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ヤイユーカラパーク VOL43 2003.04.21
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おもな内容

フィジー〜トンガ〜フィジー

どうにも記憶が混乱しているので、この旅のスケジュールをパスポートで確認する。……それにしても、どの国の審査官もどうしてこんなに勝手な所にスタンプを押すんだろう!ページを繰って出入国を探していると、余計混乱してしまう。1ページ目から順に使うことは出来ないんだろうか!?……などと文句を言いながら探すと、1月16日成田出発、17日フィジー入国、18日フィジー出国・トンガ入国、25日トンガ出国・フィジー入国、27日フィジー出国・成田到着であることが分かった。憶えきれないわけだ……。のんびりと忙しさが交錯する旅でありました。

この会議には、2000年9月にブリスベン(オーストラリア)〜オークランド(ニュージーランド)間、ピースボート上で行なわれた「NFIP船上会議」が内容・結果ともに不本意に終わった(『森』ニュース38号)、そのリベンジを考えようということで、P・BのT君も参加する予定だった。ところが直前になってT君が行けなくなり、代わりにP・Bのポール・メイソンが我々の通訳も兼ねて参加することになったのだ。しかしT君と「たまには、純然たるリゾートも楽しもうよ」ということで作ったスケジュールだけは残り、上記のような内容になったのである。

旅の全てを長々と書き連ねるのはお互いに疲れるばかりなので、会議に関わることに絞って報告することにしよう。

18日朝、フィジーよりさらに暑いトンガに着いて最初のショックは、迎えのバス(ナンディ空港で一緒になったヒルダやスタンリーなどPCRCスタッフとともに)で運ばれた会議場・宿舎が、事前に知らされていた“Queen Salote College"ではなかったことだ。バスが到着したのは、“Tonga National Council of Churches Ecumenical Centre"、急遽会場が変更になったという。……「教会の施設だなぁ。なんか厭な予感がするなぁー」という不安はまさに的中。プライバシーは……?「ない」そして「アルコールは一切厳禁!」……!タヒチの酒なし地獄の再現だ……。私にとってのプライバシーとは、寝酒が飲めるかどうかだけなのだが、かくして男性寝室となった集会所の私の寝床の足元には、箱を開けられることのない2本のウィスキーが、最後まで鎮座していたのである。

次のショックは、「ロペティに鬚がない!」……1988年以来の付き合いだが、鬚のないロペティは想像も出来ないくらい馴染んだ鬚顔だった。見事な丸顔で、童顔のロペティに、私も吾夢もすっかりうろたえてしまったのである。

最後のショックは、PCRCスタッフが一変していた!……前回タヒチ会議で主戦力になって働いていたスタッフが、誰もいなくなっていた。ロゼーナやフェイの顔がなく、ニックとスタンリーは参加しているが、それぞれオーストラリアとフィジーで違う仕事をしているという。代表のヒルダと事務所の若い女性フィペだけがタヒチ以来のメンバーということだ。なんとなく、現在のPCRCの状況が分かるような気がした。

受付で参加費と食費を1人150US$払うが、これは初めてのことだった。これまでは、

正参加者は無料で、さらに渡航費の援助まで受けることができたのだ。参加者数が少なく、いつもの常連の顔が見られないのは当然である。太平洋の活動家は、貧しいのだ。

それでも27カ国・地域、70名の参加者によって会議は行なわれた。前回の半数位だろう。西パプアのヴィクターがオランダから来たのは嬉しかった。フィジー以来だ。ハワイイのソリさん、P.N.Gからのモーセス(西パプア)、ジョンといったメンバーやトンガのフコー夫妻などといると少し安心するが、NFIP―というよりPCRCは、大変だなあの感を強くする。ロペティに、PCRCの資金難について訊いてみた。「原因は単純、資金集めの専任スタッフが辞めてしまったからだ」という。彼が代表だった時には、外国を回って資金提供を求める仕事を専門にやっている女性スタッフがいて、活動経費の大半を彼女が集めてきたという。彼女が辞めてから、その仕事をする(出来る)スタッフがいないから、慢性的に資金難が続いているのだと。……結局は“人"なのだ。

日本からは、我々(私、吾夢、ポール)のほかに田窪さん(原水禁/フィジー会議以来)と土田弥生さん(原水協/初参加)。地元トンガ以外では、7名参加のハワイイに次ぐ参加者数である。原水協がNFIPにやってくるのは初めてだった。

到着直後から流れるように吹きだしていた汗が4日目の朝、ピタッと止まっていた。「毛穴が開くってのは、このことか!」おおいに感心したことである。その後は、防虫対策に集中する日々だった。マラリアの心配というよりは、とにかく痒いのである。しかもトンガの薬局には“虫さされ"用の薬がない!……「そうなんです。こっちの人たちは、多少刺されても平気みたいで、薬がないんです」と、Ecumenical CentreでボランティアをしていたJICAの女性が、「まだありますから……」と言って使いさしの塗薬をくれた。日本製だった。

会場は中心街から車で10分もかからない距離にあり、歩くとさすがに暑いのでタクシーでよく出歩いた。夜、飲みに行くこともできた……! その他の夜は、“カバセレモニー"。毎夜ボランティア・スタッフの地元若者たちが集まって、盛大に飲み続け、歌い続ける。トンガのカバは強く、美味い。すっかり気に入ってしまい、深夜、幾分酩酊気味で寝床にもぐりこむ日々であった。酒なしでも寝られるものだ……。

そうそう、会議だ。19日夜のオープニング・セレモニーから24日夜のフェアウェル・パーティーまで、全体会議・地域会議・ワークショップが続き、毎夜“ユース"のミーティングが開かれていた。最終的に50本近い決議が採択され、帰国後整理された『The 9th NFIP Conference Tonga Communique』が送られてきた。ハワイイのソリさんがタロイモを掲げて宣言した「我々はタロイストである!」が、最も印象に残った……。3年後のサモア会議まで、希望はユースNFIPである。……どこが、会議の報告なんだ……!?

フィジーのリゾート・ホテルで終日遊び、早朝の飛行機に乗り込んで、冬の日本へ帰った。