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ヤイユーカラパーク VOL54</td>
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おもな内容

ごまめの歯ぎしり

「北海道同朋運動推進協議会」発足

2006年7月18日、「北海道同朋運動推進協議会」(略称「北同推」)の結成総会が、浄土真宗本願寺派 札幌別院を会場に開催された。現代社会における宗教(者)の有り様を真摯に考えようとする僧侶が中心になって立ち上げた運動体である。総会資料の冒頭に、この日に到る経過が報告されている。

経過報告

1994年7月、本願寺札幌別院において差別落書き事件が起きた。部落差別、アイヌ差別の酷い差別落書きが三度にわたって繰り返された。

その後、差別はがき、差別発言など、この十年間に数回の差別事件が起きている。2003年には、教区内寺院住職、教務所長に差別はがきが送りつけられ、また教区内寺院に再び差別落書きがなされるという事態が起こった。

そういう状況の中で、教区内に単なる義務感で行なわれる運動ではなく、自前の同朋運動の母体を作ろうという機運が生まれた。

アイヌ民族への差別事件を通して、ヤイユーカラの森の人々と北海道教区との話し合いがもたれてきた。その話し合いの中で、教区基推委は「一人ひとりの主体性と自主性から生まれてくる動きを作る」と約束している。

その約束を何としても結実させていきたいものと、2003年以後、話し合いがもたれてきた。これは、胆振組法城寺住職舛田和磨師の生前の強い願いでもあったが、数回の話し合いを重ねる中で、人生を終えていってしまわれた。

その後、動けなくなっていた我々は、再び新たな思いで、自主的・主体的な運動体作りについての協議を重ねていまに到った。

2006年4月から4回の準備委員会を経てこの日の結成総会を迎え、九州や広島から駆けつけた参加者がいる一方、教務所長や教務所職員、別院職員の姿はなく、北海道教区の現状を如実にあらわす結果となった。結成の主体や呼びかけは浄土真宗本願寺派の僧侶が担っているが、宗派や所属を超えて運動を作っていこうという趣旨から、この日も4名のアイヌが参加しての総会になった。

規約が採択され、役員が選出され、今後の活動への思いが参加者から話された。地道な活動が人びとを巻き込んで続けられていくことで、北海道(だけではないが)の閉塞的な状況を切り開いていく力となることを信じ、期待したい。

最後に採択された「宣言文」を、以下に転載する。

        宣 言 文

今日、私たちは同朋運動推進への熱い思いをもってここにつどった。

同朋運動とは、被差別部落に生きる僧侶・門徒の呻吟と、差別・被差別からの解放へのひたむきな願いを背景に立ち上がってきた運動である。

差別を差別と見抜くひとは少ない。それは、我々が差別の側に立って「状況」を見ているからである。部落差別・アイヌ差別・女性差別・障害者差別・在日外国人差別、そして、ハンセン病・水俣病・原爆症等々の被害者への偏見、それらのすべてが被差別の側からのねばり強い訴えによって、人びとは初めて差別の事実に気づかされてきた。

同朋運動は、差別の事実を直視し、差別克服への絶えざる歩みを続ける運動である。差別意識の呪縛から解放されていくための運動でもある。差別とは、根拠のない排除である。一人(いちにん)たりとももらさず救わんとする如来の本願を依りどころに生きる我々が、もし差別意識に取り込まれて排除の側に立っているとしたら、それはまさに如来の本願に背くものといわなければならない。その意味で、同朋運動は妥協のない厳しい自己点検の運動である。

しかし、また同時に、差別から自他を解放していく明るい展望のある運動でもある。

同朋運動とは、本当の仲間を発見していく運動である。同朋とは、仲間であり、きょうだいである。差別・被差別から真実に解放されたとき、あらゆる人びとが「仲間」と見えてくる世界が開かれるであろう。その意味で同朋運動とは、本当のよろこびの生まれる運動である。

この地は、アイヌモシリと呼ばれてきた。我々和人はアイヌの生きる大地を奪った。その歴史的な事実もまた決して忘れてはならないことであるが、アイヌ民族との共生の課題は、どういう道筋の中にあるのか、それも我々が担っていかなければならない課題である。人間至上主義に立ち、人間だけが環境を破壊している。そのことを顧みるとき、自らを自然の一部と位置づけてきたアイヌ民族の知恵に学ぶ事の中に、共生への道筋があると我々は考える。課題は大きく重い。しかし、決して解決の展望のもてないものではない。

我々の生きる北海道教区は、ここ十年以上、全国でもまれに見る悪質な差別事件が多発してきた教区である。そして、宗門全体で、いまなお差別事件が後を絶たない。

差別と闘い、差別を越えようとする同朋運動は五十年以上の運動の歴史をもっている。門信徒会運動も四十年以上の歴史をもっている。両運動は、ともに強烈な危機意識の中から生まれ、推進されてきた。基幹運動として、一本化されているいまも根底には教団の現在と将来に対する危機感がある。

我々の教団は、いま崖っぷちに立たされている。この現状から本当に教団が、「同朋教団」として生まれ変わっていくためには、やはり本気で基幹運動(同朋運動・門信徒会運動)を推進していくより他にはないと、我々は考える。

それ故にこそ、我々は目ざしたい。何ものにも妨げられない自前の同朋運動推進の母体の構築を。誰かに命令されて動くのではなく、本当の仲間を発見し、自発的・主体的で瞬発力のある運動体を目ざしたい。

「御同朋」(おんどうぼう)とは、あらゆるいのちに等しくかけられた願いを源流とすることばである。我々はその原点に立ち返り、僧侶・門徒の垣根を越え、性別・年齢の枠を越え、教団内外という違いを超えて、共に人間として課題に真摯に向き合い、差別克服への道をひとすじに?むことを宣言する

         2006年7月18日  北海道同朋運動推進協議会結成総会参加者一同


しかし真宗教団は……

2005年7月に本願寺出版社が発行した『よりそう―大悲―子どもたちへ』という冊子がある。本願寺派教団が幼児教育(保育)のためにまとめたもので、保育園・幼稚園の先生に向けたエッセイと、幼児へ読み聞かせる法話が集められている。 その冒頭のエッセイ(石田慶和/前本願寺教学研究所長)に驚いた。

『歎異抄』13条(「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」を含む一条)を引用して、「人間の心の中には、自分でもどうしようもない暗いおそろしい所がある」と親鸞聖人が教えているといい、以下のように書いている。

「佐世保でも、痛ましい事件がありました。どうしてそんなことがおこるのか、誰にも説明することはできません。それは過去世(かこせ)からの約束事だったんだ、としか言いようがないことです。しかし、そういう痛ましい事件も、私たちの心の奥に、暗いおそろしいところがあるということを教えられるとき、はじめて少し理解できるのではないでしょうか。そして、人間にはそういうところがあることを知り、さらに、それから解放される道があることを知ることは大切なことです。そこで、はじめて人間は、人間世界の暗闇からぬけだすことができるのではないでしょうか。」

2004年6月に佐世保で起きた小学6年生による同級生殺害事件の背景を「過去世からの約束事」、つまり「宿業」だと言うのである。誰にも、どうにもできない出来事であったと……。

これは、加害の側(子どもを加害者へと追いやった側)の責任を問わず、被害の側を救うことにもならないばかりか、むしろ「過去世からの約束事」だからと被害者遺族に「あきらめ」を強いる、「悪しき業論」の典型と言わなければならないだろう。

本願寺教団は長く部落差別やハンセン病差別に苦しむ人びとに、「前世からの因縁」「過去世からの業縁」を説き、あきらめを強いてきたという歴史への反省から、「業・宿業」の課題を教団として考え、論議し、「悪しき業論」からの脱却を目指してきたはずである。しかし"教学研究所所長"という要職にあった人の一文から顕われてきた、これが教団の現実だと考えざるを得ない。

このことについては、幾つかの教区から本山に対して質問や適切な対応を求める声が寄せられているそうだが、それらに対して回答がなされたということは聞いていない。教団が"基幹運動"や"同朋運動"を、本当のところどう位置づけているかが知れる。


そして真宗大谷派(東本願寺)でも……。

2005年春、北海道の青年僧侶の大会(本願寺派=西本願寺)講師の大谷派僧侶、訓覇浩氏の講演テープを聞いた。ハンセン病差別を中心に、アイヌへの差別問題にも触れた内容だったが、その最後――質疑応答の部分に、以下の発言があった。

 ……被差別部落に生まれたことも、ハンセン病に罹ったことも、アイヌに生まれたことも「宿業」だと言い切らなければ、本当に回復しなければならないものが回復できないと思う。だから私が私であることは宿業であり、その宿業に刃を向ける、否定することが差別なんだ。つまり、託生の根源に突きつけられた刃――私が私として生を受けたことの根源に突きつけられた刃である。だから、そこから自分を取り戻す闘いが解放運動なんだと考える。……

大谷派の「業・宿業」理解がどんなものかはわからないが、本願寺派の『浄土真宗聖典』には"〔宿業〕過去世に造った善悪の業のこと。これは過去世になした行為が原因となって、今生の在り方が規定されるという考えにもとづいている。"とあり、これだけでは誤解(?)されることを懸念してか、巻末の補注で細かく注釈を加えている。

"………この業、宿業の語が、仏教、ことに浄土教において誤って用いられた例が多い。「因果応報」というような表現をもって固定的な因果論を説き、現実社会の貧富、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人の個人の前世の業の結果によるものと理解させ、貴賎、浄穢というような差別を助長し、それによって一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方で被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。………社会的矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであって、それによってもたらされた不幸を被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、、それは誤りであると言わねばならない。………"

たとえどんな意図や定義で使われようと、自らの運命を「宿業による」と規定されることは、当人にとっては容易に受け入れがたいものがあるだろう。今日連日のように報道されている「親殺し」「子殺し」「動機不明の殺人」や「理由なき殺人」も、「過去世からの業縁」「宿業」で説明するのだろうか?

宗教者、とりわけ浄土真宗を選んで道を歩く人びとには、心していただきたいと願う者である。