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ヤイユーカラパーク VOL52 2006.3.5
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久しぶりの南太平洋/51回ピースボートの旅

7月に1ヶ月の船旅から帰り、4ヶ月を過ごしたあと再び……。いささか後ろめたい思いで、51回クルーズに乗船してきました。

とはいえ、2年ぶりの南太平洋です。夏のキャンプや3大学での集中講義を消化し、不在中のあれこれを段取りして雪の札幌を出発した私は、まさしく能天気な老年バカボンド(放浪者)でした。

タヒチで乗船し、フィジー〜パプアニューギニアに寄航、横浜で下船という航程です。6年前NFIPの会議で行ったとき(『森』ニュース・31号)同様直行便が週2便飛んでおり、土曜日の便では出航間際の到着になるということで、火曜日に発つことにしました。乗船前の2日間、タヒチでフリータイムが取れることになります。シャトルバス乗り場まで付き合ってくれた智子さんに靴を渡し、サンダル履きで南国へ出発です!


11/22

千歳発  13:40(JL)  成田で荷物を受け取らねばならないけれど、ま、いいか。

成田着  15:25     エアータヒチヌイのカウンター探しにうろうろ。でも、買物はしっかり。

成田発  17:40(TN)  さっそくのヒナノビール、機内食が美味だった。

パペーテ着 13:05   あっさりと入国審査、税関審査。アメリカとは天地の差だ。


「パペーテ(タヒチ)」

迎えの現地旅行社の車でホテルへ。飛行機内の日本人はほとんどが新婚旅行で、ワゴン車に同乗の2組が降りたのはどちらも豪華なリゾートホテルだった。彼らが降りてから旅行社の日本人スタッフが言うには、「最近の日本人旅行者はほとんどが新婚旅行で、いわゆる"成田離婚"が最も多いのはタヒチへの新婚旅行組なんです」「へぇ〜、どうしてなんだろう?」「多分、旅行中に接するタヒチアンがマッチョで格好いいんで、自分の相手がみすぼらしく見えてしまうんじゃないですかねぇ〜」……。独り身の私は、都心のホテル。港も市場も近く、エアコンも効いている。いいじゃないですか。

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夕闇せまるルロット

シャワーでさっぱりしてから、6年ぶりのパペーテの街を歩く。街並みも人びとの様子も、あまり変わってはいないように感じられるが、9月だった前回よりも暑さは厳しい。歩き出してすぐ、汗が噴き出してくる。"毛穴が開く"まで、何日かかるだろうか……。

強い日差しの中で、日焼けに苦しんだ6年前のことを思い出していた。やはり飛行便の関係で会議の始まる3日前にタヒチに入り、モーレア島で過ごしたのだが、たった半日ビーチで陽にあたっていただけで火傷のような日焼けになってしまったのだ。その後1週間の会議の間中("赤い人"と呼ばれながら)痛みと痒みを我慢していたのだが、結局脚の皮が3回、顔の皮が1回むけてしまった。タヒチの太陽は怖い……肝に銘じたのである。

テラスバーで汗を拭いながらヒナノビールを飲んだ後、夜はフェリー埠頭の屋台(ルロット)で、ポテトサラダ添えステーキを食べる。美味かったけど、あのサラダのボリュームではとても食べきれない。

翌日(23日)は、申込んでおいた「四輪駆動車で回るタヒチ島」ツアー。9:00〜16:00まで、ランド・ローバーのトラックで、島の深山幽谷を走りぬけた。

ホテルに迎えに来たのは、全身に伝統的な文様の刺青を入れたお兄さん。これが"マッチョなタヒチアン"か。なるほど格好いい!

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これがMr.マッチョ

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怖ろしい山道を走る

オーストラリアから来た3人の若者と、スイスからの中年女性、日本人の新婚カップルに私が荷台のベンチに乗り込んで走り出し、やがて深い山に登って行く。いやあ〜、凄いよ〜! 確かにコースにはなっているのだろうが、「こんなとこ、登れないよ!」「これ降りたら、ひっくり返るよ!」というような道を走り、川の中も走り抜けるのである。お兄さんの好感度は、上がりっぱなしだ。

2000年に訪れたカナーク(ニューカレドニでも山越えの道を走り、景観に感嘆したものだが、とてもその比ではない絶景が、次々に現れてきた。

山上のレストランでの昼食をはさんで、走り抜けた距離は分からないが、一度にこんな数の滝を見たことがないというくらい大小の滝を眺め、滝壺で水浴びも楽しんだ。いやはや、「タヒチは山ですよ〜!」。今後タヒチに行く方には、お奨めです。

トラックに揺られ(というか、しがみついて)、川で泳ぎ、温泉入浴剤の風呂で身体をほぐしたせいで疲れたのだろう、その夜はよく眠れた。

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無数とも思われる滝だった

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滝で泳いだ

翌日は、パペーテ市内でのんびり過ごした。

じつは日本を発つ前から考え、悩んでいたことがあった。「ヌイ・ベンと会うべきか……?」

6年前のNFIP(非核独立太平洋会議)で親しくなり、吾夢(娘)もその前後にお世話になっていたNui Ben Teriitehauがパペーテに住んでいるのである(『森』ニュース/27・31・33号)。'99年に北海道で開催した「フォーラム'99」(『森』ニュース/32号)に招へいしていたのが間際になって来られなくなり、それ以来連絡を取っていなかったし、'03年トンガでのNFIPにも来ていなかったので、「せっかく時間が出来るのだから、会いたいなぁ」とは思っていたのだ。オスカー・テマル大統領の政党「タヴィニ」のNo.2として、多忙な毎日だろうけれど、電話くらいはしなければ……と思いつつ、結局はそれもせずに終わってしまった。

それは、私のこの後のスケジュールとの兼ね合いに悩んだせいである。翌日船に乗って、そのままOPで出かけるのが、ガビー(Gabriel Tetiarahi)の主宰するNGO「ヒティ・タウ」で、そこに一泊することになっている。

タヒチ(仏領ポリネシア)先住民の独立(解放)運動は、フランスの圧力と先住民族内の運動方針の違いなどから、多くの紆余曲折を経て今日に至っている。フランスの植民地下ではじめて先住民族として政権を獲得したオスカー・テマルが、"観光"を手段にしてでもタヒチアンの自立と自治を確立しようとしているのに対し、ガビーたちはタヒチアンの伝統的な生業によって自身の生活権を取り戻そうとしている。非常に大雑把な言い方だが、そんな違いが日常の活動や主張に現れているのである。

翌25日に乗船し、そのまま「ヒティ・タウ」へ行って一泊し、その後はフィジーまでガビーと一緒の旅になる。ヌイ・ベンと会ったからといって、ガビーが気を悪くしたり不愉快な思いをするわけではないだろうが、なんとなく気詰まりなのだ。……で、結論。「ま、次にするか」と、一日市内をぶらぶらして買物やカフェのビール、屋台の夕食を楽しんで過ごしたのだった。

「ヒティ・タウ(今、立ち上がるとき)」

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タロとガビー

25日朝、4ヶ月ぶりのトパーズ号に「ただいま〜!」と乗船し、そのままバスに乗り換えてOPへ出発した。この道は'99年のNFIPのときに走った道で、会場になったアルエの教会や隣接するフランス海軍の基地やクラブの前を、懐かしく眺めながら通り過ぎた。

1時間半ほどで着いた「ヒティ・タウ」は、'99年以来。あの時は1週間の断酒のあとで、歓迎セレモニーに続いて飲んだビールとPCRCスタッフからもらったジャック・ダニエルで完璧に酩酊、帰路のバスの記憶がまったくなかったっけ……(『森』ニュース/33)。酔う前に植えたバニラの苗が生長した姿を見にこようと思っていたのだが、数年前にウィルスによって全滅したというニュースが入った。

いろいろな思いや思い出が交錯する「ヒティ・タウ」で、ガビーが迎えてくれた。'03年春、東京での"PB創立20周年パーティー"以来だ。「年取ったなぁ……」と思ったが、人のことは言えない。

昼食後、車で30分ほど山の中へ入ったアオマ谷にある彼らの農場へ。すでにタロやバナナ、バニラが植えられている畑や、これから農地としていく予定の傾斜地をまわり(というか、よじ登り)、説明を聞いた。さらに、今晩のセレモニーのためにタロ、バナナ、カボチャを全員で収穫する。いやはや、なんという暑さだ! 一緒にきた子どもたちが、暑い中でじつによく働く。

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バナナの収穫

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タロを掘る

夕方戻った「ヒティ・タウ」で、今夜のホストファミリーを紹介され、それぞれの家へ荷物を運び込んだ。私は、フェアトレードや有機農業をやっている"ナマケモノ倶楽部"からの水案、中村隆市さんと一緒に、「ヒティ・タウ」の隣家が宿になった。ビビアンという女性とサムエル(10才位)、ナポレオン(5才位)という二人の男の子の家である。「夫はどこかへ行ってしまった」と、ビビアンは笑っていた。

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ビビアンとナポレオン

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サムエル

夜は、マラエ(祭壇・神殿)前に座り、伝統的なセレモニー。フトゥナから移り住んできたという人びとも紹介された。フトゥナ(Futuna)島は、ワールドアトラスで見ると、タヒチよりはフィジーに近く、西サモアに含まれるのではないかと思われる。(おそらくは)仕事を求めて遠い島から渡ってきた、長老から幼児にいたる20人ほどが「ヒティ・タウ」に住み、働いているということだった。私たちのホストファミリー、ビビアン親子もまた、フトゥナからきたそうだ。

セレモニーの最後にガビーが「今回二度目の来訪となるMr.Keiraが、明日誕生日を迎えるので、プレゼントを贈ります」と、花の首飾りとカヌーのパドルを贈られた。本人は忘れていたのに、PBスタッフが話してくれたのだろう。大きなバースデーケーキも運ばれ、集まってきた子どもたちと一緒に食べた。おいしかった……!

夕食後、タヒチの踊りやフトゥナの踊りを披露してくれ、楽しんだ。ビールも美味だったし……。

翌朝、朝食を済ませて集まった私たちは、モノイオイル(ココナッツの油)の作り方を見学。あとはのんびりと午前中を過ごした。昼食を食べて、なみだ目のサムエル、ナポレオンと別れてバスで出発。同乗したガビーのガイドでビーナス岬まで走り、ビーチで水浴び。黒い砂と遠浅の海、トップレスで陽を浴びている女性たち……タヒチだ。

17:00前に帰船し、18:00にはフィジーへ向けて出港した。阿寒湖の山本栄子さんがここから乗船、アイヌ刺繍のワークショップを行なう。無事到着していたので、まずは安心。中村さんとは、ここでお別れだ。


「消滅日〜12月1日」

"時差に恨みは数々あれど〜"(『森』ニュース/45号)ではないが、東西方向に移動すると、時差が発生する。船内新聞やレストランのテーブル上に「本日は時差が発生します。24時になりましたら、お手元の時計を1時間お戻し(お進め)ください」という表示が現れる。太平洋を東から西へ航海していると、頻繁に時計の針を1時間ずつ戻すことになり、妙に儲かったような気がして酒の量が増えるのである。機械音痴の私が、デジタルではなく日付なしのアナログ時計を使っているのは、この時差のためだ。

さらに戻したり進めたりしてきた時計を、陸時間と合わせるために「日付変更線」があり、タヒチからフィジーへ向かった船は、これを越えた瞬間1日先の日付になる。したがって11月30日が12月1日になり、「日付変更線」を越えて12月2日になるのだが、実質的には12月1日は消滅してしまう。

そこで11月30日に発生する時差で戻す1時間を、12月1日にしてしまおうと考えた人がいる。どーも、分かるようで分からない……のだが、頭のいい人がいるもんだ……。とにかく、24時間を1時間に圧縮して、その中で1日分の船内企画をやってしまおうということである。

30日24時にブロードウェイ(一番大きなホール)で始まった「失われた1日を求めて」は、講座やパフォーマンス、ワークショップ、上陸説明会(種子島だった)まであって、とにかく面白かった。満席の会場に湧き上がる笑い声のなか、私たちは12月2日を迎えたのであった。

「フィジー」

12月2日午後、スバ(フィジー)入港。予定では島の反対側にあるラウトカに入港して一泊だったのが、燃料補給が必要になり、スバで給油している間を自由時間とすることになったようだ。思いがけず6時間をスバで過ごせることになり、私はタクシーでPCRC(太平洋問題情報センター)へと向かった。

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カバだよ〜

思いがけない近さで「帰りは歩きだ」と、「終わるまで待っている」と言うドライバーに2米$を渡して追い払う。「お前は日本人でオレはインド人だから、アジア人同士だ。無料で観光案内をしてやるから、待ってる!」と、訳の分からないことを言って頑張っていたが、諦めてUターンしていった。

6年前から娘が1年半インターンをしていたPCRCのオフィスへは、初めての訪問だ。1階の受付で声をかけると、奥から「アムのパパ〜?」と叫ぶ声。若い女性スタッフ、フィペだった。娘がいたときのスタッフは、今はこのフィペだけになったらしい。2階へ案内され、アシスタント・ディレクターの中年女性、若い女性スタッフとテーブルを囲む。フィペが「Mr.Kera、カバ飲む?」と訊くので「勿論」。やがてカバ・ボールが持ち出され、3人でカバ飲み飲みの会話が……。辞書も無く通訳もいない会話だが、語彙の在庫を総動員して、情報交換が続いた。

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フィペとヴェレさん

ここへきた最大の目的「次のNFIPは何時か?'07年、サモアでという計画だったと思うが……」という質問に、「その通り、サモアで6月か8月に開催の予定だ」という答えだった。「いつ決定になる?」「まだ分からない。来れるのか?」「日程が早く決まれば、参加できると思うし、参加したいと思っている」「分かった、決まり次第教える」と、一応の目的は達したのだが、過去の実績でいうとこれがなかなか決まらないんだよなぁ〜。

その後は、アルバムでこれまでのNFIPの写真を見ながら、写っているあの人、この人のことを話したり現在の様子を聞いたり。フィジーで娘の母親代わりだったロゼーナは、フィジー政府の国務大臣になっていたし、これまでスタッフだったメンバーは、それぞれの国や地域での活動を充実させているようだ。

やがて、「サモアでまたね〜!」の声に送られてオフィスを出る。だらだら坂を下りきった市場で、カバを求めて上がっていった2階売り場はシャッターが下りていた。「遅かったか!」と、1階売り場で訪ねると「そこら辺で売っている」と言う。市場の外周を回っていくと、確かに路上に並べたカバを売っている人びとがいた。1sの袋を2個買って船へと戻る。なかなか充実した1日だった。船は23:00に出港して、ラウトカへ向かう。

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サナサナ村の臨時マーケット



翌日は、港からバスで2時間、サナサナ村での交流ツアーに参加した。カバ・セレモニーやロボ料理、メケダンスショーを見て、帰る途中ビーチで海水浴もできた。さらにナンディの街でショッピングタイム。駆け込んだスーパーは2軒とも、酒売り場のシャッターが下りていた。土曜日は、閉店が早い。ああ〜……。





「パプアニューギニア」

ラバウルも3度目となると、遠出が億劫になる。12時間の停泊中、市場とスーパーを歩いて終わった。ただ、毎回「やってみたいなぁ」と思うのが、ビンロウの実(檳榔子)。生石灰をつけて噛むと、口の中が真っ赤になる。長く噛んでいると、酩酊作用があるというからカバのようなものらしい。土地の人が口の中を真っ赤に染めて、時々「ペッ!」と吐き出した唾で、道路には赤い染みが点々と残されている、あれである。

市場には野菜や果物と並んで売られており、これだけを売っている小母ちゃんたちも多い。1キナ(46円くらい)出すと、バナナの葉に載せて10個ほど渡されたので「多すぎる」と言う(英語で)と、小母ちゃんその上にさらに5個ほどを載せてきた。

船に戻って考える。「噛んでみようか……」「しかし、あの色は2〜3日は取れないというし、この後講座もあるしなぁ……」「さて、どうしたもんか〜?」……結局、船では噛めなかった。

そのビンロウがその後どうなったかは、あまり公には出来ないので、秘密。私の水パ(アシスタント)たちも、カバ・パーティは喜んだけれど、これを噛むことは断乎拒否された。この次には、是非……と思ってはいる。

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まだ噴煙をあげている火山が……

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村中の人々(?)が出てきて「人」を見る

「仕事だってした……」

今回が6回目のクルーズ。同じ船で同じくらいの船客数なのだが、クルーズごとに船内の雰囲気が異なるのが面白い。とくに世界一周も最終コースになると、その違いがはっきり感じられるのである。で、今クルーズの感じは"ゆったり、なごやか"かな? 女性クルーズ・ディレクターと各スタッフの努力の成果でしょう。もちろん(ほとんど)初対面の900人もの人びとが限られた空間で生活しているのだから、トラブルや不満もあっただろうが、船全体としてはひとつのまとまりが感じられた。裏で苦労を重ねてきたスタッフには、心から「お疲れさま!」。

私だって"ゆったり、なごやか"に飲んでばかりいたわけではない。ちゃんと仕事だってしたのだ。『知ってるつもり!? 日本の先住民族』『アイヌ8000年の歴史 Vol.1』『アイヌ8000年の歴史 Vol.2』『アイヌの文化〜イオマンテとユーカラ』『アイヌの文化その2〜現代に生きるアイヌ文化』『もっとアイヌについて知りたい人集まれ!』と、6講座。水パと話していて何となくノリでつけたタイトルは気恥ずかしいが、帰国前の過密スケジュールのなか、なんとか予定分は消化した。パワーポイントのトラブルが続き、汗をかいたが……、次回までに作り直しだ。

「そして下船」

12月10日24時に最後の時差調整をして、船内も日本時間になる。その後雨模様が続き、波も高くなってきた。今クルーズは出航直後に台風に遭遇し、ベトナム寄港ができないというアクシデントがあったが、旅の始めと終わりを揺れて過ごすことになったようだ。当然船足は遅くなり、15日7:30に横浜入港の予定が大幅にずれ込んで、15:00入港と発表になった。

私はその夜は横浜泊りで娘たちと食事をし、翌日帰札というスケジュールだったので、入港・下船が遅れても影響はなかったのだが、神戸下船組は16日20:00の入港となり、最終下船は24:00近くなるだろう。当然宿泊が必要な人も多くなり、その手配と連絡に、スタッフは徹夜態勢。最後まで忙しく走り回っている姿を見ながら、16:00過ぎ、私は船を降りた。

南太平洋から雪の北海道へ帰り、年が明けた1月6日、PCRCからメールが入った。「2006年1月4日、Nui Ben Teriitehau(ヌイ・ベン)が心臓発作で急逝」という内容……! 56才という若さだった。

「やっぱり、会ってくるんだった……」。衝撃と悔いに襲われた。突然のことで会えたかどうかは分からないが、電話さえしなかったことが心底悔やまれる。自身の余命も分からなくなってきたのだから、「会いたい人には会う。会える人には会う」を、今後は肝に銘じておこう。


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