古代文明の発祥地にはそれぞれの土地に適した主要作物がある。メソポタミア文明は麦。インダス文明は米。マヤ文明はトウモロコシでインカ文明がジャガイモ。それは、そのまま現代まで引き継がれ、乾燥地に適したコムギは西アジアからヨーロッパ全土に広まり、暑くて雨の多いアジアでは米を、ラテンアメリカではトウモロコシを主食にしてきた。そして、アフリカや南米、東南アジアの一部の国々では、サトイモ(タロイモ)、ヤマイモ(ヤムイモ)、キャッサバなどのイモ類も主要作物になっている。
そうなると「人間は何を食べて栄えてきたのだろうか」と、好奇心がうずいていろいろと調べてみた。今回はそのレポートのようなものになる。拙者は素人なりに資料を読みあさって、できるだけ正確に全体の「イメージ」をとらえるように努力したのだが、生来の空想癖がどんどん飛躍していくので、楽しくなってすっかり遊んでしまった。
ここに書くことはすべて資料のパクリである。そこに、知ったかぶりのコメントがもぐりこんでいる。他人に話して諸君が恥をかいたとしても拙者は一切責任をもたない。
現在、地球上の陸地の1割が耕地で、その半分の土地で穀物が栽培され、その又7割が、コムギ、イネ、トウモロコシで占められている。
森で、果実や葉っぱを食べながら樹上生活をしていたわれらの祖先。彼ら、彼女らが、樹から降りて草原で暮らしはじめた時に食べはじめたものが、「現生人類」にも引き継がれている。イネ科やマメ科の植物によって穀物食や豆食を、肥大した植物の根塊や根茎を食べることでイモ食を発見した。雑草におおわれたサバンナで、食べられるものを識別し、食糧を求めるのは容易なことではなかっただろう。
ある日突然、みんな揃って森を捨てたとは考えられない。少しずつサバンナでも食糧を調達するようになったと考える方が自然だ。だが、山火事かなにかの自然現象で森が壊滅的なダメージを受けて、否応なく放り出されたという事も考えられる。
身の隠しどころがない草原では敵に襲われる危険性も大きくなる。外敵から身を守るためには、後足だけで立ち上がり、常に回りを見張っていなければならなかった。そして、やがては直立二足歩行をすることによって開放された前足(=手)で道具を使うようになり、獣を捕らえ、その肉や乳を利用することも出来るようになる。道具を使うことによって脳の発達も促されたというから、サバンナでの生活は人類の進化に飛躍的な変化をもたらしただろう。ついでながら、動物園のレッサーパンダが後足で立ったとしても、将来、人間に「進化」することは絶対にないので「皆さん、どうぞほっといて上げてください」。
その後のご先祖様たちの暮らしに偉大な革命をもたらしたのは、言うまでもなく農耕の発見だ。農業は採集した食糧の貯蔵法として発達したという。土の中に貯蔵したイモや豆や穀物が、貯蔵中に目減りするどころか何倍にも増えてしまう事実を発見した先人たちは、わが眼を疑ったに違いない。そして小躍りして喜んだ。……だろう。「みんながその場に集り、収穫を喜び、輪になって踊った」というのは、もちろん拙者がひとりで楽しむ空想ゲーム。人々(?)の意識はまだまだそこまでは進んでいない。
農耕の発見は「文明」の黎明期にあたる。ヒトが食糧を狩猟や採取によって確保するのに夢中だった時代を経て農耕に出会い、農耕の発達によって余剰食糧が生まれる。皮肉なことに、その余剰食糧が自ら食糧の生産に携わる必要のない支配者階級を輩出する。歴史はその段階を「文明の誕生」と呼んでいる。つまり、文明の発祥には余剰食糧の出現が必須の条件だった。(末尾に注をつける)
考古学は、一万年前(BC8000年)にある程度の農耕が行われていたことを明らかにしている。それは、最後の氷河期が終わり、地球の気候が安定化しはじめた時期と一致している。気候が安定化するというのは、一年の季節がきちんとめぐることだ。春夏秋冬の季節が安定化すれば、それまでは絶えず移動しながら採取していた食糧が、ある場所において、ある時期になると必ず採れることが分かってくる。そうして、ヒトは農業に目覚め、次第に定着して居住するようになる。新石器時代の始まりである。ただ、その時代はまだ狩猟、採取が中心で農耕は補助的なものだった。少なくとも余剰食糧を得るまでには至っていない。ヒトは相変わらず日々の糧を求めて放浪を続けていたのである。
チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域一帯(現在のイラクあたり)にメソポタミア文明(BC 2800年)が栄えたころ、イスラエルやパレスチナ周辺で採取された野生種の麦が大規模に栽培されるようになる。ギリシャ語の「Mesopotamia」は「ふたつの川にはさまれた場所」を意味する言葉だというから、アイヌ語地名と同じで分かりやすい。太古の昔から氾濫をくり返してきた河川周辺の広大な氾濫原は農耕に適した豊かな土壌に恵まれていたのだろう。ここでの農業と都市文化の結びつきを、歴史書の多くは「文明の始まり」としている。
コムギには、水でこねると粘弾性を生じるグルテンと呼ぶタンパク質が含まれている(他の穀類にはない)。グルテンの含有量の多い小麦(強力粉)の産地ではパンが普及し、グルテンの少ないインドや中国の小麦(中力粉、薄力粉)ではナンやチャパティ(無発酵パン)や饅頭(蒸しパン)などが作られる。イタリアでパスタ用に使われるデュラム小麦はグルテン含有量が最大で、粘りが強すぎてパンにはむかないという。
高校時代に初めて食べたスパゲッティーナポリタンは「細めうどんのケチャップ炒め」といった風情で、安かったので学生たちにも人気があった。デュラム小麦粉はまだ輸入されていなかったのだろう。
メソポタミアで育ったコムギが古代エジプトでパンとして生まれ変わる。それは、エジプトが石の文化だったため製粉技術にすぐれていたからだという指摘がある。メソポタミアは粘土の文化である。土鍋で煮炊きしてそのまま食べられるオオムギの方が重宝されたのだろう。
中国にはBC2000年頃にオオムギが到達し、コムギはさらに1000年遅れて伝わったとされているが、粒のまま食べられるオオムギに比べ、コムギは外皮が硬くて製粉しないと食べられないから、中国側の食文化事情もあったのだろう。大麦と小麦は穂の大きさで区別されたものではない。漢語で主要なものに「大」を用い、その他のものに「小」を用いたことによる。「大人」とは偉い人のことで、「小人」とは区別した。同じように、彼らにとって、より大切な麦を「大麦」と表わしたようだ。
縄文時代の日本ではヒエやアワが食べられていた。そこに大陸から農耕が伝わり、イネやオオムギが育てられるようになって弥生時代の幕が開く。それはやがて、女王卑弥呼の邪馬台国誕生へとつながっていく。弥生時代は紀元前後の500年間くらいだから、農耕とそれに続く文明が開けたのはメソポタミア文明に遅れること約3000年の時差がある。
その後、小麦粉を水で練り、のばした皮に肉や野菜を包んで茹でるワンタンのようなもの(うんとん)が伝わり、当時は大陸文化の輸入元だった仏教界に取り入れられる。もちろん肉食を戒めた精進料理の世界のこと、中身の肉や野菜は一切のぞかれて、皮だけが残って「うどん」になる。
室町時代に入ると、うどんは蕎麦と共にお寺さんの布教活動の一環として信者にふるまわれるようになって、庶民のあいだにも広まった。その頃には、ポルトガル人宣教師によってパンももたらされている。新しいもの好きの織田信長が喜んで食べたと伝えられるが、まあ、よくある作り話だろう。
もともと米が貨幣代わりになるほどの主要農産物であった日本では、小麦の作付け面積は多くなかった。それでも明治時代になると、現在の大手製粉会社も登場してきて、国産品の不足分はアメリカから輸入するようになる。当時、国産小麦粉は「うどん粉」と呼ばれ、輸入した「メリケン粉」とは区別されていた。はっきりとした根拠は示せないのだが、うどん粉は薄力粉で、メリケン粉は中力粉または強力粉だったのではなかろうか。
1970年代に入って過剰米問題が発生し、転換作物として小麦にスポットが当たるようになったが、それでも現在、小麦の自給率は10パーセントに満たない。その約半分が北海道で作付けされている。
主な参考資料
・ 宇宙から見る生命と文明(アストロバイオロジーへの招待)= NHK人間講座 松井孝典
・ 栽培植物の起源 = NHKブックス 田中正武
・ 小麦粉博物誌 = 日清製粉編
・ 小麦製粉の知識・改訂増補版= 幸書房、柴田茂久、中江利昭編著
・ 理科年表・2005年版 = 国立天文台編 丸善
≪注≫ 一通り書き終えて読み返してみたら「さて、困った」。文明の定義についてである。余剰食糧と支配者の存在が文明の前提になるのなら、アイヌ民族や世界の先住民族の文化は「非文明」ということになる。拙者は困って手元にある広辞苑(昭和42年版)で「文化」を引くと「世の中が進歩し、文明になること。ひらけること。」と書かれている。これではなんだかさっぱり分からない。次に「文明」を引くと、「……物質的にも発達し、特に機械の利用が行われて生活の便が計られ、人格尊重と機会均等などの原則が認められるような社会。すなわち近代社会の状態。←→蒙昧・野蛮。」という言葉が飛び込んできた。前半は納得する。だが、後半の説明は現在の状態とは明らかに違う。対比させられた最後の二文字こそ、いまの世界の状況を的確に表わしている。……文明と非文明が逆転しているのだ。
今回は、能天気な拙者の手には負えない世界に頭を突っ込んでしまったようだ。
しかし、北大農学部の図書館通いは実に楽しかった。文明と農業のかかわりなどについて調べながら、一方で、小麦粉はパン、ケーキ、麺類の他に料理の主役にはなれないことも分かった。料理に小麦粉は欠かせない。だが、小麦粉料理と呼べるものが見当たらない。かつて関東地方には「トッチャナゲ」と言う料理があったと聞いて調べてみたが、それは言葉通りの「取っちゃ投げ」で、練った小麦粉をちぎっては鍋に投げ入れた、言わば「すいとん」のようなものだった。食糧難時代のヤケクソになった関東人の気分が、そのまま料理の名前に表れている。見事なネーミングである。
クレープ、チヂミ、お好み焼きは、それぞれお国柄があるだけで作り方はほとんど同じ。クレープを「フランス農家風薄焼きせんべい」と言った人がいる。かつてはそば粉を使ったりもしたらしい。小麦粉を牛乳でうすくといて蜂蜜を加えてフライパンで焼く。出来上がりにバターをうすく塗る。ただそれだけのものだ。拙者は卵をといたところに牛乳を加え塩と砂糖をほんの少しいれる。蜂蜜の代わりに、玄糖(ミネラル分を残した砂糖)に水をほんの少し加えて煮つめた「糖蜜」をかけながら食べている。すぐに作れるので、デザートやちょっと甘いものが食べたくなったときに重宝する。クレープは、小麦粉の量を増やせばパンケーキになる。パンケーキにはベーキングパウダーを使う人もいるが、拙者は生地にサラダ油を少し加えるだけでそのまま焼いている。
チヂミは韓国料理で日本の若者にも人気がある。専門書もあっていろいろ細かいことが書いてあるが、ここでは「ニラのチヂミ・手抜き風」を記しておく。先ず、ボールに卵を入れてほぐしたところに水(約200cc)と1、2センチにきざんだニラ(一把)を加えてよくかき混ぜる。そこに小麦粉を軽くふりかけ、塩を少し入れて混ぜ合わせる。小麦粉が多すぎるとドスンと重たくなるので、パシャパシャの天ぷらの衣と言った感じに水と小麦粉の量を調整する。好みでイカやホタテなどを入れると豪華になる。あとはたっぷり油を引いたフライパンに生地をうすく敷きつめて2、3 回に分けて焼く。フタはしない。焼き加減は表を7、裏返して3くらいか(?)。先日、ニラの代わりにキトピロを使ったらキトピロ料理の新境地が開けた。塩は下味のつもりで抑えて醤油をかけながら食べるといい。
「お好み焼き屋さん」。それはかつて、若い男女が喫茶店でのデートを経て、それなりに仲が深まってから利用するデートスポットのようなところだった。拙者は母と何度か食べに行ったが、鉄板付の小さなテーブルに運ばれてきたカップ入りの生地を、女性がかいがいしく世話をやきながら男に食べさせている姿は、まるで夫婦生活の疑似体験を楽しんでいるようで、ませたガキには居心地が悪く、母の焼くお好み焼きを黙って食べた。
近年は、繁華街で「広島風お好み焼き」や「もんじゃ焼き」の看板を見かける。しかし、チヂミだって韓国風お好み焼きなのだ。クレープは「プレーンお好み焼き」。
好きなものを突っこんで好きなソースを工夫して食べる。それがお好み焼きなのだからこれ以上の説明はいらないだろう。自由に楽しんでくれたまえ! では……。
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