魚菜王国いわて

「日本経済を考えるヒント」のつづき

「ふん、こんなの、読んでもしょうがない」と思われる方も多いかもしれませんが(もともと読者は少ないんですが)、お付き合いください。

第六章の題名は「都市と地域と環境と」ですが、私は勝手に「地方主権」と変えます。
といっても、本の中の字が変わるわけではありません。
私は、せっかくの大岡さんの言葉「地方主権」がすごく気に入りました。
これをみんなで流行らせましょう(読者が少ないのに笑えますが)。
最初に、アメリカの地方自治についての記述を引用します。

米国では、地域計画は基本的に自治体の仕事。国はもちろん、州政府も口出ししない。だから自治体ごとに計画は様々である。この「自治体による都市計画」という考え方は、計画の仕方まで国が指導する「国主導の都市計画」という日本のシステムとは極めて対照的である。都市計画は、自治体行政において非常に大きなウエートを占める。都市計画委員会は議会と並ぶほどの拘束力を持つが、委員は数人で運営、官僚による都市計画という日本とは色合いを異にしている。郊外の小さな自治体では、行政機構自体極めて簡素である。都市計画の事務もパートタイムのプランナーが行う例も多い。
米国の行政システムは、まずワシントンDCと50州に分かれる。各州は全米約3,000のカウンティ(郡)に分かれる。そして、市町村といった地方自治体約2万弱が存在する。そしてこうした自治体には、あくまでも自治体をつくろうという住民の自由な意志に基づいて組織化されたものであるという理念が、今なお、あふれている。
たとえば、カリフォルニア州には、58のカウンティ、約450の市町村が存在する。面積にして3平方キロ足らずのものから、1,000平方キロを超えるものもあるが、一般的にはあまり大きくはない。人口も
200?300人のところから、ロサンゼルスのように数百万人のところまである。しかし、市町村議会の議員数は普通5人、大規模なサンフランシスコやロサンゼルスでも、市会議員数は10人余り。市町村長も中小のところではほとんどが非常勤である。
米国は小さな政府と住民自治の精神が生きており、スリムな行政機関に対し、住民投票をはじめ住民の政治参加の機会が多い。
(「日本経済を考えるヒント」p212)

目からウロコで、議会の議員の少なさと、しかも自治体の長ですら非常勤というから恐れ入ります。
ということは、長の責任は軽いわけで、住民一人一人の判断というものが、ものすごい重要になってきます。
また、自治体ごとの規模も様々で、しかも、小さいところは非常勤ですから、恐らく自治体ごとに、その組織の仕事も全く違うのでしょう。
つまり、この町では税金をたくさん取る代わりにインフラ整備はしっかりやるとか、逆に、インフラは最低限にし、税金も破格の安さにするとか。
このような地方主権こそ、今の日本に必要です。
自治体が大きかろうが小さかろうが関係なく、身の丈に応じた運営をすればいいのです。
これにより、地方主権は、社会に多様性を生みます。
さらに住みよい環境づくりのためのゾーニングなどの規制があり、これがまた、地方主権の利点となっています。
再び引用します。

都市計画イコール土地利用規制である米国では、日本に比べて街づくりの規制は強く厳しい。自治体では、マスタープランづくり、ゾーニング、敷地分割規制、公園制度などの手法により都市計画を進めているが、このほかにもさまざまな条例がある。たとえば「樹木条例」。公園や並木だけでなく、この条例は私有地内の樹木について、その伐採を禁止するのである。木を切ってはいけないのであるから、当然、屋敷の中の木々も大木になる。町全体が緑に囲まれたような、欧米の町の雰囲気は、こうした条例の結果なのである。日本人がうらやむ欧米の街の美しさ豊かさは、自然のものというより、彼らの守り育てる努力の結果なのである。
(以上、前掲書p214)
(中略)
わが国では、街づくりとか地域づくりというと、インフラや建築物の整備計画と考えられがちであるが、米国では都市計画や地域計画というのは土地利用計画がその中枢であり、規制というのが眼目である。規制緩和万能と見られがちな米国であるが、土地利用規制は一般的に日本よりはるかに厳しい。緑豊かな広い住宅地も、住民たちによる自己規制の結果以外の何ものでもないのである。
(以上、前掲書p215)

私の家の裏山を何とかしてほしい。
ゾーニング条例をしっかり作って。
盛岡地方のある建設業者が、景色がいいからといって、裏山を切り崩し、土地分譲しようとしたらしいが、なぜか撤退。
その無残な姿を彼らはどう考えるのか?
緑を失うということは、景観だけでなく、海にも良くないのに。
宮古市では、今後このような開発はしないように、しっかりゾーニング条例を作ってもらいたいです。

アメリカは、住宅地以外や外国に対しては環境破壊してるけど、それは覇権国として。
ところが、アメリカの地方には「小さな政府」が生きていて、しっかり住民たちは自分たちを守っている。
日本でこんなことできるかしら。
利益誘導のエサを待っている人で占められている日本。
先の陸前高田市民のような人々がせめて4〜5割も出てくればなあ。
子供なら政治経済という教科で、このような事例を本当は教育すれば、それなりに変わるんだろうけど、今、年を取っている人に教えたとしても、理解できるかどうか?

教育についても、アメリカは「地域主体、住民主導」らしいです。
本当は長い引用をしたいのですが、あまりに長い。
それで一端を占めるものを引用するにとどめます。
買って読んでください。

ボランティアも盛ん。外国語としてスペイン語を教えていたが、インストラクターは、メキシコ育ちのお母さんの一人。家内も近所の人と一緒に図書館の司書の手伝いをやっていた。さらに、遠足のときの手伝いもある。ちょっとした遠出には父兄が車を出し余りバスを借りない。低学年で手のかかる時期には、読み書きの手助けに保護者の中で多少の経験と興味のある人が先生と一緒に教える。日本のことを習っていると、ゲストスピーカーとして私にお呼びがかかる。法律関係だと弁護士、からだの仕組みと病気のことだとお医者さん。何やかやと、しばしば学校に出かけているということになり、学校の実態もよくわかったし、こうしたボランティアの活用で人件費の節約にも役立っている。
わが子の学校のため、わが町のため、さらにはわれわれの住宅資産価値のためにもなると考えれば、寄付やボランティアにも前向きにならざるを得ない。もちろん、彼らにそれほどの気負いはないが、本当の地域主体、住民主導の教育システムの一端を感じるには十分なアメリカでの体験だった。国の「中央」教育審議会で、「地方」の学校教育を論じ、そのシステムを規定する日本とは正反対の姿がそこにはあった。
(前掲書p223)

このボランティア先生は、ものすごいアイディア。
学校の先生は教科を教えるプロでも、その道のプロでは決してありません。
宮古水産高校で、一度でもプロが授業したことがあるのでしょうか?
聞いたことがありません。
この辺の柔軟さが、今の日本の教育には必要ですね。
それに子供に教えるのって、結構楽しいんですよね。
親になるからには先生にもなれるってことで、もしこんなボランティア先生の機会があったら、チャレンジしてみて損はないと思います。
意外な才能が開花するかもしれませんし、また、その辺の開花した才能を生かせるような法整備も必要になるかもしれません。

また、差別や区別に関する記述が、随所にみられる訳ですが、最後に平等主義者のためにも、次の文章を引用しておきます。

「機会の平等」には、殊の外、気を使うアメリカだが、「結果の平等」にはほとんど関心がない。同じ条件で競争し、優れたものは優れたものとして発表し、劣るものは劣るものとして明らかにする。競争条件の同一性にはこだわるが、結果は結果として明瞭に受け止める。差別はしないが、区別はするというところだろうか。
(前掲書p219)

この本は、私たちの心の中に、生き方を問い掛けているように思います。
経済は、つまりは、マクロじゃなくミクロが大事だ、と本書の中に書いてあるとおりで、私たちの生活に身近なものであることがわかります。
先日のフジテレビの番組「報道2001」で放送された、中学生に対する特別授業、という企画で、竹中平蔵氏も、経済は身近なものだ、と説いていました。
その竹中氏の特別授業を受けた女子中学生の一人は、竹中氏にこうエールを送っていた。
「急には社会は変わらないんだろうなって感じています。根気強く頑張ってください」というような感じのことを。
今の中学生は非常に大人です。
私たちも頑張らないと。

最後にまた脱線しました。
(2003年2月11日)



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