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ヤイユーカラパーク VOL49 2005.03.20
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おもな内容

新刊・旧刊

『グローバル時代の先住民族―「先住民族の10年」とは何だったのか―』
       上村英明【監修】 藤岡美恵子・中野憲志【編】 (ソニー・マガジンズ/2003,12,20)

9月12日、札幌でドキュメント『テロリストは誰?』を観た。18〜19日には広島へ行き「グローバリゼーションと先住民族」というタイトルで話をしなければならないことになっており、その直前に本書が届けられたので、飛行機の中とホテルで読み続けた。18日朝、テレビのニュースが「ブラジルの後訪れたメキシコで小泉首相が、メキシコとの<自由貿易協定>に署名」と言っていた。したがって私の話は、2004年が「サパティスタ民族解放軍武装蜂起10周年」であり「世界の先住民の国際10年」最終年であることから始まり、第三世界を舞台に行われてきた第三次世界大戦(『テロリストは誰?』中)から、第四世界を標的にした第四次世界大戦(本書中)に移行してきたなかで世界の先住民(族)が苦しみ、殺され続けている現実こそがグローバリゼーションの実態であり、"大国"日本の責任と日本人のなすべきことを自覚して運動を作っていかなければならないという内容になった。

この半月の間、私が上記のような体験をしたことは、偶然の連続だったのだろうか?

そうではあるまい。そうではないという確証を得たくて、本書を改めて読み直したのである。

目次を転記することは紙幅が許さないが、2部・9章に15の論稿が掲載され、資料編とともに、考えなければならない問題を数多く提供してくれる。勿論すべての論稿が納得いくものではなく、異論や疑義のあるものもあり――とくにアイヌに関わる論稿に――、日本人による論稿が少ないという恨みも残るが、編者が「序」に述べた「本書がとりあげうるのは、彼/女らがかかえる問題群の断片的なごく一部に過ぎないものであるが、しかし同時に本書はその全体を通して、問題群を引き起こしている根本原因が、この20年余りにおいて<グローバリゼーション>と呼ばれてきた現象と世界の国民国家の体制、端的にいうならば非先住民族の側であることを読者に明らかにするはずである」という趣旨は充たされているだろう。

1983年に創設されたサパティスタ民族解放軍(EZLN)が、北米自由貿易協定(NAFTA)に反対して武装蜂起を決行するまで、10年という時間をかけている。その間の国内での力の蓄積と国外への情報の発信が、1994年の蜂起と同時に国内外の多くの人や活動体からの支持・支援となった。停戦や休戦を挟みながら戦い続けたそれからの10年間、彼らの戦いが世界の先住民(族)運動に与えた影響は、計り知れないものがあり、停戦中の現在もそれは変わらない。

この10年間を深刻に、冷静に評価し直さねばならないだろう。身は「北」に置きながらも、自らを第四世界の住人と思い定めて語り、行動していかなければ、グローバリズムの標的とされた世界中の先住民(族)との連帯などありえない。グローバリズムの行き着くところは、偏狭なナショナリズムであろう。すでにこの国も、そのレールを走り始めている。非先住民とて安全ではないのだ。危険を感知し危機感を共有できるなら、闘いは作れるはずである。そのヒントが本書中にはあると、再読して思った。偶然ではなく縁であるとも……。


前記「異論や疑義」について補記しなければ、誤解を招くかも知れない。

本書が日本の読者を対象として編集・刊行された以上、読者の最大の関心は、この10年間のアイヌとアイヌを取り巻く日本社会の動向であり、未来への可能性についてだろうと私は考える。しかし本書中のその部分は、まったく期待を裏切るものであった。

国連(人権小委員会先住民作業部会)へのアイヌの関わりについては詳述されているが、その結果がどのようにアイヌ社会――と言えるとすれば――に反映され、アイヌが行動を起こす力になっているかは記されていない。まるで行動への意欲も意図も無いかのように静かである。この10年が「学習の10年」であったのならば、せめてその学習の結果として、「行動の指針」を思わせる文脈があってしかるべきであろう。前述したように、準備に10年をかけたサパティスタ民族解放軍はその後の10年を戦い続け、現在も闘い続けているのである。

私はアイヌの武装蜂起を望んでいるのでも、呼びかけているのでもない。ただ、いわゆる近代国家に呑みこまれてからでも130有余年間、濁流のように襲いかかる消化液にも辛うじて溶けきらずに生き残ったアイヌが、民族として復権を果たすには生半可な闘いではすまないし、深刻な決意が必要だと思っているのだ。日本国も日本人社会も、アイヌにとってはそれ程強大である。

情報に触れ、学習し、分析する。必要なことだ。しかし、そこに止まっていれるのはアイヌではなく、アイヌを取り巻く人びとである。アイヌ自身は、動き出すべきときをすでに迎えている。さもなければ、金混じりの強力消化液によって跡形もなく溶かされてしまうことになるだろう。最もグローバリズムに抗して立ち上がらねばならないはずの人びとが、歪められたグローバリズムに呑みこまれていく姿は、悲しい。

これは、昨年末「先住民族の10年News」に掲載されたものに加筆、グァテマラプロジェクト機関紙「compa」に掲載されたものです。


『ポストコロニアリズム』   本橋 哲也 (岩波新書/2005,1)

ピースボート41回クルーズ(2003,8〜9)で、アカプルコ〜東京間を一緒した本橋さんの新著。船では、"カルチュラル・スタディーズ"という講座をやっていた。

コロンブスにはじまるコロニアリズムを踏まえたうえで、第二次世界大戦以後のポスト・コロニアリズムを、世界の3人の思想や行動から明らかにしようという試みである。

浅学な私にとっては、フランツ・ファノン(アルジェリア)、エドワード・サイード(パレスチナ)、ガヤトリ・スピヴァク(ベンガル)という人びとの存在と、その思想(行動する哲学?)にわずかでも触れることができ、目を開かされたことが何よりの収穫だった。最終章中のアイヌに関わる論考がやや表層的に過ぎる印象があり、言葉足らずを感じるが、それを補って余りある内容がある。特にファノンという人については、その著作を読み、知りたいという思いを強くした。

新書ということもあり、一読を勧めたい。