母さんがよく作ってくれた料理は「おふくろの味」として脳にインプットされ、大人になってから郷愁を誘うらしい。拙者には、居酒屋のメニューぐらいしか馴染みがない。父は、家では料理をしなかったから、家族の食事は母が作っていたのだが、拙者は母の手料理をほとんど記憶していない。自分で料理をするようになってからも、「……さばの味噌煮を作るなら、生姜は、湯が沸騰してから入れないと香りが出ないよ」などと教えてくれるのは、いつも親父だ。拙者には居酒屋メニューのほとんどが「親父の味」になる。
戦後二十七年ぶりに発見された元日本兵の横井さん。その二年後に救出された小野田さん。二人のことを書いた直後に、今度は北朝鮮に拉致されていた五人が帰国する。小野田さん救出の四年後に拉致された訳だから、こちらも二十四年という、長い空白の時間がある。もっとも、その「空白」は、もっぱらテレビを眺めているこちら側にあり、彼らには彼らの、より濃密な時間が流れているだろう。
報道を見ながら、「望郷の思いには、味覚も大きく影響している」と、他愛もないことを考える拙者。帰国した本人たちからも、それを迎えた人たちからも、「ふるさとの味」は度々話題に上がっている。報道では、匂いには触れていないが、味覚と臭覚は、記憶と一番ダイレクトに結びついている感覚なのだろう。潮の匂いに郷愁を感じたり、街角の匂いや、たった一口の食べものが、瞬時に過去の時間を再現する。そんな事が、拙者にもよく起こる。居酒屋で「おふくろの味」に人気があるのも、案外そんな「理由」なのだろう。映画にも、居酒屋の片隅で物思いにふける親父のうしろ姿がよく登場する。その目線の先には、いつも「おふくろの味」が付き添っている。ハンバーグやカレーを「おふくろの味」として育つ世代が増えてくれば、映画も時代考証に苦労するだろう。
この長いタイトルは、フランスの食文化研究家の言葉だという。そんな言葉を語る人は、それなりの食通で通った文化人(?)で、その後に続く文章は、洒落た文化論にでもなっているのだろう。……「自分が何を食べているのか」。普段、そんなことを考えながら食事をする人は少ない。それに、いくら忙しさにまぎれて上の空で食事をしても、ハンバーガーを食べながら、ラーメンを食べていると言い張る人はいない。ピザやスパゲティーを毎日食べたからと言って、自分をイタリア人だと信じる人もいない。「食文化研究家」も、当然そういうレベルの話はしていない。……と思う。
「我々は『土』を食べて生きる者である」。……まったくもって唐突だが、これは、タイトルに触発された拙者が、しばし、沈思黙考し、数々の奥深〜い思索(?)を巡らした結果、ようやくたどり着いた結論である。要点をかいつまんで説明しておく。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」。……他人の言葉ばかり流用して恐縮だが、今度は、画家・ゴーガンがタヒチで描いた絵に、自らつけた題名である。その幅、四メートルに迫る大作で、完成後には自殺を図って失敗したりしているのだから、それなりの思いを込めた作品であろう。今日では、題名ばかりが独り歩きして、人類の来し方、行く末を語る時に、度々引き合いに出される。
その絵には、見る人を惹きつける不思議な力がある。だが、その題名はもっと不思議だ。その絵をいくら見つめても、そこに、答えが描かれている訳ではない。
「神は土の塵で人を造り……」。これは旧約聖書の中の言葉。誰でも一度ぐらいは聞いたことがあるだろう。拙者は未だに信仰を持てないでいるが、宇宙科学の発達のおかげで明らかにされた宇宙の歴史と、「創世記」に記述された隠喩とが、驚くほど一致しているのを、認めない訳にはいかない。
「土」は、地球や大地を表している。宇宙の塵(=微惑星)の集合体である地球。そこに生まれた私たち。私たちの肉体は、その誕生以来、鉄や、カリウム、カルシウムなど、土を構成する元素を常に取り込むことによって成り立っている。しかし、土を直接食べることは出来ない。そこで、私たちは「土の成分」を、植物に変換して食べている。それは他の動物も同じだから、肉や魚を食べても、結局は、食物連鎖で「土」にたどり着く。
もちろん、海があらゆる生命の発祥の地であることは疑わないにしても……。
本当は、ミミズのように土を直接食べられれば便利だ(?)。……が、実は、ミミズもまた、腐植土中に含まれる植物質を食べている。黙々と土を食べ、また黙々と土をひりだして進むミミズ。……「我々は何者か」。その答えを、ミミズは全身で表現しているように見える。
『土』に生まれた我々が、土を食べて成長し、再び土に還って行く。誕生以来、四十数億年かけてここまで来た地球も、いずれは、宇宙の『塵』へと還って行く。
土色に塗りこめられたゴーガンの絵と、その題名。これまでは、不思議としか言い様のなかったその絵に、いま、わが人生の「希望」が見える。目標まで、あと少し……。
さてさて、「哲学」はいくら続けても腹はすく。やっと「真理」の尻尾を掴んだのだから、腹が減ったら庭にでも飛び降りて、ミミズと一緒に土を喰っていれば良いものを、そうもいかない所が「学問」の限界である。空腹で倒れないうちに実習に入ろう。
さて、今日の実習は、と思ったら、テーマを決めていなかった。……しっかりした計画性を持つ人は、何事にも準備万端怠りなく、すべて、物事がスムースに進む。ご飯の支度だって、必要なものを、きちんと事前に揃えておけば、問題が起こらない。……のだが。
もう、三十年も前になるが、三里塚のワンパック野菜を共同購入するようになって、拙者の食生活はがらりと変わる。農家から、毎週定期的に農作物が届くようになったのである。その時から、「今夜、何食べる?」と、考えながら買い物をするのを止め、床下に納めた野菜を、「どうやって食べる?」と、考えるようになる。
成田空港予定地には、代々続いた農家が多く、その技術の確かさは、農業に素人の拙者でも、届いた野菜を食べればすぐに分かる。どれもみな、土が付いたままで見てくれは悪い。しかし、味は抜群だ。おまけに農薬を使わない。荻窪に「ホビット村」が誕生し、無農薬栽培の農作物を扱う長本兄弟社が店を開いた頃のお話。
ワンパック野菜は農家の共同出荷なので、その内容はかなりバラエティーに富んでいる。それでも、野菜にはそれぞれ収穫適期がある。ゴボウばかり沢山入っている時もあれば、ほうれん草がびっしりの時もある。そんな時には、一緒に届くチラシに書かれた「農家の日常料理」を参考に、新しい料理法にも挑戦する。ワンパックを始めてから、買い物に行く回数が激減した。野菜はいつもたっぷりあるので八百屋には行かない。肉も、野菜料理の調味料として使う程度。魚も雑魚のような小魚が中心になり、そのおかずに合うので、ご飯も玄米に変わる。料理は簡単、食費も安い。「快食快便」でおなかも幸せ。
一時でも、主夫(婦)をやったことのある方ならすぐに分かるだろう。毎日の献立に合わせて買物に行く必要がなくなると、それは、それは、快適な生活になる……。人生が楽しくなる……。世界が美しく見える……(?)。「これぞ、親父料理術の目指すところである」。
やっと実習のテーマが見つかった……(!)。
「シンプルライフ」。使い古された言葉に登場してもらう。1955年付けの「後記」のついた拙者の広辞苑では、[simple life]簡易生活。……で、非常にシンプルな説明である。では、簡易生活とはどのようなものかと考えると、これまたひと言では答えられない。多分、その先鞭をつけたのは米国のアーミッシュやクエーカー教徒だっただろう。しかし、それを世界に流行らせたのはヒッピームーブメントだ。お金と物に振り回される生活に見切りをつけ、自分自身の「生きる歓び」を求める生活は、人類が初の月面着陸をしたころから急速に広まった。だが、所詮は豊かな国の人々の、気まぐれに過ぎなかった。世界はすでに、その「簡易生活」さえ、ままならぬ人々で溢れていたのである。
現在、不景気や雇用不安の大合唱に揺れる日本は、それでも、世界一豊かな消費大国であることに変わりない。そしていま、世界は、一触即発の戦争危機に直面している。能天気な隣人ブッシュの私的怨念。米国が世界に強弁するその主張を、歴史は普通「帝国主義」と呼ぶ。「強い指導者」を祀り上げ、そのリーダーシップに従おうとする群集心理。いま、それがいちばん怖い。「ブッシュはチキンだ!」。……震える尻尾を覆い隠そうとして、世界に向けて虚勢を張るその姿は、何故か金正日とよく似ている。
またまた、とんだ脱線である。「快適ライフとお買い物」は何処へ行ってしまったのか……。
世界一豊かな消費生活を送るこの国で、豊かになればなるほど貧しくなる「心の置き所」。昇る朝日、沈む夕日に両手を合わせ、感謝の祈りを捧げるお年寄りはもういない。
「足ることを知る」。それが無くなってしまえば、あとは欲望の渦に身を任せるしかない。「吾知足唯」。父はそれを「ごちそう、ただ」と読ませて、独り悦に入っていたが、同時に「簡易生活」を実践する人でもあった。生活を質素に保つと、社会の変動に弄ばれることが少なくなる。それだけ快適ライフの幅が広がるという訳だ。ただ、「快適ライフ」は、人それぞれに、感度が違う。まずは、定義しておく。
快適ライフ=無いのは現金だけで、健康で、気持ちの良い生活。
現金が使えないのだから「お買い物」は控えめにしなければならない。……「カードを使おう!」。とか、「サラ金に行こう!」。などの考えが頭脳をかすめた人は、配られたポケットティッシュに洗脳された「魂の貧困」を、少しは深刻に受け止めた方がいい。
「健康で気持ちの良い生活」は、それを維持するぐらいの収入はどうにかなるものだ。お金が無い、お金が無い、と言いながら、当たりまえのように自販機のお茶を買って飲む人を、拙者はいつも不思議に思う。食事だって、ファーストフードやコンビニ食を卒業し、加工品の多用を避けて自分で作るようにすれば、驚くほど経済的で、美味しいものが食べられる。特にランチは手作りに限る。サンドイッチやおにぎりは、親父料理術・入門者にもすぐに習得できる。おまけに手作りの習慣が付くと、買い物は原材料だけで済むから、他の売り場は一切素通りできる。それだけでも快適ライフに一歩近づく。
すでにそういう暮らしを実践している人は、何らかの形で土に親しむ機会を持っている人が多い。「百の仕事をやれるから百姓」と、胸を張る友人もいる。蛇足だが、「医者と弁護士は探してでも友達になれ」という人がいる。快適ライフを考えるなら、それはまず「百姓の友人」だろう。拙者の快適ライフの定義も、彼らの暮らしぶりから得た。「カボチャの収穫が始まれば、毎日カボチャを食べさせられて、犬や猫までカボチャ色に輝く『雲古』をする」。そう言って笑った当の本人の顔も手も、まさに黄金色に輝いている……。
このところの緊迫する世界情勢に加え、尊敬する親しい友人が相次いで『土』に還って行った。「幸せな能天気」。「思慮が足りなくて本人は幸せ」と、それぞれから「お墨付き」を頂いている拙者も、なぜか、心の苛立ちを抑えることが出来ない。原稿を読み返しても、その、支離滅裂な言葉の流れに呆れる。次号までには態勢を立て直して、実習もしっかりやりたい。テーマも先に決めておく。「正しい『土』の食べ方」。……では。
<次号へ続く>
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