前号の報告では、7月末までには話し合いが行なわれると書いたのですが、教区側の態勢が整わず(という理由で)延び延びになり、結局話し合いが実現したのは10月25日のことでした。3月以来、7ヶ月が過ぎていました。
2003年4〜5月に起きた「差別ハガキ・差別落書き事件」の対応委員会が、『対応要綱』をまとめるまでに2年近い時間がかかっています。この間、当該差別事件への取り組みも、ましてや'94年以来の連続差別事件への取り組みもまったく行なわれることなく、徒に時が過ぎてきたというのが北海道教区の実状であったと言わざるを得ません。
「不十分ながらまとめた“対応要綱”を叩き台に、具体的な取り組みを進めたい」という新教務所長の言を信じて待っていた私たちも、さすがに我慢の限界でした。
再々の申し入れで開かれた25日の話し合いは、私たちの思惑――この2年間職にあった基推常任委員と対応委員の考えてきたこと、考えていることを聞く――とは異なり、新対応委員(この7月に就任)との初顔合わせになりました。「旧委員会メンバーへの質問」として提起したアンケートに答えたのが、新委員会メンバーの一部だったことから、「名ばかりで動かない人には頼らず、実働する意志と力のある人びとで問題を解決していきたい」という教務所長の方針を受け入れざるを得ないという結論に至りました。私たちにとっては、10年経っての仕切り直しです。
次の話し合いは、2002年1月24日を設定しました。それまでに、この10年を振り返り、私たちなりの総括と展望を固めていかなければならないと考えています。
差別は人を殺す
'94年に最初の落書き事件が起きたときから、名指しで攻撃されたUさんとその家族に寄り添い、教区(人)や教団組織の変革を求めて闘ってきたMさんに、直接名指しで差別攻撃ハガキが送られてきたのは、2003年4月でした。
そのMさんが「末期の肝臓癌で、余命は1週間」と宣告されたと聞いたのは、8月下旬です。何の治療を受けることもなく入院しているMさんを、何度か訪れました。家族からは「余命は1ヶ月」と言われ、カレンダーの9月24日に<命日>と書き入れたMさんは、「こんな(短い)時間じゃあ、どこへ行きたいも何をしたいもないよなぁ〜」と、いつも通り気丈に振舞っていました。
「寺も家族も心配はしていないけど、教区や教団とヤイユーカラの森の話し合いが進まないのが気がかりで……」と気をもんでいるMさんと、それでも幾らかは今後へ向けての話をしたのですが、やがて「身体が辛くなってきたから……」と、メールでのやり取りになり、程なく面会謝絶という状態になりました。モルヒネの摂取量も増えていったようです。
医師の診断はもとより、自身の思い定めた<命日>から1ヵ月以上を生き抜いたMさんは、10月30日未明に逝きました。25日の話し合い後、「話し合いを再開できました」と伝えることができたのがせめても……と思うのは、私の独りよがりにすぎません。
酒も飲まないMさんが肝臓をやられたのは、完全にストレスだったと思います。自身が攻撃されたことより、さながら差別者集団のごとき教団・教区を変えようとし、被差別に苦しむ人の痛みを共有しようとし、宗教者本来のあり方を求めていった……。
差別は人を殺します。決して忘れてはなりません……。
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