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ヤイユーカラパーク VOL47 2005.03.20
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ごまめの歯ぎしり

映画・映画・映画……

『北の零年』(2004/日本)

じっと我慢の2時間50分だった。とにかく、「嘘っぽい」のだ。小説にしろ映画にしろ、虚構の世界を創出する作品に要求されるのは、真実を感じさせるような嘘の構築であろう。「嘘」と「嘘っぽい」の間にある違いの大きさを、この映画は感じさせてくれた。『世界の中心で愛をさけぶ』は見ていないがそれ以前に『Go』で大いに感銘を受けた行定勲監督だけに、残念である。

北海道の“どこか”への士族団体入植という、まったく架空の設定で作られた日本版西部劇であれば――原生林(?)開墾シーンの安っぽさという致命的な欠陥はありながら、『ラストサムライ』同様の大型B級映画であり、云々されることもなかったのだろう。しかし作品の解説に「この作品の物語は、史実を踏まえて作られている」と謳われている以上、1871(明治4)年静内へ移住・入植した稲田家主従を頭において映画を見ていくことになる。すべてが嘘っぽくなるのは、そのせいもあった。

1871年、137戸(500余名)を率いて静内に移住・入植した16歳の稲田邦植は(自身は2年後になるが)、1895(明治28)年家督を弟邦衛に譲り徳島へ移るまでは、静内に定住していた。若いながらなかなかの人物だったようで、短期間とはいえ静内郡の支配職にも就いている。

エドウィン・ダンが開拓使の要請で新冠に牧場を開いたのは、1878(明治11)年。御料牧場で野生馬(いわゆるドサンコ)に外来種馬を交配し、改良と育成をおこなった。牧場周辺でストリキニーネによる毒殺をおこない、全道のオオカミ絶滅作戦の先駆けとなっている。ダンとは直接関わりがないようだが、開拓使によるカラス絶滅政策によって天敵がいなくなったバッタの異常発生が、1880(明治13)年から5年続く飛蝗襲来となる。この年静内地方を襲った飛蝗は十勝で発生し、日高から胆振、石狩へ移動して大被害を与えた。米国式営農(有害とされた獣鳥虫をすべて殺戮する……営農だけではないか……?)の典型的な失敗例である。1874(明治7)年、静内で水田による米耕作が試みられたが失敗して中止、という記録がある。1887(明治20)年以降の試作が実り徐々に水田が広がっていくのが、静内の農業である。バッタに食われて実りかけた米を失うというのはドラマチックではあるが、ヒロインの牧場経営と同様に、あまりにも「嘘っぽい」。

1872年開拓使が、日高管内の野生馬2千数百頭を集めて新冠に囲ったという記録がある。しかしそれらはすべてドサンコであり、サラブレットはもちろんアラブも混じってはいなかった。馬体が大きく剛健な野生馬を、入植後の稲田家臣たちがアイヌに捕獲を依頼し、開墾に使用したという記録もある。エドウィン・ダンはヒロインを救えなかったし、ラストの西部劇シーンもありえなかったのである。

稲田家入植当時の静内郡の人口構成は、アイヌ:1204人、和人:586人(500余が稲田家臣家族)だった。なのにたった1人のアイヌしか登場しないのは、不自然を通りこしている。それも、刺繍入り着物の着たきりすずめでは、観光ハガキの“アイヌ風俗”である(もっとも、「衣装着ていないとアイヌに見られないんじゃあ?」という不安を抱えたアイヌもいるようだから、仕方がないのかもしれないが……)。まあ、「出さないわけにもいかず」と、西部劇仕立てにする必要で登場させたんだろうが……。

クマを撃って、火も焚かずに「オンカミアンナ〜」がありですか? せめて考証だけでもちゃんとやれよなぁというシーンが多かった。

移住当初、『静内郡土人は総て染退川(静内川)沿岸に住し、鮭の乾魚及鹿肉を干したるもののみを常食とするを以て、毫も耕作を為すものあらず、海辺には根室に通じる小道あるのみにして海岸一帯より原野を望めば、樹林鬱蒼として古来斧鉞の入りたることあらず、万目の光景今日よりしてこれを見れば、誰れか当時の情況を想像し得る者あらんや』【瀬川芳蔵回顧録】であった中での開墾を実感させるには、製作費15億円のうち2000万円程を樹木の購入にあて(東大や北大の演習林が伐り出し販売している)、一抱え位の大木2〜3本を切り倒すシーンを入れれば済んだのだ。しかも入植地が海岸近くや静内川沿岸の平坦地だったのにも関わらず、夕張へロケしての豪雪シーンは、日高の冬ではない。

書き出せばきりがない。サユリストでなかった私には、吉永小百合が画面にいても何の感銘も同情も沸かない。「いつでも夢を〜」じゃあないだろうに……。トヨエツに到っては――ファンには悪いが――噴飯ものである。五稜郭からの逃亡兵ならば、佐々木 譲の『五稜郭残党伝』を映画にしたほうが、余程ましな日本版西部劇が出来上がる。アイヌの存在と和人の関わりについても、“史実”を思わせる描かれ方で、納得いくフィクションなのだ。虚仮脅しの音楽も不快だった。

……と、見るべきところのない映画にもかかわらず、興行収入は一位に迫っているということだ。依田勉三を描いた映画も出来たそうだが、未見。原作(松山善三)がつまらなかったから、たいした作品にはなっていないだろう……と、下衆の勘ぐり。


『パッチギ!』(2004/日本)

井筒和幸監督の作品は初めて観たのだと思う。前項で“感銘を受けた”と書いた『Go』とは少し違うが、ボリューム的には同様の感銘を受けた。とにかく「面白い!」のだ。“ロミオとジュリエット”話でシンプルな構成だが、1960年代に青春時代(私にだってあった)を過ごした世代には、胸が熱くなったり、キュンとなったりするシーンがたびたび現われる。もちろん幾つかの悔いも含めて……。差別や怒り、悲しみもありながら、この明るさと力強さは見事である。「パッチギ=突き破る、乗り越える。頭突き」の両方が弾ける画面からは、井筒監督のオプティミズムが伝わってくる。グループサウンズ、大学闘争、帰還運動……若い世代には初めての体験(映像を通してだが)から、今を考える好機であろう。

小遣い稼ぎに、廃品置場からトラックで運んだ鉄パイプとヘルメットをキャンパスで大学生に売りつけるシーンは、まさしく「笑える!」し、河原での決闘シーンはアイルランドを舞台にした『草原とボタン』(1955,イギリス映画)を連想させる。

頻繁に流れる「イムジン河」がいい……と、ベタ褒めになってしまった。テレビの“ちょっと面白いコメンテーター”としか知らなかった井筒監督の他作品を、少し見てみようと思った。


『酔画仙』(2002/韓国)

何の予備知識もなしに観にいった。しばらくすると、妙な懐かしさを感じ始める。とくに人が朝鮮の自然のなかで生きている――何とも芸のない表現だが――シーンは、シアターキノのそう大きくはないスクリーンが何倍にも感じられるほど拡がっていくのである。終映後チラシで確かめると、やっぱりイム・グォンテク監督の作品だった。私は名作『風の丘を越えて〜西便制』を、今でも時々ビデオで観ている。知らぬまま見逃したら大変だった!

動乱の19世紀末、朝鮮の賎民(と呼ばれていたが白民であろう)の子として生まれた少年が、画才を認められ、成長するとともに大家と称せられるようになるが、自らの画法を求め続け、50歳を過ぎて行方不明になったといわれている実在の天才画家チャン・スンオプの物語である。

これから全国で上映されていくので内容には触れないが、ぜひご覧頂きたい作品だ。

風景描写やストーリー展開以外にも、見ていくにしたがって懐かしさを感じる要素があった。それは主人公スンオプの姿である。「酒と女なしに絵は描けない」と言い、酒椀を放すことがないソンオプが、砂澤ビッキと重なり、金城実と重なった。演じた俳優チェ・ミンシクの体型と風貌のせいもあるかもしれないが、叛骨精神を内に湛え、酒を仕事のエネルギーにして終わりなき創作に打ち込んでいく……そんな姿だった。一緒に観た智子さんは、「あんまりビッキと重なりすぎて、辛かった……」と。

それにしても、スンオプと情を交わし、心を交わす女性たちが、すべて妓生だったのは象徴的である。


ヨンさまとホリエモン

フジテレビとライブドアの戦争(?)は、3月11日に「ニッポン放送新株発行の差し止め」という地裁判決が出たことで、とりあえずはライブドア側が有利になったようだ。6月の株主総会まで、これから更に紆余曲折を経て結論に至るのだろうし、各紙・各局が解説入りの報道を続けていくのも変わらないだろう。

それにしても、この間の過剰報道はどうだ! テレビは朝から晩までこれ一色といってよかった。他局がニュースショーで視聴率を稼いでいるとき、フジテレビだけがこれを無視して視聴率レースから脱落していたのは、滑稽であり哀れである。週刊誌――広告でしか分からないが――もまた然りで、今頃別れた妻子を衆目に晒して、どうしようというのか?

政界、経済界もまた、醜悪だった。自民党のボスたちが「金があれば何やってもいいわけではない」とか「放送の公共性を守らなければならない」などと言っているのを見聞きすると、笑うしかない。資本の論理で好き勝手をやって来た経済界のボス連が、「規制の強化を」言うのも同様だ。

つまり、生意気な若造に対するバッシングである。“ベンチャー企業の育成”を唱えていた政・財界の権力者たちは、いざそれが目立ち始めると直ちに潰しにかかる。「日本には日本の伝統的な商法がある」と拒否反応を顕わにする日本企業が、“グローバリゼーション”の名のもとに、海外ではやりたい放題を尽くしているというのに……。 この状況に、イラクで拉致・拘禁された若者たちに対するバッシングとまったく同じものを感じているのは、私だけではないだろう。

そして何より恐ろしいのは、この一件によって、NHKへの政治の圧力という問題が吹き飛ばされたことだ。番組「戦争をどう裁くか・問われる戦時性暴力」改変がどのように行なわれたのか、それによる聴取料の不払い・支払停止の実態がどうなっているのか? それが今ではまったく話題にされなくなった。NHKや当該政治家にとっては、ホリエモンは救世主となったのではないか?

偶然――だろうと思うのだが――北海道ではこの時期、韓国ドラマ『ホテリア』が地上波で放映されている。ヨンさま主演のホテルをめぐるM&A(企業の合併と買収)の物語で、役回りとしては“ヨンさま=ホリエモン”なのだが、ヨンさまを悪党のままにするわけにはいかないので、更なる悪党に役割を入れ替えるというストーリーになっている。週3回午前中にこれを見ながら(笑わないでください)、「ホリエモンももう少し見栄がよければ、もっと楽に闘えるのになぁ」と思ったりするのである。

仮にライブドアが放送界に参入を果たしたところで何が変わるというものではあるまいが、いまや日本人の頭脳・感性・心情・嗜好のすべてをマス・メディアが牛耳っていると言っても過言ではない状況のなか、それらの権力者をうろたえさせ、お粗末な言動を引き出している「ドラマ」を、しばらくは楽しめそうだ。


そして韓流

最近のある日の新聞テレビ欄(札幌版)。9:55〜ドラマ「その陽射が私に…」、10:25〜ドラマ「ホテリアー」、16:00〜ドラマ「秋の童話」、20:54〜映画「スキャンダル」(以上地上波)、15:00〜ドラマ「秋の童話」、16:00〜ドラマ「夏の香り」、20:00〜ドラマ「オールイン」、22:00〜映画「花嫁はギャングスター」(以上衛星放送)。翌日も、ほぼ同じような編成である。まさに“韓流”一色だ。

“智子に引かれて韓流参り”ではないが、何だかんだ言いながら私も結構見てきてしまった。ドラマの感想は、「昔の少女漫画(コミックと言うのか?)の世界」だ。日本のテレビドラマをまったく見ないので比較はできないのだが、多分、大分違うものがあるのだろう。熱狂的(と見える)フアンの大半が週刊漫画誌世代なのも、むべなるかなである。そう、智子さんがまさしくその世代だった。その世界に入り込みやすいのだろう……。

そしてドラマのほとんどが、リゾート開発がらみの“お金持ち”と“庶民”の恋物語で、三角・四角関係が展転とする華麗で切ないストーリーなのである。「日本の高度経済成長期にも、こんな世界があったのだろうか……?」

タイミングよく(!?)日本では、リゾート王国の帝王が失墜してゆく実況が、連日報道されている。ナポレオンもヒットラーも知らない日本人が、始めて独裁者による国土席巻の実態に気づかされた出来事ではないだろうか。フランスやドイツでそうであったように、余りにも多くの人びとが、その独裁者に心を奪われ儚い夢を追いかけていた。そのツケが、やがて廻されてくる。

かつてアジアの国々に「おしん」ブームが広がった。いま、それらの国々では「冬ソナ」にはじまる韓流ドラマが広がっているという。“辛抱”から“消費”へ、人びとの意識が変わってきたのだろうか? そんなに豊かになったのだろうか? 

豊かでないから豊かさに憧れ、“ドラマの時間”に酔おうとするのであれば理解できる。経済だけではなく心が“豊かさ”に憧れ、辛い恋に酔いたいと願っているのではないだろうか。不景気の最中に日本では、“セレブ”という言葉が流行ったように……。

韓国映画の秀作が次々に公開されるのと裏腹に氾濫する“韓流ドラマ”の甘い毒に、なにやらきな臭いものを感じてしまうのだ。

ともあれ、このニュースを発行しさえすれば、入手したばかりのビデオ「砂時計」(韓国ドラマ・全24回)を見ることができる。期待の硬派ドラマを、2日間で観了(こんな言葉はない)する予定。急がねば……!