(1)
旧三島駅に列車は止まった。
”遅いなあ、もう。”
そろそろ高校を卒業しようという年齢を気にして、以前のように高らかに不平不満を口にすることは無くなったものの、次から次へと辛辣な不満を思いつく生来の癖は変えようが無いらしい。口に出さずとも、心の中で言っていては同じ事である。
”もう、鉄道ってどうしてこうかったるいのかしら。信じられない。私の弐号機だったら・・・・”
考えかけて、アスカはそこで考えるのを止める事にした。
彼女の大切な弐号機、彼女の母の魂の封じ込められた依代であった弐号機は、サードインパクトの際に、完全に破壊された。それによって、母はこの世から完全に姿を消したが、アスカにとっては、あのとき母との紐帯が確かめられたので、悲しいけれども耐えられないことではない。しかし、弐号機と共に母が消滅したことは、やはりあまり思い出したいことではなかった。
ロングの赤みがかった金褐色の髪を翻し、いつものように颯爽と彼女は改札を通りすぎ、バス乗り場へと向かった。
新箱根から列車で小一時間。そこから更にバスで30分程。彼女が日常を過ごす第三新東京市−その呼び名も、あのサードインパクト以来、何となく似つかわしくないように彼女には感じられるが−から、そんなに遠い場所ではない。にもかかわらず、彼女が滅多にここに来ないのは、彼女が多忙な所為ばかりではない。
別に、避けている、疎んでいるというわけでは、全く無い。心の中でさっきのようにつぶやいては見るが、これは彼女の癖のようなもので、本当のところは余り面倒くさいという訳でもない。
むしろ、ここにきて、あの人に会うと、心が安らぐ気がする。
奇妙なものである。血のつながりもない、2年前までは会ったこともなかった、本来であれば殆ど無縁であろう、あの人に会うと、である。実の父、義理の母と居ても、本当に安らぐことなど、ないのに。
小学校の校舎を、こじんまりと、ずんぐりむっくりにしたような小さな棟。3階建てのその建物は、サードインパクトにも耐えて残った建物の一つだ。古びていて、多少その時のひびわれが玄関にあったりするが、建て方がよかったのだろう、崩れる心配は殆どなく、しっかりと建っている。
病院の受付のような受付で、呼び鈴を鳴らすと、クリーム色のデニム地のエプロン姿の女性が出てきた。いつもの受付の人だ。割合若いのに、こういう仕事につく人だからか、地味で実直な感じだ。
「あら、久しぶりですねえ」
「ご無沙汰してます。203号室の天崎さんに面会をお願いしたいんですが・・・」
「ええ、ええ、判ってますよ。このごろ一寸大人しい感じだけど、お元気ですよ」
「何か、変わったことはありませんか」
アスカの澄んだ声が小さなホールに響く。14の頃と比べて、その声は少し大人びて、きつい
所が取れ、少し低めに、穏やかになっている。
「さあ、あのお年ですからねえ。一寸、ボケが進んだ感じはありますけどねえ。でも、いつも
穏やかで大人しくて、私達を困らせることなんか、一つもないんですよ」
「そうですか。あのう、これ、皆さんで召し上がってください」
そう言って、アスカはネットにいれてぶら下げてきた大きなスイカを差し出した。
「まあ、立派なスイカ。こんな大きなのは、この辺じゃ売ってませんよ」
「ええ、買ったんじゃないんです。私の知り合いが作っていて、貰ったんです」
このスイカは、シンジが作っているものだ。このご時世に、何を酔狂にとも思うが、理由を問い詰めてももぐもぐと口篭もるばかりなので、アスカは放っておくことにしている。
サードインパクトを境に、季節が、セカンドインパクト以前通りに戻ってきつつあるが、セカンドインパクトの後に生まれたアスカには、大人達のようにスイカに夏を感じることに特別の感慨はない。けれど、何はともあれ、夏場に、美味しいスイカを間違いなく食べられることは悪くないことだった。
「へえ、お上手なんですね」
「はあ、まあ、他に取り柄もない人なんですけどね」
「後で、切ったのを持ってってさしあげますよ」
「ありがとうございます」
受け付け横の階段を上がると、廊下の脇にずらりと木の引き戸が並んでいる。一番端から3番目の、203号室の前で止まると、アスカは一呼吸おいてから、ドアをノックし、声をかけた。
「こんにちは」
ドアの脇の名札には、「天崎幸子」と書かれている。
「ああ、アスカさんね。お入りなさい」
引き戸を開けると、4畳半の和室の真ん中の、小さなちゃぶ台のところに、白髪の老女が座っていた。ショートへアだが、きれいになでつけ、黄色の、麻混か何かだろう、割合しっかりした生地のワンピースを着て、恬淡として座っている。
派手ではないが、老いてもはっきりと判る端正な顔立ちが、彼女の弐号機の日本での責任者であった、黄色い髪をしていたこの老女の孫-赤木リツコ博士-を思い出させる。
「良く私だっておわかりになりましたね」
「そりゃ判りますよ。だって、私を訪ねてくださる若い女の子なんて、アスカさんだけですもの」
「えーっ、そんなことないでしょう。それに、私くらいの子なんか来なくても、このホームのダンディなシニアの方達が訪ねてらして、毎日お忙しいでしょう」
「あら、いやね、そんなことないですよ。お友達や、いい方達は多いですけどね。ほんとうに、ここはいいホームですよ。あの大騒動のあとに、よくこんなところが見つかったものだと思いますよ。ほんとうに・・・」
そこまで言って老女はふと、未だ十分端麗さの残る眉を、少しひそめた。
老女-赤木リツコの祖母、幸子-が眉をひそめた訳は、アスカには察しがついた。このホームに幸子を入れたのは、以前のような勢力は無いにせよ、サードインパクト後もそれなりの、隠然たる力を持っているNERVであり、幸子の娘と孫娘は、どちらもこの組織に関わったが故に彼女より先に黄泉へと旅立ったのである。
そして、老人ホームに収容するために、サードインパクト後に一人取り残された幸子を迎えに行ったのは、他ならぬアスカ自身だった。
「あ、そうそう、今日はスイカを持ってきたんですよ。知り合いが作ってるんですけどね、これが結構美味しいんです。正中さんが、後で持ってきてくださるそうですよ」
「まあまあ、いつもありがとう。楽しみね」
幸子は、少し前の逡巡を忘れたようにアスカに答えた。背後に漂う僅かなわざとらしさが、この老女の悲しみを僅かに垣間見せているようにアスカには思えた。
思わず視線をそらすと、部屋の隅の質素な仏壇が目に入った。
そこには、もうひとつ、自分の見たくないもの−見たたいけれど見たくないもの−があることを判っていながら、アスカは、視線を戻すことをためらっていた。
小さく簡素ながら、小奇麗に整えられ、野の花と蔭膳、何かの駄菓子が供えられた仏壇には、4つの位牌−幸子の夫と娘婿、娘と孫娘の−が置かれ、片隅に一葉の、やや古びかけた写真があった。
写真には、大学生くらいの若い男女3人が写っている。右端の、黄色い髪をした女性が彼女の孫娘、サードインパクトの渦中で命を落とした赤木リツコ博士の大学時代の姿であり、その横で、仲良さそうに寄り添っている男女は、リツコの親友、葛城ミサトと、加持リョウジの若い頃の姿だった。
当たり障りの無い時節の話などをしながら、アスカは、この老女に初めて会った日のことを思い出していた。 |