私たちは、マスコミの流す情報によってしか世界を知ることができないという状況のなかにいます。たとえそれがメディアによる恣意的なものであっても受け入れざるを得ないのが現実です。
けれども、そのことに疑問をもつ人びとや団体によって、インターネットを媒体とした情報の発信がさかんに行なわれるようになりました。それらによって今世界で起きていることや、その意味を知り、考える機会が増えてきたのです。
本誌ではそのなかから、いま知り、考えなければならないことをピックアップして紹介していきたいと思います。
今号では、国際問題評論家・北沢洋子さんがメール・ネットで配信した記事の中から、いまレバノンで起きている戦闘状態を読み解くキーワードについて書かれたものを転載いたします。
マスメディアは、ヒズボラを、南レバノンでイスラエルを挑発してゲリラ戦を展開しているシーア派の過激なテロリストだと報じている。
まず第1に、ヒズボラはテロリストではない。ヒズボラは、レバノン政治の中で最大の政党である。
第2に、教育、医療などの社会サービスを提供している。
第3に、ヒズボラは、イランやシリアの傀儡ではない。ヒズボラは、1982〜2000年、イスラエルの南レバノン占領に対して自力で戦ってきた。
第4に、これはより重要なことだが、ヒズボラは、レバノンの差別されたシーア派イスラム教徒の政治的代弁者である。
勿論、ヒズボラには敵が多い。しかし、アルカイダと異なるところは、誰もがヒズボラはレバノン人である、と認めていることだ。
1.レバノン国家とシーア派の関係
レバノンは、宗教と部族のモザイク国家である。第1次世界大戦後、オトマン帝国が崩壊した後、フランスがレバノンとシリアを1つにして信託統治領にした。1943年、フランスは、イスラム教徒が多いシリアとキリスト教徒が多いレバノンに分割独立させた。そのため、レバノンには、18の公式に認められた宗派と部族が集中してしまった。
独立当時、マロン派から権限がある大統領、スンニー派から首相、そしてシーア派からほとんど権限のない国会議長を選出するという不文律の協定が結ばれた。また議員の数も、キリスト教徒が60%、スンニー、シーア派合わせたイスラム教徒が40%となっていた。これは1932年の人口調査をもとに、意図的にキリスト教徒に有利なように決められた。
しかし、その後の人口動態は、激変した。シーア派が最も人口が増加した。その結果、シーア派イスラム教徒、は国家の富、雇用、公共サービスなどへのアクセスが著しく不利になった。議会では、シーア派議員は、封建的な地主やエリートによって占められた。大部分のシーア派イスラム教徒はレバノンにおける最下層のコミュニティを構成した。
1960年代まではシーア派の多くは、南レバノンやベカー高原に住んでいた。その後、近代化とともに、道路の建設や換金作物の栽培が導入されると、シーア派はベイルートに流れ込み、街の周囲にドーナツ状にスラムを形成した。
2.ヒズボラの起源
1960年代から70年代にかけて、都市部のシーア派は、レバノン共産党やシリア系のバース党員が多かった。しかし70年代半ばに、イラクのイスラム聖都ナジャフで学んだSayyid Musa al-Sadrというカリスマ的な導師が左翼政党にチャレンジした。
サドル師は、シーア派の若者を「奪われたものの運動」、つまりレバノン政治から阻害された人びとの政治的権利を求める団体に組織した。レバノンで内戦が始まった1975年、その民兵部門としてAMALが設立された。
サドル師以外にも、レバノンのシーア派には、ナジャフで学んだ導師たちがいて、同じく、ベイルートで草の根の社会的、宗教的なネットワーク作りを始めた。その中には、今日、レバノンのシーア派イスラム教徒の中で最も尊敬されているSayyid Mohammad Husayn Fadlallah師やSayyid Hasan Nasrallah師などがいた。シーア派では、Sayyidと言うと、預言者モハッマドの子孫であることを意味する称号である。
1978年から1982年にかけて、レバノンでは、2度にわたるイスラエルのレバノン侵攻、サドル師の突然の行方不明、イランのイスラム革命などが相次いで起こった。これらに対して、左翼政党は何ら有効な手段を講じることが出来なかった。その結果、シーア派イスラム教徒が左翼政党離れをしていった。
1978年、リビア訪問中のサドル師の不可解な失踪事件が起こった。これによって、逆にサドル師の人気が高まった。同じ年、イスラエルがPLOをレバノンから追放した。イスラエルが南レバノン南部を侵略し、25万人(その多くがシーア派住民)の難民が出た。
その結果、PLOのゲリラと戦っていたヒズボラの民兵AMALが復権した。なぜなら、シーア派イスラム教徒が望んでいた貧困層の政治的権利の獲得、南部でのPLOとイスラエルの戦闘から住民保護、などを左翼政党が実現できなかったからであった。その翌年のイラン革命はシーア派イスラム教徒の目には、イスラムが西側リベラル資本主義と手を組んだ左翼に対するオルターナティブとして映ったのであった。
1982年6月、イスラエルの2度目のレバノン侵攻は、最も重要な事件であった。イスラエルはレバノンからPLOを完全に追放する目的で、南部を越えて、北に向かい、ベイルート西部を包囲した。数千人が死傷し、45万人が難民となった。1982年9月16〜18日、イスラエルのシャロン国防相とイスラエル軍の庇護の下に、レバノンの右翼ファランヘ党民兵が、ベイルートのパレスチナ人のサブラとシャチラ難民キャンプに攻め入り、数千人の難民を殺し、レイプし、傷つけた。これらキャンプの住民の4分の1は、南部から逃げてきたシーア派難民であった。
ヒズボラの誕生は、このイスラエル侵攻と深く関わっている。
1982年事件後、AMALの多くの幹部が党を去った。なぜならAMALもまた、貧困を撲滅すること、イスラエルの占領と戦うことをやめ、大衆と乖離していたからである。
同時にレバノン南部、ベカー高原、ベイルート郊外の若者の間に、小規模なゲリラ部隊が次々に誕生した。彼らはイスラエルの占領と戦い、同時にレバノンの内戦にも参加した。彼らはイランで軍事訓練を受け、当時は、15部隊あった。
やがてこれらは連合し、ヒズボラの原型となった。しかし、「神の党」、すなわちヒズボラとその軍事部門である「イスラム抵抗」が正式に誕生したのは、1985年2月16日であった。
3.ヒズボラの機構と指導者たち
80年代、ヒズボラはMajlis al-shuraと呼ばれる宗教的リーダー7人でもって構成される評議会が最高機関であった。彼らはそれぞれ、財政、司法、社会サービス、政治、軍事などを担当する。同時にベイルート、ベカー高原、南レバノンにも支部が置かれた。レバノンの内戦が終わる頃には、ヒズボラはレバノン政治に参加し、そのために新たに執行委員会と政治ビューローが設けられた。
今日、Sayyid Muhammad Husayn Fadlallah師がヒズボラの精神的リーダーだといわれる。しかし、ヒズボラもファドララ師もそれを否定している。事実、両者の間にシーア派のMarja'iyya(実践と機構)の教義をめぐって対立がみられる。ファドララ師は「導師は1つの党に帰属するのではなく、複数の組織で活動するべきであり、また世俗的な政府とかかわるべきではない」と考えている。導師は伝統的なシーアの法学に近く、イランのアヤトラ・ホメイニ師の教義とは一線を画している。
ヒズボラのリーダーたちは、イランのホメイニの後継者であるハメネイ師に従っている。しかし、ヒズボラの党員には、どちらを選んでも良く、多くは、ファドララ師に従っている。ということは、ヒズボラでは宗教と政治が乖離していることになる。
現在、ヒズボラの政治的リーダーはSayyid Hassan Nasrallah師である。彼は宗教的なリーダーであるが、ファドララ師ほど位が高くない。彼もまたナジャフで学んできたが、イランのハメネイ師の教義に従っている。
1992年、初代ヒズボラの書記長であったSayyid Abbas al-Musawi師が、妻と5歳の息子と一緒にイスラエルに暗殺された後、ナスララ師がヒズボラの書記長に選ばれた。レバノンでは、ヒズボラの政治思想や行動に反対する人でさえ、ナスララ師をリーダーとして認めている。彼のリーダーシップのもとで、ヒズボラは、選挙に参加するなど国政への参加を認められているのだ。これが他の導師たちの離反を生むことにはなったが。
4.米国とヒズボラの関係
米国はヒズボラをどう見ているのか。
2002年、当時のリチャード・アーミステージ国務長官は、「ヒズボラは地球上どこでも行動できるAクラスのテロリストである。ヒズボラに比べれば、アルカイダなどはBクラスだ」という有名なコメントをした。
ヒズボラは、米国務省によれば、1983年に起こったベイルートの米大使館、海兵隊兵舎、フランスが率いていた多国籍軍司令部などに対する一連の爆弾事件の犯人だという。またヒズボラは、レバノンでのさまざまな米・ヨーロッパ人の誘拐事件、イラン米大使館人質事件、そして、1985年のTWA機ハイジャック事件、1990年代はじめのブエノスアイレスでのイスラエル大使館とカルチャー・センター爆破事件などに関係している、という。
しかし、はたしてこれらの事件にヒズボラが関与していたかについては、明らかではない。もし、彼らが関与していたとしても、ヒズボラを「テロリスト」として片付けるのは賢明ではないだろう。
第1に、ヒズボラの軍事行動は、イスラエルの南レバノン占領を終わらせることにあった。2000年5月、イスラエルが撤退して以後は、事実上、ヒズボラは、国境周辺でのイスラエル軍との低レベルの撃ち合いにとどめてきた。双方が、暗黙のうちに民間人の被害を出来るだけ回避するという注意が払われた。さらにヒズボラは誕生時に比べてかなり大きくなり、また変わった。ヒズボラはレバノンの合法政党となり、多くの社会福祉団体のスポンサーになっている。
第2に、米国がヒズボラをテロリストの範疇に入れる理由には、ヒズボラの「自爆攻撃」や「殉教者作戦」が挙げられる。事実は、イスラエル占領下でヒズボラが行った数え切れない作戦で、ヒズボラ戦士が自爆行動を行ったのは12回に過ぎない。その中の半分は、非シーア派イスラム教徒で、左翼政党のメンバーであった。
第3に、米国がヒズボラをテロリストのリストに入れる理由として、ヒズボラの「イスラエルの抹殺」、「占領地パレスチナ」というスローガンを挙げている。この思想は1985年、ヒズボラ誕生の際に世界に向けて送った「公開状」の中で、「レバノンからの撤退は、イスラエルの最終的な抹殺と聖なるエルサレムの解放の始まりだ」という文言にある。
ヒズボラとイスラエルの軍事力の差を考えると、これは実現不可能なことだ。2006年7月のヒズボラのロケット攻撃では、多くのビルを破壊したが、イスラエル人の死者は民間人19人に過ぎない。イスラエルの報復空爆の被害の規模とは比べ物にならない。
ヒズボラは、先の公開状の中で「イスラエルとのいかなる停戦、和平協定もありえない」と言っているが、一方では1996〜2004年の間に、捕虜交換など、イスラエルと間接的に交渉を続けてきた。これは、ヒズボラの現実主義を表している。
5.ヒズボラの政治と抵抗闘争
1985年、イスラエルは大部分のレバノンの領土から撤退したのだが、それでもなお10%の南レバノンを占領し続けた。ここには、イスラエル軍とその傀儡である「南レバノン軍(SLA)」が進駐していた。これに対して闘ったのはさまざまなゲリラ組織であったが、中心となったのはヒズボラの軍事部門「イスラム抵抗」であった。
1989年にタイーフ協定が結ばれ、その翌年の90年、レバノンの内戦は終了した。タイーフ協定では、独立時の国内協定を修正し、スンニー派の首相の権限を大幅に拡大し、政府閣僚のポストにイスラム教徒を増やした。
しかし、実際の人口動態では、シーア派イスラム教徒は少なくともレバノン人口の3分の1に上り、最大のコミュニティを構成したのであった。
1992年、内戦以後はじめて総選挙が施行された。政党から生まれた民兵組織の多くは、再び政党に先祖帰りをして、選挙に参加した。ヒズボラも同様に、レバノン国政に参加すると宣言した。一方ではレバノン南部では、武器を持ってイスラエルと戦っていた。タイーフ協定ではこの武器の所持が認められている。
最初の総選挙では、ヒズボラは128の全議席中、8議席を獲得し、ヒズボラとの連合派が4議席を獲得し、最大議席となった。ヒズボラは、クリーンで有能な政党として、そのイデオロギーに反対の立場の人からも尊敬された。これは、腐敗が付きもので、コネや世襲制度が横行するレバノン政治では、貴重なことである。レバノン議員は世界で最も裕福だといわれる。
イスラエルが、96年、99年、00年とベイルートの火力発電所を攻撃する度に、ヒズボラの「イスラム抵抗」に対するレバノンの市民の支持は高まった。特に、96年4月18日、イスラエルが難民を収容していた南部のカナにある国連の避難所を爆撃し、106人の死者を出したとき、イスラム抵抗に対する支持は一段と高まった。
イスラエルにとって、レバノン南部の占領は高価なものについた。99年、当時のバラク・イスラエル首相は撤退キャンペーンを始め、00年7月までに撤退すると約束した。この1ヵ月半まえに、SLAの脱走が起こり、同時にシリアとの交渉が決裂した。そこで、バラク首相は混乱のうちに撤退命令を下し、00年5月24日未明に最後のイスラエル兵がレバノンの領から撤退し、レバノンとの国境ファティマ門は閉じられた。
イスラエルとSLAの占領については、マスメディアはしきりに、「撤退すれば、無法地帯となり、宗派間紛争が激化し、暴力とカオスが蔓延する」と警告していた。しかし、ヒズボラは南部の秩序を維持し、これは杞憂に終わった。
イスラエルは、完全撤退を約束したにもかかわらず、国境沿いの15平方マイルのShebaa農園を占領した。レバノンとシリアは農園の山側はレバノン領だと主張し、イスラエルと国連はゴラン高原に属するといい、したがってシリア領だという。現実には、イスラエルはゴラン高原を占領している。
イスラエルは、占領中に埋めた30万個の地雷の地図をレバノン政府に渡すことを拒否している。さらに、カナ攻撃後にレバノン・イスラエル間で、民間人を攻撃しないという協定を結んだにもかかわらず、ヒズボラがShabaa農園のイスラエル軍ポストを砲撃するたびに、イスラエル軍はレバノン領内を砲撃してきた。
両者ともに国連が設けたブルーラインを越えた攻撃を繰り返している。国連監視軍の報告によると、イスラエルはヒズボラよりも10倍の違反をしている。イスラエル軍は、しばしばレバノン人牧童、漁民を誘拐している。ヒズボラは、ベイルートで、00年10月、「スパイ」の容疑でイスラエル人ビジネスマンを誘拐した。04年1月、ドイツの仲介で、イスラエルとヒズボラの間で、このビジネスマンとイスラエル兵3人の遺体と引き換えに、数百人のパレスチナ、レバノン人の捕虜を引き渡す交渉が成立した。
ところが、イスラエルは、最後の瞬間に協定を破り、レバノン人3人の捕虜を引き渡すことを拒否した。これはイスラエルの最高裁の判決にも違反する。3人の中には、国境を越えて侵入し、イスラエル人3人を殺し、27年という最も重い刑に服していたSamir al-Qantarがいた。ヒズボラは将来の交渉に委ねるとして、これを呑んだ。
6.ヒズボラのナショナリズム
1980年代以来ヒズボラは、政治路線ではイランのハメネイ師に従っており、イランと親密な関係を持ってきた。イランは最初ヒズボラの民兵を訓練し、武器を供与した。その後も、ヒズボラはイランの指導者のアドバイスを仰ぎ、経済援助を受けてきた。イランは「イスラム抵抗」にロケットを含めた武器を供与している。
しかし、このことは、イランがヒズボラに命令し、支配していることではない。イランがレバノン・シーア派を汎シーア派に統一しようとするならば、これは、ヒズボラのアラブとしてのアイデンティティに抵触することになる。イラン人はアラブではない。
同じことがシリアについても言える。しばしば、ヒズボラの民兵は、シリアがイスラエルとゴラン高原返還の交渉をする際の「レバノン・カード」と見なされている。この場合も、シリアはヒズボラに命令していないし、ヒズボラの政治的決定もレバノンの利益を中心になされている。
2005年2月、レバノンのハリリ首相が暗殺され、シリア軍がレバノンから撤退した時、ヒズボラの立場はシリア寄りと見なされた。事実、ヒズボラはシリアの撤退に反対しないが、撤退後も良い関係を持ち、さらに、撤退も「善意」で行われたというレトリックを使った。
ヒズボラが民族主義者であるということは疑いのないところである。ただし、レバノンでは民族主義の規定は部族間で異なる。フェニキア系のマロン派キリスト教徒右派でネオ・リベラルな米国寄りのハリリ元首相の民族主義と、ヒズボラのそれとは大きく異なる。
ヒズボラの民族主義は、レバノンをアラブ国家と規定し、パレスチナ問題を大義とする。その政治イデオロギーはイスラムの世界観に基づく。1985年の公開状には、「イスラム国家を目指すが、それを決定するのは人びとの意思にもとづく」と書いてある。1992年、国政に参加したとき、ヒズボラは、軸足を汎イスラム抵抗闘争からレバノン国内政治に移した。
さらに、92年以降、ヒズボラの指導者たちは、レバノンの複数宗派・部族の存在と共存を容認する発言をしている。ヒズボラの選挙区の多くは、イスラム国家の成立を認めていない人びとがいる。多くの人びとは、多宗教・多部族国家の中で、自分たちの利益を代表してくれることを望んでいる。
レバノンからのシリア軍が撤退したことによって、ヒズボラはレバノン政治でより大きな役割を果たすようになった。05年の総選挙では、ヒズボラは14議席に増加し、連合議席を合わせると、35になった。またこの選挙で、ヒズボラはエネルギー大臣のポストを得た。
ヒズボラが政府に参加するということと、民兵を持つということは矛盾しない。05年の総選挙でのヒズボラの選挙綱領では、「レバノンの独立を守り、イスラエルの脅威から守り、レバノンの全面的解放を達成するために、党の軍事部門、武器を保持する」と公約した。
これは、04年9月、「レバノン人、および非レバノン人民兵の解散と武装解除」を呼びかけた国連安保理決議第1559号に違反し、これを実施しようとするレバノンの政治勢力と対立することになった。今年7月の事件に先立って、ナスララ師とヒズボラ以外の政党のリーダーたちは、ヒズボラの武装解除のための一連の「対話」集会を組織した。これは、ヒズボラが、イスラエルとの戦いに、武器を保有することは必要であると主張したため、またその後戦争がはじまり、ついに実を結ぶことはなかった。
ヒズボラの社会綱領によれば、単にレバノンのシーア派だけではなく、貧困層一般の利益を代表しているといっている。
Musa al-Sadr師によって創設された民兵で、ヒズボラと同様にのちに政党になったAMALは、シーア派も中ではヒズボラのライバルであったが、現在では、協力関係にある。そのAMALのリーダーで、国会議長であるNabin Berriは、イスラエルとの停戦協定と捕虜交換について、ヒズボラと国連代表との間を仲介している。
05年の総選挙では、シドン選挙区でヒズボラの推薦で立候補したスンニー派の候補は暗殺されたハリリ元首相の妹のBahiyya al−Haririであった。
選挙後、シーア派の最大の同盟者は反シリアの旗手であるMichel Aoun元将軍である。Aounはヒズボラとともに、政府が意図した公共サービスの民営化に反対する巨大なデモを組織した。
7.ヒズボラの社会福祉事業
レバノンは、長期にわたる内戦によって、経済停滞、政府の腐敗、さらに貧富の格差の拡大、中級層の貧困化などが進行した。ベイルートのシーア派地域には南部やベカー高原から難民が流れ込んだ。このような状況のもとでは、宗派が提供する福祉は、唯一のサバイバルの手段であった。
al−Sadr師、Fadlalla師、やヒズボラによるシーア派の社会福祉のネットワークは、すでに70年代、80年代に形成されていた。今日、ヒズボラは、栄養、教育、住居、医療などの分野で月々貧困者にサービスを提供する多くの社会福祉機関のスポンサーになっている。また、ヒズボラは孤児院、戦争によって破壊された地域の復興、学校、診療所、あるいは低価格の病院、ダウン症の子ども専用の病院などを経営している。
これら社会福祉機関は、シーア派イスラム教徒が集中している地域に多いが、ほぼ全土にある。そして、宗派の別なく地域の人びとに奉仕している。ほとんどボランティアで、女性が多い。資金は個人の喜捨に頼っている。その中には、イスラム法の税Khumsといって金持ちのシーア派イスラム教徒が収入の5分の1を提供するものがある。この喜捨制度は、95年にイランのハメネイ師が、ナスララ師やヒズボラのもう1人のリーダーをレバノン代表に任命して以来、内外のシーア派レバノン人のKhumsは、ヒズボラの金庫に入るようになった。このほか、イスラム教徒の一般的喜捨制度であるZakatもヒズボラに入ってくる。
8.ヒズボラの支持者について
ヒズボラを支持しているのは、南部のシーア派イスラム教徒だけではない。ヒズボラの支持者は全土に広がっており、必ずしもシーア派にかぎらない。また、ヒズボラは、社会福祉機関でもって貧困層を買収しているといわれるが、支持者は、必ずしも、貧困層に限らない。
ヒズボラの人気は貧困層に対する奉仕ばかりではなく、その政治綱領、実践、イスラム理念、そして、イスラエルに対する抵抗闘争にある。
ヒズボラは、米国によって支持されているネオリベラアルな政府に対するオルターナティブであり、中東での米国の役割に反対するものとして支持されている。ヒズボラに投票する者は、貧困層だけでなく、中級層、さらに高い教育を受けたレバノン人もいる。
ヒズボラの「イスラム抵抗」を支持しているものは、シーア派イスラム教徒でもあるが、また宗教の壁を超えて、広くレバノン人一般である。
「ヒズボラの支持者」という概念はあいまいである。第1に、ヒズボラの党員とイスラム抵抗のメンバーがいる。第2に、ヒズボラの経営する福祉機関のボランティアがいる。第3に、05年の総選挙でヒズボラに投票した人がいる。第4に、ヒズボラのイデオロギーに賛成していなくても、現在の戦争で、ヒズボラの戦いを支持するものもいる。
イスラエルは南部レバノンからヒズボラを追放することを目指しているが、これは南部からすべてのレバノン人を追放することであり、民族浄化につながる。
現在の戦争と国の破壊の原因について、レバノン人の間には、ヒズボラにあるとするものと、イスラエルにあるとするものに2分されている。しかし、この分裂も必ずしもシーア派であるか、あるいは他の宗派であるかということで2分されているわけではない。
ヒズボラのイデオロギー、政治綱領、あるいはイスラエル兵2人の誘拐作戦に対して反対の人でも、ヒズボラの抵抗闘争を支持し、イスラエルを敵と見なしている、ということは重要である。
イスラエルがベイルートを爆撃したことは、レバノンの階級格差を拡大し、ヒズボラの支持層を増やしたのであった。
9.現在の戦争について
06年7月12日、ヒズボラの「イスラム抵抗」がイスラエルの装甲車を攻撃し、2人のイスラエル兵を捕虜にした。ヒズボラは、これは、イスラエルが最高裁判決に違反して、3人のレバノン人捕虜を釈放しないため、その交渉を間接的に行うためのバーゲンの道具として捕まえたのだと、発表した。これまでの交渉でも、このような前例はある。
襲撃作戦は数ヵ月前から計画され、もっと早く実施されるはずであった。前の年に、ナスララ師は、2006年中には3人の釈放を実現する、と述べていた。7月20日のアルジャジーラのインタービューに対して、レバノンの他の党に指導者には襲撃の日取りを除いてこの事実は伝えていた、と語った。
ただちに、イスラエルは、レバノンの各都市とインフラに対して、82年の侵攻以来最大規模の空爆を行った。同時に、イスラエル海軍が海上封鎖を行った。その後、地上軍による侵攻を開始した。しかし、これはヒズボラと共産党・AMALの民兵によって、阻まれている。
民間のレバノン人の犠牲者の数は日々増えている。国連によると、その3分の1は子どもである。イスラエルはビラや自動電話メッセージでもって、退避するように指示し、その避難民を乗せた車を爆撃している。7月30日には、イスラエルはカナを爆撃し、57人の民間人が殺された。これは、96年のカナの悲劇を思い起こさせた。
現在、ベイルート郊外地区をはじめ、ベイルート空港の滑走路、燃料タンク、道路、橋、港湾、発電所、ガス・タンク、携帯電話塔、乳製品の工場、小麦サイロなどインフラやライフラインが破壊された。イスラエル空軍は、医薬品のトラック、救急車、満員のバスなどを爆撃した。爆弾の中には、爆発すると地雷になるもの、熱バリウム爆弾、白燐爆弾など、国際法で禁止されている非人道的兵器や化学兵器が含まれている。
現在、2人の兵士を奪還するというイスラエルの当初の目標は脇に追いやられ、ヒズボラの武装解除と南部レバノンからの追放が攻撃の理由になっている、これまで述べてきたように、この2つの目標が達成できるとは考えられない。しかも、この目標は新しいものではない。
7月21日付けの『サンフランシズコ・クロニクル』紙によれば、イスラエルは、ヒズボラの兵士誘拐事件よりはるか前に、この計画を米国や西側の外交官に見せていたという。
資料:2006年7月30日、 Lara Deeb 『Middle East Report Online』より 「ヒズボラ―ひとつの導火線」 (文化人類学者/カルフォルニア大学 アービン分校 女性学部助教授)
・ Yoko Kitazawa < kitazawa@jca.apc.org >
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