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ヤイユーカラパーク VOL46 2004.03.30
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ごまめの歯ぎしり

ウィルスの復讐

2月、昨年に続いて2回目の「北海道環境教育ミーティング」というものに参加した。深川にある"道立青年の家"で2泊3日のワークショップが行なわれ、今回私は1日だけ『「北海道といえば!野生生物」と環境教育――アイヌに学ぶくらしの知恵』というよく分からない分科会の講師だった。

ビデオ記録を見ながら、クマを始めとする動植物との付き合い方から窺えるアイヌの精神世界のことなどを話し合ったのだが、その中で「野生生物って何だ?」「人間は野生生物の範疇に入るのか?」「生態系のバランスって何だ?」などなども話題になった。北海道には60余種の哺乳動物が棲息しているそうだが、図抜けて数の多い"人間"が作り出している悪環境を、その存在を含めて考え直さなければならないのでは……?

2回目の参加だというのに、そもそも私には「環境教育」というものが分からない。去年は100人、今年も60人ほど集った「環境教育にかかわる人びと」の話を聞いていると、その中に"大型林道工事"や"ダム建設工事"の反対運動に参加している人はいないようなのだ。かつて知床での森林伐採に反対した人位はいるのだろうが、「いま、そういった活動をしている人は、私も含めていないと思う……」と、コーディネーター役の女性が言う。「ふーん……!」、妙に感心してしまった。

2年前にアーサー・マニュエルが来日したのを機に知り合った「日本環境法律家連盟」という弁護士グループの機関誌には、大小の環境破壊事業の実態と阻止闘争についての記事やレポートが毎号掲載されている。それは国内の事例に止まらず、海外の出来事や事件にまで及んでおり、環境と人権が不可分であることを、あらためて考えさせる。教育というのは、こういう営みをいうのではないか

閑話休題。『種の復活』(北上秋彦)というミステリーを読んだのは、SARS騒動の最盛期だった。絶滅したと思われていたペストや天然痘が発生し、日本国内や世界に広がっていくという物語で、犯人グループが目ざしたのはウィルスによって人間という種の淘汰を行ない、"優良種"が支配する世界を創出するというものであった。勿論彼らの計画は、多くの犠牲者を出しながら戦う人びとによって阻止され物語は終わるのだが、「怖い」と感じさせるものがそこにはあった。

BSEやSARSが(とりあえずは)治まると、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザが発生した。鯉が処分され、海外でも国内でも膨大な数の鶏が殺され、埋められ、焼かれている。しかし、カラスにまでウィルスは広がり、他の野鳥への感染については調べようもないらしい……。

36億年前に地球に生まれた生命体の原型が、ウィルスであろう。「世界」とは広辞苑によれば"地球上の人間社会のすべて"とあるから、人間が出現する以前に世界はなかったことになる。たかだか500万年前に地球上に現われ、世界を作り支配してきた人間が、すでに絶滅への道を歩みだしているのではないか。1億6000万年を生きた恐竜たち程の知恵も能力もないのだろうか。

いわゆる科学というものを人間が使いはじめたのは、300年位前のことだという。科学者が言うのだから間違いはないのだろうが、「えぇ!」と驚くほど最近のことである。地球の誕生や生命の誕生まで、さらに譲って人類の誕生まで遡らなくとも、それは"瞬時"といえるほど最近のことなのだ。「五劫のあいだ思惟した」というのは、仏教の象徴的な精神に過ぎない。その、瞬間ともいえる時間の中で、人間の"叡智"は世界のみならず、地球上のすべてを滅ぼそうとしている。

人間だけがおのれを滅ぼすのであれば、まだしもよかろう。しかし、地球上で最も新参者であるこの種は、遺伝子や細胞にまで"科学"の魔手を伸ばし続けてきた。36億万年前からの先住者であるウィルスたちが、これを許せるだろうか。数百年にわたって毒を浴びせられ、いまやその身体を切り刻まれ改造されているウィルスが、「これも宿命」「もっと早くに人類を滅ぼさなかった、我々が悪い」と考えるだろうか。否。知識は人間のほうが持っているだろうが、知恵は彼らの方が豊かである。さもなければ36億万年もの間、生き続けて来れるわけがないのだ。

「これは、人類に対するウィルスの復讐だ!」と、次々に起きるウィルス騒動を見聞きしながら思うのである。タヒチの友人ガビーたちがやっていたヴァニラのプランテーションが、ウィルスのために全滅したと聞いた。4年前に植えた私の1本も死んでしまった。根本原因が分からないので再開のめどもたたず、ガビーはひたすら落ち込んでいるという。無知な私は"植物にウィルスが付く"ことさえ知らなかったのだが、「ウィルスは何にでもいるよ」と教えてくれた植物学者によると、幾つかの原因が考えられるが、プランテーションという形が最大の問題だったのではないかという。"混生・混住"が、健康な生育には大切だと。そうだろう……植物だけのことではないよなぁ……。

「復讐だ!」「復讐だ!」という声が、頭の中を空回りする。ついにオレも、ウィルスの餌食になってしまったのか………。

アイヌ民族にとって先住民の十年とは何だったのか

標記のタイトルで原稿を書くことを引き受けたのは、元旦のこと。正月酒の勢いで安受けしたことを悔やみ始めるのに、長い時間は必要なかった。予想していたことではあるけれど、このテーマで書くべきこと、書ける内容が思い浮かばないのである。思い悩みながら一月余が過ぎ、いよいよ何か書かねばならなくなった。まずは「アイヌにとってのこの10年」を振り返ってみよう。


国連の『先住民族の国際年』前後、日本国内でもさまざまな催しが行なわれ、アイヌはいつもその中にいた。そのなかで最も象徴的な――と私には思われる――出来事があったのは、1993年リゴベルタ・メンチュウを札幌に迎えての講演集会でのことだった。北海道ウタリ協会を代表しての歓迎挨拶の中で、「ウタリ協会がいま進めている"アイヌ新法"制定要求を、ノーベル賞受賞者であるメンチュウさんから政府へ働きかけてもらい、ぜひ法律の制定を実現したい」という趣旨だった。これを聞いて恥ずかしさに顔赤らめたのは、私だけではなかったろう。世界的な賞を受けたとはいえ、自国へ帰ることもならず、暗殺者の手を逃れて世界中を転々としなければならない女性を支援しようというのではなく、生命や生活の危険もないアイヌが支援、協力を求めたのである。一体それまでに――それ以後もだが――アイヌがグアテマラ先住民族のために、メッセージの一つでも発したことがあるのだろうか? 否である。それは、かつて在日外国人の指紋押捺拒否運動に対する支持声明を出すことを提案されたウタリ協会総会が、「それは我々が関わるべき問題ではない」と却下した姿勢・思想と何等違わない。

ある時期、人類学者や民族学者によって"弧絶した民族"と呼ばれたアイヌは、その内面において弧絶していたと言わざるを得ないことを、これらの出来事は示している。それから十余年を経て、アイヌの内面は変ってきたのだろうか?


この10年を"世界の先住民族"という切り口で振り返るとき、『先住民族の10年News』誌が貴重な資料となっている。最近号を含めて、その百余号から読み取ることができるアイヌ像は、いささか心許ないと言ったなら、人びとのひんしゅくを買うであろうか。しかし、ホームページ上の同誌バックナンバーの目次を見、記事の拾い読みをした結果は、自ずとそこに到るのである。

この間、国連人権小委員会先住民作業部会に多くのアイヌが参加してきた。市民団体や個人の支援・協力も得ながら、参加した人びとは会議に出席しロビー活動をし、それぞれが得たものは大きかっただろう。ただ、その感想や報告が「勉強になった」「世界が広がった」「アイヌとしての自信を得た」等々に止まっているのが問題なのだ。「アイヌの存在をアピール出来た」……世界の先住民は、既にアイヌの存在は知っている。肝要なのは、そのアイヌが"何を求めているのか"を明らかにすることだ。日本国へのアイヌの要求を明らかにし、主張し、その実現のために世界の先住民族との連帯を求めていく。このごく当たり前のことが、やられてこなかった。"先住民族の10年市民連絡会"の小林純子は次のように書いている。

「アイヌ民族は北海道ウタリ協会が宣言案作業部会に参加しているものの、アイヌ文化振興法ができて以来(97年制定)、先住民族権利宣言成立を待ちの姿勢である。宣言が制定されたら日本政府に"何か"を訴える、ということしか私は聞いたことがない。宣言に関する当事者であるアイヌ民族はいったい何を求めているのか、議論を深めていく必要があるのではないか。日本国内の政情も上からの圧力を強めているなか、その地においてできることからはじめていかないと世の中は変わらない」(『先住民族の10年News』第99号/「先住民族権利宣言のゆくえ/2003年10月」)

同誌101号(2004年2月)に、1月に行なわれた「第4回先住民族関係NGO/NPO全国交流集会」の報告があるが、度々出てくる"閉塞感"という言葉の源は、主としてこのアイヌの現況の故だろう。

「アイヌ民族はいったい何を求めているのか」という議論は、コミュニティを失ったアイヌが、それでもひとつの集団たり得るのか? 民族として成り立ち得るのか? という問いかけ――内部からのものも含めて――に、唯一応えられる中身であり課題であるだろう。そのための糸口であった「先住民年」と「先住民の10年」を、アイヌ(と、彼らを取り巻く人びと)は、単なる"お祭り"のうちに無為に過ごしてきたのではないか。

2000年9月にピースボート船上で開かれた小さな先住民会議が、コーディネーターと一部の参加者との問題意識の違いから紛糾したときに、アオテアロアのポーリン・タンギオラが言った。「抽象論の繰り返しは止めて、"先住民の10年"の進行状況を点検しよう」。マオリによるその検証・点検によって運動が作り出され、NZ政府への働きかけや要求がなされ、彼らの先住権獲得が実現してきたのである。「先住民の10年」をポスターとして飾るのではなく、武器として闘っている先住民の言葉には、重みがあった。

一方日本政府の方は、「先住民年」や「先住民の10年」によって活発になった世界の先住民族の動きに、敏感に反応した。"国際"に弱いとされる政府らしく、その方法はいかにも姑息だったが、しかし実効性の強いものだった。1997年の『アイヌ文化振興法(略称)』制定、施行である。これによって、"アイヌが何を求めているか"の議論は、始まる前に終焉した。国の目論見通りである。

予想通り、国がちらつかせるわずかな金に翻弄されるアイヌ―一部ではあるが――の姿が出現し、5年が過ぎた。「其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何という悲しい名前を私たちは持ってゐるのでせう」と嘆いてから80年を経た今、知里幸恵がこの国とアイヌを見たならば何と言うであろう。この芽(法律)が根付いてやがて大樹となる、ことは決してない。見えるのは、民族消滅の姿である。

同法が成立・施行されることで、「北海道旧土人共有財産」の存在に光が当てられたのは、国の思惑を越える事態であったろう。「旧土人保護法」の中に記載されているこの「共有財産」については、その実体が不分明なまま論議されることもなくきたのだが、新法施行に伴ってこれを共有権者に返還、もしくは北海道(あるいは同法による指定法人)に帰属するという項目が附則に記され、問題となった。国(行政)が対アイヌ政策として行なってきた理不尽を、象徴的に表わす事例として提起されたのである。

1999年、全道の共有権相続人24名によって提訴された「"共有財産"返還手続無効確認・処分取消し」の行政訴訟は現在進行中だが、それは50年も前に始まり、親子二代にわたって続けられた厚岸町の共有財産を巡る闘いと行政訴訟が、その出発点だったといえる。1951年に始まった共有財産に関わる三田良吉の闘いは、行政の支配の論理に抗して繰り返し行なわれ、その死後は長男三田一良が生活苦と病苦の中で継続してきた。「厚岸町アイヌ民族共有財産引渡処分無効等確認請求事件」は1998年8月、釧路地裁への提訴に始まり、2000年3月最高裁判決で敗訴が確定するが、一良は同年10月「厚岸町アイヌ民族共有地引渡請求事件」を提訴した。これも2002年3月釧路地裁で敗訴し、控訴を逸しはしたものの一良は新たな闘いを構想しているようだ

共有権相続人24名による裁判は、今年3月に札幌高裁で控訴審が結審となる。おそらく最高裁での審理へと移行して行くことになるのだろうが、おおかた結論は予想できる。堀内光一著『アイヌモシリ奪回――検証・アイヌ共有財産裁判』に記述されているように、北海道(行政)のこの問題への対応は、権力の暴挙と言っても過言ではないほど非常識で理不尽なものだった。三権分立というのは名ばかりのこの国で、アイヌ民族の抹消を根底で意図している政府の意を受けた判断を司法が下すのは当然である。アイヌの共有財産を残してはならないのだ。議論の糸口は摘み取らなければならない。

しかし、マボ判決(オーストラリア・1992年)もデルガムーク判決(カナダ・1997年)も、その地の先住民が不断に続けた権利回復・獲得の闘いと無縁に出されたものではない。それぞれの連邦最高裁判所が彼らの権原を認めざるを得ないところまで、先住民たちが追い込んでいったのである。アイヌが「共有財産」を切り口に、国の行なってきた非道・抑圧・収奪を明らかに示し、反省・贖罪を求めていくことは、一つの方法ではないだろうか。その核心に、"アイヌが求めているもの"が明確に見えていることが前提ではあるが。


私が見、聞き、印象に残った事柄から整理した「アイヌにとってのこの10年」なので、偏向があることは自覚している。しかし昨今の"アイヌ持ち上げ構造"のなかで、アイヌであることは非常に困難な道を歩むことである。さらに"アイヌ民族"を確立するためには、より困難な道を選んで行かねばならないだろう。そこを回避しようとすれば、まさに国が「アイヌ文化振興法」によって目論んだ自滅への道に迷い込むことになってしまう。ハワイイ先住民が自文化復興をハワイイ・ルネッサンスと称し、"政治的な挑戦"と位置づけながら運動を広げている。世界の先住民も、苦悩しながらそれぞれの道を切り開いている。「先住民の10年」を越えて、アイヌも歩き出してほしい。

※これは雑誌『インパクション』(インパクト出版会)140号(2003,3,10)に掲載されたものを転載しています。


付録・映画評

とうとう『ラストサムライ』を見てきた。"とうとう"と言うのは、そもそも見たい映画ではなかったからだ。つまり、何の期待も持たない映画だった。それを今頃のこのこ見に行ったのは、あちこちで見聞きする評やコメントと、アカデミー賞ノミネートのお祭り騒ぎが気になったからだった。

"スケールの大きなB級映画"というのが観後感(こんな言葉はない)。戦闘シーンの早さと激しさは、これまでの日本映画にはない迫力だった(今後も現われないかもしれない)。黒澤を超えていた。だから"スケールの大きな"であるが、それは黒澤映画が感じさせた戦場のリアリティの片鱗も感じさせるものではなかった。徒に派手なだけで、戦闘や戦場のリアリティを感じさせない戦闘シーンとは何だろう?

"B級映画"の理由は、ご都合主義的正義感に裏づけられた娯楽性である。トム・クルーズの脳裏に繰り返しフラッシュバックするインディアンの虐殺シーンは、やがて渡辺謙率いる山中の武士集団の戦いと重なるところから、主人公や監督は"滅ぼされていくインディアン部族"と"最後のサムライ集団"とをオーバーラップさせていることが分かる。実際にそのサムライ集団を"tribe(部族)"と呼ぶシーンもあった。しかし、彼らの土地の正当な所有者であり主人公である"インディアン"と、土地と人民を収奪し支配することで成り立っている"サムライ"とは、重なりようがないのだ。自民族の現在と未来を守るために戦ったインディアンを殺して英雄になった我が身を、「天皇のために戦う」サムライ集団の中に置き、ともに戦い滅びることで贖罪しようという主人公の"思い違い"は、滑稽である。

揺れる主人公の心情に比して、始めから終わりまで変わることのないサムライの心。それによって「武士道」を描きたかったのかもしれないが、何の面白味もない人間像で、これでアカデミー賞が取れるわけはないと思った。ならば何故、ハリウッドは渡辺謙をノミネートしたのだろう?

ここからは、下衆の勘繰り。

『ラストサムライ』に『たそがれ清兵衛』をくっつけてアカデミー賞騒ぎを起こし、"サムライ""武士道"をはやり言葉にすることで、アメリカは何を目論んだのか?

それは、"自衛隊イラク派兵"の正当化だろう。正義の戦いに、日本からもサムライたちが参戦する。正義に殉ずる自衛官を、旗打ち振って送り出そう……。日本人への、効果的なプロパガンガである。それが功を奏したかどうかは……やがて明らかになるだろう。偶然なのかもしれないが、上映前、予告編の最初はPKO宣伝の政府広報だった。B級とはいえ、映画の力は侮れない。

天皇が出たからB級になったというわけではないだろうが、天皇睦仁は噴飯ものだった。やっぱり天皇やキリストは、画面では後姿くらいにしておいた方が無難である。


『氷海の伝説』は、2回見た。その評価は各所にたくさん書かれているので、私が付け加えるようなことはないと思うが、最初に感じた「大きい!」という印象(感動)は、2度目にも変わらなかった。それは画面で見る自然――物語を取り巻く北極圏の――の大きさではなく、物語自体の大きさである。単純、素朴とさえ思われるストーリーの中の、何が大きさを感じさせるのか? おそらく、物語(伝説)を紡いできた人びとの魂の大きさなのだろう。"足の速い人(映画の原題)"の物語は終わったが、この人びとはもっと違う物語を幾らでも持っている。次はどんな話を聞かせてくれるんだろう?……そう思いながら、劇場の暗闇から出てくるのである。

アイヌの生活から「ユーカラ」が消えて久しい。それはカナダのイヌイットにとっても同じだろうと思う。けれども彼らは、消えようとしていた――あるいは、消えていた――伝説(物語)を息吹かせ、甦らせ、取り戻した。これは凄いことだ。

この映画がイヌイット自身によって作られたことの意味は大きい。権力欲、謀略、嫉妬、殺人、復讐などを、このようにリアルに描くことは、非先住民には出来ないだろう。"調和に充ちた美しい先住民の精神"をバーチャルに現出させることに汲々としている人びとには、立ち入ることも出来ない世界なのだ。そうしなければ等身大の先住民の姿はおろか、精神を描くことなど出来ないのに……。

ピースボートで一緒になった映画製作者の山上徹二郎さんが、「アイヌの映画を作らなければ駄目です。そのための作業をしていかなければ駄目ですよ……」と繰り返していた。そうなのだ。アイヌも、自分たちの物語を、伝説を取り戻さなければならないのだ……。

さまざまに思いを広げてくれる映画だった。