伝承活動の中核施設の設置予定地・胆振管内白老町と、同構想のサブ拠点の札幌市や日高管内平取町など道内計七カ所で、伝統的な衣服の材料となる植物の植生、アイヌ語教室や民族舞踊などの取り組み状況について、初めて調査する方針を決めた。/イオルは、ヒグマ猟やサケ漁、植物採取が可能なアイヌ民族の伝統的空間。(以下略)」そして別面の解説には『イオル再生構想』の説明が、「失われたアイヌ民族の伝統的な生活空間の再生を目指す構想」とあった。
ちょっと待ってくれよ。「伝統的な生活空間」とは「伝統的な領土」のことだろう?
我々が知っている「イオル(イヲル)」とは、コタンあるいはコタンの集合体ごとに持っていた「生活圏=領土」であったはずだ。不文律ではあっても、アイヌの社会はその認識と尊重の上に成り立っていたはずである。コタン(集団)間にしばしばイオルをめぐる紛争・抗争があったことは、その証であろう。その「イオル」から「領土=領有権」を抜き去った概念を、いま、定着させようというのか?
国の企図は明らかである。’97年の『文化法』によって『旧土法』を抹消し、アイヌの民族的存在根拠を脆弱なものとした上で、アイヌの領土権を抹殺しようというのだ。メディアをも抱き込んで――道新の記事内容と解説に明らかなように――のアイヌの土地権を消滅させる策謀に、欺かれてはならない。
オーストラリアの『マボ判決』(1992年)は国家の「テラ・ヌリウス=無主の地」論の正当性を認めず、カナダの『デルガムクゥ判決』(1997年)は先住民のオーラル・ヒストリー(口承による歴史)が先住民の原権になりうると判定している。世界は否応なしに先住民の土地権を認める方向へ動きつつあるのだ。アイヌがその土地領有権を回復する根拠も展望も、消えてはいない。いわゆる“北方領土”の先住・領有権を言う前に、この北海道島の領有について、国との議論・交渉をはじめるべきであろう。
「先住権についての定義が国際的に判然としていない……」などと言い訳しながら、国がアイヌに対して行なっているのは、一日も早くその「原権」をアイヌ自身に放棄させるための施策なのだ。この「イオル再生」構想に各地域のアイヌが動揺し、目先のパイの争奪に意識が集中するならば、まさに国の思惑通りである。そのために100億、200億の金を使ったところで惜しくはないだろう。
巻き込まれてはならない。飲み込まれてはならない。1869年、この島は「無主の地」ではなかったのだ。国や自治体の“テーマパーク”構想に踊らされて「イオル再生」に食いついた途端、巨大な胃袋の中で、アイヌは溶けはじめるだろう。国に“アイヌ文化”と名づけられた、干からびた糞をひり出させるために……。
アイヌ文化(財)をめぐって……
札幌で大きな骨董品の展示即売会があった。見てきた智子さんが「前に帯広で盗まれた着物が出ていたよ」という。1994年、帯広市のH資料館で盗難にあった内の一点が、札幌市内の骨董品店(以前に買い物をしたことがあった)が出店していたなかにあったそうだ。当該資料の載った図録を見て、「やっぱり、これに間違いないと思うんだけど……」と言いながら、刺繍教室の生徒の一人に「あなたも行って、確かめて……」と電話している。「幾らだった?」と訊くと、「値段は付いていなかった」という。けれども、そこで会った知り合いの骨董品屋(旭川市)が、「以前競りに出たときに、19万(円)以下なら落とそうと思ったけれど、超えたのであきらめた」と言っていたといい、30万以上はするんじゃない?ということだった。
この時期、道内の博物館や資料館でアイヌ民具の盗難が続いた。帯広、旭川、幕別、白老、浦河など、軒並みに盗まれていたのだ。旭川の骨董品屋が、みんな時効が過ぎたからそろそろ市場に出回ってくると思う、と言っていたそうだ。なるほど、と感心する。
翌日、見てきた刺繍の生徒が「隣に旦那を立たせて、記念写真のふりをしてデジタルで撮ったから、これから送ります」。早速パソコンの画面で見、プリントする。「やっぱり、帯広の着物だ!」……制作年代は分からないが、虎杖浜(白老)で作られたらしいルウンペ衣である。この着物には、アイヌの民具としては珍しくその来歴調査の記録が残されている。「市立十勝郷土資料室」に収蔵されていた1970年、同室の角田東耕氏によって著されたものだ。
……… ルウンペ(晴着)は故吉田巌先生愛蔵の品であったが、過ぐる年資料室に寄贈されたものである。吉田先生の入手経路は帯広市伏古コタン在住の中川徳氏の妻女ウトカンテが、嫁入の際祖母の遺品として持参したものである。ウトカンテの祖父母は白老の虎杖浜に住んでいたと伝えられる。(中略)
一、製作者 中川徳さんの妻ウトカンテの祖母の祖母に当る方が製作したものであるが、氏名は不明である。
一、製作地 胆振国白老町虎杖浜
一、製作年 ウトカンテの祖母のまた祖母に当る方であるから、一族の話を総合して百七十年前頃。(後略) <角田東耕「アイヌの晴着について」より>
この時から170年前といえば、1800年(寛政12)である。よくぞ残っていてくれたものだ……とはいえ、帯広で盗まれてからの8年間は行方不明だったのだが……。
それが出身地白老のものということと、他にはあまり見られない個性的な刺繍が施されていることで、智子さんは「買ってしまおうか……?」と迷ったようだが、まずは元の所有者である帯広のH資料館の学芸員に通報したのである。「骨董市はあと1日で終わるから、その前に見て確かめては?」との配慮だったようだが、結局関係者が誰も見に来ることなく、骨董市は終わったのだ。
盗まれた着物が8年の間、何処にどうやって存在していたのかはわからない。ほとぼりが冷めるまで暗い所で眠らされていたのか、あるいは――とくに2年の時効が過ぎてからは、人から人へ転売されていたのか、想像さえできない。はっきりしているのは、現在の所有者が「善意の第三者」であることを、否定はできないということだ。
古いアイヌの民具がアイヌ自身によって受け継がれ、保有されている点数は、きわめて僅かである。皆無と言ってもよいだろう。圧倒的な点数が博物館、資料館に集められ、とくに古い時期の優れた民具類は、ほとんどが海外の施設とコレクターの所蔵となっている。無い金を算段して、我々が海外の博物館や美術館を訪ねるのはそれが理由なのだ。
盗まれたことは仕方がない(では済まないだろうが)として、それが“発見”された時に、公立の資料館ならば、もっと深刻、真剣に対応してしかるべきではなかったのか?
智子さんの憤懣は、そこである。多くが海外に散逸して、辛うじて残った先祖の遺産なのだ。「どうして、もっと大切にしてくれないのだ!」「私たちが持つことができないものを、“預かっている”と考えることはできないのか?」と。さらに言う。「あの人たちにとっては、所詮数ある収蔵品、展示品のひとつでしかないんだ……!」
何度かの電話のやり取りの中で、「現物であることはわかっても、買い戻す予算がないんです」と担当者が言っていたそうだが、1週間ほど過ぎた北海道新聞によると、結局帯広市が業者から買い戻すことになったとあった。価格は40万円とみられると……。そこへ至る紆余曲折については知らないし、知りたくもないが、いかにも後味の悪い一件だった。
「やっぱり、あの場で値段の交渉して、買ってしまえばよかった……」……まったく……。
4月から6月まで、北海道開拓記念館(札幌)で『海を渡ったアイヌの工芸』という特別展が開かれた。英国人医師マンロー(1863〜1942)が収集したアイヌ民具を、スコットランドやイングランドから借りて展示したものである。貸出先の条件とはいえ、ほぼ真暗な中に展示してある着物類を見ることは困難で、おおいに不評をかった特別展であった。
そのなかに、数多くのポンクッが並べられていた。心あるアイヌ女性が見たら、「魂がつぶれる」シーンである。
ポンクッ、ラウンクッ、ウプソルクッ、メノコクッなど呼び名は多様だが、イラクサの繊維を編んで作られた紐で、女性が直接肌に着ける。女系をあらわすもので、決して他人、とくに男性には見られてはならないとされてきた。そのことから和人研究者によって「貞操帯」などと見当違いの命名をされたこともある。
「見られてはならない」という戒めは、昔のアイヌ女性にとっては絶対だったようで、亡くなった織田ステノ・フチが元気だった頃、突然訪れた私に編みかけの紐を見られて、身も世もないほどうろたえていた姿からも推測できる。その姿を見て私は「あっ、ポンクッを作ってたのか……」と気づいたのである。おそらく姪にでも渡すべく作っていたものだろう
それが光をあびて並んでいるのだ。肝心な着物類が暗闇の中にあるのと併せて、智子さんの立腹は当然である。我々は早々に会場を離れた。
どの博物館、資料館にも、このポンクッは収蔵されている。たとえば白老のアイヌ民族博物館が所蔵している児玉資料目録には87点が記載され、中には製作者名や採集地が書かれているものもある。国内の施設に所蔵されている数は、相当数に上るだろう。誰からどうやって入手し、現在に至ったのかは分からないが、本来ならば人目に触れることなく土に戻り、あの世に行ったはずのものだった。
さすがに最近は、これらを常設展示しているところは少なくなったが、今回のようにわざわざ海外から運んできて「見せる」という企画もある。スッコトランド博物館でポンクッを見たアメリカ・インディアンが、「ここは何かで覆っておくべきだ」という助言をしていったのを聞いたという友人がいる。
天理大学附属天理参考館が発刊している収蔵品の図録名は『ひと もの こころ』である。アイヌの民具にかかわる人びとにとって、民具は「もの」でしかないのではなかろうかと疑わせる事例が多すぎる。「物には心がある」と、古老は教えてくれた。しかし、その教えが彼らのなかに残されているとは、到底思われない。まして「ひと」については、言わずもがなである。
この特別展には後日談がある。札幌の後7月から9月まで、横浜の神奈川県立歴史博物館で同展がひらかれるのだが、その直前、主催団体の担当者に出会った智子さんが、「ポンクッをわざわざ展示する意図が分からないし、私としては許せない」と言ったことに端を発して紛糾。結局、横浜での展示からポンクッは外されたらしい。
しかしそれに対して、「私は見たことがないし、それについても知らない。折角だから、見たかった」という声が首都圏のアイヌ女性のなかにあったという。
文献や資料のなかには、これについて書かれたものが山ほどある。まさにピンからキリまで。さらに、収蔵庫にあるこれらのものを、アイヌ(とくに女性)が閲覧を希望して、断ることができる博物館や資料館はあるまい。なにも特別展や常設展示で衆目に晒されているものを見る必要はないのだ。アイヌがアイヌのことを知るのには、努力が必要な時代なのである。
「付録」として、1951年に名取武光が発表した『アイヌの貞操帯』から一部を紹介しよう。昭和8(1933)年、名取の妻が病弱な子供のためにと、荷負のアイヌ女性から作ってもらったポンクッについてである。
『(そのアイヌ女性に)「あれだけは大事にして下さい。写真にしたり、本にしたりしないように」といわれた。私はこの信心深さを空恐ろしくさえ思ったので、この間まで貞操帯を深く秘めて人に示したこともなかったのであるが、ある機会に研究家にも見せ写真にもしてしまったのであるが、私のその時の返事に、「こういう立派な守りがあって、堅く操をたてていることは、公になっても決してウタリ(同族)の恥になることではない。かえって誇りだから……」と危うく破約から逃れておいたことを、今でも心安く思っている。』
“アイヌ学者=盗人”と叫ぶ人もいるが、あながちすべてが間違いともいえない。
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