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ヤイユーカラパーク VOL51 2005.10.30
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初めてのヨーロッパ/49回ピースボートの旅

去年夏、カナダツアーのあと乗船する予定だった46回クルーズをドタキャンした(『森』ニュース48号)無念さを晴らすべく、同じコースを行く49回には乗ろうと、早くから決めていました。ならば準備万端相整って……とはならない、我が性の哀しさ……。ニュース50号はなんとか発送を終えましたが、幾つかの仕事や雑事を走り回って片付け(片付かないものも……)、荷造りを始めたのは、出発の日の朝でした。

それでも、汗かいて詰め込んだスーツケース(やはり入れ忘れがあり、船で荷を開いてガックリ……)を抱え千歳へと向かいました。初めてのヨーロッパ小紀行です。


6/25

千歳発 13:35(JL) 荷物が最終地バルセロナまで直行と聞き、こりゃあツイてる!

成田着 15:05  ターミナル移動はあったけど、長〜い待ち時間。ユーロとドル、酒・煙草。

成田発 21:55(AF) 座席が幾分ゆったり。食事毎にビールとワインで、合間はうつらうつら。

6/26

ドゴール・パリ着 04:15 荷物がないので、楽な入国。初めてのパリ(?)だが、真暗。

ドゴール・パリ発 07:45(AF) さすがにワインなしで軽食。

バルセロナ着 09:30 無事荷物を回収、迎えの車で港へ。快晴のスペインは暑かった!


1年半ぶりのトパーズ号。乗船手続き後、いつもながら迷路のような通路を辿ってキャビンへ。荷物を運んでくれた山ゲンと、昼飯とサグラダ・ファミリア行きを約束する。とにかく、まずシャワーだ。

折角さっぱりしたのに、船から出るとたちまち汗が吹き出してくる。タクシーで街の中心へ行き、レストランに避難。5〜6人のスタッフと、イタリア料理とワイン。美味しかった。

アントーニ・ガウディ(1852〜1926)が1883年から建築を担った(その前年に建築が始まった)『サグラダ・ファミリア』は、「貧民達の大聖堂」と呼ばれ、寄付金のみによって資金が調達されており、現在もガウディが残した模型や設計図にしたがって建築が進められている。着工から120年以上経ってなお、完成がいつになるのかは誰にも分からないという。いやはや、なんという根気と信仰心だろうか……! 現在ひとりの日本人が建築に参加しているということで、日本でも知られるようになったこの大聖堂を見たくて、バルセロナからの乗船を決めたのだった。

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「サグラダ・ファミリア」正面

日曜日で工事は休みになっているが、構内のあちこちに工事中の囲いや仕切りがあり、まさに工事現場であることを実感する。あふれんばかりの人の流れである。そのなかをかいくぐって見て回ると、初期に完成した部分と最近完成した部分、現在工事中の部分に違いがあることが分かる。基本的にはガウディの残したイメージや創造指針によって作られているのだろうが、時間と創造者の変化が形になって現われている。いつか全てが完成したとき――私がそれを見ることは絶対ないが――、その姿はどんな風になっているのだろう。

あちこちに、外形は見えるがまだ鑿が入れられていない石像(となるべきもの)が立っている。聖者や人、動物であることは分かるそれらの石柱を、石を刻むことができるアイヌの彫り師が完成させたなら面白いだろうなぁと、思いながら見ていた。

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作業中の内部

正面や背面から高い鐘楼を見上げていると、めまいがする程の暑さだ。市内にある10を超えるガウディの建築作品を見て回る時間と気力、体力(特にこいつが)がないのである。あとは写真で鑑賞することにして、図録を買い求めて船へと逃げ帰った。いつか、ゆっくりガウディの建築物を楽しみに再訪したいものだ。垣間見ただけで、彼の稀有の才能は実感できた。

部屋はセミスイーツで、ゆったりできる。何よりいいのは、出てすぐの階段を上がるとスモーキング・エリアであること。こいつは、ラッキー。バーやロビーで、前回までのクルーズで一緒だったスタッフと「やあ」「やあ」……。あちこちで飲んだり喋っているうちに、23:00に出航した。



6/27(深夜に雨)

7:30 起床、朝食。午前中は避難訓練や水案(船内講師)顔合わせ、水パ(アシスタント)打ち合わせ。午後は、CC(通訳グループ)打ち合わせを2回、初回講座用のビデオ・チェック、船内新聞の取材などで過ぎていった。

18:30〜20:00 昼寝(?)してしまったので、夕食に間に合わなくなる。居酒屋・波へいで夕食を食べながら、担当スタッフと打ち合わせをした。風呂に入って24:00頃に眠ったようだ。

6/28(晴れ)

空

何度か目が覚めるが、暗い。

6:30頃ようやく少し明るくなる。「ジブラルタル海峡に入りました」とアナウンス。デッキに上ると、右にイベリア半島、左にアフリカ大陸。狭い海峡の真ん中を船が行く。陽が射して、どちらの陸地も美しかった。石を投げればどちらの陸地にも届きそうな狭い海峡だ。こりゃあ戦争のときは大変だなぁと、幾つかの戦争映画を思い出しながら眺めていた。

午前中はプールデッキで陽を浴びながら本を読んで過ごした。陽射しは暖かいが水は冷たいようで、泳ぐ人はいなかった。

14:00から1回目の講座「アイヌを知ろう〜共生への道」。ウタリ協会のプロモーション・ビデオ『新・共生への道』を見て、イントロダクション。ブロードウェイ(大ホール)に350人ほどが集まり、ほぼ満席だった。この後も続くのか……?

船に持ち込んだビデオとDVDを、スタッフのM、I君とこの後の日程に合わせて上映スケジュールを決めた。すべて決まってテープ類をM君が持ち去ったので、気分がすっかり楽になった。

二つの企画(講座)のあと、22:30からプールデッキで『クジラの島の少女』上映(事務局企画)。偶然日程が重なって、講座の最後にアピールしたこともあり、風が冷たい中最後まで見た。すっかり冷え込んだ身体をヘミングウェイ(バー)のバーボンで暖めながら、一平さん(由布木 一平さん="朗読劇"のワークショップをやる水案)と少しおしゃべりをしてから部屋に戻った。

6/29(晴れ)

何もない一日で、終日のんびりと過ごす。それでも午後には、明日の講座の打ち合わせをCCグループと水パのグループと一時間半ほど。

夜は、講座を二つ覗いたあと、波へいが休みなのでヘミングウェイで一平さんに付き合う。

6/30(晴れ・風は冷たい)

14:00から2回目の講座「アイヌのたどってきた道」。ウィンジャマ−ル(ホール)に100人くらいか? 絶対的な時間不足とパワーポイントの不調で、汗をかきながらの不満足な講座に終わった。

その後は何故か将棋の公開対局決勝を見てから、部屋で本を読んでいるうちに眠ってしまった。目覚めたら8:20。すっかり朝だと思い込んで「朝飯食わねば!」と部屋を出て階段を昇っている時に「今晩は〜」と声をかけられる。「えっ、まだ夜か?」……朝日のように見えたのは、夕日だった……。

喫煙ロビーに座り込んで煙草喫みながら、現実回帰に努める。はぁ〜。なんとなく「記憶喪失」の恐怖が分かったように思った。

22:00から波へいで「遠藤大河ラストマジックSHOW」。前売りを買わされていたので、ビール飲みながら観賞。プロのテーブル・マジックはすごいものだ。目の前でやられているのに、仕掛けが見破れない……当たり前か? その後水パのMさん、一平さんに付き合って2:00まで。

話の弾みで、昔芝居をしていたことを言ってしまう。30数年前札幌で開催された「演劇フェスティバル」で上演された『雪夜』を演出していたのが一平さんで、総合舞台監督が私だったことが分かった。世界は狭い。<帰国後調べたら、1974年8月札幌で開催された「東日本演劇フェスティバル」で、3日間・7本上演された創作劇の中の『雪夜』(佐久間雄二作・劇団埼芸上演)を演出していたのが一平さんで、7本の芝居を連続して上演させるという苦行をやっていたのが私だった。若くて、体力があったんだなぁ〜。隔世の感あり。>

7/1(曇り、時々小雨)/ルアーブル(フランス)

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ノルマンディー上陸のモニュメント

6時過ぎには明るくなった。30分ばかり日の出が早くなったようだ。

入港予定は9:00になっていたが、6:30にはルアーブル港の埠頭に接岸していた。

OP(オプショナル・ツアー)もなく、今日・明日はフリー。一平さんと12:00のシャトルバスで市の中心地に向かった。

ノルマン人が移住・定住して開かれたノルマンディー地方で、最大の港町。二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦でも知られている。のんびり街中を散策。落ち着いたいい街だった。昼食を食べ、スーパーを見つけて一平さんは酒を買い込んでご機嫌。ぶらぶら歩いて船に戻る。40分程かかった。

風呂で足腰をもみほぐし(半日歩いただけで、足腰がこわばってくる。いかに普段怠けているかが分かる……)て、夕食。その後ヘミングウェイで一平さんの"劇団員"交えて少し飲む。22:00過ぎには部屋へ戻って、これを打っている。少し飲んで、寝よう。……以前に釜山で食べて美味しかった小型のメロンがあったので買ってきた。飲みながら皆で食べたら、やっぱり美味しかった。1個1.4ユーロ(200円)。明日も買ってこよう。夜中に雨が降ったようだ。

7/2(晴れ)/ルアーブル(フランス)

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ノートルダム大聖堂

10:30に船を出て歩き出す、今日は一人歩き。朝はどんよりと曇って涼しかったのが、歩き出すと陽が照ってすっかり晴れてしまう。暑い。

船から見えていた鐘楼を目指して歩き、着いてみたらノートルダム大聖堂だった。実にいい感じの教会で、汗が引くまで座っていると、何となく落ち着いた(心の問題ではなく、単に汗と息切れだったのだが……)。

路地から路地へと歩いているのが気持ちがいい。週末の市民生活に触れている感じだった。

サンドイッチを食べてから、昨日のバーへ行きテラスで地ビールを一杯。店のお兄ちゃんにCDショップを尋ね、書いてもらった地図に従って歩き出した。暑い……! やっと辿りついたショッピングモールにレコード店(レコードがなくてもやっぱり"レーコード屋"だ)を見つけて、ジャック・ブレルを買った。他には思いつかないので、それだけでモールを出た。これで部屋に音楽が誕生だ。

どうも入った所と出た所が違うらしく、気がつくと道に迷っていた。まあ構うことはない〜と路地裏を歩いた。前の戦争で破壊されたこの街は、残された古い建物と戦後の新しい建物とのコンビネーションがなかなかいい。ぶらぶら歩いて、退屈しない街だった。

いつのまにか昨日のスーパーに来ていたので、ウィスキーと赤ワイン、メロンとサクランボを買い、隣のパン屋でフランスパンを買ってザックに詰めた。そのために空のザックを背負ってきたのである。

美術館で印象派の絵を見ようかと海に向かって歩き出したが、とにかく暑い。小さな公園に人びとが集まってペタンクに興じているのに出会い、座り込んでしばらく眺めていた。4時をまわったか……、帰ろう。船への長い道を歩き出した。

大汗かいて帰り着き、風呂で身体をほぐしてから、しばらくうつらうつらしたようだ。

21:00までにオーバーランド組やパリ一泊組が帰船し、船内が賑やかになる。22:00出港。明るい中での出港だ。24:00過ぎには寝てしまったようだ。やっぱり歩きは疲れる、らしい。

7/3(晴れ) 日の出5:51,日の入22:19

今日は何もない日。気分的にものんびり。

午後、ベルゲンの上陸説明会。今回初めて乗ったというフィリピン人4人編成のバンドが初ライブ。下手くそなのにびっくりした。こりゃ、ひどい。

その後、CCさんと何人かの水パが部屋へ来て飲む(一応、打ち合わせだ)。メロンとサクランボ、一平さんからもらったブルーチーズ(美味かった!)、フランスパン、ワイン……。飲んだのは、ほとんどオレか? 4時まで。

7/4(曇り) 日の出4:57,日の入22:45

さすが北海、風が冷たい。船内も皆長袖で、半袖でぶらぶらしているのは私くらい。北海油田のプラットフォーム(というのか?)が、時折船窓から見える。

昨夜部屋に来ていたCCと水パは、全員寝坊したらしい。という私も8:30まで寝ていて朝飯抜きだったのだから、ま、そんなもんだろう。

3回目の講座「禁じられた歌声」でサーミのヨイク歌手のドキュメント(HBC)を見て、補足・解説。かなりの聴衆が集まった。その後シアターで「ホワイトウイザード」上映。これも満席だった。ノルウェーへの期待が盛り上がった、か?

夕食後は自主企画の発表会「来てみん祭」とやらをブロードウェイ満杯の観客と一緒に見る。田舎のヘルスセンターみたいで、楽しかった。

3日間風邪でダウンしていたスタッフ・T君が復帰、一杯だけ飲んだ。

今日から仕事を始めた一平さんは、4クラス・80人で劇作りだという。お疲れさま、ですねぇ。「明日は、一緒でいい?」と言うので、OKですよ……。ベルゲンをふらつく二人の不良老人になりそうだ。持ってきた荷物を探してみたが、長袖はなかった。上陸して様子をみるか……?

現在24:30(5日になったんだな)、窓の外はやっと夜の海だ。

7/5(晴れ) 日の出4:23,日の入23:06/ベルゲン(ノルウェー)

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ベルゲン入港

なんと朝からピーカンである。6時過ぎに入っていったベルゲンの港・街並みは、本当に美しく、接岸まで、デッキからうっとりと眺めて過ごした。

10:00に一平さんと上陸。港と中心街が一体となった小さな街だ。店々を覗きながら歩く。世界遺産になっている木作りの商店街(ブリッケン地区)を廻った。なんともいい感じである。それにしても、物価がべら棒に高い。クローネの換算がよく分からないが、大雑把に見積もっても何から何まで高い。これで生活ができるくらい、みんなの収入がいいんだろうか?

魚市場――テント屋根の屋台が連なっている――を巡る。北の海の魚貝類だが、種類はそれほど多くない。鮭とオヒョウ、タラが中心でカニやエビもあるが、とくに食欲をそそるものはなかった。サケのバーガーにしても、高いのだ。なかに鯨のスモークがあり、味見をしたらいけそうなので買ってしまった。1500円位になるのか?

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木作りの商店街(ブリッケン地区)

博物館がかたまっているので、順番に回った。「自然史博物館」「文化歴史博物館」「海洋博物館」……どれも内容が物足りなく、がっかりした。サーミやヴァイキングについての展示も説明もほとんどなく、キリスト教の伝播と展開を物語る展示ばかりが目についた。40クローネは高すぎる。腹を立てながら街へ向かった。周辺の芝生にビキニの女性たちが日光浴をしている。陽射しが暑く、汗をかきながら歩いているので、裸で寝転がりたかったがそうもいくまい。

「中華でも食べたいねぇ」と中華レストランへ。湯麺があったので食べた。米の粉の麺(多分)に不満はあったが、スープは美味く、まぁいいだろう。が、湯麺と中ジョッキで165クローネ(約2300円)は高い! すべての物が、この伝で高いのである。ドルが使えるとのことだったので両替もせずに歩き回り、結局カードで支払っていたので、後が怖い……。

一平さんと別れてケーブルカーでフロイエン山頂へ。港と街並みが一望でき、気持ちがよかった。アイスクリームでも……と売店に行ったところ、ドルは使えないという。カードはOKというので、何故か注文がビールに変った……。

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港の市場

出会ったCCグループが、「計良さん、市場にトナカイのソーセージがあったのを見ましたか?」「いや見てないけど」「買おうかどうしようか迷ってるんですよ」「へぇ〜、美味しいのかな?」「どうなんでしょうね……」という会話。ケーブルカーで下山して、発見。味見の結果、買ってしまった。船内用とお土産用。"山ちゃん、何とか持ち帰るからね……。"肌寒くなってきたので帰船、風呂で足の凝りをもみほぐした。

夕食の席で一緒になった女の子から、山頂を少し歩いたところに湖があり、とてもきれいだったという話を聞く。デジタルカメラの映像を見ると、本当にきれいな湖だった。しまった!ビールなんか飲んでる場合じゃあなかったんだ……。

夜は先乗り班でベルゲンから乗船してきた女性スタッフMと波へい。その後、北海道グループのテーブルに少し付き合ってから部屋へ戻った。

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可愛らしいパフォーマー

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売ってる人形より可愛い小父さん

7/6(曇りのち小雨) 日の出4:38,日の入23:30/ソグネ・フィヨルド(ノルウェー)

終日フィヨルド遊覧。安息日で企画はほとんど無し。

今日からシアターで、アイルランド映画の連続上映が始まった。まずまずの入りと好反響で、一安心。

デッキに長くいるとさすがに寒くなるので、行ったり来たりで半日が過ぎた。船の両側に見える丘陵や山々、集落が、とにかく美しい。ひょっこりムーミンでも現われそうな風景だった。

夜、スタッフ・T君と話す。PBはこのままでいいのか? 今後目ざすべき道は……などなどで、ヘミングウェイから部屋に移って3時半位まで。暗くなりきらぬ内に日が射し始め、明るくなってから寝た。長い一日だった。

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ソグネ・フィヨルド

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ソグネ・フィヨルド

7/7(曇り) 日の出4:17,日の入23:12

七夕。夜浴衣姿が多くなったが、デッキの風は冷たく七夕らしいこともなかった。

のんびりした一日、時間ごとにシアターで映画を見て過ごす。ダブリン上陸説明会。夕方、CCと水パが部屋に来て次回講座の打ち合わせ。ダブリン以後になるので、ゆっくりしたものだ。

時差発生で、1時間時計を戻す。24:00過ぎに風呂に入り、温まってから寝た。



7/8(曇り・午前中は霧の中) 日の出4:38,日の入23:30

朝8時からJ・ウエィンの映画『静かなる男』を見るという贅沢な一日。午後の講座「ドイツと日本の戦争責任」と「アイルランドにおける紛争、平和構築」を傍聴。至極のんびりと過ごした。  明日はダブリン上陸といったって、白夜みたいな明るさの中でそう早くは眠られない。本読んで、3時位に眠ったようだ。

7/9(曇り)/ダブリン(アイルランド)

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アイルランド初上陸。

5時過ぎに入港、6時過ぎには「すべての人の入国審査が終了しました」とアナウンスがあった。

朝食を食べて、7:45集合、8時にバスに乗りOP出発。ダブリン市街を抜けて1時間ほど走り「グランクリー紛争解決センター」に到着。途中水案のショーンと、ダブリンに語学留学していたというCCのTさんから街中の建物や歴史的な出来事についてレクチャー。明日の自由行動のために、道路や見るべきポイントを覚えておこうと、車窓から街並みを眺めながら聞いた。

1795年に軍施設(当然英国軍)として建設されたという建物群は、海抜500mの山中に緑に囲まれてあった。その後少年院や孤児院として使われた時期もあったが、1974年からは現在の「紛争解決センター」(NGO)が管理・使用しているということだった。200年の時を経て、改修され使用されている棟の周りには、屋根がなく傷んだ外壁の数棟が並んでいる。途中の山道もそうだったが、植生が似ているせいもあり、北海道の山にいるような安心感を覚えた。

世界各地からやって来たボランティア・スタッフによって、人々が対立を乗り越え、お互いを受け入れるようになることを目ざしたさまざまな活動を展開するセンターとして機能しているという。集まってくる多様な境遇や体験の人びとに、「和解」を作りあげるためのワークショップなどを行なっているということで、我々も幾つかのプログラムに参加した。

とても居心地がいい場所で、昼食にはギネスビールまで飲むことが出来てご機嫌。アイリッシュティーも美味しかった。

痛恨の出来事は、デジタルカメラを舗道に落とし、壊れてしまったこと! 特売の代物を4年も使ったのだから元は取っているのだが、ここまでのスナップが消えてしまっていたら41回クルーズの二の舞である(『森』ニュース45号/2003,12)。いやはや……と悲観していたが、後日スタッフのカメラにメモリカードを入れてみたら、画像は健在だった! よかったよかった……。

そんなこんながありながら19:45帰船、夕食には間に合った。汗もかいたし腰も痛い――なんて情けない!――ので風呂で身体をほぐした後はグッタリ。とても「パブへ!」なんてことにはならない。1時間近くも歩かなければならないのだ……。39回クルーズ(2002年)で一緒になり、今回はダブリンから乗船してきた菊千代(古今亭)さんは早速夜のダブリン巡りのOPに行ったと聞いて、「それぁよかった!」というのは本音。とにかく、のんびりしましょう……。

喫煙ロビーにいるところへ、ダブリン乗船の水案・河辺(一郎)さんを紹介され、やがて一平さんも現れたので、ヘミングウェイで一杯だけ飲んでいるうちにくたびれたので部屋へ戻った。

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グランクリー紛争解決センター/宿泊棟

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事務所・ミーティングルームの正面

7/10(晴れ)/ダブリン(アイルランド)

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イースター蜂起の舞台 中央郵便局

朝は霧だったのに、10:00に船を出る頃にはすっかり晴れていた。陽射しが強く、暑い。

スタッフTさんから借りたコンパクトカメラを抱えて、シャトルバスで街中へ。イースター蜂起(1916年)の舞台となった中央郵便局から始まって、主な建物を巡り歩いた。一平さんは汗をかかないと言うが、オリャア汗だくだ……!

何ともいい街である。古い建物はもちろんだが、戦火で破壊された建物の一部が補修されて新旧混然としているのがまたいい(戦禍がいいと誤解されたら困るが)。ぶらぶらと歩き回った。

スーパーでアイリッシュ・ウィスキーを仕入れて一安心したら、なんと50ユーロ札を拾ってしまった。聖パトリック寺院の売店で木彫のケルトの墓標を買い、最後にウィスキーをもう一本。

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聖パトリック寺院

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聖パトリック寺院の内部

7/13(晴れ)

明日開催の「運動会」へ向けて、船内は慌しい。競技参加者や応援団が、船内のあちこちに集まって準備に余念がないようだ。

16:00から5回目の講座「あなたが持っている物で一番大切なものは何ですか?」。一応これが最後の講座となる。

毎回水パの諸君が作ってくれる看板は見事なものだが、今回の作品はとくに素晴らしかった。何時間かかったのか知らないが、アイヌ衣裳が美しく再現されていた。いやぁ〜、これは"芸術作品"だよ〜、ほんとに……。

7/14(晴れ)

8:30〜16:30「49th洋上大運動会」で1日が過ぎた。生まれ月による春・夏・秋・冬の4チームが11種目を競うものだが、中に"ジェスチャーゲーム"や"漢字当てクイズ"が入っているのが愉快である。プールデッキで1日観戦していただけで、結構疲れ、日にも焼けた。

河辺さんは講座準備とこの後のニューヨークでのイベント準備で忙しく、菊千代さんは2グループのお弟子さんの稽古で忙しい。私は一番閑になり、幾つかの講座を聞いて回ったり本を読んだりして過ごしているのだが、船の生活も残りわずかとなってくると、合間を縫ってのお酒が貴重になってくる。一平さんは昼も夜も朗読劇の稽古で、めっきり飲む機会が少なくなってきたのが残念である。時差発生で、時計を1時間戻す。

7/15(晴れ)日の出5:36,日の入20:55

少しずつではあるが、日の出が遅くなり日の入りが早くなっている。夜はやっぱり暗い方が落ち着くのである。

ニューヨークでのイベント(GPPAC)に参加するためダブリンから乗船した水案、馬奈木厳太郎さん(札幌学院大学)の講座「憲法ってなあに?」や河辺さんの講座「なぜ国連は複雑なんだ〜!?」を聞く。私の企画で、映画「スモークシグナル」の上映もあったので、結構忙しい。

この夜一平さん演出で上演された「お郷ことばで憲法9条を読もう!!」は、実に楽しかった。

時差発生で1時間戻る。連夜、"もうかった"気分になる。確かに、飲む時間が増えるのだ……。

7/16(晴れ)

午前中は、プールデッキで陽にあたりながら本を読む。日ざしが強くなってきている。

午後、「ニューヨーク上陸説明会」。入国審査といい食品規制といい、なんだか億劫なアメリカではあるけれど、3日間もあるんだから少しは有効に……などと思いながら……。

夜、「大西洋大ビンゴ大会」。"ニューヨークFour Seasons ホテル宿泊券"はじめ豪華景品が当たるということなので、300円×2枚を握って席へ。すると、椅子の裏に1枚が貼り付いていたというラッキーに、「こりゃあ、当たるぞ!」と、テーブルに並べた3枚を凝視。やがて………リーチまではたどり着いたけれど、結果はスカ。本当にクジ運がない男である。

その後、菊千代さん、河辺さん、私の水パと、各担当スタッフが集まって飲み会。なんでも、「水案同士は仲がよくて一緒に飲んでいるのに、水パグループの交流がないのはおかしい」ということで企画されたらしい。そりゃあ、賑やかなのは結構なことだというので、波へいでの宴席になったわけだ。

ところがこの夜、居酒屋・波へいは「乾物類と缶ビールしか出せません」ということになっていた。アメリカ入港を前に、"米国食品衛生局"の厳しい規制が始まっていたのである。ったく! とそれぞれがアメリカの悪口を言いながら始まった宴会は、ビールだけという淋しい中身にも関わらず盛り上がり、楽しかった。

この夜も時差発生で、1時間針を戻す。これでアメリカ東部標準時になったのかな?

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菊千代師匠ユーカラを語る

7/17(晴れ)

今日のハイライトは、夜行なわれた特別講座「落語で楽しむカムイユーカラ」。

『森』ニュース43号(2003,4)の南太平洋クルーズ報告にある菊千代師匠の落語『梟の跡継ぎ』のことを、私が講座のなかで話したのを聞いていた菊千代さんが、「私のパソコンの中にその時の台本があったけど、聞きたいですか?」と訊いてきた。そりゃあ勿論聞きたい、見たいけど……「稽古しなけりゃならないんでしょう? そんな時間あるの?」「何とかなるでしょう」……という訳で、私にとっては"幻の噺"上演の運びとなった。

その日の船内新聞に載った紹介記事。≪落語で楽しむカムイユーカラ / たった4回の講座では語り尽くせないアイヌ民族。『ヤイユーカラの森』や前回の講座で少し紹介された『カムイユーカラ』(神様が謡ったとされるうた)は気になっている方も多いはず。今回は計良さんのトークの他、アイルランドから乗船された水先案内人、女性落語家の古今亭菊千代師匠をお招きして、落語とテンポの良い二人のトークをお楽しみいただきます。

本日の落語は、計良さんと菊千代師匠が出会った3年前に、計良さんの講座で紹介された『カムイユーカラ』を菊千代師匠自ら台本に直し、その年の12月に東京上野の鈴本演芸場で行われた寄席の演目として発表したものです。「アイヌという先住民族の寄席を発表する機会がなく、お蔵入りになりそうだった」と語る菊千代師匠。「死ぬ前に一度聞きたかった」と語る計良さん。 クマの神様?シャチの神様?それともフクロウの神様? どの神様が謡った『カムイユーカラ』なのか……今日を逃したら、もう2度と聞けないかも!?≫  ということで、ウインジャマール・ホール一杯の観客の前で『梟の跡継ぎ』が上演された。

『アイヌ神謡集』(知里幸恵)から「梟の神が自ら歌った謡<コンクワ>」を落語にした台本を、読んではいた。けれども語られ、演じられるのを見るのは初めてである。

ユカラが語られ、演じられるものであることを、日本語(それも江戸弁)の「落語」という形で実感するというのは面白い体験だった。そうだよなぁ、カムイユカラっていうのは、こんな感じで軽くリズミカルに語られ、謡われたんだよなぁ。だからこそ、どのユカラも延々と語り継がれてきたんだよ。重っ苦しい語りだったならば、とても生き延びてはこれなかっただろう……。

数百年にわたってアイヌたちがユカラを語り、楽しみ、知恵を伝えてきたようすが思い浮かび、我々もまた楽しい時を過ごすことが出来た。師匠、ほんとうに有難うございました(そして、このジャンルのレパートリーをもっと増やして欲しいなぁ、と、不埒なことも考えていたのであった)。

急な企画に、高座を作り、畳を敷いて客席をしつらえ、大奮闘だった水パの諸君と、落語を同時通訳するという偉業(?)を為し遂げたCCチームにも、感謝!

今クルーズでのすべての仕事(?)が終わり、集まったみんなと飲んだ。就寝時間は不明……。

7/18(晴れ)/ニューヨーク(アメリカ)

8:00前には入港したようだが、その様子は分からない。8:30ドア・クローズのレストランに駆け込んで、何とか朝食。ニューヨーク停泊中はレストランが一箇所だけになり、ビュッフェ形式はなくなる。勿論居酒屋・波へいは休業で、バーのメニューも制限されている。何とも腹が立つ"アメリカ食品衛生管理局"の横暴である。

二日酔い気味で喫煙ロビーにいると、先乗りでニューヨークにいたスタッフのT君が現われた。入国審査はまだ始まらないらしい。入港・出港時はただでさえ忙しいスタッフが、今クルーズ最大のイベントを控えての忙しさは想像がつく。「寝てるのか?」に「何とか……」という返事だったが、本当になんとか乗り切ってもらいたいものだ。

やがてアナウンスに従って、上階から順に入国審査。一度下船して客船ターミナルでパスポートを受取り、両手人差し指の指紋を採られ顔写真を撮られ、その後審査官の前へ。審査そのものは何てこともなく済んだが、指紋採取と顔写真は心底ムカッとくる。かつての日本で当たり前に行なわれていた在日外国人への指紋押捺の強制が、いかに当該の人びとには屈辱的なものであったかを、我が身に降りかかって改めて思い起こす。しかし、その日本でも"テロ対策強化"と称して、再び復活する可能性は強い。「糞アメリカめ!」と心中に憤懣を抱えた我々だが、「糞日本が!」と憤る人びとが現われてきたとき、一体どうやって責任を果たせるのだろうか……。

と、ぶつぶつ言いながら、全員の審査が終るまで待機。長い待ち時間の後、昼前にやっと下船の許可が出た。CCのS君、Uさん、菊千代さんと一緒に船を出て、ニューヨークの街へ。1998年1月の『森』ツアー(ニューヨーク『アイヌ・コレクションを訪ねる旅』/『森』ニュース23号)以来だから、7年振りのNYだ……。

ニューヨークは、暑かった! ターミナルを出て歩き出した途端、汗が吹き出してくる。人には「ニューヨークは、ただ歩き回っているだけで楽しい街ですよ」なんて言っていたのだが、汗と息切れで"楽しい"なんて余裕はとてもない。暑さのせいで、空気中に酸素が足りなくなっているに違いない。「まず、グランド・ゼロに行こう」と、地図を見ながら案内役を務めてくれたS君の後を追いかけるのがやっとだった。そう、前回は1月のニューヨークだったのだ……。

「地下鉄で行きましょう」とのS君の誘導で、地下鉄へ。"このラインでブルックリンへ行ったっけなぁ"と懐かしんでいると、他のメンバーは隣りに座った白人男性となにやら話が弾んでいる。それも日本語だ。我々の下車駅を教えてから「さようなら」と別れて行ったその中年男性は、日本人と結婚し、日本に住んでいたこともある人だった。

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フェンスに刻まれた犠牲者の名前

そして地上に上がり、グランド・ゼロ。かつてツイン・タワーが聳え立っていた場所は、広大な廃墟になっていた……。テレビの画面や新聞の写真で見てはいた光景だが、実際にそこに立ってみると……言葉を失ってしまった。フェンスに囲まれて、巨大な"穴ぼこ"が……。7年前にその前に立ち、身体をのけぞらせて仰ぎ見たのはどこに当たるのか? どちら側から入って高速エレベーターに乗り込んだのか? まったく見当さえつかない。フェンスに顔を寄せて見下ろしても、深い穴の底まではなかなか見えず、その回りに広がる工事現場ばかりが延々と続いている……そんな印象だった。

小さな写真アルバムを人びとに見せている人たちがいる。事件前のツインタワー、飛行機が突っ込んでいるシーン、倒壊後の現場……それらをファイルしたアルバムを、売っているのだった。ここは既に"観光地"になっているのだ。幾らなのか訊きもせずにその場を離れたが、「オレだって観光客なんだよなぁ〜」と、やるせない気持ちになってしまった。

フェンスに沿って歩いていくと、其処ここに犠牲者の名前が刻まれたプレートが掲げられ、沢山の花が供えられている。心が痛むとともに、思った。アフガニスタンにもイラクにも、こんな廃墟が延々と広がっているんだ……。

「バッテリー・パークに行こう」と、歩き出した。いや〜暑い! 持って歩いている水も、すっかり温かくなってしまった。「どこかで冷たいものでも飲もうよ〜」と、へばっているのは私だけだ。やがて大きなデリカテッセンの中を覗いてきたUさんが、「おいしそうなものがあるよ」「どれどれ……?」……なるほど、涼しそうなのが何よりだ。「ここで食べよう!」。

2階席で食べることもできるというので、それぞれが食べたいものを容器に盛って2階へ。飲み物の陳列棚を探すが、当然ビールなぞはない。並んでいるのは原色に近い色のジュースや炭酸飲料、コーラなど等……。おや?<root beer>だと? これはいいかもしれないと、買い込んで席へ。これが本日最大のミステイクでした……。この代物、恐ろしく不味い! 漢方薬の炭酸割りで、確かに木の根っこの味がする。一口飲んでギブアップ。S君が笑いながら言うには、「ルートビールはそういうものです」。ビールともアルコールとも関係がないということだった。無知の涙……。木の根ならば、南太平洋のカバがあるが、これはもっと美味い。私は一口で終ったのだが、菊千代さんはこれを完飲(?)。曰く「ひとから頂いたものを残しては、失礼です」……噺家さんの義理、人情の厚さを、再認識させられたことである。やっぱり"師匠"と呼ばれる人は違う……。

7年ぶりのバッテリー・パークでのんびりしたが、靄っぽい海上に自由の女神は霞んでいた。この頃のアメリカを見ていれば、自由の女神もあんまり姿を見せたくはないのだろう。

船に戻ってさっぱりしてから、OP「ハーレム・ジャズナイト」に出発した。ダウンタウンを抜けてハーレムへ。ライブハウス「コットンクラブ」は、私でさえその名を知っているジャズの拠点である。南部風ディナーのビュッフェとビール、ウィスキーを味わい、待望のジャズ……なんと、現われたのはアイルランドから一緒で二度のライブを聞いてきた女性ゴスペルシンガーだった! 正直言ってがっかり。「彼女の歌は、もういいよなぁ〜……」と、思わず愚痴が出る。そういえば最後のライブの終わりに、「コットンクラブで逢おう〜!」なんて叫んでいたっけ……。

それでも気を取り直して(大袈裟か?)、折角のコットンクラブを楽しもうとした健気な私であった。この夜、ピアノを弾いていたのは、日本人女性だった。

7/19(晴れ)/ニューヨーク(アメリカ)

朝食後、バスで国連本部へ。アナン国連事務総長の呼びかけで実現したGPPAC(ジーパック:国際紛争予防会議)開会式に参加(といっても傍聴だが)した。世界中に絶え間なく起き続けている紛争を無くするためにNGOや市民団体が知恵と力を出し合おうという趣旨で、世界15地域の代表が集まる第1回目の大会である。

厳重なセキュリティを経て受取った1日だけ有効のIDカード(それも、動けるエリアは限定されている)を首からさげた私たちは、総会会議場の2階傍聴席に座った。テレビでお馴染みの風景だが、我々の席からは双眼鏡なしで壇上の人びとを見分けることができない。かつてここで演説をした野村さん(元ウタリ協会理事長)は、さぞかし気分が良かったろうなぁ〜、などとつまらぬことを思いながら、開会式のスピーチを聞いていた。

今日を迎えるまでのPBスタッフの苦労を垣間見ていただけに、この会議がPBを核に動いているように感じたのは、贔屓目に過ぎるだろうか? オープニング・パフォーマンスの直さんと巴会の和太鼓熱演のせいもあったのだが……。今日から3日間会議が行なわれる国連本部を出て、私は船へと戻った。明朝部屋を空けなければならないので、部屋中に散らばった荷物をパッキング。

その夜、400人の会議参加者が船に招待され、船内はおおいに賑わっていた。何人かの人とヘミングウェイで話をした後(やっぱり上品は疲れる)、無頼な呑み助(失礼)が部屋に集まり、ワイワイと夜が更けていった。NY最後の夜は……あまり意識が残っていない……。

7/20(晴れ)/ニューヨーク(アメリカ)

何とか荷造りを終えてチェックアウト、用意してくれた部屋に荷物を運んだ。狭いけれど、離船まで束の間の我が家だ。

ぶらぶらと出かけて――といっても余りの暑さにすぐタクシーに乗ったが、バッテリーパーク入り口にある「アメリカ・インディアン博物館」へ。これは7年前にはなかったもので、入って分かったのは、ワシントンの「スミソニアン博物館」の分室だった。それにしても、何というセキュリティの厳しさだ。

広いスペースに展示されたインディアン・クラフト(点数はそう多くはなかったが)を楽しんだ。ちょうど、1830年代に全米を回ってインディアンの姿を描いた George Catlin の絵を特別展示していたが、そこに描かれた人びとの魅力に圧倒された。いわゆる"アイヌ絵"とは、なんという違いだろう。画家の目に映り、感じ、描きたかった姿の差が、そこには歴然と現われている。日本には、こんな絵描きはいなかった……。

バッテリーパークで、ホットドッグとコーラ。これで"アメリカ食"を食べたぞ〜。屋台の小父さんに「暑いね〜」と言うと、「今日は96°位だろう、明日は100°を超すぞ!」という返事。後で調べたら、華氏96°は摂氏35.5°、100°は摂氏37.8°だった。暑いわけだぁ!! タクシーで船に逃げ帰り、シャワーで身体を冷やした。

16:00〜19:30、国連本部前の公園(ダグ・ハマーショルド広場)でPB主催の「ピースコンサート」。仮設舞台で世界各国の16組が歌い、踊り、メッセージを伝えた。分刻みのプログラムを進行したスタッフの諸君、お疲れさま。そして、成功おめでとう! とてもいいコンサートだった。

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アフリカのダンス

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直さんと巴会の太鼓














会場で「けいらさーん」と声をかけられた。30回『南十字星クルーズ』(2000年8月〜10月)で、私の通訳を担当してくれたジェーンさんだ。オーストラリア人の彼女は、クルーズが終ったらインドネシアに留学すると言っていた。その後インドネシアから2回ほどクリスマス・カードが送られてきたが、住所がなくて返信が出来ないまま時が過ぎていた。5年ぶりの再会である。いまは東チモールで、パートナーと一緒にNGOの仕事をしているそうだ。「すっかり日本語が駄目になって……」と言うように、あれだけ達者だった日本語が思うように使えなくなっていた。確かに5年経ったんだなぁ〜。

船に戻り、残る人びとと別れを惜しんでから(そのはずだ)荷物を抱えて下船。帰路は河辺さんと一緒だ。ターナルのデッキから出港を見送ろうとしたら、係官が「それは出来ない!」と言う。NY港では、見送りは出来ないのだそうだ。仕様ことなしにターナルを出て、辛うじて遠くにトパーズ号の船尾が見える埠頭から出港を見送ることになった。初めての出港見送りなのに、紙テープもなければ出港曲も聞こえない。デッキ上にかすかに人の姿は見えるが、勿論見分けがつくわけはない。なんとも淋しい出港シーンであった。

ともあれ船は暗闇に消えて行き、我々はダウンタウンへと向かう。NYから次の寄港地へ先乗りするというI君、Mさんや現地スタッフが中華料理店で落ち合って、賑やかに最後の食事になった。明日帰国する太鼓の九州巴組も合流しておおいに盛り上がったが、残念ながら私と河辺さんは朝の便に乗るために途中で抜け、ニューアーク空港近くのホテルに入った。本当に最後の夜だ。

7/21(晴れ) ニューヨーク〜

9:00過ぎには空港へ入り出国審査〜国際線待合室へ。長い待ち時間の間に、更に指紋を取られるなど、アメリカは最後まで印象悪い国だった。しばらくは来たくない国のNO.1だ。……とはいえ、PBが国連本部の前にあるビルにNY事務所を構え、12月にはオープンするかも知れないとのこと。もしI君が常駐なんてことになれば、"NY好きの智子さん"が、「行って博物館を回る!」などと言い出しかねない。まぁ、先のことは分からない。

11:10、それでも定刻にコンチネンタル航空機はニューアーク空港を飛び立った。

7/22(晴れ)〜成田空港〜新千歳空港〜札幌

いつも通り、食べて飲んで寝て……成田で河辺さんと別れ、国内線待合室へ。1時間半の待ち時間中にそばでも食べようと思っていたのが、九州へ帰る便を待っている太鼓グループが現われ、結局数杯のビールで時間になった。

帰り着いた家に、やがて刺繍講習会を終えた智子さんも帰宅。やっと夕食にありつけた。やっぱり、飯は家だ……!

4週間の旅の印象だけを……と思っていたのですが、「毎回の旅日記が楽しみです……」などとおだてられ、「それじゃあ、全部報告しなければ」という気分で、長々と駄文を連ねました。それにしても最近とみに進行した記憶障害のせいで、肝心なことやもっと面白いこと、報告すべきことが抜けているかも知れません。まぁ、適当に読み流してくだされば幸いです。