また春が巡ってきました。この一年、季節ごとのアイヌの生活を綴ってきましたが、ここに書かれたことを話してくれた古老たちは、ほとんどがアイヌ・モシリ(人間の世界)からカムイ・モシリ(神の世界)へと移り住んでいます。いまは天上のコタン(村)から、折にふれては私たちの世界を見下ろし、そのありように心を痛めているのではと想像します。 古老たちに代わって、アイヌ(人間)が生きる道を教えてくれるのは、口承文芸です。生活する上での細々とした知恵は散文による物語「ウエペケレ」が、人のあるべき姿は短い韻文による「カムイユカラ」が、それぞれ教えてくれます。さらに長大な韻文による叙事詩「ユカラ(地域によってはサコロベ)」は“人間のユカラ”とも“英雄詞曲”とも呼ばれ、アイヌの辿ってきた歴史を彷彿とさせる雄大な構成で、数百年の時空を超えて、私たちにアイヌの世界観を示してくれます。 それらの物語の中で、“名前”の大切さがしばしば語られます。動植物の名前にこだわる民族ですから、人の名前にも格別な思い入れをするのは当然ですが、その根拠をある古老が教えてくれました。「お前が死んだ後、五代後の子孫が、カムイノミでお前の名前を呼んでくれなかったら、恥ずかしいだろう……?」と。 カムイノミという祈りの儀礼で神に対する願い事を言う前に、人は自分の名前は勿論、自分に遡る五代前までの男系の先祖の名前を挙げなければならないとされていました。いまの自分は新参者で、神の国ではその名など誰も知らないのだから、願い事をしても聞き届けられないというのです。そこで父・祖父・曽祖父……と五代前までの名前を告げると、天上の神々もその中の一人くらいは記憶しているので、「あのアイヌの子孫であれば、願いを聞いてやらねばなるまい」ということになると。ところがその五代の中に生前悪事を行なった者がいると、神は悪人の子孫の願いは聞かないだろうからと、その名前を省略してしまうのです。 さらにカムイノミに続いて行なわれるイチャルパ(先祖供養)では、供えられたたくさんの供物は、名前を呼ばれた先祖にだけ届けられるとされています。生前犯した悪事によって子孫から名前を呼ばれなかった者は、天上世界でただ一人供物を受取れず、届けられたご馳走で宴会を開いている周囲の人びとに背を向けて、恥ずかしく悔しい思いをしなければなりません。「だから……」と古老は言います。「死んでからも人びとにその名を呼ばれ、子孫に誇られる、そういう人間になるんだよ」。 五代(およそ百年)経ってもその名を忘れられず、カムイノミの度に呼び上げられるような生き方をした人を「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ=人間・らしく・ある・人間」といい、人びとはそうなることを念じながら日々を暮らしたといいます。 ひとつの人間集団の精神世界―世界観と言ってもいいかもしれません―を端的にあらわしているのが、その人びとの“信仰”といえるでしょう。アイヌにとってのカムイ(神)とは、単に畏れ、崇い、従属するだけの存在ではなく、人間と対等であり、対話をなし得るパートナーとして存在するものでした。日高の葛野辰次郎エカシ(長老)が生前カムイノミをする時には、必ず次の言葉が述べられました。 「神様が居られますので人間も生活し、暮らしていくことができますし、人間が居りますので神様も崇め奉られるものであります。たとえ神様であっても、自分自らを神としたわけではありません。だから神様だからといって自分だけで満足するべきではないのです」人間と神との関係を、見事に言い表した言葉です。 勿論、人間の力ではどうすることも出来ないほど大きな、強い力を持つのが神ですから、その神と対等の関係を保とうとすれば、人間は相当の努力をしなければなりません。正しい心を持ち、正しいおこないをして、神の怒りを呼ばない日常が大切です。無益な殺生をせず、物を大切にし、環境を壊さず汚さないという生活習慣は、信仰に裏づけられたこういう精神から生まれたものといえます。そこには、人が「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ」であろうと努力すれば、神は神の役割―人間の生活を守る―を果してくれるという、信頼関係がありました。それは、時代を超えてあり続けてほしいこころだと思います。 <初出:日本環境法律家連盟『環境と正義』2004年4月号> 東北地方にも残っている言葉、マタギ(狩人)はアイヌ語のマタンキ(冬に行動する)が語源といわれているように、冬は狩りの季節、男の季節です。 1876(明治9)年、「鹿猟規則」によって毒矢による伝統猟法を禁止されるまで、アイヌにとっては「必要になったら獲りに行く」のがシカでした。「獲物」をさす「ユク」がシカの一般的な呼称になっているように、「狩り」とも言わず日常的に捕えては食料にする獲物だったのです。そのアイヌが「狩りをする」というのは、「クマ狩り」のことです。 クマのアイヌ語名を、知里博士は83例記録していますが、アイヌがクマに寄せた思いの深さを知ることができます。「カムイ=神」「キムン・カムイ=山の神」「ヌプリ・コル・カムイ=山を支配する神」「カムイ・エカシ=長老の神」……これらは、陸上にいる最大の獣であるクマを神として畏敬したアイヌの信仰から生まれた名前です。人間に肉と毛皮を与えてくれる獲物としての呼び名は、「シケ・カムイ=荷物を背負った神=太った神」「チラマンテプ=我ら狩りとるもの」「シ・ユク=本当の獲物」などと呼びました。さらにクマの姿や様子による名前や、性格によっても名前が異なります。また、成長するにしたがっても、その呼び名が変わりました。 2月に入ってから降る雨を「キムンカムイポ・フライエプ=山の神の子供を洗う雨」とか「キムンカムイポ・ソシケ=山の神の子供の産湯」といい、冬眠していたクマが子供を産んだ印と考えました。この雨が降った後の寒気で堅雪の上を自由に歩けるようになると、男たちが狩りのため山に入って行きます。「穴グマ狩り」で、アイヌのクマ猟はこれが中心に行なわれました。 狩りに出る前に、家の中で火の神、家の神にカムイノミ(祈り)をします。「火の神、家の神様、これから私たちはキムンカムイをお迎えに参ります。山におられる猟の神に、あなた様からお知らせを願います。どうか多くのクマにめぐり合うように、またクマが暴れずにおとなしく迎え入れられるようにしてください。私たちが病気や怪我なく、たくさんの獲物を得て帰ることができるようにお守りくださるよう、猟の神にお伝えください」。 山に入ると山杖でクマの穴と思われる所を探り、確かめながら歩きます。クマが冬眠するような自然環境は大体決まっているので、そんな穴を順番に探っていくうちに、中にクマが入っている穴に出あうのです。クマが冬眠に入る前に近くの立ち木に爪で傷跡をつけ、そこが自分のテリトリーであることを同属に知らせる「カムイ・ニシロシ=クマの木印」も貴重な情報です。 クマの入っている穴を探し当てると、直径10〜15センチ程の立ち木を伐って丸太を作り、穴の入口に数本立てるか、十文字に立てて、クマが出られないようにします。それから穴の前に座り、神に感謝の祈りを捧げます。「この穴を発見し所有するのは、○○村の○○の息子で○○という者です。カムイは暴れ狂うことなく、自分の矢を受けて静かに神の国に帰ってください」という意味のことを言い、やがて怒ったクマが入り口から出ようとする時に矢を打ち込むか、槍で突きます。どちらもスルクというトリカブトの根から作った毒が塗ってあるので、20〜30分でクマは倒れます。 絶命したことを確かめてから引き出したクマの傍に座り、挨拶の言葉を述べます。「自分を選んで訪れてくれたことに感謝します。これから我家に帰って美しいイナウもあげるし、美味しいお酒もご馳走するから喜んでください……」。 それがコタンから離れた場所であればその場で解体し、簡単なヌサ(祭壇)を作って飾り、頭の部分―クマの魂が、その耳と耳の間にいると考えられた―を安置して、感謝の言葉を述べ、無事に神の国に帰れることを祈ります。こうして山で捕ったクマの魂を送ることを「カムイ・ホプニレ=神の出発」と呼び、小グマの魂を送る「イオマンテ」とは別に考えるのがふつうでした。 コタンに戻ると、家の東側の窓(神窓)からクマの頭の部分を入れ、炉の正面に安置して火の神と対面させます。火の神にお酒とともに祈り言葉を捧げ、感謝と報告を伝えてから、解体した肉や内臓を村人たちに分配しました。 「狩り―クマ狩り」は、祈りに始まり、祈りで終わる神聖な行為だったのです。 <初出:日本環境法律家連盟『環境と正義』2003年11月号> チュク・チェプ(秋の魚)サケが海から川へ遡上を始めると、秋。サケを「シペ=本当の食べ物=主食」とも呼んだのは、かつてのアイヌの生活には欠かせない食料だったからです。茨イチゴをシペ・フレプ(サケのイチゴ)と呼び、この実が赤くなるとサケが川に入るといって漁の目安にした地域がありますから、夏の最盛期にはすでに秋が始まっていることがわかります。 アイヌは、川は山から海に来るものではなく、海から山に行っているものであると考えました。川も生き物で、河口が頭で水源を終点とし、途中に手や脚が別れているという発想です。川は主食のサケやマスが、海から水源に向かって子孫の生命を産みつけるために遡っていく道であり、一度のぼった魚が再びこの道を通って海に帰ることはないからです。この魚たちの道であり、新しい生命の産まれる産卵場(イチャン)が、人間がコタンを作って住むところで、同じようにサケやマスを食料とする神々―クマやシマフクロウ、キツネなどが集まるところでもありました。 「川底の群れは小石に腹をこすり、川面の群れは天日に背中を焦がし」とユーカラに謡われたほど、秋には大量のサケが遡上した北海道の川も、現在は下流に設けられた簗やダムに阻まれて、産卵のためにサケが上流まで上ることのできる川はほとんどなくなってしまいました。イチャン、イチャニというサケの産卵場を表わす名前も、古い地名として残っているだけになったのです。それでも人間は海や下流で捕えたサケを食べることができますが、上流で遡上を待っているクマやキツネ、シマフクロウなどの動物たちは、いまではサケを捕えて口にすることができません。森林や畑、ゴルフ場に散布される農薬による汚染と、簗やダムにせき止められた北海道の川は、その生命を絶たれようとしています。川が死に、森や動物たちが生命を失おうとしている状態を開発といい、進歩と呼ぶのでしょうか。海から山奥へと生命を運ぶ、生き物としての川を取り戻したいと思います。 生活に欠かすことのできないサケを、アイヌは多様な名前で呼びました。知里真志保博士の『分類アイヌ語辞典』には、一般的な名称・季節による名称・海にいるときの名称・川へ入ってからの名称・成長段階による名称・性別による名称・大きさによる名称・異様なサケの名称に分けて、80例の名前があげられています。さらに、サケの処理法による名称として17例、サケを利用するための見わけ方に伴う名称が36例記録されていますから、全部で133の名前が記録されているのです。生活のなかに占める位置の重要さがよくわかります。まさに「カムイ・チェプ=神の魚」でした そのサケを、アイヌが自由に捕ることができなくなったのは1873(明治6)年からで、開拓使(現北海道庁)によってアイヌの伝統漁法が禁止された河川は、以後10年間で全道に広がりました。ユーカラにもあるように、神がサケを下ろすのをやめたコタンの人びとは飢餓に襲われるというほど重要な食料を、一片の法がアイヌから奪ってしまったのです。当事の人びとの困窮は、想像を超えたものがあります。禁止令を知らずにサケを捕り捕縛されるアイヌは後を絶たず、知ったからといって、サケに頼った生活を捨てることができない人びとが圧倒的に多数でした。「アイヌ・モシリ=人間の大地」を奪われたことの実感が、否応なしにアイヌを襲ったのです。 1876(明治9)年、サケとともにアイヌにとっては「シペ」であったシカを、毒矢による伝統猟法で獲ることを禁止されて、アイヌは完全に生計の手段を奪われてしまいました。自然と共に生き、暮らしていた民族が、その自然を奪われてしまったのです。世界中のおおかたの先住民族と同様に、アイヌもまた、この地の後住者である和人に同化する以外に生きる道はありませんでした。 2003年9月初めに訪れたカナダ・BC州のリルワット・ネーションで、友人たちは2010年開催が決まった冬季オリンピックのスキー場開発を阻止する闘いとともに、先住民によるサケ捕獲権奪回を求める闘いを展開していました。スローガンは「我々の主食を奪うな!」。彼らの闘いに連帯して、私たちにもなすべきことが多くあると思います <初出:日本環境法律家連盟『環境と正義』2004年1,2月号> 旧い時代、アイヌにとっての季節は夏(サク)と冬(マタ)の二つで、春(パイカル)、秋(チュク)は、それぞれが夏か冬に含まれる過渡的な時期と考えられていたようです。 冬を「男の季節」、夏を「女の季節」と呼んだのは、狩りは男の仕事、畑仕事や山菜の採取・加工・保存は女の仕事と分担されていた頃を偲ばせます。夏の間男が遊んでいたわけではないことは、積丹(しゃこたん)、佐久(さく)、咲古丹(さくこたん)など「サク・コタン=夏の村」という地名が沿岸各地に残されており、山間に住んでいたアイヌが夏の間海辺に移り住んでコタン(村)を作り、魚や昆布をとって暮らした痕跡からも分かります。家ぐるみ、あるいは村ぐるみで夏のコタンに移り住んだ人びとは、短い夏の間を大人も子どもも忙しく働いて過ごしたのでしょう。 自分たちの越冬食料以外に、アワビ・ナマコ・昆布などを乾燥させ、和人との交易に使いました。和人が運んでくる米・タバコ・布・針・刃物や漆器類と、これらの海産物を交換したのです。秋サケの干物とともに干アワビ・干ナマコ・昆布は俵につめられ、海路大阪を経て長崎まで運ばれ、そこから中国大陸へと輸出されました。「長崎俵物」と呼ばれるこれらの海産物は江戸時代、松前藩の最大の財源で、領内で米のとれない藩は北海道中から集めた自然の産物を売却し、藩の経済を成り立たせていたのです。 和人の数が少なく勢力も弱かった頃には交易も正常に行なわれ、互いに必要なものを手に入れることができました。それによってアイヌの文化が豊かなものになった時代もあります。けれども和人の数が増え、松前藩の勢力範囲が広がるにしたがって、アイヌにとって不利な交易が強制されるようになり、やがて本州の大商人たちが藩の財政を支配するようになってからは、アイヌは交易の対象から漁場の労働者へと追い込まれ、強制労働を強いられるようになります。「サク・コタン」ののどかさは、消失してしまいました。 わき道にそれましたが、「マツ・ネパ=女の季節」と呼ばれるように、夏は女性がもっとも忙しい季節であることは確かでした。一年分の山菜を採り・乾燥させ・収蔵し終える頃、カッコウの初鳴きとともに畑仕事が始まります。米はありませんでしたが、アワやヒエ、イナキビなどの穀類と豆類、蕪などが、古くから栽培されていました。 樹皮衣や袋物の素材となる「ニ・ペシ=シナの木の内皮」をとるのもこの時期です。アツシとして知られているオヒョウの木の内皮は、まだ残雪があるうちから剥ぐことができますが、シナの樹皮は樹液がもっとも多く上がるこの時期に剥ぐ地域が多いようです。 長く剥ぎ取った樹皮から外側の硬い皮を取り除き、内皮を池や沼に沈めて一週間から二週間、十枚ほど重なった内皮が剥がれるようになるまで置きます。木灰を入れたお湯で煮る方法もありますが、どちらも繊維の間の糊分が溶けて剥がれるまで、結構な時間がかかります。柔らかくなった内皮を川水で一枚ずつ剥がしながら洗い、ぬめりを取って広げ、乾燥させて出来あがり。冬に糸作りをするまで収蔵します。 トゥレップ(オオウバユリ)の採集と加工も、この季節の大切な仕事でした。葉が枯れはじめる頃トゥレップの鱗茎を掘り起こし、持ち帰って水洗いしたものを一枚ずつ剥いでさらに洗い、樽の中に入れて突き、つぶします。河原に樽を並べて村中の女たちがトゥレップをつぶす音は、にぎやかな夏の風物詩だったと、古老は話してくれました。 粘り気が出るまでつくと、樽一杯に水を張り一日二日おくと、樽の上の方に鱗茎の繊維が浮き、水中には細かい繊維が浮遊し、樽の底に澱粉が沈殿します。この繊維を絞り取り、澱粉滓と澱粉を分離します。繊維を取り除いた樽に水を張り、澱粉が下に沈んだところで、上部の少し色のついた部分を別の樽に流し移し、下の真っ白い澱粉と別にします。それぞれ樽の水を何度も取り替えて、水がきれいに澄んできたら、沈殿した澱粉を絞って乾燥させます。少し色がついて粒子の荒い二番粉と、純白で粒子の細い一番粉ができました。量の少ない一番粉は薬(腹痛、整腸剤)として使われ、食用には二番粉が使われました。 さらに、絞った澱粉滓を円盤状にしたものを乾燥させ、保存食(オントゥレップ)に加工するまで……。夏、アイヌの女は働きつづけました。 <初出:日本環境法律家連盟『環境と正義』2003年8,9月号> 桜が春の花ならば、北海道の春は、本州の初夏と言ってもいい頃にやっとやってきます。桜前線が函館に上陸するのが4月末で、最終の釧路地方が5月下旬ですから、江戸っ子が初鰹を食べる頃、北海道ではやっとお花見ということになるのです。 北国の花々は、いっせいに咲きます。梅、桜、コブシ、ツツジなどが咲き競う山を眺めながら、今年も「ヤイユーカラの森」恒例の山菜採りキャンプを、5月2日から二泊三日で行ないます。場所は太平洋沿岸の日高・静内町と浦河町の山あいです。大人も子どもも、春一番の食料を探して、山と沢を歩きます。例年の収穫は…… ギョウジャニンニク、クサソテツ(コゴミ)、ユキザサ(アズキナ)、ニリンソウ、カタクリ、エゾノリュウキンカ(ヤチブキ)、ヨブスマソウ、ハンゴンソウ、エゾエンゴサク、エゾエンレイソウ、モミジガサ、エゾカンゾウ、ウド、オオアマドコロ、フキ、エゾヨモギ、シャク、ミツバなどなど、そのほとんどがアイヌ名を持っています。不必要なものには名前をつけなかったアイヌが名前をつけたということは、生活に密着した植物だったことをあらわしており、食用以外に薬草としても欠かせなかったことがわかります。 たとえばプクサというアイヌ名のギョウジャ(行者)ニンニクは本州でも高地には生息していますが、食べて喉・風邪の薬、結核の治療食、湿布として凍傷・火傷・打ち身に効くとされています。アイヌ名プイのエゾノリュウキンカは、夏に採集する根を火傷の薬。ノヤと呼ぶエゾヨモギは、胃腸薬、歯・腹痛、神経痛、リュウマチ、血止めに使われたほかに、魔除けとしても欠かせないものでした。アイヌがチマ・キナ(かさぶた・草)と呼んだウドは、名前の通り傷薬としての効果は抜群で、食べられると知ったのはシャモ(和人)が来てからだったと、古老が話してくれました。 伝統的なアイヌの食事の中心はオハウ(汁)で、チェプ・オハウ(魚汁)、カム・オハウ(肉汁)、キナ・オハウ(野菜汁)などを食べた後、焼いた肉・魚や穀類のお粥か団子を少しずつ食べるのが日常の食事でした。いずれのオハウにも山菜類がふんだんに使われましたから、春の山菜は季節感を味わう食材として、保存して一年分の食料として、一家の必要を満たすだけ十分な量が採集され、乾燥保存されました。張確(はりうす)、春志内(はるしない)という地名は、「ハル・ウシ・(ナイ)=食料が・たくさんある・(沢)」という意味で、山菜の種類が多く、豊富に群生する場所につけられた名前です。 明治期以降、和食文化がアイヌ家庭にも入り、おひたしや酢味噌和え、胡麻和えや天ぷらで山菜を食べることが定着してからは、食材としての山菜利用の範囲が広がり、資源としての山菜を保全する意識もアイヌ社会に強くなってきました。地下茎を傷つけず、数年間のサイクルで採集地を移動して再生を保証するといった簡単なことで、百数十年間山や沢に守られてきた山菜生息地が、競走馬のための牧草地拡大やゴルフ場開発によって年毎に減少しているのは残念なことです。それによって冬眠から目覚めたクマの食料が奪われ、空腹を満たそうと人里近くまで下りてきては「有害獣」として射殺される彼らの怒りと哀しみを、私たちは自分たちのものとしなければならないでしょう。 カタクリの紫、ニリンソウの白、エゾエンゴサクの青、ヤチブキの黄色が入り混じって咲き乱れる日高の山を楽しんだ翌週、5月8日・9日は、北海道の北の端、宗谷の豊富町・稚咲内(わかさくない)で一泊の山菜採りをします。これも毎年のことですが、サロベツ原野に接した山で山菜を探し、海岸の砂浜で浜ボウフウを採ります。海の向こうに雪の残る利尻岳を望みながら、今では道内の海岸に少なくなった浜ボウフウを探し、その夜は天ぷらや酢味噌和えで賞味します。そして、1875(明治8)年以来、日本・ロシア両政府によって悲劇と苦難の歴史を歩まされてきた樺太アイヌが、第二次大戦後、流浪の果てに辿りつき定住した地である稚咲内の人びとと交流し、その歴史を共有し、未来への歩みを確かめ合う一夜にもなります。 「春は曙」も風情がありますが、北の国では、やはり「春は山菜」です。 <初出:日本環境法律家連盟『環境と正義』2003年6月号> |