アルセナーレ
旧ヴェネツィア共和国時代の造船所。現在は、イタリア海軍の基地。
ヴェネツィアは、海の都です。
紀元5世紀頃、ローマ時代末期の蛮族の侵入によって、海の只中の潟(ラグーナ)に追いやられ、そこに国を作り、海に出て行かざるを得なかった。徐々に、類稀な共和国制度を編み出し、海運力(海軍)を持ち、最盛期には小アジア、エジプト迄も達する海路(貿易路)を整備しました。 外交手腕、経済力も類稀なものであり、それによってもたらされた富と豪奢は、今も私達がその名残を見ることが出来ますが、その基盤となったのは、海運(海軍)力でした。 上の写真は、アルセナーレと呼ばれる、ヴェネツィアの旧造船所です。ヴェネツィア本島の南東にあり、現在はイタリア海軍の基地になっています。当然ながら入れませんので、この写真は、外海を通るヴァポレット(水上バス)から望遠で撮りました。ここで、数々の海戦、戦争を戦った、また貿易の担い手となったヴェネツィアの船が作られていた訳です。 彼らは、どんな船を使っていたのか? どんな仕組みで、何に使ったのか?
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ヴェネツィアの祭事、”海との結婚”に使用された。 |
トリレンミ(三本櫂)のガレー船の模型。 |
上2つは、海洋史博物館の展示物の写真です。
(実は、写真は禁止だったようなのですが、私は”フラッシュが禁止”だと勘違いして、バチバチ写真を撮ってきてしまいました。まあ、軍事機密を撮った訳じゃないからいいだろう、と言い訳しつつ、使わせてもらいます。) 上の写真左は、ブチントーロと呼ばれる、共和国時代の元首(ドージェ)の、祭事の時の御座船の模型です。重要な祭事、”海との結婚”に使用されました。
右は、ガレー船の模型。トリレンミといって、一つの座席に3人が座り、三本の櫂で漕いだタイプのガレー船です。これよりちょっと古い、十世紀頃のガレー船はビレンミ(二本櫂)といい、その名の通り2人が2本の櫂で漕いだガレー船でした。ちなみに、ヴェネツィアの場合、漕ぎ手は全て、奴隷ではなく普通の水夫などだったそうです。ガレー船は(機動性があるので)緊急時には軍船として使われることが多かったので、漕ぎ手も戦闘員にならなければならなかったからです。また、海賊に襲われたときに荷を守るためにも、それは必要でした。 |
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キプロス島の軍事基地の立体模型。
15世紀頃、のものだったと思います。 |
上のは、同じく海洋史博物館にあった、各地の軍事施設の立体模型(15世紀頃とかの)です。
これで、戦時には、攻略の作戦とかを練ったんでしょうね。 (あ、でもこれ、他にも数枚撮ってきたけど、これこそSecret事項かしらん。) 他にも、ゴンドラの模型とか、実物とか、ゴンドラの船尾の飾りとかがあったけど、とりあえずパス。(普通の写真の取り込み(スキャン)ができるようになったら、ゴンドラの製造所の写真とかは載せようかしら。デジカメでは撮らなかったから・・・)
さてさて、船と海洋史博物館から一旦離れて。一寸変わった場所へご案内しましょう。 |
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リアルト橋のたもとの、サン・ジャコモ・ディ・リアルト教会の前の回廊。 |
上の写真は、リアルト橋のたもとにある、サン・ジャコモ・ディ・リアルト教会前の回廊です。普通の人はあまり足を止めない場所ですが、ここには昔、銀行屋が並んでたそうです。リアルトはヴェネツィアの経済の中心地で、商取引が盛んでした。この回廊は、机一つと帳簿を持った銀行屋街だったそうです。ちなみに、近代的な意味での(複式簿記を中心とする)銀行の発祥はヴェネツィア(ということはこの場所がそう)だそうです。
(多分場所はここであってると思うんですが・・・間違ってたりして。なんせ、地図と塩野七生さんの著書の隅っこの方の記述が頼りですから。) |
[おまけ]
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と、断るほどのものでもないですが。現在のヴェネツィアの風景です。
ご存知の方も多いでしょうが、ヴェネツィアには車が一台もありません。人は、縦横に 巡っている水路を走る船に乗るか、さもなければ徒歩でてくてく移動します。 上の写真は、ヴェネツィアのメインの交通機関、ヴァポレット(乗合水上バス)と、その駅です。他に、水上タクシーとかもあるようです。(勿論、観光用のゴンドラもあり。) 私は、ゴンドラには乗りませんでしたが、このヴァポレットにはとてもお世話になり、さんざん乗りました。どこへ行くにも(駅へ行くにも、離島(ガラスの島、ムラーノ島とか)へ行くにも)これを使うことになるからです。なかなか、快適です。 ちなみに、私はヴェネツィアから日本への帰路につきましたが、ヴェネツィアのサンマルコ空港(ヴェネツィアの対岸の海辺にある)への移動手段は、水上タクシーでした。水上タクシーの後ろの窓からヴェネツィアに別れを告げ、水上のゲートを通過して空港に入りました。全く、何から何まで、海(水)の都でした。 |