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ヤイユーカラパーク VOL45 2003.12.28
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シャバンチがやって来た10月4日〜10月15日

昨年4月におこなったブラジルのサンパウロとリオデジャネイロでの阿寒湖ユーカラ座公演については、その顛末をニュース41号(2002,7,25)で報告しました。ブラジルに滞在した11日間をほぼ一緒に過ごしたシャバンチのシリジーウェとカイミの兄弟を、「日本へ呼ぼう」ということになり、ユーカラ座がアイヌ文化振興・研究推進機構の“国際交流”に助成申請したのが2月、承認されたのが4月でした。メンバーは上記2名とセレツ、ルウェにエリザの5名。セレツとルウェについてはまったく知らない人ですが、彼らの人選ですから、とやかく言うことはありません。「10月までに、しっかり準備を頼むよ〜!」とエリザに電話し、シャバンチ来日計画はスタートしました。

シャバンチ01

とは言っても、忙しいエリザと能天気なシャバンチたちですから、万全の準備などはとても無理なこと……。こちらは、必要経費(300万円)に対する助成金(150万円弱)の不足分を、なんとかブラジル行き組みでかき集めて待つことになりました

案の定、来日直前までゴタゴタは続きました。アンジェラ(アユトンの元妻)が「一緒に行きたい!」と言い出すおまけまで加わって、メール・ファックス・電話のやり取り。なんだか訳の分からん書類まで作って、クソ高いFedexで送らねばなりません……郵便が確実に届く国に住んでいると、こんな時に“損をした”気分になります。とにかく、「後はなんとかやっておいて」と阿寒のデボとブラジルのエリザに託して、8月22日から9月18日まで、船の旅に出ました。


帰国してビックリ、まだビザが取れていない!……ッたく、日本の外務省も大使館もロクなもんじゃない! おまけに、アメリカがトランジット・ビザを出さないので、イタリア経由で来るしかないと……!

のん気なデボさえ気をもんでいる中、9月30日にエリザからの電話、「ビザが取れたから、明日出発するよ!4日に千歳で待っててね!」……おいおい、4日もかかるのか……!?

到着してから聞いた彼らの行程は、恐るべきものでした。後学のために、以下に書き出しておきます。


10月1日8:00PIMENTEL BARBOSA出発(車)
12:00MATINHA町到着
18:00同上出発(夜間バス)<車中泊>
10月2日7:00GOIANIA到着
12:00同上出発(飛行機)
13:45サンパウロ到着
19:30同上出発<機中泊>
10月3日12:00ミラノ到着
14:35同上出発<機中泊>
10月4日9:30成田到着(羽田へ移動)
15:00羽田出発
16:30千歳到着(札幌へ)

シャバンチ02

……ということで、6名の姿を千歳空港で見たときの気持ちは……お分かりいただけるでしょう。こうして、“シャバンチと11日間の旅”が始まりました。

ブラジルの先住民族“Xavante=シャバンチ”は、ブラジル中央部Mato Grosso州の7つの保留地に13000人が住んでいます。ブラジルでは現在までに、206民族(180の異言語集団)が先住民族として知られていますが、他民族と未接触の民族集団がまだ20〜50は居るだろうといわれています。シャバンチが白人と初めて接触したのは1940年代で、彼らの保留地では現在も伝統的な生活が保たれています。その伝統的な通過儀礼“ワイア”のことは、床田和隆さんのレポート「ワイア―棒とヒョウタンの記憶」に詳しく記されています(ニュース35号/2000,12,28)。

10月4日夕刻、予想よりも元気そうな一行が千歳に到着。シリジーウェ、カイミ、エリザとアンジェラは1年半ぶりの再会、かわいい爺ちゃんセレツとルウェとは初対面でした。途中ハンバーグで夕食をとってから『森』経由でホテルへ。近くにシングルルームが確保出来たので、札幌滞在中の宿舎になります。「時差もあるし、長旅で疲れているだろうから、ゆっくり休んで……」と別れてきました。

翌5日。昼に迎えに行くと、ロビーの一角に陣取ってニコニコ顔で待ち受けている一同。エリザの報告によると、深夜部屋を出た一人(爺ちゃん達のどちらか)が鍵を壊し、エリザの助けを求めて廊下を叫び歩いていたらしい。どうも、鍵を反対方向に廻し、ねじ切ってしまったようなのです。そりゃー、心細かったろう……。「寂しくて駄目だ」という訴えで、セレツとルウェをツインに移す。二人なら大丈夫、だろう。

「何を食べる?」「豚か鳥」……「トンカツは、食べられるか?」「大丈夫だろう」ということで、ホテル内のレストランで“トンカツ定食”と“チキンから揚げ定食”の昼食。

この旅最大の悩み――私にとって――が始まりました。

とにかく「食べるのは、肉」なのです。それも、レアやミディアムは「気持ち悪くて食べられない!」……カリカリに焼いた肉、黒焦げのように見えるから揚げが「美味い!」。卵も半熟は「気持ち悪い!」……文字通り“ハードボイルド”なインディオたちでありました。それでも生野菜を大量に食べているので、あるいは私より栄養バランスは良いのかもしれませんが……。三食「肉」の生活が続いたのです

彼らが持参した、シャバンチの生活を撮ったビデオを見て、「なるほどなぁ〜!」。狩りや釣りの獲物を、焚き火の上にのせて焼いているのです。表面が黒焦げになった肉や魚を切り取って食べているのですから、生焼け、生煮えが「気持ち悪い」というのも分かります。それからは、焼肉屋で頃合になった肉に手を出さずにいる彼らを、“遠慮してるのか?”などとは思わなくなりました。

その日は、藻岩山頂まで登り、石狩平野を眺めました。好天とはいえ、山頂の気温が心配でしたが、この旅のために買った靴を履き、同じく新調した服と、我が家で入手したトレーナーやコート、帽子――息子が着ていた――に身を固めたセレツとルウェはご機嫌でした。

夜。『森』事務所で歓迎会。’99年の訪問団でブラジルへ行った荒川君や『森』メンバーが集まり、いつもの『ヤイユーカラの森』パーティで夜が更けました。それにしても爺ちゃんたち、よくビール飲んだなぁ……。


シャバンチ03

6日。支笏湖畔で遊びながら白老へ。“アイヌ民族博物館”での見学と交流。皆さんにお世話になりました、有難うございます。帰札して、リサイクル・ショップへ。鞄が壊れたので……という声に応えて、だったのですが、やはり値段が折り合わないようで「直して使う」という結論に達したようです。それにしても、毛糸の帽子を大量に買い込んだシリジーウェでしたが、あんなもの村で被ってたら頭が蒸れてしまうだろうに……。

7日。午前中は札幌市内へ。地下鉄に乗って大通り、テレビ塔では展望台の高さに絶句。高所は駄目らしく、下りのエレベーターの隅に言葉もなく竦みあがっているシャバンチでした。陽を浴びながら、ウインドゥショッピング。100円ショップなら気楽に買物ができるだろうと考えたのですが、以外に控えめな様子。お小遣いは充分渡してあるのに……と、エリザに「遠慮しないで使っていいと言って」と言ったところ、「彼らは、お金は出来るだけ村に持って帰りたいと言っている」という返事でした。「偉い……!」

カトリック「札幌働く人の家」に集まってくれた人びとと交流会。皆でしゃべり、彼らが持参した民芸品を買ってもらい、カンパまで頂きました。有難うございました!

我が家で夕食を食べ、ホテルのコインランドリーで大量の洗たくをして1日が終わりました。


8日、阿寒湖への移動。いやはや、賑やかな道中です。サンバのCDが終わると、うしろの座席からシャバンチ・ソング。跳ねながら走る、6時間のドライブでした。

阿寒湖に到着、ポロ・チセの舞踊公演を見たり店々を覗いたりしてから、各店が閉店した22:00過ぎから歓迎会。ブラジル組が揃い、長倉洋海さんも加わって大いに盛り上がりました。

ホテルに戻ってから、長倉さんがシャバンチを大浴場へ連れて行きましたが、全員、「お湯には入れない!」と逃げ帰った由。彼らは終始、部屋の水シャワーで過ごしたようです。この旅の間、毎日温泉を満喫したのは私だけだったようで、やれやれ……でした。

9日。午前中、マリモ祭りのカムイノミに参列。「遠い国から来てくれたのだから……」と、炉の前に席をもらった4人のシャバンチは、ウルクンで前髪を赤く染めた顔を緊張気味にトゥキにお酒を受けていました。儀礼を殊のほか大切にする民族ですから、多分相当嬉しかったのでしょう(その表情からは、よく分かりませんが……)。

その後、オンネトーへ。滝の湯まで歩きました。往復3時間……1年分を歩いたような気がします。ヘトヘトでした。一番元気だったのは、二人の爺ちゃんたちです。

この道中に、デジカメのメモリーすべてを失うというアクシデント! 弱り目に祟り目です。ピースボート4週間の旅が、一瞬にして消えました。何よりも、この後カメラを構えるたびに誰かが「消さないで!」「気をつけて!」と、楽しそうに声をかけてくれるのが癪でした。なんと優しい友人たちでしょう……。

夜、湖畔で“マリモを迎える儀式”、コタンまでのタイマツ行列、そして懇親会。シャバンチ・ダンスも披露しました。差し出されるビールを飲み干し続ける爺ちゃんたちを引っぱって、深夜帰還しましたが、シリジーウェは朝方まで座り込んでいたそうで、翌朝の二日酔いは当然です。


シャバンチ04

10日。エリザによると、昨夜デボからもらった1升の濁り酒を、爺ちゃん二人が部屋で飲んでしまったそうです。けろっとしてゆで卵4個から始まる朝食を平らげている二人の姿に、“シャバンチの長老、恐るべし”の感を強くしました

この二人の年令は?……「70って言うんだけどねぇ」とエリザ。「多分、もっと若いと思うんだよねぇ……」。見せてもらったIDカードには、確かに“1933年生まれ”とありますが、彼らが白人と出会ったのが1940年過ぎなのですから、根拠はないのです。一緒に居ると、どーももっと若い感じがする。酒の飲みっぷりだけではなく、肌の艶といい身のこなしといい、60そこそこではないのか? 智子さんの言う「あんたと同じくらいでない?」はオーバーだとしても、どうもそれ程違ってはいないような気がするのです。たしかに年令不詳の“長老”でありました

行列してマリモを送りに行き、船に乗って阿寒湖周航。私は子どもたちが就学前ですから、16〜7年ぶりに湖畔の紅葉を楽しみました


11日。この日からコタンのKさんが加わって、8人旅。釧路動物園に遊びました。何といっても傑作は、人の姿を見ると叫び声をあげる“何とか手長猿”。その声が、シャバンチの雄叫びとそっくりなのです。猿とシリジーウェが叫び交わす声は、目を閉じるとどちらの声か分からない程で、大いに我々を楽しませてくれました

尻込みする彼らを、ジェットコースターへ。下から見ていると、左程のものではない、と、私も乗り込みます(本当はこの手のものは全く駄目なのですが、見栄を張ったのです)。シリジーウェが「オレがバッチリ撮ってやる!」と、カイミのビデオカメラを手に最後尾に。ところがスタートするや、怖・怖・怖・怖……! 高さやスピードの恐怖ではありません。音と揺れ、です。“壊れる!外れる!落っこちる!”………この機械の耐用年数が、真剣に心配になりました。

いやはや、膝をガクガクさせて生還した私たちです。シリジーウェのビデオには、保護棒を握り締めている彼自身の手しか映っていませんでした。勿論、私のカメラにも……。折角の“見もの”シーンは、“記録なし”でした。


12日、網走へ。摩周湖〜硫黄山。火山のないブラジルですから、噴煙を噴き上げる光景は最高なのでしょう。それまでも遠く火山の煙が見えると声をあげて喜んでいたのですから、硫黄の間から吹きだす蒸気で茹で上がった卵を食べるなんて、驚天動地の体験だったはずです――その割りには表情に表れませんが……。

北方民族博物館〜オホーツク流氷館を見てから、常呂へ走りホテルへ。豪華ホテルで、豪華客室でありました。阿寒湖のホテルと同系列のこのホテルを、格安価格でキープしてくれたそうで、地元の強みを実感しました。ここに2泊は、グーです。

13日。ところ遺跡の森・遺跡の館を散策。あとは……何もないので、再び網走へ。北方民族資料館とモヨロ貝塚。地ビール・レストランで昼食。裏の網走川を鮭の群れが遡上しているのを発見し、河口まで行って眺めました。海岸でたくさん拾ったホッキの貝殻を、多分お土産に村まで持って帰ったんだろうなぁ……。今度行ってみたら、何か装身具に変わっていたりして……。

ジャッカ・ドフニ(ウィルタ資料館)をみて、常呂へ帰りました。


シャバンチ05

14日。ホテルを出て、サロマ・ワッカ原生花園を歩きました。あちこちにサンゴ草が群生しています。あまり近づかないで眺めるほうが、風情のある花です。ネイチャー・センターにビッキの木彫が二点飾ってありました。

屈斜路湖を経て、阿寒湖畔に戻りました。

シャバンチ男性が耳に刺している木の棒は、人と夢の世界を繋ぐためのものだといいます。彼らにとって“夢”はとても大切なもので、アユトンもそうであったし、アイヌにも共通しています。爺ちゃんがイナウを指して、「これは何の木だ?」と訊ねます。柳だと答えると、「その木が欲しい」というので「どうするのか?」と訊くと、「耳に刺して寝て、どんな夢を見るか確かめたい」というのが返事でした。屈斜路湖畔を歩いている時に頃合いの太さの枝があったので、「これだよ」と切り取ってあげました。何本かを切ると、きれいに皮をむいてしまい込みました。あれでどんな夢を見たのか、いつか聞きに行かなければなりません。

その夜、盛大なお別れ会が開かれました。


10月15日。ホテルでの別れ。釧路空港での別れ……。村の人びとへの土産に集まった衣料などで、来たときの倍に膨れ上がった荷物を抱えて、シャバンチは飛び立って行きました。村に帰り着くのは、10月19日になります。それから二人の爺ちゃんは、集まってくる村人たちにこの旅の体験を語り伝えるのだといいます。何日も、何日もかかって語り続けるのだと……。

「待っているから、絶対に村に来い」と言って涙ぐんでいたルウェとセレツ。4日かかって行き着く体力と気力が揃ったら、会いに行くよ……!

空港の蕎麦屋で、ざる蕎麦を食べました。「美味い!」。さあ、札幌まで帰ろう……。