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サンタクロース
  (1)

  ドアの向こうから聞こえてくる、かすかな物音に、リツコはほっかりと目を覚ました。
部屋の中には、すーんと冷えている。
布団から出ている頬が、少し冷たい。マンションなので、凍えるような寒さではないが、エアコンの入っていない部屋の中には、屋内の生暖かさをはらんだ、冬の冷たさが漂っている。
布団の中は、心地よい暖かさに満ちている。

 ドアの向こうの物音は、祖母が台所で、朝ご飯の支度をしてくれている音だ。
いつも通り、味噌汁を作り、手作りの糠漬けとご飯が並ぶ、朝食。
リツコには父がいない。幼いときに亡くなって、顔も憶えてはいない。著名な研究者である母は、研究に明け暮れており、大学に泊り込むこともしばしばで、小学4年生になるリツコの世話をしてくれているのは、祖母だった。

 ベッドの枕もとの時計は、6時58分を指している。
リツコの祖母は早起きだ。リツコが朝食を取るのは7時半過ぎなのに、起き出せば働かずにいられぬ質であるらしい。朝食を作った後は、決まって祖父と父の戒名の祀られている仏壇の前で過ごしている。
”私も起きなきゃ”
心地よく温まっている毛布をはねのけて、リツコは起き出した。
 

  青の太目の縦縞模様のパジャマから、深い緑色のざっくりしたセーターとこげ茶のズボンに着替える。洗顔を終えて部屋に戻り、今日の授業の教科書を鞄に入れてから、ダイニングルームに向かう。仕切りのふすまを開け放った和室にいる祖母に、挨拶をする。
「お祖母ちゃん、おはよう」
「ああ、りっちゃん、おはよう」
仏壇に向かっていた祖母が、こちらを振り返る。
「朝ご飯にしようね」
祖母はゆっくりと立ち上がり、台所に立った。
リツコはテーブルについた。祖母と、自分の箸が、向かい合わせの席に置いてある。
母の箸は、ない。
”また大学に泊ったんだ、お母さん”
母が大学に泊ること、家にいないことは、珍しいことではない。
1歳になった頃から、リツコは保育園に預けられて育った。送り迎えは、たいていの場合、祖母がしてくれた。リツコはおとなしくて聞き分けのよい子供だったらしい。保育園に預けられる時に、ぐずる子供は多い。毎日のようにわんわん泣いて、母親と別れたがらない子供もいる。しかし何故か、リツコは、そんなにぐずらなかったらしい。
「りっちゃんが聞き分けがよくって、私は大助かりだったよ」
祖母はそう言っていた。

 目刺しとご飯と大根の味噌汁、それにキュウリの糠漬けの朝食は、いつも通り美味しかった。育ち盛りのリツコの栄養を考えて、キュウリやサニーレタス、トマトのサラダが添えられているのが、いつものことだが何となく不釣合いだ。この他に、食後にいつも牛乳を飲むように言われるが、リツコは牛乳があまり好きでないので、飲むのは2日に1度位だ。
食べながら話をする。学校は、どうだい。授業は、難しくないかい。難しいわけはないよね、りっちゃんは利発だもの。本当に、ナオコの小さい頃以上だよ。
祖母は、割合おしゃべりな方だ。夕飯の時などは、無邪気に、今日買い物に行ったら、角の重野さんのところの大きな犬が外につながれていて、傍を通るのがちょっと怖かったとか、そんな他愛の無いことを延々としゃべる。母も口数が多い方だが、馬鹿馬鹿しいような話はしない。家にいる時間が短いので、しゃべる内容はリツコの服装だの、学校の友人の様子だの、成績だの、実際的なことが大部分だ。
祖母は違う。リツコの友達についての些細なことなどを、よく憶えていて話題にする。
「三上さんの風邪はもうよくなったのかい」
「うん、もう大丈夫みたい」
「そうかい、今年の風邪は、油断すると長引くって言うからね。智ちゃんは3日も休んだんだろう。大事にしなくちゃだめだよ。りっちゃんも気をつけておあげ。もちろん、りっちゃんも風邪を引かないようにね。ちゃんとコートを着て、暖かくしないといけないよ」
「はい、おばあちゃん」

 祖母に受け答えしながら朝食を終え、ごちそうさまを言って、食器を流しに下げる。7時50分。いつもより少し遅い。
「ほらりっちゃん、遅くなるよ」
「いっけない」
リツコは足早にリビングダイニングから出ようとして、ふと後ろを振り返った。
リビングの隅、ベランダよりの窓辺には、年の割に背の高いリツコの背より少し小さな、きれいに飾りつけられたクリスマスツリーが飾られている。
飾り付けをしたのは、祖母とリツコだ。
そう、今日は12月24日。クリスマスだ。

  濃い目の海老茶色の、ダッフル型のコートを着て、肩掛け鞄を下げ、家を出る。エレベーターで乗り合わせた、3軒隣の相原さんのおばさんと挨拶し、マンションを出て、学校に向かう。近所の人たちとの付き合いは、あまりある方ではない。せいぜい挨拶をする程度だ。しかし、最近はそれすらしない人たちも多いようなので、リツコの家はましな方なのだろう。
住宅街の間に、時々冬枯れの畑が覗く道を学校へと向かう。リツコの、母と同じ、色が少し薄くて赤みがかった、肩までのおかっぱの髪が揺れる。
途中で、智ちゃんといっしょになる。
「おはよ、りっちゃん」
「おはよう、智ちゃん」
三上智花ちゃんは、同じ4年生だ。去年は同じクラスだったが、今年は違う組になった。
家も近いし、割合仲良くしている。背は低めでかわいらしいが、さっぱりした感じで、何となく気が合う。

「今日、クリスマスだね」
「うん」
「りっちゃんは、今年、何をもらうの?」
「うーん、お祖母ちゃんに任せてあるんだ」
「ふーん」
「智ちゃんは?」
「あたしは、Kinki KidsのCD。一番新しいの!」
弾んだ声で智ちゃんは言う。智ちゃんは、Kinki Kidsの光一君のファンだ。KinkiのCDが聞きたいので、去年の誕生日に自分用のCDラジカセを買ってもらったくらいだ。
リツコも、堂本光一というタレントは、きれいな人だと思う。澄ましているだけみたいな他のタレントと違って、出ている番組も、話すことも割合面白い。でも、CDを全部集めたいと思うぐらい夢中になるほどかしらと思う。
「それってりっちゃん、自分がきれいだからじゃない?」
智ちゃんは言う。言われると、リツコは戸惑う。そんなんじゃないわよ。智ちゃんだって、かわいいじゃない。女の子らしくて。

  智ちゃんと別れて教室に入り、席に着く。8時23分。一時間目は理科だ。向こうの方で数人の男子が、宿題を写させる、写させないでもめている。
リツコは勿論、宿題は済ませてある。理科と算数で困ったことは無い。他の子が判らない問題があると、決まって最後にはリツコが答えさせられるのが嫌なくらいだ。

 2時間目の国語、3時間目の社会が終わり、4時間目は体育だ。リツコは結構、体育が好きだ。今日はバレーボールで、背の高いリツコは前衛に入る。それほど飛びぬけて上手い訳ではないが、そこそこにボールを返すことができる。
球技だけでなく、短距離走も鉄棒も、小さい時から好きだ。体を動かすと、気持ちがいい。

 体育が終わり、給食の時間になる。今日のメニューは、ナンがついたインド風カレーと、もやしとにらのあえもの、それにミルメークのついた牛乳だ。こういう奇妙な取り合わせは、時々ある。でも、みんなカレーは好きなので、メニューが妙だとか、そういうことは、あまり気にしていないようだ。

 給食の時間中、クリスマスプレゼントのことを話している子も多い。こっそり聞いていると、男の子は、ゲームソフトを買ってもらう子が多いようだ。
女の子は、クリスマスのことを話している子は男の子よりは少ないみたいだ。サンタなんて、いないよね、余り騒ぐのは子供っぽいよね、というノリなのかもしれない。でも、おしゃれの為の小物などを買ってもらうと話したり、クリスマスツリーの飾り付けの話をしたりしている子もいるようだ。

  5時間目は、算数だ。今習っているのは、分数の掛け算割り算。先生の教え方が早すぎたのか、練習問題になっても、一番難しい問題は、誰も答えられない。
「わかる人は誰もいないのか? ・・・しょうがないなあ。よし、赤木さん、前に出て答えて」
「あ、はい」
担任の春木先生は、算数と理科でみんなが解けない問題があると、決まって一番最後にリツコを当てる。勿論、出来ないことはない。でも、別に構わないんだけれど、あまり愉快ではない。
前に出て、黒板に、計算と答えを書く。
「さすがだね、赤木さん。みんなも、赤木さんみたいにちゃんと答えられるように、よく勉強するんだよ」

 「赤木は特別だもんなあ。何たって、お母さんが赤木博士だもん、なあ」
組一番のガキ大将、騒ぎ屋の塩野君が聞こえよがしに言う。他の男の子は、はっきりとは賛成しないものの、何となく塩野君に同意している雰囲気だ。自分達より勉強のできる女の子というのが、余り気に入らないのだろう。
いつものことだし、気にはしないけど、やっぱり嫌だ。
「おい、塩野、そんなことないぞ。赤木さんは、ちゃんと勉強してるから、こう言う風に判るんだ。お母さんがどんな人だろうと、関係ないだろう。塩野も、きちんと宿題をして来いよ。誰かのを写すんじゃなくて、自分でな」
春木先生の言葉もいつも通りだ。効き目は、あまりない。先生がこういう風に言ってくれるので、授業以外の時に、面と向かってリツコに嫌味を言ったりする子はいなくなった。リツコが、そういうのを取り合わないことにしているせいもある。でも、男の子だけでなく女の子も、リツコに対しては何とはなくよそよそしく、特別扱いだ。理科や算数で、最後に当てられた後は特に。
出来れば、他の子が解けない問題を、私に解かせることを止めて欲しいな、とは思うが、でも、それはしょうがないことだろうし、リツコがそんなことを言っても先生は困るだろう。第一、こんな小さな事にこだわってるなんて思われるのは恥ずかしい。だから、リツコは、先生にそう言う風に頼んだことはない。

  5時間目がようやく終わった。今日は、5時間目までだ。明日は終業式、そして明後日からは冬休みだ。
「赤木さん、すぐ帰る?」
中川さんが声をかけてくる。
「ううん、用事とかないし」
「じゃ、ドッジボールしない? 人数、多い方がいいんだ。結構みんなするって言ってるよ」
「うん」
中川さんは、体育が得意だ。色白のせいか、今時こんな子がいるのかなと思うくらい、頬が赤い。とりたてて頭がいいなどと言うのではないが、気が良くて面倒見がいい。まあ、姉御肌と言う感じだ。クラスのみんなにも、好かれている。どちらかと言うと一人でいることの多いリツコを、度々みんなでする遊びに誘ってくれたりする。
逆上がりが出来ない有賀さんという子を、ぶうぶう言いながら特訓して、とうとう出来るようにさせてしまったのも中川さんだ。これも今時珍しいと思うが、身だしなみにこだわらない方で、肩まである髪を無造作に黒いゴムで束ねている。
「3組の子も、いっしょにやりたいって言ってるんだ」
3組は、智ちゃんの組だ。

 「ほらほら、もっと散らないと駄目だよ! 有賀さん、もっと走って走って!」
中川さんが叫ぶ。3組と、リツコの4組の対抗戦だ。4組は、やっぱり中川さんが仕切っている。運動の苦手な有賀さんも、ドッジボールで逃げるのは得意なので、結構すばしっこく逃げている。3組のコートには、智ちゃんもいる。
リツコの傍に、3組のコートからすごい勢いで投げられたボールがバウンドする。
“取れるっ!”
身体の左正面に来たボールをキャッチする。そのまま走って、3組のコートの方へ。
3組の女の子達が、きゃあきゃあいいながら後ろに下がる。
そのまま、ライン寸前まで走って、勢い良くボールを投げる。とっさに、少し逃げるのが遅れた、荒木さんを狙って。
「きゃあっ!」
ばしっ、という、鋭いような鈍いような、痛そうな音を立てて、ボールは、逃げ損なった荒木さんに当たる。荒木さんは座り込む。みんなの動きが止まる。
「いやだぁ。赤木さんったら、こんなにきついボール投げて! 痛かったわぁ。恵子、泣いちゃう!」
みんながどっと笑う。
荒木さんは、頬がぽっちゃりしておちょぼ口の、女の子っぽい子だ。結構活発だけど、髪のスタイルなんかのことで友達としょっちゅうしゃべるようなタイプだ。でも嫌味がないので、人気者と言っていいような人だ。
「あ、ごめんなさい」
リツコは思わず謝る。瞬間、それまでなごやかだったのに、一寸しらけた雰囲気が流れる。・・・いつもこうだ。嫌われてるわけではない。仲間はずれにされるわけでもない。でも、リツコがどんなに活躍しても、中川さんや荒木さんの時みたいに、みんながリツコの言ったことにどっと笑ったり、面白がって盛り上がったりすることは、ないのだ。
(何故なんだろう)
いつも思う。
「ほら、荒木さん、早く出た出た。ゲームが続かないじゃん」
中川さんが言う。
「はーい、ごめんなさーい」
荒木さんが、間延びした口調で答え、コートの外に出て、4組のコートの後ろに回る。また、空気が戻ってうきうきした感じになる。
智ちゃんがボールを拾う。今度はリツコをめがけて投げてくる。
「きゃーっ」
リツコも、他の子と同じに、歓声を上げながら後ろに下がった。

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