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ヤイユーカラパーク VOL45 2003.12.28
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三度目のピースボート

三度目ともなれば気楽なものだろう、と、誰しも考えるだろう。本人もそのつもりで、片づけられるだけの仕事を片づけ、あわただしく荷物を詰めて、午前5時45分、家を飛び出した。4週間の旅のはじまり……。今回は、千歳〜成田〜ロスアンジェルス〜メキシコシティ〜アカプルコで船に合流、暦上ではその日の夜には到着・乗船である。

成田の免税店で煙草・酒の仕込みもでき、飲んで食べて寝て、ロス到着。時差調整。1時間程で入出国が済んだのは幸運だった。デルタ航空でメキシコシティ到着、やけにデカい空港だ。自分の時計を見ると、待ち時間がたっぷりある。“こりゃ、ゆっくりだわい”と、空港中央のレスト・エリアに陣取り、ビールと軽食。煙草が喫えるのが最高にいい。本を読みながら時を過ごした。

“さーて、そろそろ行くか……”と、搭乗口へ。カウンターへ行って、出発便のボードを見る。“あれっ、オレの便がないぞ?”……嫌な予感が頭をよぎる。チケット持ってカウンターへ。「このフライトは?」チケットを見た係員は「……これは、もう飛んだ」。!!!!……。“そんな馬鹿な!”オレは憤然として腕時計を示し、「まだ1時間あるじゃないか!」。しかし、係員が示したカウンターの時計は、午後8時45分だった。“時差があったんだ!!”

改めて、送られてきていたスケジュール表を見直した。

8/23 千歳〜成田 07:45〜09:15

8/23 成田〜ロサンジェルス 13:55〜08:00

8/23 ロサンジェルス〜メキシコシティ 11:40〜17:18……!

8/23 メキシコシティ〜アカプルコ 20:15〜21:05

2時間足らずしか乗っていない<ロサンジェルス〜メキシコシティ 11:40〜17:18>の、到着時刻に気づくべきだったのである。勝手に“ロスとメキシコシティには時差がない”と思い込んでいたが、実際には2時間の時差があった!

とにかく、なんとかせにゃあならない……。広い空港内を走り回り始めた。

アエロメキシコのカウンターで確かめると、やはり今夜のアカプルコ行きはない。

アエロメキシコのカウンターで確かめると、やはり今夜のアカプルコ行きはない。他の会社にもないということだ。明朝一番の席を確保する。が……、“船は何時に出航だったっけ?”。船が出た後に港についても、何にもならないのだ。“電話しなくちゃ!”。幸い、アカプルコの現地スタッフの電話番号は持っていた。

カウンターの男性職員に、「この番号に電話してほしい」「それは自分の仕事ではない」「頼むよ!」「自分の仕事は発券で、それは済んだ。電話はそこにあるから、自分でしろ」「……コインがない」「向かいの店でカードを売っている」「……分かった」。スペイン語に混じる英単語を頼りに、片言の英語でここまでは来た。

テレフォンカードを買って――ドルが使えた!――公衆電話へ。????「もしもし…?ハロー…?ハロー…?」……女性の声「▲〇????△□◎※……?」…………??? 何度掛け直しても同じである。“参ったなぁー……”。

電話の前で大汗かいて唸っているもんだから、制服姿の若い男性職員が寄ってきた。「どうした?」「電話が?がらない」――実際には?がってはいる――「どれ?」「ここに掛けてみてくれ。ピースボートに繋げって」「OK」……掛けて何か言っている。「ミス・ワタナベでいいのか?」「イエース!!」「OK」……渡された受話器の向こうから女性の日本語が。地獄で仏、観音さま……!

事情を話し、明朝の便でも間に合うかを尋ねると、17時の出航だから問題ないということだった。空港まで迎えに行ったスタッフが「乗ってませんでした」と報告し、心配していたそうだ。「済みません……」

次の問題は、デルタ航空で飛んでいった預かり荷物である。ロスで預けてアカプルコまで直送ということで、“ラッキー!”と思っていたのが、仇になった。明朝までキープ出来るんだろうか……?

今度はデルタ航空の荷物係と押し問答。「飛行機はもうアカプルコに着いているから、荷物があるかどうか、電話してくれ」「それは出来ない」「何故?」「自分の仕事ではない」「どうすればいい?」「分からないが、デルタのカウンターで訊け」……広い空港内を歩いて、やっと見つけたデルタ航空のインフォメーション・カウンターは、無人だった……。再び荷物カウンターへ。「誰もいない。アカプルコへ電話出来ないか?」「自分はアルバイトなので、出来ない」「………」「明日朝、係りが来てから話したらいい」「分かった」……まんざら悪いやつでもない、か?

空港の向かいにホテルがある。空港と回廊で?がっているので、絶対に迷わないだろうとそこへ向かった。Hotel Marriott。お〜、豪華そう……! けど、他を探して辿りつく元気はなかった。“ま、破産することもなかろう……”。フロント到着が11時だった

広くて豪華な客室に、落ち着いている暇はなかった。まず、アカプルコのスタッフに電話、事の次第を報告する。「荷物は、明日探します」と。風呂にお湯を入れながら、Tシャツの洗濯。ロス到着前にウイスキーをかけてしまったのだ、それもトリプルを。手荷物の中に下着と靴下は一組入れておいたが、Tシャツはない。さて、やっと入浴……。それから備え付けのアイロンとアイロン台を引っ張り出し、裸でTシャツのアイロン掛け。免税ウイスキー飲み飲みの仕事である。ジーンズはお湯で拭いて、アイロンで乾かす。汗かいて空港内を走り回っていた間中、きっとバーボン臭かったろうなぁ。家に電話し、事態の報告をする。智子さん、大笑いの後「帰ってくればぁ?」……何と優しい……。

すべて終わり、モーニングコールをセットして布団に入ったのは、午前1時。1日が終わった。


午前4時、電話がなる前に起床。シャワーしてから出発した。デルタの荷物カウンターには、この時間から既に人がいた。航空券を示して荷物の所在を訊くと、その場で電話で確認「アカプルコのデルタが保管している」とのことだった。!!! やれやれ………。レストランに入り、サンドイッチとコーヒーで朝食。昨夜以来はじめて、ゆったりとした時間を過ごした。

6時半の出発まで時間はあったが早々と出発ロビーに入り、カウンターで“オレの飛行機がまだ出発していない”ことを確かめてから、待合室へ。と、そこには何やら見覚えのありそうな、何となくピースボートにでも乗りそうな風情の、日本人男性がひとり。……「あのー、もしかすると、ピースボートに……?」「そうです。あなたも?」「はい」と、それぞれ名乗りあう。『子どもと教科書ネット』の俵義文さんだった。“そうか、前にテレビで見たことがあったんだ……”。

聞けば、俵さんも昨日のアカプルコ行きに乗り遅れたのだという。さすがに私のようなドジが原因ではなく、アメリカの入出国に無闇に時間がかかり、乗継便に間に合わなかったそうだ。幸い日本からの便がJALだったので、ホテルの手配等すべてをJALがやってくれたので、不安もトラブルもなくてすんだということだった。しかし、預けた荷物がどうなっているのかが分からず、アカプルコで回収出来るまでは心配です、と。「講座用の資料は、すべてその中に入っているので……」というのは、私も同様である。

乗り遅れ組2名を乗せたアエロメキシコ機は、定刻にメキシコシティを発ち、無事アカプルコに到着。入国審査もそこそこに、出迎えの現地旅行社スタッフに「荷物は?」。PBスタッフから事情を聞いていたとみえて、すぐに空港職員に話してくれた。やがて、「こっちだ」という職員の後について空港内を歩く……歩く。たどり着いた奥の一室に、“あった!”……いつもは忌々しい思いで見ていた牛模様のスーツケース(その理由については、長くなるので省略する)が、懐かしくいとおしく目に映ったことであった。

それを転がして空港入口に戻ると、俵さんが回収できたスーツケースを前に笑顔で待っていた。いや、よかったよかった……! 身体と荷物が無事に着いた嬉しさで、港まで乗ったタクシーの運転手が言うままに一人20$の料金を払ったのは失敗だった。彼は、旅行社からもらっているはずなのだ。船に入ってから気がついたが、後の祭りである。疲れと暑さと、何よりホッとした隙を狙われたのであった。ま、いいか………そういえば、ここは税関審査もなくて済んだしなぁ

私の三度目のピースボート・クルーズは、こうして始まった。


前日から乗船の松井健一さん、マシュー・アンドリュー(リルワット・ネーション)と合流。31日のバンクーバー入港までに、松井さんとマシューで4講座プラス数回のワークショップ、ミーティングを持つ。UBCで博士号を取得し、サイモン・フレーザー大学に授業を持つようになった松井さんは、多忙の中乗船してくれた。リルワットからのマシューとは初対面だが、28才という年令よりは若い、素朴で一本気な好青年である。

水先案内人の顔合わせ。前田哲男さんの「私も前にロス〜メキシコ〜アカプルコのコースで、時差に気づかず飛行機に乗り遅れたことがあった」に、少しばかりホッとする。「あのでかい空港の中に、時計がないというのがおかしい」……まったく、その通りです。そして、ロスとメキシコシティ間に時差はないという思い込みも一緒であった。“前田さんにしてそうなのだから、オレが落とし穴に嵌って当然だよ”と思いながら、“多分二人の違いは、頭の中の白さとうろたえ方だったんだろうなぁ”とも思ったことであった

今クルーズから1万6千トンのオリビア号が3万2千トンのトパーズ号に変わり、前回までとは勝手が違う船内と広さに、しばらくは迷い歩くことが続いた。「バーが少ない」と前田さんは不満そうだったが、ま、そこここで飲んで過ごしたのである


バンクーバーでは、40名の参加者とともにリルワット・ネーション一泊のオプショナルツアーへ。港のターミナルにはアーサーがいた。他のツアーに付き添ってくれるということだ。9ヶ月ぶりの再会。運動の切り崩しを図る州政府やサンピークス・リゾート社のバンド分断工作によって、チーフの席を失ったアーサーだが、元気そうだった。バスの出発が遅れたのをさいわい、あれこれおしゃべりが出来た。来年はスクウェルクウェックウェルトを再訪したいと言ってはきたのだが……。

アーサー、松井さんと別れて、バスで出発。アルビン宅に着いたのは、夕刻だった。何台かの車に分乗してリロエット湖へ。サーモン・キャンプで遊んでいるうちに、陽はすっかり落ちた。ジョジーナの家で夕食。サーモンやエルクなどご馳走が並び、皆満足。いつもながら、せめてビールが飲めたらなぁ……。

ピースキャンプを守りスキー場開発阻止を闘っているロザリン・サム、グスタフセン湖事件で裁判闘争を続けてきたジョン・ウィリアムの話を聞き終えたのは、すでに深夜だった。満天の星を見ながらアルビン宅まで戻り、寝床の確保。いつもながらの光景だ。女性はアルビン宅、男性は新築(!)のロッジに……しかし、電気がまだない!

「水は出るし―外の水道―、トイレも使えるから、大丈夫だ」と、アルビンの言。ローソクの灯りのもと、我々は酒宴(一応)を張った。ビールと焼酎、肴は、今回は何とか持ち込めた鹿肉のスペアリブとソーセージ、リルワット産の鮭トバ。美味かった……。今年は山火事が多くて危険なため、焚き火ができないのが残念だった。暗闇の中にドラムが響く。

「星を見ます」とロッジ前に集まった人びとは、毛布や寝袋にくるまって、そのまま朝まで過ごしたようだ。「明け方は、少し寒かったです……」と、翌日言っていたけれど、誰も風邪を引かなかったのは立派である。“野宿”でも“ホームスティ”というのかな?

翌日はバスでピースキャンプ「シュティカ」へ。たくさんの人びとが集まって、歓迎してくれた。船上で作った「スキーリゾート、オリンピック反対!」の横断幕を贈る。2010年の開催が決まった“バンクーバー・ウィッスラー冬期オリンピック”へ向けて、途中で何ヶ所も道路工事が進んでいた。シュティカの山々にも、破壊の手が伸びてくるのだろう。それはまさしく、犯罪である。再訪を約して、バスはバンクーバーへと帰途についた


私には初めてのアラスカへ。エディとマージという先住民男女の講座や、「鯨だ!」「氷河が見える!」それに「オーロラが見えた!」などの騒ぎのなかを船は進み、雄大な氷河の目前にまで迫った船上から幾つもの氷河を満喫したあと、スワードの港へ入った。

スワードでは先住民との交流ツアーに参加、ハリバット(巨大オヒョウ)も食べた。稚咲内のオヒョウの方が、正直おいしかった。やっぱり、魚は北海道だなー(鮭は別だが……)。汗ばむほどの陽気の中を歩き、数種類の鮭缶を買い、地ビールを飲んで帰船。わずか10時間の滞在だったが、スワードを後にした。

東京までの間に、本来の私の仕事を……。有能で熱心な水パの諸君に煽られて、「アイヌへの扉」「アイヌがきた道」「アイヌに吹く風」「アイヌに生きる神」……なんて立派なタイトルの講座を4回と、ワークショップを2回やった。すべて終わったのが、9月10日。17日の東京まで、のんびりと船旅を楽しんだ……が、アラスカで風邪を引いたらしい。少し弛み過ぎだったか……。


クルーズの報告は以上なのだが、最後にもう一つ、おまけの落とし穴!

帰宅して3週間、ブラジルからシャバンチが訪ねてきた。10日間を一緒に過ごしたのだが、その間持って歩いたのは、クルーズでも使ったデジタルカメラだった。その中身をコピーしないまま、彼らと道東の旅に出たのである。ある日、“あー、メモリーが一杯になった”。そこで、不要なカットを消去して容量を増やそうと……。暗いなかでその作業をやっていると、「きゃあ!全部消えてしまった!」誤操作である。したがって、このクルーズの写真記録は、一枚もありません……。

旅の初めにドジり、旅の仕舞いにドジり……。

教訓1 時差を侮ることなかれ!

教訓2 機械音痴を克服せよ!