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ヤイユーカラパーク VOL46 2004.03.30
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ピースボート43回クルーズ

前回8月〜9月の航海(41回クルーズ)については前号で、私のドジの詳細を報告しました。こりもせず、いや、前回のリベンジを……というわけ、でもないのですが、2003年二度目の船旅に行ってきました。以前から要請のあった「アイヌ刺繍講座」を実現することと、「世界を回った後帰る国"日本"を考える」をテーマに講座を構成する、というのが大きな目的でした。

アイヌ刺繍は、阿寒湖畔の山本栄子さんに引き受けてもらいました――智子さんと二人で出かけると、『森』が倒産してしまいますから。

「日本を考える」は当初、沖縄・部落・アイヌ・在日のスピーカーを中心に講座を展開しようという構想だったのですが、全員がこの期間に集中して乗船することは難しく、サンフランシスコから私が、ハワイイから小森龍邦さんが乗って、日本までの間にまとめてみようということになりました。その首尾や如何に……。20日間の航海記です。


12月3日 <札幌〜成田〜サンフランシスコ>

早朝に札幌を出て成田へ。スーツケースの他に、刺繍材料やアイヌ衣裳が入ったでかバッグがあり身動きができないので、一時預かりに荷物を預けて身軽になり買物と食事――文庫本を買い蕎麦を食べただけ――を済ませる。期待をこめて年末ジャンボも買ったが、当たらなかった(後日判明)。

長い待ち時間のあと、山本栄子さん、天野文子さんと合流してチェック・イン、酒・煙草を仕入れてから機内へ。天野さんは14才のとき広島で被爆、1978年の第1回国連軍縮特別総会に証言者として参加したのを機に、核兵器廃絶を世界に訴え続けている平和活動家。70才を越えているとは思えない、若々しい女性である。

15:20離陸。満席の機内で食べ、飲み、寝して7:10、サンフランシスコ到着。ノープロブレムの旅だった――乗って降りるだけの旅に問題があるわけがない。

二度ほどトランジットで降りたことはあるが、空港の外へ出るのは初めての街、サンフランシスコ……前回鹿肉ソーセージを没収されたのは、ここだった! 嫌な記憶が甦るが、忘れよう。港へ向かう車から眺める、霧のサンフランシスコでした。

霧の中のトパーズ号

霧の中のトパーズ号

霧の港にトパーズ号は停泊しているけれど、何の故か下船許可がまだ出ていない。したがって乗船も出来ない我々は、スタッフたちと一緒に長い待ち時間を過ごした。フィッシャーマンズワーフを散策。文子さんと栄子さんは、名物"クラムチャウダー"に挑戦していたが、オリャー「とても、とても……!」。小さなカボチャ位のパンの中を削って、一杯にクリームシチューのようなものが詰っているのだ。とても食えやしないよ!

やがて、やっと乗船。2ヵ月半ぶりのトパーズで、今回はセミスイート風の広い部屋が当たりご機嫌。こりゃ、落ち着くワ……。

夜は、カストロ街近くの"Women's Building"でひらかれる"ピースフェスティバル"へ。この辺りはかつてのヒッピー街で、アート&ピース発信の地といわれている。「何か食べよう」とスタッフT君と歩き回りながら、映画『ハーヴェイ・ミルク』を思い出す。「そうか、この街か……!」。あちこちの建物の壁に、大小の壁画が描かれている。"Women's Building"の壁面も、美しい絵が覆っていた。「おやっ?」正面に描かれた多様な民族の文様のなかに、アイヌ文様が……。確かにカパラミプとルウンペがそこにあった。何となく感動して、絵はがきを買ってしまった。

Women's Buildingの前景

Women's Buildingの前景

フェスティバルはピースボートらしい盛り上がりだったが、私は直さんの太鼓に大満足。さらに、ぐるっと見回した2階客席に見覚えのある顔が……階段上って声かけると、やっぱり過去のNFIP参加者だった。長身で東洋人の風貌をしたリチャード。そうか、彼はサンフランシスコだったんだ……タヒチ会議が最後だったっけ。再会を喜んで、しばらくおしゃべりをした――といったって、私の英語では知れたものだが。帰船のバスに乗るときに「サモアで会おう!」と言い合ったけれど、果たして次のNFIPで会えるのかどうか?

船のバーと部屋で飲み、寝る。しばらくは時差と折り合いをつけるのにかかりそうだ。

12月4日 <サンフランシスコ>

文子さん、栄子さんと一緒にダウンタウンへ。「まず、ケーブルカーに乗ろう!」と、路線を一回り。キョロキョロ周りを見ながら、アップダウンを繰り返す。なるほど、この街でのカーチェイスは大変だ。また、それが観光の目玉とはいえ、ケーブルカーの運行が人力に頼っているのは、いい感じだった。

終点で偶然出会った、どこかの旅行会社の日本人女性添乗員が「***デパートでバーゲンやってますよ。ご案内しましょうか?」。女性たちは「行ってみましょう……」ということになり、私はひとり"アルカトラス"を目指して歩き出した。

フェリーに乗ってバーガー1個を片付けている間に、アルカトラスに着いた。「こんなに近いんだー!」……本土と目と鼻の距離にありながら、周囲の潮流の激しさで、脱獄不能の監獄とされ、多くの終身犯を収容していたアルカトラス。フェリーを降りて見上げると『UNITED STATES PENITENTIARY(合衆国刑務所)』と書かれた看板があるが、それが貼り付けられているのはさらに巨大な看板上である。そこには『INDIANS WELCOME/INDIAN LAND』の赤い文字がまだ残っていた。これを見に来たのだ。

インディアン歓迎 インディアンの国の看板

インディアン歓迎 インディアンの国の看板

1770年スペイン領とされ"Island de los Alcatraces(ペリカンの島)"と名づけられた島は、1848年米西戦争によってアメリカ領となり、軍の要塞、軍刑務所を経て1934年から1963年まで、米司法省の刑務所として使われた。1972年からは観光施設として公開されているが、その直前の1969年11月20日から1971年6月11日までの19ヶ月間、アルカトラスはリチャード・オークス(モホーク族)を指導者とした300人余りのインディアンによって占拠され、彼らの解放区となった。

島に立てこもったインディアンの要求は、正義と自決権の奪還であり、24ドル(1624年、オランダ提督ピーター・ミニュットは、インディアンからマンハッタン島を$24相当のビー玉や、短剣、布切れと交換して買い取った)でアルカトラス島を買い取ることだった。71年6月に排除されるまで、全米のインディアンの支援を受けながら、占拠闘争は続けられ、AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)も、これに加わる中で力をつけていったのである。1972年9月、リチャード・オークスは白人に射殺されるが、彼らの戦いの跡はまだ残されている。

人形付きで復元されている獄室

人形付きで復元されている獄室

サンフランシスコ(カリフォルニア)の先住民族"オローニ"は、その痕跡さえこの地に留めていないが、今日に連なるアメリカ・インディアンの闘いの跡を確かめることはできる。……とはいえ、借り受けた日本語のガイドテープからは、「アル・カポネがどうした」とやら「マシンガン・ケリーが云々」「映画にもなったバード・マンの実像は……」などなど、どうでもいいことばかりが聞こえてくる。かつて此処に立てこもって闘ったインディアンの話は、とうとう聞けなかった。それでも最後に見たプロ・ビデオでは、映像も含めて事件の紹介があったので、まぁいいか……と、売店で本や写真など事件に関連するグッズを買い求めてフェリーに乗った。

12月5日〜12月10日 <サンフランススコ〜ホノルル>

"安息日"なるものが設けられ、5日はすべての企画がお休み。のんびりと過ごした。揺れが激しくなり、栄子さんはダウン気味だが、水パ(アシスタント)が付いてくれているので安心である。彼女たちは、栄子さんの部屋で刺繍の事前実習に入った。

ハワイイで下船する文子さんは、6日から毎日連続講座。8日からは、栄子さんの「アイヌ刺繍講座」が始まる。マタンプシ(イカラカラ)を仕上げてからポシェット(カパラミプ)へ。50人の受講生だ! 明日からは、2クラスに分けての講座となる。

8日には、――例によって――私の"おまけの"講座。「民族が盗まれた日」と題して、太平洋の島々が植民地化していく過程と先住民の歴史の概略を、I君と掛け合いで。翌日は「楽園最後の女王」……ハワイイの歴史と日本との?がりなどを、水案・森田さんとI君と。ハワイイでのオプショナル・ツアー参加者が増えればいいんだが……。

12月10日 <ハワイイ>

ホノルル入港

ホノルル入港

朝、ホノルル入港。前日に着いてホノルル観光をしていたという、小森龍邦さんと岡田英治さんが乗船。9月末に福山(広島県)で別れて以来の再会だが、ハワイイの船上でというのは、何やら妙に懐かしい。

バスでオプショナル・ツアーへ。40名程が参加。ハイデン・バージェスさん(先住民運動家)のレクチャーを聞きながら、アロハ・タワー近くの埠頭を出て街を抜け、パールハーバーを望みながら海岸線へ。オアフ島北西部に20キロ程続くワイアナエ海岸の、住民の半分はハワイイ先住民だという。小錦の故郷もこの辺りだそうだ。観光コースからは外れ、経済的に貧しい地域だといい、海岸には点々とホームレスのテントが見える。1980年後半、バブル時代に日本企業がハワイイ各所の不動産を買いあさった結果、高騰した家賃を払えずにここへ来た人びとが多いとか。

2時間程走って、奥まった谷にある「マカハ農園(HOA'AINA O MAKAHA)」に着いた。元カトリック神父のジジさんが、先住民の町おこしのために開いた施設・事業で、ハワイイの伝統農作物の栽培や野菜の有機栽培、魚の養殖が行なわれている。また、地域の小学生や女性のためのプログラムも行なわれているという。畑を案内されて摘まんだミニトマトが美味しかった。

子供たちのフラ

子供たちのフラ

フラよりメシの人もいる

フラよりメシの人もいる

子供たちの歌と踊り、女性達のフラを楽しみ、昼食を食べた。子どもたちの中に、"武蔵丸の甥"がいた。目だって大きくは見えなかったが、トンガ系だから、これから大きくなるのかもしれない。トンガ系といえば、見るからにトンガといった感じの男性が、ココナッツの葉で作る皿の作り方を教授し、皆で実習した。手も口も達者な、素敵なトンガーンで、ロペティやフコーを偲ばせた。

栄子さんがムックリを披露

栄子さんがムックリを披露

海岸へ出てさらに少し行くと、「マクア米軍軍事演習地」に着く。三方を険しい稜線に囲まれ海に開けている美しい渓谷は、金網のフェンスで封鎖されている。中には"ヘイアウ(神の祭壇)"もあり、我々にとっては聖地なのだが、米軍は返還してくれないと、地元の人が話してくれた。

米軍の基地はどこも同じに見える

米軍の基地はどこも同じに見える

埠頭でバスを降りると、タクシーに乗り換えてワイキキへ。免税店へまっしぐらである。ボトルを仕入れておかねば、土産はおろか寝酒にも事欠くことになりかねない。7時にキクニさんが船に訪ねてくるというので、1時間で戻らなければならないのだ。広い免税店の中を走り回り、ウィスキーとチョコレート(この所、刺繍教室の女性たちに旅の土産を欠いていたので)を抱えてタクシーで船へ……間に合った。

昨年のトンガ会議には来ていなかったので、ホノルルのキクニさんとは4年ぶりの再会。食事しておしゃべりの後、キクニさんは帰って行った。

(帰国後よく見ると、チョコレートはベルギー製だった! 急いだからなぁ……

12月11日 <ハワイイ>

バスで昨日の「マカハ農園」より先にある「カアラの谷」へ。海岸から山道に入り、急な坂を上っていく。道を横切る小川の前でバスを降り、迎えに来ていた女性のリードでハワイアンの歌"E Homai(我らに啓示を)"を合唱してから、農園へと入っていった。マオリと共通の儀礼は、まさにポリネシアンだ。

農場への道

農場への道

「カアラの谷文化学習センター(Cultural Learning Center at Ka'ala)」のある渓谷には、かつて先住民の祖先たちが広大なタロイモの水田を開いていた。しかし、プランテーション開発と軍の接収によって、水田は衰退してしまった。その後、砂糖きびプランテーションもたちゆかなくなり荒れ果てた土地を、再び切り開き、かつての豊かな水田を取り戻そうと活動を始めたのが"ワイアナエ海岸オルタナティブ開発協同組合(WCCADC)"である。少年院帰りの元非行少年たちとともに、林を開き、水を引き、水田を築いてきたリーダー、エリック・M・エノスさんが我々を迎えてくれた。

山間の尾根に挟まれた、なだらかな傾斜のある扇状地にセンターはあった。潅木の林を切り開いて農園が作られ、幾枚もの水田が広がっている。一番上の水田から順番に水を引き、すべての水田に水がゆきわたるように水量の調節が行なわれている。タロだー!

タロの水田でエリックさん

タロの水田でエリックさん

裸足になって水田に入り、大騒ぎしながら草取りを手伝った(?)あと、ハワイアンが"カロ"と呼ぶタロイモの、蒸したものをつぶしながら、エリックさんはこの農場や、センターの活動について話してくれた。かつてのハワイイ先住民は、タロイモや砂糖きびを栽培する優れた農耕の民だったこと。土地と水を奪われて生業を失い、長く貧困と困窮を強いられてきたけれど、いまこうして農場を復活させ、若者たちに民族の伝統文化を伝えていくことで、ハワイアンの未来を創り出していこうとしているのだと……。「カロは、我々にとって神聖な食べ物なんだ」。

カロをつぶすエリックさん

カロをつぶすエリックさん

つぶされてマッシュポテト状態になったタロイモを、試食した。1998年、初めて『森』を訪れた5人のハワイアン(『森』ニュース/24号)が持ってきた"カロ"と同じ薄紅色だ。あの時の"不味かった"記憶が甦り、恐る恐る少量を口にした。……「美味い!」。あの時の奇妙な酸味がなく、ジャガイモのイモ臭さもなく、とてもおいしかった。エリックさんによると、こうやって作ったカロは、保存食にもなる。時間が経って酸っぱくなっても、おいしく食べられる、ということだった。"そうか。ハワイイで作って運んできたから、あの時のは酸っぱかったんだ。味については、好みの問題だったんだ……!"認識を新たにしたことだった。

午後は、"カバ・セレモニー"(ハワイイのカバも美味だった)や草の葉を織り込んで作るエンゼルフィッシュの制作実習、タパ(南太平洋で一般的な、樹皮から作る不織布)制作の実演などで、ゆったりと過ごした。まさにパシフィックタイムである。楽園とは無為徒食の天国にではなく、生活の場にあることを実感した。これが、"ハワイアン・ルネッサンス"の核心なのであろう。

祭壇(ヘイアウ)

祭壇(ヘイアウ)

タパを作る

タパを作る

夕刻に帰船、"アロハくらいは買わなくちゃあ"と、アロハ・タワーのショッピングモールで購入。目移りしている私に「計良さんには、これがピッタリ!」と決めてくれたスタッフのSさん、有難う! 18:00頃、ホノルルを出港した。

12月12日〜12月22日 <ホノルル〜東京>

12日午前中に水先案内人の顔合わせ。仕事が始まった。

小森さん、岡田さんはともかく(失礼)、映画制作会社「シグロ」代表でプロデューサーの山上徹二郎さんとは初対面(小森さんと岡田さんは、彼と旧知の間柄だった)。5本の映画を持ってきたということで、楽しみである。

『アイヌ・ナウ―はじめの一歩』(計良)/『部落差別とは―私の体験を通して』(小森)/映画『ハッシュ!』(山上)/『アイヌ刺繍講習会A・B』(栄子)と、なかなか忙しくなってきた。準備して(一応は)しゃべり、聞き、見て……と、船内を移動しているうちに1日が過ぎる。アメリカ食品衛生局(?)から解放され、今宵から居酒屋"波へい"が再開。別に入り浸っているわけではないけれど、無いと不便である。バー"ヘミングウェイ"はどうも落ち着かないし、部屋で一人で飲んでいると、まるで大酒呑みのような気分になってしまうし……。朝・昼食もビュッフェ形式に戻り、一安心。結局、ひとの快・不快は、飲み食いで決まるのか?

栄子さんの刺繍教室

栄子さんの刺繍教室

13日。『部落差別とはA―差別はなぜつくられるのか』(小森)

14日。映画『人間の街―大阪・被差別部落』(山上)/『アイヌ・ナウA―歴史は語る』(計良)/『差別と疎外からの解放―人間の可能性は?』(小森)

15日。日付変更線通過のため、この日は無い。本来は"消滅日"なのだが、14日23:00〜24:00、『日付変更線に負けるな―僕達の12月15日』という企画が行なわれた。船内新聞も発行され、掲載されたタイムテーブルを1時間でやってしまおう、というものである。とにかく面白かったらしいが、私は行けなかった。"ケイラ・バー"(私の船室のことで、この頃から岡田・山上が集り、プラス栄子さん、プラスα、プラスβ……という具合に客が訪れるようになった)で飲んでいたらしい。残念であった。

16日。『アイヌ・ナウB―いま、日本を考える』(計良)/映画『ゆんたんざ沖縄』(山上)

17日。映画『チョムスキー 9.11―Power and terror』(山上)/『マイノリティーからみえる日本―20番目の寄港地へ』(小森・計良)/『ムックリ講習』(栄子)

18日。『収穫祭』と名づけられた最後の大イベントで、終日、船内混雑。揺れ始める……。

19日。『日本はどこに向かってる?―希望のしゃべり場』(小森・山上・栄子・計良)

かなりの揺れに、ステージ上を椅子に座ったまま滑る。それでも夜はフォーマル・ディナーとフェアウェル・パーティーで盛り上がっていたが、どうもパーティーは苦手だ。

20日。映画『ぼくの、おじさん』(山上)/これで、水案がかかわるすべての企画が終わった。が……アイヌ刺繍の方は、まだ片付かないようだ。下船間際まで、栄子さん、ご苦労さまでした!

そして、「天候悪化に伴う日程変更」があった。それまでも何度か、到着遅延についてのアナウンスはあったのだが、最終的な結論が出たのだ。「東京着岸が、24時間遅れる」と。

水案打ちあげパーティー

水案打ちあげパーティー

本州東に居座った低気圧(987ヘクトパスカル)によって、10mの波と、時速60kmの向い風で、予定速度15ノットに対して8ノットしか出ておらず、現在370km遅れているということだった。そりゃあ、この風雨と揺れだもん、充分理解できる。仕様がなかろう。大体、世界を一周して誤差1日なんてのが普通ではないのだ……。私については、急ぐ旅ではないので問題ないが、帰国後すぐのスケジュールを持っている人や、出迎えのある人は大変だ。とくに、神戸で下船の人びとは、大変だったろう。東京で下船して新幹線で移動しなければならない上に、山ほどの荷物があるのだから……。

ともあれ、帰札の飛行機も手配されたし、遅れることを自宅に連絡してくれたということで、ゆっくり飲む夜が増えたということだ。二晩かけて、残酒整理が出来る。

12月22日 <晴海〜羽田〜札幌>

予定通り、午前8:00に東京・晴海埠頭に着岸。全員の下船完了までどれ位かかるかは分からないが、私は早い時間に下船、荷物を宅急便に託して身軽になった。昼飯食って、帰ろう。やっぱり、蕎麦だなぁ! 家が雪に埋まってなければいいんだが……。

さて、このクルーズの首尾は?……世界を回って19の寄港地で、その土地と歴史、そこに生きる人びとを見、考え、知ろうとしてきた参加者たちが、これから帰る国"日本"をどう位置付けるのか?"知ったつもりでいる国"を、本当に知っているのかどうか? そのことを世界を見てきた目で見直し、考え直して欲しいという主催者の希望は、"帰港地・日本"を"寄港地・日本"と捉えなおそうという提起となり、講座が(特に最終コースの)組み立てられた。

『マイノリティーからみえる日本―20番目の寄港地へ』(小森・計良)に至る各講座が、聴いた人びとのなかに何らかの"種"を落とし、"課題"を残したのは確かだろう。山上さんが見せてくれた映画も、大きな力になった。部落、沖縄、アイヌ、同性愛……それは我々の日常と無縁ではなく、いまそこに生きている人びとがいて、生活を、歴史を、作っている。そしてこの国はいま、確実に戦争への道を歩んでいる……。

「感性を研ぎ澄まし、視点を変え、声をあげ行動しよう」……私たちの呼びかけは受け止められ、船は20番目の寄港地へと入ってきたと、考えたいのだ。


本の紹介 越田 清和

『Alcatoraz Indian Occupation Diary 』(アルカトラス島占拠の日々)

著者 "Indian Joe" Morris/2001年

ジェシ・エド・デイビスという今は亡きミュージシャンがいた。父親がコマンチ民族、母親がカイオア民族で、自分のファースト・アルバムのジャケットに父親が描いたネイティブ・アメリカンの絵を使っていた。1972年に出た彼のセカンド・アルバム「ULULU」の最後に"Alcatoraz"という曲が入っている。この歌はレオン・ラッセルがつくったもので、政治的な歌ではなく、「警察に追われている貧しいインディアンの若者が、長老たちがラジオでアルカトラス島では食糧が足りないと訴えているのを聞いている」というような内容の歌だ。でも、当時人気が出始めていたジェシ・エド・デイビスが、この歌を取り上げて歌った意味は大きい。

1969年11月から1971年6月まで、1年以上にわたってサンフランシスコ湾にあるアルカトラス島が、ネイティブ・アメリカンによって占拠されていた。今から30年以上も前のことだから、ご存じない人の方が多いかもしれない。14人の若者によって始まったアルカトラス島占拠は、米国のみならず世界中に「インディアン」の歴史と現状を訴え、その後の「ウンデッド・ニー占拠」などにつながっていく。

さて、ここで紹介するのは、このアルカトラス島占拠に関わった"インディアン・ジョー" モリス(インディアン名は メタ・ワ・ワキー:一人で歩く者)の自伝である。とはいえ、話の半分はアルカトラス島占拠についてのことである。


1921年生まれの著者は、若い頃はジャズ・バンドを組んで、各地のインディアン居留地のクラブを演奏して回っていた。白人の店で演奏することもあったが、当時(1940年代)は、白人の前で酒を飲むことは禁じられていたので、店の裏で呑んでいたという。「金はなかったけど、食い物が一杯あったから楽しかった」と書いているのが、何となくおかしい。先に紹介したジェシ・エド・デイビスの父親もジャズが好きだったらしいから、ネイティブ・アメリカンにジャズ好きは多かったのかもしれない。

その後、著者は、何度か刑務所に入り(ガソリン泥棒などで)、その後カリフォルニアで港湾労働者として働くようになり、労働組合に入る。

そして1969年、14人の若者たちがアルカトラス島を占拠したのを知り、そこに参加する。アルカトラス島でどんなことが行なわれたかについて、思い出すままに、著者は書く。アルカトラス島に多くのネイティブ・アメリカンが住むようになり、白人とのカップル(結婚している人たちもいる)も移住してきた。すると「インディアン全部族連合」は、すべての白人は島を出て行くことを決めた。「白人はインディアンのことに口を出しすぎるから」というのがその理由だ。いま考えると複雑な気持ちになるが、著者は「そして、新しいインディアン同士のカップルが生まれるようになり、アルカトラスは愛の島となった」とあっさり書く。

島で火事が発生した。この原因についても、警察による放火説などがあるが、著者は「放火の後でカンパが増えた。火事は金になる」と書く。

というように、アルカトラス島占拠の裏話が次から次へと出てくる楽しい本である。「正史」を知りたい人ではなく、「秘話」がお好きな方向きの本だ。