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ヤイユーカラパーク VOL50 2005.06.20
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ごまめの歯ぎしり

山菜異変……?

5月初めに日高(静内・浦河)で、中旬にはサロベツ(稚咲内)で山菜を採り、食べた。その後訪れた阿寒湖畔でもキトピロ(行者ニンニク)を食べた。一緒に食べていたデボが、一言呟いた「今年のキトピロは匂いがしない……」。

「やっぱり……!」と思った。日高でも稚咲内でも、採りながら、食べながら、何か違和感があったのだ。例年であれば、キトピロを採っている最中にその匂いが身体に沁みつき、車の中一杯に侵し、夜食べて内臓のすべてを覆い尽くすような実感があったのだが、今年はそれがなかった。日高から帰って1週間、外へ出ることがあまりなかったので、毎日キトピロを食べ続けていたのに、家の中や身体、吐く息が臭うことはなかった。そして心なしか味も薄いように感じていたのだ。

阿寒の人たちや智子さんと「何のせいなのかねぇ?」と話をしながら、それでも食べ続けていたのだが……6月に入って、家の廻りでウドとワラビが取れるようになった(もちろん採ってくるのは智子さんだけだが)。食べて驚いたのは「ワラビの苦味がない!」「ウドのアクが薄い!」。どちらもアク抜きをする必要が全くなく、味わいが物足りないのである。

どうやら全道的に見られるこの異変は、一体何のせいなのだろう? 記録的な大雪のせいか? 記録的な遅い雪融けのせいか? 春の低温のせいなのか? 地球温暖化や酸性雨が影響しているのか……?

私にはまったく理解できないこの現象を、生物(植物)学の専門家が明らかにしてくれないものかと思う。ともあれ「苦味がないと、やっぱり美味しくないねぇ」と言いながら、それでも数日ごとに裏山へ入り、ワラビの束を抱えてくる智子さんである。


「憲法」のこと

“憲法記念日”を挟んで、北海道新聞の紙面を興味深く(少し大げさ)読んだ。

5月3日の社説「いま、憲法を考える〜“権利”は“義務”の対価か」は分かりやすく、とくに以下のパラグラフには共感を覚えた。

『「国民の義務」を規定するということは、人類の歴史的知恵とも言うべき近代の立憲主義からの大きな転換である。/統治する国家に対して、守らなければならない人権や、してはならないことを規定し命じるものが憲法だ、というのが立憲主義の考え方だ。今の憲法もそれを踏まえている。/憲法に権利規定が多く、義務規定が少ないのはそのためだ。具体的義務が必要なら、法規で規定すれば済むという考えも背景にある。/憲法を考える場合、「権利と義務は一体だ」ということには、必ずしもならない。』

……シグロ製作の映画『日本国憲法』中でダグラス・ラミスが明快に言い切っているのはこのことである。(現在は兵役がないので)納税の義務を果たしている国民を新たな「義務(責務)」で縛ろうとしているのは、脱税を日常的に行なっている財界と政界の“大物”たちだ。道新が5回連載した<シリーズ評論 憲法>に、「現憲法は権利の主張ばかり目立つ」と書いたジャーナリスト櫻井よしこは、彼らの尻馬に乗ってはしゃいでいる右翼としか思えない。

この<シリーズ評論 憲法>のなかで説得力をもった評論は、中村敦夫と辛淑玉のものだった。

『問題はどんな憲法の下であっても戦争には参加しないという意思と状況を絶えずつくれるかどうかだ。(中略)経済成長のために各国は競争し、資源やマーケットを奪い合う。その最たるものが戦争だ。第二次世界大戦以降、国際紛争に200回以上介入してきた米国は、まさに戦争によって経済成長を成し遂げてきた。戦争とは、永遠の経済成長を求めるための経済政策の一つにすぎない。(中略)そして9条改正は軍需産業の活性化に結びつく。日本はこれまで異常な進歩で経済大国になったが、今や国内の生産拠点は空洞化し、産業政策は行き詰っている。後は憲法改正で武器を売買しやすくし、自衛隊が海外に出やすくして武器を使ってもらうことで経済を発展させようという発想だ。(中略)500年前の大航海時代以降、世界はグローバリズム(地球主義)が極端に進み、今や極限まで来てしまった。金を独占することしか幸せはないと、世界中が走り始めてしまった。(中略)21世紀はそうした社会目標、国家目標を大転換しなければならない時だ。(中略) もっとゆったりと、時間や自然や人間関係を大切にした幸せの方向に価値観、哲学を転換する必要がある。それは今の憲法の下で十分できることだ。』

<中村 敦夫「幸せ追求 現行で可能」>

 

そして、いつもながら辛淑玉の書き出しは痛烈だ。

『日本国憲法は日本人にはもったいなかった。ちょっと良い言葉でいえば「猫に小判」、もうちょっとひどい言葉でいえば「豚に真珠」みたいなものだった。まったく活用できないまま、己の能力に合わせて変えようというのが今の状況だ。(中略)ただし、私にとって日本国憲法は何の価値もない。われわれ旧植民地出身者は、世界でもまれに見る無権利状態が何世代にもわたって続いている。戦後補償裁判のほとんどすべてが敗訴しているが、理由は日本国憲法だ。権利はすべて「国民」という枠の中で与え、義務になるとわれわれ在日朝鮮人も対象になる。私たちは憲法で守られてきたこともなく、日本社会の中で一貫して奴隷状態だった。/今起きていることは、日本人の朝鮮人化だ。(中略)教育基本法改正なども含め、改憲論者が望んでいるのは明らかに「お国のために死ねる人間」だ。中国の愛国心教育を批判しながら、どうして日本の愛国心教育は許されるのか分からない。(中略)米国にとって戦争は公共事業だ。日本はその公共事業で美味い汁が吸いたいと、イラク戦争では人身御供として自衛隊を提供した。そして今度は憲法を 提供しようとしている。戦争放棄を掲げた九条は国際公約だ。とりわけアジア二千万の民に対する公約だ。この国際公約を破棄するということは、まさにアジアに対する宣戦布告だ。現在の改憲論議にはこの発想がまったく欠落している。/この国はだれと一緒に生きていくつもりなのか。多分、米国の一翼を担っていきたいのだろう。つまろこの国は二度と戦争をやらないと決めたのではない。二度と敗戦国になりたくないという思いで戦後を生きてきたのだ。(中略)この憲法がなくなった時、日本は軍事を最優先させる国家になっていく。しかし、日本人にはそれがどんなに厳しいものであるか想像がつかないだろう。』

<辛 淑玉「国際公約の発想欠落」>

 

私のように“いわゆる戦後民主主義”の只中にもの心がつき育ってきた世代(すべての人がとはいわないが)にとって、民主主義というのは当たり前に“ある”ものであり、平和については疑念を持ちながら――朝鮮戦争の記憶と、その時期に発足した警察予備隊が保安隊を経て自衛隊へと名称を変えてきたこと、ベトナム戦争への日本の加担疑惑などがあって――も、憲法について改めて考えることはほとんどなかったといっていいだろう。歌唱指導を受けた曲は「君が代」ではなく、「緑の山河」で、それが日教組の歌であることを知ったのは、30歳を越えてからだった(札幌の小学校でした)。

歳経るにしたがって、私が生まれた時(1944年)やそれ以前のこの国には民主主義など存在していなかったことを知るようになったが、そのほとんどは学校教育で教わったものではなく、いわば社会教育(本や映画からの情報をその範疇に入れるとすれば)の賜物であった。つまり私にとって民主主義とは、まるで水や空気のように“自然に”私たちを包んでいるもののようだったのである。

だから私は、教室で「日本国憲法」を学んだという記憶がない。別に勉強しなくても、“憲法はいつも私たちを守っている”くらいの意識しかなかったといえる。20歳を過ぎるまで「日本国憲法」を通して読むこともなかったのだから、あきれてしまう。

そのしっぺ返しが、やって来た。戦後史を知り、自らもその“戦後”の中で生きてくるなかで、この国の(別にこの国だけではないのかもしれないが)擬制民主主義が見えてくるようになる。“誰にとっての民主主義か?”に疑念が生じてきたのだ。そのなかで学生運動・政治闘争に突入していった友人も多かったが、私自身は、負けと決まった70年安保のデモ隊列を、雨の舗道でただ見ているばかりだった。

辛さんが指摘するように、「日本国憲法」は「法律で定められた日本国民」(10条)にとってのみ意味を持つ法である。しかしその国民にとってさえ「すべての基本的人権の享有」(11条)がされているとはいえず、「個人として尊重」(13条)されてもいない。「法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(14条)というのは、いまや掛け声にすらなってはいないのが現実である。「華族・貴族の制度は認めない」(14条)……しかし、「皇族」はどうなのか? 彼らは「国民」ではない。何より彼らは税金を払っていない(30条)し、彼らの“お言葉”が『国民皆が幸福であることを希望する〜云々』であることからも、彼らは自身を「国民」とは考えていないことがわかる。いいだろう……ならば「妃の人権が守られていない〜云々」などととち狂ったことを言いなさんな。あなた達には「基本的人権」は保障されていないのだから。「人間天皇」=「国民天皇」ではなかったのだ。「思想・良心の自由」(19条)、「集会・結社、言論・出版の自由」(21条)はすでに危機的状況に あり、「破防法」の復活さえ論議されている。「学問の自由」(23条)については周知の通り。すべての国民が「健康で文化的な最低限度の生活」(25条)を営んでいるといえるだろうか……。

素人が拾い上げただけでも、「日本国憲法」が「国民」に保障した中身から崩れだしている現状が分かる。しかも「民主主義」の名の下に権力を行使している者たちは、憲法条項の崩壊を推進する法案を次々に提案、採決しているのである。そして“憲法改訂”。馬鹿な奴にお山の大将をやらせておけば、陰の策士たちのやりたい放題だ。


「この憲法がなくなった時……」と辛さんはいう。憲法が国民を“守っている”現在でさえ、その国民の「権利」は日々奪われ続けている。「義務」を果たす美徳を“取り戻そう”と、自称文化人や評論家、政治家、御用学者たちの大コーラスのなか、やっと「日本国憲法」に目覚めた私は思うのだ。「まずはこの憲法を守りきることができたなら、その時はじめて、この地に生きるすべての人びとの生活と安全が保障されるような新憲法を獲得できるだろう」と……。

「押し付けられた英語を翻訳したから、日本語がおかしい」なぞと三流文士がほざく。馬鹿ッタレ! おりゃあ大江健三郎の翻訳文体小説で育った世代だゾ。大事なのは、格調高く美しい日本語(!?)なんぞでなく、書かれた内容とその精神だろうが? その証拠に、大江健三郎はノーベル文学賞を獲ったゾ。ざまぁみやがれ!! (最後が下品ですみません)