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ヤイユーカラパーク VOL43 2003.04.21
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おもな内容

締まらない締めの航海

――ピースボート 南太平洋航路に乗船――

2002年11月24日〜12月9日

シドニー(オーストラリア)〜東京


南太平洋で、それまで乗っている水案(水先案内人)がシドニーで全員降りてしまうので、その後に乗って最後を“締めて"もらえますか?」……タヒチアン、マオリ、アボリジニーの水案が南太平洋の先住民の現状と問題について講座をもった後、彼らが抜けたシドニー〜東京間、アイヌについての講座をやって欲しいという希望だった。

身体が空いていれば……」「11月24日〜12月9日です」セクウェップムゥと作品展の間だなぁ……「大丈夫だよ」というわけで、2回目の乗船が決まった。第39回世界一周クルーズ(9月1日〜12月9日)、最後の16日間である。それにしても、「オレが乗って、果たして“締まる"のか?」という疑問は、最後まで残った。

アーサーがきた11月、P・B事務所でシドニーまでの航空券を受取り、12月22日東京に前泊してスタッフのT君と打合わせ―ま、一緒に飲んだだけだが―。翌23日は、吾夢と落ち合って、サンダルを買おうと歩き回ったが見つからず、古書店を歩いてから晩飯を食べ成田へ、21:45発シドニー行きカンタス航空に乗り込んだ。

窓側席で本を読んでいると(勿論ペーパーバック)隣に座ったのは、和服を粋に着こなした女性である。“そういえば、チケットもらった時に「Iさんという女性がご一緒で、お隣の席です」と言われたっけ……"思い出した。“和服で旅するんだぁー"と、内心いささか緊張気味である。挨拶を済ませたあと、「P・Bには何回か乗ってるんですか?」「はい、3回(4回だったか?)。この前は南北コーリアに……」……じゃあ、この8月じゃないか。へぇー、お金と暇があるんだぁー!……感心する。すっかりパセンジャー(乗客)だと思い込んでいるのだ。

そんな調子で、“お飲み物"“お食事"さらに“お飲み物"……ガブ飲みするわけにも、食事に悪態つくわけにもいかず、至ってお上品に夜が更けていった。「バーボン、スリー・フィンガー、ロック」などと口走るわけにはいかないのである。“あの水案は、がさつで呑兵衛で……"と思われたら、私自身はともかくP・Bに疵がつく……。面倒くさいから寝てしまえ、と、うつらうつらの旅だった。


朝、シドニー国際空港。晴天、暑い!

同じ便で来たスタッフの家族と件の女性、それに私は、迎えのワゴン車で港へ。2年ぶりにオリビア号のタラップ(船の場合は別の呼び方らしいが)を昇った。乗船手続きを終え、水案担当スタッフや地球大学担当スタッフに会い、おや、井上誠さんもいた。「計良さん、菊千代さんと一緒でしたよネ?」「はぁ?」「菊千代師匠……飛行機、一緒だったでしょう?」「はぁ……」“思い出した!以前にT君が言ってたっけ、今回は女性落語家と一緒だと……計良さん、きっと気が合いますよ、と"……んんん、そうだったか……! そうなんだ。これですべて納得がいくのだ。言葉や話題の端々に、“随分ベテランのパセンジャーだなぁ"と思わせる瞬間があったのも、「南京玉すだれが云々」の話も、すべてが収まるべきところに収まるのだ。「そうか!!」……ひとり、部屋の中で「参った、参った」を繰り返したことであった。

インフォメーションで、「ミックが、オプショナル・ツアーから帰ったら計良さんに会いたいと言ってました」と言われる。“ムムム……ミックか! 水案で乗っていたのか……!"いわく因縁のミック(ミック・マーチン)との“因縁"について書き出したら、何ページも脱線してしまうので、省略。昼食の時間が過ぎていたので、ともかく懸案のサンダルを買いに船を降りた。

いやはや、暑い。最初に入ったスポーツ洋品店でサンダルを入手したものの、手持ちのオーストラリア・ドル(日本から持ってきた)が僅かになってしまった。どこか涼しい店で何か食べたいものと、歩き回るが、米ドルが使えるレストランがない! 土曜日である。サンダルをカードで買えば、現金があったのだが、悔やんでも遅い。暑さと空腹でふらふらしながら船に戻り、ビールを飲む。船は米ドルOKなのだ。持ち込んだウィスキーとバーのビールで、午後を生き延びた。

やがてツアーから戻ったミックと会い―一度蹴飛ばして、“因縁"をチャラにした―内陸へ帰るというミックをポール(メイソン)と一緒にローカル空港までタクシーで送って、時間までサンドウィッチとビールでおしゃべりして過ごす。近々孫が産まれる予定だというミックは、「気をつけなければ、孫と子供が同じ歳ということになるぞ」という私の忠言(勿論ポールの通訳経由で)を背に、飛行機に乗り込んでいった。あまり日を置かずに再会するのではという、悪い予感に襲われた……。

翌日は、シドニー博物館をじっくり見たほかには、とくに何もなかった。というより、船から出た途端に熱気に襲われ、歩く気力が失せてしまうのだ。毛穴が開くのが遅いのか、疲れが溜まっているのか―というほど働いてたわけじゃないのに……涼しい船内から出たくなかった。

11月25日夕刻、船は岸壁を離れた。

こんな具合にはじまった、今回の船旅。ラバウル(パプア・ニューギニア)の上陸を挟んで、4回の講座をもった。

 @ 「先住民族って何?」―南太平洋から日本へ   (11/27)

 A 「アイヌって何?」―歴史編          (11/28)

 B 「旧土人と呼ばれた人々」―アイヌの歴史と文化 (12/1)

 C 「アイヌ文化」―川は海から山へ        (12/3)

他に、シアターでのビデオ上映(『新共生への道』『アイヌ文化を学ぶ』)、ワークショップ、最後に飲み会(仕事か?)で役割を終え、日本までの最終航路を楽しんだ。水パ諸君、ありがとう。


シドニー〜東京間、水先案内人は私と、同じ飛行機で来た(!)菊千代さんの二人だけ。私はともかく、菊千代さんは誠に忙しい日々を送っていた。

古今亭菊千代:噺家。古今亭円菊門下で修行し、1993年、三遊亭歌る多とともに女流初の真打昇進、古今亭菊千代を襲名、全国で活躍中。―いやはや、機中の失礼の段はひらに、ひらにご容赦を……。

その菊千代さん(師匠と呼ばにゃならんのだが)、寄席の諸芸は勿論だが、ハングルの落語や手話落語もやり、P・Bで訪れた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や韓国(大韓民国)でハングルの落語を披露してきたという優れ者である。シドニー出航直後の“弟子募集"に30名ほどが集まり、毎日船内のあちこちで稽古を始めた。名づけて『三十九亭一門会』、39回クルーズに因み“みじゅくてい"と読むのだそうだ。脱帽……。

その成果が12月4日発表され、小噺、リレー落語、おどり、大喜利……1週間の速成芸人たちの芸や噺は、おおいに楽しめる仕上がりとなっていた。師匠、お疲れさまでした。

合間を見つけては、プール・デッキの屋台で飲み、「太鼓組」の小倉祇園太鼓(これも見事なものだった!)を楽しみ、帰国後の仕事が脳裏をちらつきながらもコップを手放さず、冬の日本へ向けて進むオリビアの甲板で暗い空を見上げている私であった。12月9日東京晴海埠頭着岸、10日帰宅、積雪なく一安心。

さて39回クルーズの最後は“締まった"のか? 私について言えば、“ゆるんだまま"終わった航海であった。シマッタとコウカイしている……でもないか……。


後日談になるが、船中で私の講座を聞いた菊千代さんが、アイヌの物語に興味を引かれたようなので、知里幸恵の『アイヌ神謡集』(岩波文庫)をプレゼントした。やがて、その中の「梟の神が自ら歌った謡<コンクワ>」を落語にしてみたいというので、楽しみにしていたところ、帰宅して数日後、『梟の跡継ぎ』と題された落語台本がメールで届いた。12月23日、鈴本演芸場の“東西女流華乃競艶会"で演じたいということだった。なんと仕事が速い!(オレトハチガウ……!)

東京の作品展に改訂版をもってやって来た菊千代さんに、「これ着て高座に」と着物を預けた。何たって、“落語によるユーカラ"の世界初演である、華やかがいい。

残念ながら22日には帰札して、高座を見る(聞く?)ことはできなかったが、東京の友人が何人か行って、感想を送ってくれた。「こういう表現も大切なので、続けてほしい。期待している」というものだった。今年は、知里幸恵生誕百年ということで、各種イベントが企画されている。こういった新しい表現があってもいいだろう。菊千代師匠、またやろうよ……。