魚菜王国いわて

陸前高田の市長選

注目の市長選挙は、反タラソテラピーの中里氏が当選。
ローカルニュースによると、有権者の判断材料となる選挙の争点は、やはりタラソテラピー建設だったようです。
リンクサイトのbunbukuさんも反タラソで、うれしい結果でしょう。
宮古でのタラソテラピー建設のゴタゴタも、この選挙結果の後押ししたのでしょう、ということにします。

一方、宮古市にとっては、歓迎すべき結果と言えます。
というのは、bunbukuさんの指摘では、宮古市と陸前高田市のそれの利用者のターゲットは重複しているということから、陸前高田市のタラソ建設がなくなれば、宮古市にとっては、いくらかの足しになる、ということです。
もし、両者のタラソが併設なら、共倒れつまり、市民の税負担が過大になるかもしれませんでした。

陸前高田市の市民の選択に敬意を表します。
現職より革新、しかも共産党籍を有する中里氏と選ぶということは、かなりの覚悟があったと思います。
逆に菅野氏側は、相手が共産党ということに対するおごりもあったでしょう。
しかし、それは時代遅れの考えです。
今現在、共産党が政権をとったからといって、共産主義になるわけではありません。
そんなのは昔の脅威論でしかなく、保守陣営の心理的策略の一つです。
陸前高田市の有権者は、もうすでにそう思っていたのかもしれません。
今の対立軸は、小さな政府と大きな政府のどちらか、ということだと私は思っています。
つまり、これ以上、税負担を私たちに強いるのか、否かということです。
その中に地方分権というのがあり、そこでまた、ごっちゃになっていますが、今回はこのことには触れません。

もし、宮古市で市長選挙がこのことを争点にしたなら、どうなっていたでしょう?
結果は変わらなかったと思います。
今ほど情報がなかったし、熊坂市長に対する信頼が市民にあったと思います。
必要か必要でないか、という最初の疑問自体が提起されなければ、建設推進に流されます。
しかも、福祉や健康を前面に出されると、問題がぼやけます。
そこで、持ち出されなければならないのが、小さな政府と大きな政府の境界です。
どこまで政府は市民の面倒をみるのか、つまりナショナル・ミニマム、シビル・ミニマムの議論。

もう宮古市のタラソテラピー批判はしません。
初期の段階での批判はいくらしてもいい。
しかし、こうなってから、ああだこうだというのは遅すぎるし、議論の仕掛け方も卑怯です。
責任問題は当然追及されるべきで、議会がしっかりやるのでしょう。
その追求も議会の責任です。
掲載したbunbukuさんのメールの中に、責任追及のヒントがあるように私は思いますが、興味のある人は勝手にやってください。

ということで、再び、建設着手前に、判断を下した陸前高田市民に敬意を表します。
(2003年2月3日)



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