伊丹《再》発見 H        歴史探訪をつづけます。

  

          伊丹城時代の「堀跡」が出土!
                    旧岡田家住宅の南側(中央3丁目)で。
                                                (写真17枚)
                                         《平成25年(2013年)10月制作》

         発見された「堀跡」は、南北方向に長さ38b以上。幅は3b、深さは1.5b。旧岡田家住宅
         (築340年・国指定重要文化財)の前から、「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵(築220年超)の方へ
         連なっていた。
           この「堀跡」は、伊丹市教育委員会による「有岡城跡・伊丹郷町遺跡第352次調査」で発掘され
         た。場所は、“総構え”(町ぐるみの城塞)だった有岡城の旧城下町(中央3丁目)である。
           しかし、発見された堀遺構は、有岡城のものではなく、それ以前からあった、「伊丹城時代」
         のものだという。
           伊丹市教委の説明によると、その理由は、@これまでに見つかった有岡城の遺構より深い位置に
         あり、堀の形状が異なっていること、A町屋(城下町)の地割に平行していないこと、B堀のすぐ上の
         地層に有岡城当時の建物が築かれていたこと――だということだった。
           上段と下段右側の写真の、奥に見える黒っぽい建物は、「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵の“後
         ろ姿”だ。

           【「伊丹城」の在りし頃】 戦国武将・荒木村重(1535〜1586)が摂津守として君臨した有岡城
         は、「伊丹城」が前身であった。つまり、430年前に有岡城が出現する以前から、「伊丹城」は存
         在したのである。しかも、その250年以上も前からだ。有岡城がわずか6年間(1574〜79)と
         いう“短命”だったのを思うと、何という“長命”ぶりであろうか――。
           今から710年前、鎌倉時代の嘉元元年(1303)の史料に、「攝津國伊丹村」との記述がある。
         ということは、その時点で、すでに「伊丹城」の城下集落が形成されていたのであろう。「伊丹城」は
         猪名川の流れを天然の水濠となし、縄張りに段丘崖を組み込んだ要害の城で、畿内が主戦場と化し
         た応仁の乱(1467〜77)の頃から、難攻不落を誇ったといわれる。
           「伊丹城」はこの地の豪族・伊丹氏の本拠であった。最後の城主は伊丹親興(ちかおき)だったが、
         荒木村重がこれを倒し、伊丹へ乗り込んできたのは、天正2年(1574)のことだった。
           ちなみに、「伊丹城」の本丸も、有岡城の場合と同様、現在のJR伊丹駅前にあった。そのおヒザ元
         である現在の「伊丹市伊丹1丁目〜5丁目」の辺りが、当時の「攝津國伊丹村」であったのだろうか。
         「伊丹郷町」は「伊丹村」から始まるのである。

         2013年(平成25年)9月8日(日)、小雨の降るなか、現地説明会は大にぎわい。テレビ局
         の取材クルーもやって来た。この日、現地を訪れた考古学ファンは、463人にのぼったという。
           下段左側の写真の瓦屋根の建物は、旧岡田家住宅だ。伊丹市文化財保存協会の事務局は、
         この旧岡田家住宅の中にある。下段右側の写真の奥は、左が旧岡田家住宅、その右が旧石橋家
         住宅(県指定有形文化財)である。
           それにしても、この発掘現場(1,550u)には巨大なマンション群が建つそうだから、このアン
         グルからこれらの歴史遺産を眺めるのは、もうこれが最後であろう。

         発掘風景。別の日(現地説明会の2日前)に撮影させていただいた。晴れていたので、画像は
         鮮明だ。出土した「堀」の辺りは、土のにおいも生々しい。下段の2枚にはどちらも旧岡田家住宅が
         写っているが、左側の写真の奥には、伊丹商工プラザが見える。

         「堀跡」が見つかった発掘現場は、「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵(左端)と旧岡田家住宅
         (右端)との、中間地点にある。白い土塀の向こう側が、発掘現場だ。位置関係を明らかにするた
         め、高いアングルから撮影した。

          【回想シーン】………「中堀」の出てくる風景
                         (いずれも、以前に撮影したものである)
           荒木村重の有岡城は、本丸を「内堀」で取り囲み、町の外周を「外堀」でガードした、“総構え”(町
         ぐるみの城塞)であった。そのため、近年の発掘調査で見つかった城下町の「堀」を、筆者はあえて
         「中堀」と表現している。町の「中」を分断する「堀」(中間地点にある堀)だからだ。
           下に列挙する5枚は、いずれも以前に発掘された“「中堀」のある風景”である。

         産業道路の東側、ニトリ(大型店舗)の建設予定地で、2004年(平成16年)に発見された
         巨大な「中堀」(伊丹1丁目)。幅6.5b、深さ2.6bで、南北に長々と連なっていた。
           有岡城の在りし日、この画面の左手(東)に「侍町」があり、その東の崖の上に「本丸」があった。
         画面の右側は、町人たちの住む「城下町」だった。
           画面の右上方に長寿蔵、その左に清酒「白雪」醸造元の小西酒造本社があり、その左奥に伊丹
         シティホテルが見える。ただし、白い本社ビルは2013年10月現在、解体中だから、もうこの光景は
         見ることができない。

         古い酒蔵や「花摘み園」の跡地などでも、過去に「中堀」が見つかっている。上段の左=「大手
         柄」酒造の南蔵跡(中央3丁目)。三軒寺前広場の交差点付近だ。上段の右と下段の左=どちらも
         2008年、「白雪」万歳1号蔵の跡地(伊丹2丁目)。産業道路の東側、ニトリの南に位置した。下段の
         右=2010年、「花摘み園」の跡地(宮ノ前3丁目)。いま伊丹市立図書館「ことば蔵」がそびえている 
         場所だ。
           これら5カ所の「中堀」のうち、下段右側の堀(宮ノ前3丁目)だけが、やや異質だという。これだけ
         が堀の形状が異なっており、有岡城時代のものとは特定できない――とのことだった。
           今回(2013年秋)、発見された旧岡田家住宅前の「堀跡」(中央3丁目)も、異質で、有岡
         城以前のものであるらしい。つまり、「伊丹城」の時代から、城下町を分断する防禦施設(中堀など)
         があったことを示唆しているわけである。
           「伊丹城」には、町そのものを城の縄張りに取り込んだ、有岡城“総構え”の原形が存在したとの説
         もあるようだ。今回の新たな「堀跡」の発見は、その一端をかいま見るようで、誠に興味ぶかい。

           【参 照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                           *G伊丹の発掘………有岡城跡
                           *伊丹《再》発見C……有岡城時代の「堀」が出土!
                                            (酒蔵の跡地〈伊丹2丁目〉から)


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