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ヤイユーカラパーク VOL54</td>
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大西洋から太平洋へ/53回 ピースボートの旅

なんとなく自然に決まってしまった53回クルーズ乗船。「パナマ運河を通ってみたい」とか「デニス・バンクスと同乗できるから」とか「バンクーバーで下船して、リルワットへ行ってこれるから」とか……いくつか動機めいたものはありましたが、単純に「カリブ海で息抜きしたい」だけだったのかもしれません。

それにしても一ヶ月間の不在ですから、春のキャンプの後はあわただしい日々を送りました。ニュースを出し、刺繍講習会の段取りをし、あれやこれやを片付け(?)て、なんとか前日には荷造りを終えることが出来ました。今回は忘れ物なし、のはずです。

6月5日ニューヨークで乗船、28日バンクーバーで下船ですが、P・Bニューヨーク事務所開設のため滞在中のI君が「ステーキご馳走するから、何日か前に入ってよ」のお誘い。NYでぶらぶらするのもいいなぁと、アメリカ嫌いのはずが食い物に釣られて……。さらにバンクーバー後にも、リルワット数日間のスケジュールを組んでの出発でした。

6/3日 千歳〜成田〜ニューヨーク,5日 乗船,11日 モンテゴベイ(ジャマイカ),13日 クリストバル(パナマ),17日 アカフトラ(エルサルバドル),20日 アカプルコ(メキシコ),28日 バンクーバー(カナダ)下船・リルワット,7/1日 バンクーバー〜サンフランシスコ〜,2日 成田〜千歳……という旅です。

今回は"旅日誌"ではなく、道中のトピックスをいくつか報告(?)させていただきます。

     

「デニス・バンクス」  

デニスとタシナ

デニスとタシナのドラム・ダンス

  NYからモンテゴベイ(ジャマイカ)まで、デニス・バンクスとタシナの父娘が乗船、3回の講座をもちました。デニス・バンクスといえば、AIM(アメリカ・インディアン・ムーヴメント)の創設者で、アルカトラスやウンデッドニーの占拠闘争で知られ、70〜80年代のアメリカ・インディアン解放運動の象徴のような存在でした。彼の始めた"セイクレッド・ラン"は、日本でも何度か行なわれ、北海道でもアイヌを含む多くの人びとが参加しましたが、私は一度も会ったことがなかったのです。

  70才になったデニスの第一印象は、「老いたなぁ〜」でした。故郷ミネソタ州リーチレークで伝統回帰の生活をしている最近の様子はTVドキュメントで見ていたものの、ひと頃"もっとも過激なアメリカ・インディアン"と呼ばれていた当時の面影は薄くなっていました。けれども決して"ひ弱"に見えたわけではありません。むしろ彼が"非暴力権利回復運動"へと転換し、その実践者として生きている力強さは並大抵のものではありません。ナワ・カミック(外に立てる者=インディアン名)の面目躍如たるものを感じました。

  3回の講座のなかで、彼とAIMの闘争史(武装闘争も含む)を聞きたかったのですが、ほとんどそれには触れず、「7世代先を考えて」に代表される彼らの哲学と生き方について淡々と語りかける内容だったのが、少し物足りなかった……。タシナのダンスは、素敵でした。

「本当にマイノリティのことを考えているんですか?」  

  今クルーズでの私の講座は、イントロダクションを含めて4回を前半(アカプルコまで)、3回を後半(バンクーバーまで)の予定で始まりました。前半は歴史編、後半は文化編になります。ペーパー資料を使わず、パワーポイントとビデオ映像を使っての話になるので、90分ではなかなか忙しい。

  各講座の前日(または前々日)に、船内新聞の取材(講座案内)を受け、CC(通訳)と打ち合わせをしなければなりません。取材はともかく、CCさんとの打ち合わせが結構大変なのです。

  話者が外国人の場合は、逐次通訳で日本語になるので問題はないのですが、反対の場合――日本語で話し、オーディエンスに外国人が混ざっている場合――には、日本語→英語の同時通訳が必要になります。大体二人の通訳者が交代で90分をカバーしますが、まさに重労働です。

  私もこれまでのクルーズで何度か体験していますが、90分の講座のために、2時間〜3時間以上の打ち合わせが必要な場合もあります。船にはパセンジャー(旅客)以外に、外国人水案、GET(外国語教室)講師がいて、空き時間には興味のある講座を聞きにきますから、彼らにも理解できるように話さなければならないのは当然なのです。とはいえ、その"当然"をクリアーするのは……話す者にも、それを通訳する者にも、なかなか大変な仕事です。

  最近2回のクルーズが同時通訳なしだったせいもあり、どうにも"打ち合わせ"が億劫な私。「打ち合わせしても、本番では違う話になるかもしれないしなぁ」という私の1回目が終わってから、担当CCのYさん、Kさんとミーティング。ビデオ・ドキュメントと私の早口を完全通訳するという大仕事を終えた二人と居酒屋・なみ平です。陸ではプロの通訳として活躍しているYさんは、1989年の先住民会議でお世話になった通訳・Cさんとも旧知の女性。Kさんはノルウェー人と日本人の混血で、日英両語とも達者な女性。この二人が通訳を担当してくれた私は、本当に幸せでした(ということを、後になって実感しました)。

  「計良さん、自分の話を理解して欲しいと、本当に思ってる?」「そりゃあ、当然そう思っているよ」「ならば、CCがしっかり通訳できるように努力してくれなければ……」「う〜ん……」「一回話したことは話したくない、なんて言ってたら、通訳なんてできないでしょう?」「………」「ただでさえ難しい言葉や中味ばっかりの話なんだから、どれだけ打ち合わせをしたって足りない位なんですよ?」そりゃあ、そのとおりなのだ。アイヌのことでも先住民のことでも、日本人が聞いていても全部をすっと理解するのは大変だろう。そのためにビデオ映像やパワーポイントを使うのだが、それもまた同時に通訳しなければならないのだから……。

  「今回は、一人でもオーディエンスに英語のスピーカーがいれば同時通訳が入るという方針だから、私たちはどんな場合でも――たとえ講師がいい加減でも――完璧にやらなければならないんです」「大変だなぁ……!」「そう思ったら、ちゃんと協力してください!」Yさんの気炎が上がる。「"マイノリティが尊重される世界を"ってみんな言ってるけど、実際には数少ない英語のオーディエンスへの配慮がされている?」「………」「どうせ一人か二人なんだから、そこそこ通訳できていればいいだろう、っていうのが大勢なのよ。だけど、それじゃあマイノリティ云々なんて言えないでしょう!?」「そりゃそうだ」「ね? 言ってることとやってることが違うのよ」ここに到るまでのストレスが一気にあふれ出す。「だから、せめて私たちだけでも、聞きにきた人すべてが講座を理解できるようにとがんばってるんですよ」「うん、うん……」「本当にマイノリティを大事に思うんなら、ちゃんと打ち合わせに時間をかけてください」「はい」「パセンジャーだけでなくGETの先生にもアイヌに興味をもっている人がいて、時間さえ空けば講座を聞きたいと言ってるんですから」「……わかりました」。

講座の看板

講座の看板

  ……と続いた飲み会兼ミーティングが終わって、部屋へ戻る私は酩酊気味。階段の途中でよろめいて、あわてて壁で支えた両手の甲に擦り傷ができてしまった。翌朝目覚めて「イテテ……」、両手のかさぶたを見て思い出した昨晩の顛末でした。

  以来かさぶたに"クマの油"(これはまさしく万能薬です)を塗るたびに、「マイノリティを大切に」を心に刻み、"打ち合わせ〜本番"を繰り返した(はず)ですが、毎回の終了後、YさんKさんの表情を見ると……。打ち合わせで話せることには限界があります。

  ともあれ、バンクーバーで出航する船に向って(すっかり傷が治った)両手を振りながら、二人のCCさんに心から感謝している私でありました。

    
    

「貧しさと明るさと」  

  ジャマイカ、パナマ、エルサルバドルの上陸説明会で繰り返し強調された注意事項は、「治安が非常に悪い」こと。小路に入らない、一人にならない、夜は歩かない……何度も聞きました。たしかに治安はよくないので、1000人もの"日本人"を上陸させるスタッフの心配は分かります。

  モンテゴベイ(ジャマイカ)のダウンタウンを歩くと、土産物屋から飛び出してくる客引きの口説や呼び込みでなかなか前へ進めません。ただでさえ暑い中、マンツーマンですがり付いてくる男女をかわしながら歩いていると、頭がボーッとなってきます。民芸品(一応は)を並べた売り台に敷いたビニールの下からマリファナを出して、「これはどうだ?」と勧めるお兄ちゃんもいて、断り続けるのにもエネルギーが必要。海辺のホテルのバーに逃げ込んで地ビールを飲みながら、一昔、ふた昔まえの北海道の観光地を思い出していました。

  それにしても、老若男女を問わず底抜けの明るさです。誰もが「No problem!」を繰り返し、Tシャツや土産物にその文字が躍っています。問題や困難ばかりだから、「なんてこたぁないさ!」と弾き飛ばそうとしているのでしょう。レゲエは、まさしくジャマイカの表現でした。

  タクシーで港へ戻る途中、信号のある交差点で片側2車線の真ん中に新聞、雑誌、ミネラルウォーターを抱えた5〜6才の少年が立っていました。信号待ちの車に商品を差し出して声をかけています。運転手に「生活はどうか?」と尋ねると、「……経済は大変だ……だけど、ノープロブレムさ!」。


  クリストバル(パナマ)の接岸ターミナルの中には30ほどの土産物店が広がっていました。パナマ各地の民芸品――パレオやTシャツなどの布製品はインドネシア製でした――が並べられています。なかに、裸にボディペインティングを施した若い先住民男女が売り子をしている店がありました。真ん中に座っている白人女性が経営者なのでしょう。テンキ草(に似た草)のバスケットを一つ買いましたが、木彫品などを見る気分にはなれず、店を後にしました。

  思うことはいろいろありましたが、貧しさ故の治安の悪さ……なのでしょうか?

パナマ港の民芸店

パナマ港の民芸店

子どもたち

バスに集まる物売りの子どもたち(エルサルバドル)

    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
  

「パナマ運河」  

  太平洋と大西洋を結ぶ80kmの長さのパナマ運河。子どもの頃から"一度は通ってみたい"と思っていました。

  6月13日午後クリストバル港に着岸し、「ガトゥン閘門」へのOPに参加しました。閘門(こうもん)とは、海面と26mの海抜差がある内陸のガトゥン湖を3ヶ所・6室の小室に水を増減することで船舶の移動を可能にするための、エレベーターのようなもののことです。フランス人のレセップス(スエズ運河を掘削した)が失敗し米国が完成させたパナマ運河は、この閘門によって始めて通行が可能になり、その原理については小学校の授業でも教わった記憶があります。この日岸壁から眺めた、巨大なコンテナ船が3段階にわたってその高さをあげていく光景は、まさに一見に値する見ものでありました。

  翌日早朝から運河へ入り、夕刻に太平洋へと抜けるまでの一日をほとんどデッキで過ごしましたが、貴重な体験であるとともに、"一回でいいなぁ〜"の思いを強くしたことです。次はスエズ運河を体験しなくっちゃあ……。

  それにしても、ガトゥン閘門の帰路バスが廻ってくれた"旧アメリカ人住宅街跡"の豪華な廃墟に心が痛みました。アメリカに蹂躙され尽くしたパナマの残像が、そこにはありました。

   
パナマ運河通過

そして、私たちもパナマ運河を通過する

 
コンテナ船

コンテナ船が通る

閘門のゲート

閘門のゲート


    
    

「映画『イノセント・ボイス』の国」  

  1992年に12年続いた内戦が終わったエルサルバドル。その内戦の中で生きた子どもたちを描いた映画『イノセント・ボイス』を、出国前に見ることができました。12歳になると国軍に徴兵される少年たち、徴兵から逃れて山へ入りパルチザンになる少年たち、傷つけられ殺される人びと……。そのエルサルバドルに行きました。

  「内戦とその後遺症」を検証し、人びとと交流するOPに参加しました。内戦時に親元から誘拐され海外に売られた子どもたちを探す活動をしている団体プロブスケダ(PROBUSQUEDA)と、政治的な理由で逮捕され、拷問され、現在も行方不明になっている3万人の人びとを探し、政府の責任を追及している団体コデファム(CODEFAM)を訪れ、重い話を聞くとともに明るい交流の時間を持つこともできました。

  しかし特筆すべきは、この日のバストラブルです。アカフトラ港を9:00過ぎにバスで出発、途中のトイレ休憩までは順調でした。しばらく走ると警官がいて、「この先の道で工事をしているので、迂回しなさい」とのこと。次の町でその道路を外れ、街の中を迂回路にして走ります。いやぁ〜、細い道だ! 両側1.5車線くらいの道を、バス(普通サイズですぞ)はゆっくり進んでいく。それにしても、やたらに交差点が多い街だ。曲がりくねった道の角毎にバスを止め、2回、3回とハンドルを切り返してすり抜けていくドライバーの小父さんに、そのたびに拍手が贈られる。と………交差点に頭を突っ込んだきり、バスが止まってしまいました。切り返し、切り返しを繰り返していた小父さんは、やがて外へ出て、眺める、目測する……。街の人びとも集まってきて、賑やかになってきた。やがてCCさんが「ずっとバックで抜けていくことになったので、安全のため、皆さんは一旦バスから降りて、この先の公園で待っていてください」。

  バスを降りて歩いていった公園では、何かのお祭りの準備をやっているらしく、とても賑やかでした。商店街の真ん中のその公園で、それぞれが飲み物や果物を買い、ウインドウショッピングを楽しんでいます。そしてその周囲には、自動小銃を抱えた兵隊が点々と……。

  30分程すると、バスがやってきました。最初の訪問地グアルヒラに着き、プロブスケダの人びとの待つ会場へは2時間遅れの到着となりました。

  急ぎながらも、昼食と交流を終えて、次の訪問地アギラレスへ。コデファムはミッションの広い敷地に建つ瀟洒な施設でした。夕食を交えて子どもたちや若者たちとの交流を終え、20:00過ぎにはバスに乗り込んだのですが……。

  エンジンが掛かっているのになかなかバスは走り出しません。やがてCCさんの説明。「ヘッドライトが壊れて点きません。走るのは危険なので、サン・サルバドルから代わりのバスが着くまでお待ちください。1時間ほど掛かると言っています」………。

  バスから降りた人びとは、その1時間を楽しむ(?)べく、思い思いに散っていきました。テラスの灯りを点けたままにしてくれたので、椅子を出して休む人やおしゃべりを楽しむ人、暗い庭を散策する人など、色々です。暗がりで蛍を発見したグループもいました。

  私はといえば、若者グループの中にラムとジャンボコーラを抱えていた(帰船してから飲むべく)人を発見し、「皆で飲もう!」と、テラスの一角でラムコーク・パーティを。10人ほどの回し飲みではあっても、楽しい時間を過ごすことができました。

  やがてバスが到着、暗い道を走り続けて、帰船したのは24:00を過ぎていました。今夜開いているのはヘミングウエイ(バー)だけとあって、真っ直ぐに走り込んだのは言うまでもありません。ハプニングはありましたが、今日が「No problem!」の一日だったのは確かです。

  
兵隊

自動小銃だぜ〜!

 
バス

路地に突き刺さったバス

    
          
     
     
     
     
     
     
     
     
     
 
  

「ジョジーナとロザリンが乗ってきた」  

ジョジーナ、ロザリン

CCのケンとジョジーナ、ロザリン

  6月20日アカプルコ(メキシコ)から、ジョジーナとロザリンが乗ってきました。朝からざわざわと人の出入りが激しい船内で、始めて顔を合わせたのは23:00の出航後、さっそく(?)ヘミングウェイのワインで乾杯(ロザリンはコーラでしたが)、リルワットのドライサーモンも受け取りました。

  バンクーバーまでの7日間に二人の講座が3回、私は自分の講座が3回、そして最後に三人でのトークセッションが1回あるので、それぞれの打ち合わせを含めるとなかなか忙しい毎日です。それでも講座がかぶらないように時間割を組んでくれたので、お互いの講座に出ることはできました。ロザリンは寄宿学校の体験と"シュティカ"でのキャンプ闘争、ジョジーナは民族教育獲得の活動を中心に、それぞれが個性的な語り口で、聞く人の共感を得ていました。最終回はサンピークスとシュティカのドキュメント『冬の魂』を見てから三人で話しましたが、日本(国・企業・人)がやっていることへの認識と責任を持たなければならないという内容になったと思います。アイヌ文化中心の私の講座は、二人とも楽しかったようで、CCのYさんKさんに感謝! です。

  夕食は一緒に食べることが多かったので、ワインやビールを楽しみながらのおしゃべり。彼女たちが日本へ来たときの話しから、ジョジーナが「そろそろ、また日本へ行かねばならない」……そうですか……? 来年あたりには、招聘を考えなければならないようです。

  ジョジーナともロザリンとも、こんなにゆっくり居れたのは始めてです。これが船の魅力ですねぇ。

「そしてリルワットへ」  

  6月28日早朝、バンクーバー入港。荷物を船からターミナルへ下ろし、午前中はのんびり……のはずが、何となく気ぜわしい時間を過ごします。23日からバンクーバー市内で開催されていた「WPF(世界平和フォーラム)」(世界のNGOによる平和のためのフォーラムで、数百のワークショップが行なわれた)の、今日が最終日とあって、主なPBスタッフがバンクーバーに集結していたのです。ニューヨークから入っていたI君も早々と船に乗り込んできて、トランシーバー片手に飛び回っていました。いや、お疲れさま〜。

  やがてアルビンと二人の息子、樹央君、ウォルヴリン(ネスコンリスの長老でグスタフスン・レイク事件の中心人物)までが現われました。WPFの会場から回ってきたようです。ウォルヴリンがにやにやしながら「痒いのは治ったか?」「あの後すぐに治った」「それはよかった」にやり……(2年前の"水鳥の虱事件"ニュース48号参照)。いやはや……。

出港

出港

  何だかんだで時間が過ぎて夕方近く、アルビン車やタクシーに分乗して市内の"フレンドシップ・センター"へ。朝出発したOPグループに合流して、先住民との夕食交流会です。ハイダの系統に属する人びとの儀礼や歌、踊りは、とても心地よいものでした。さらに"インディアン・タイム"で始まり(つまり、なかなか始まらない)進行するプログラムは、「カナダに来た!」を実感させました。ツアー・リーダーやCCさんは気を揉んでいたようですが、終には慣れることができたようで、これまた結構なことでした。こんなペースで生きようよ〜、です。

  22:00の帰船リミットぎりぎりにターミナルへ。WPFの会場から船まで、ハイダのドラムソングを先導に練り歩いてきた一行で、バルコニーは一杯でした。ターミナル内に預けっぱなし(と思い込んでいた)荷物を回収しなければと、しばらくビル内外を走り回った後、I君の「ちゃんとアルビンの車に積み込んでありますよ。オレがそんなどじをするわけないじゃないですか〜!」に、ホッ! 安心して見送りにかかります。出港を見送るのはほとんど始めてでしたが、23:00過ぎに船が動き出すまで、まあ〜実に長い時間がかかるものです。送り、送られる人びとの喧騒の中、2時間にわたる出港シーンは終わり、船は遠く消えていきました。

  この時間になってやっと暗くなってきたバンクーバーを後に、アルビン車でリルワットへ向います。4:00過ぎに到着した離れのロッジには、電気が灯されていました。前回(2年前)までは電気なしで、ローソクの明かりで酒宴を開いたものですが、いまは樹央君が住む快適な住空間になっています。蚊取り線香(今夏はとくに蚊が多いそうです)をくゆらしながら、6:00過ぎまでジャマイカ土産のラムを酌み交わしながら再会を喜びあい(?)ました。


樹央君とイネス

樹央君とイネス

  今回カナダでのハイライトは、「樹央君の結婚!」です。相手はアルゼンチンから移住していたマプーチェ族(母)とアルゼンチン人(父)の混血で24才の、イネスさん。二人は10月にアルゼンチン(チリとの国境近くということでした)へ移り、現地で畑作と豆腐作りをはじめたイネスの母と姉と一緒に働くということです。これまでカナダや日本で学んだ有機農法をアルゼンチンで実らせる……と、意気盛んな樹央君、イネスは1月に出産ということで、二人の間にはすでに実ったものもあるようです。もの静かながら芯はしっかりとした、素敵な女性でした。

  さて翌日(29日)はシュティカへ。樹央君から「ヒューバートはこの頃、仙人みたいになってきた」と聞いていましたが、会うとなるほど"森の精"のようです。動物たちと話ができる、そうです。5年以上もここに住んでいると、そうなるのも自然のように思いますが、「州兵が威嚇行動をするので、怖くて夜眠られない」とも言っていました。銃撃されることは最近はないそうですが、夜になるとキャンプ近くまで忍び寄ってくるという神経戦に、かなり疲れている印象を受けました。サポート・メンバーが交替で泊り込むことも必要だと思います。「来夏には、また皆で来るから」と言うと、「うん、待っている……」と、嬉しそうでした。

  "リロエット(近くの町)から1時間かけて来た"という地元の新聞「The St'?t'imc Runner」の女性記者が待っていて、インタビューを1時間。ロザリンの手配だったようです。「記事が載ったら送ります」ということだったので、楽しみにしています。

  その夜は、ボボが少し前に釣ってきたというスプリング・サーモンで、刺身と手巻き鮨、ハラス焼きを食べました。絶品!! サッカイも解凍してありましたが、とてもそこまで手が伸びなかった……。最高の鮭、でした。

  翌日の午後まで、樹央君のロッジでモーツアルトを聞きながら……と、至福のときを過ごしてから、アルビン車でバンクーバーへ向います。途中、このあとグアテマラへ"魂の旅"に出かけるというアルビンと息子のビルの旅支度を整えに、巨大ショッピングセンターに寄りました。買い物好きのアルビンの"アルビンタイム"。長い長〜い待ち時間でした。

  やっとたどり着いた空港近くのホテルにチェックインしてから、皆で食事に。前回バンクーバー到着後に寄って買い物と食事をした「Yaohan」一帯(リッチモンド)は、すっかり中国人街に変わっていました。香港返還後に移住してきた中国人が、大挙して住宅を建てたそうです。富裕な階層が多いそうで、べら棒に高級な中華料理店もありましたが、そこはアルビンの選択で、庶民価格の美味しい店にもぐり込み、飽食した私たちです。

  食事後リルワットへ帰る車を見送ると、すでに時間は23:00を過ぎていました。明朝、5:30には空港に入らなければならない私は、午前2:00、旅の最後の眠りにつきました。

   
氷河

氷河がきれいだった……!

シュティカ

シュティカ

       
     
     
     
     
     
     
     
     
     
 
 
          

「最後は……走った!」  

  7月1日。すっかり広くなったバンクーバー空港でユナイテッド航空のカウンターを捜し歩き、やっとチェックイン。出国審査の後、そのままアメリカへの入国審査。たった1個のライターも取り上げられたけれど「こりゃ楽だ!」と、搭乗待合い室へ。サンフランシスコ行き7:30だ。

  ……これが、遅れる。悪天候のためだそうだが、遅れに遅れること1時間半。「成田行きに乗れないのでは……!?」……気を揉みながらのフライト。案の定、サンフランシスコ到着が11:20、成田行きは11:27発だ。幸い荷物は成田まで直行だが、本人が行き着かないことには話にならない。チケットかざして、係員に尋ね尋ねしながらシャトルバス移動、ターミナルでは「どっち行ったらいいんだ?」。ただでさえ見づらい案内表示が読み取れない。2メートル近い黒人係員が「どうした?」、チケットを見せる。「Oh〜!」「どっち?」「こっちだ、走れ!」。先に立って走り出した。リュック背負って、追いかける私。「急げ、急げ!」………息が切れて死ぬかと思った頃(多分、7〜8分後)、日系人らしい女性が「成田?」「そう!」「こっちへ」……良かった!!

  彼女が階下のカウンターに声をかけ、「有難う!」と伴走(?)の係員に礼を言って走り込んだ私です。2?のウイスキーが、肩に食い込んでいました。

  座り込んで、「こりゃあ、リオ(ブラジル)の空港で走った以上だったなぁ〜」と、呆けたまま成田までを過ごしましたが、あとは事もなく帰宅できて、まずはめでたし!



  最初と最後が「!」でしたが、まあ、いい旅でした。ここに書ききれないほどの出会いがありました。映画『花はんめ』の監督キム・ソウウン(金聖雄)さんと、新作『チャランケ』(首都圏のアイヌの現在を描いたドキュメント)を見てのトーク・セッションや、メキシコの国民的スポーツ"ルチャ・リブレ"(プロレス)観戦、寄港地や船内での飲みながらのおしゃべりなど、忙と閑それぞれを楽しんできました。

  今後へ向けての課題も幾つか……。(えぇ〜、また乗るのかよ!? の声も聞こえるような気がしますが、ま、先のことは分かりません……)