魚菜王国いわて

田中角栄について

1976年、田中角栄元首相が、ロッキード事件で逮捕されました。
今から28年前、というと、私がまだ中学生だった頃でして、国会での証人喚問の記憶が少し残っています。
「記憶にございません」
この言葉が当時、悪事を隠す代名詞みたいなものになり、友達同士でも「記憶にございません」とやったものです。
しかし、何と無知だったのか、という自覚が、いまさらながら芽生えてきます。
田中角栄といえば、当時私が受けていた印象は、金で人を操る悪の政治家、「ヨッシャ、ヨッシャ」など、良いものではありませんでした。
若い世代に人たちは、ロッキード事件についてわからないと思いますので、一般的なロッキード事件について書いたサイトを紹介しておきます。

http://tamutamu2011.kuronowish.com/rokkido.htm

この「漁師のつぶやき」サイトを開いたころだったか、ロッキード事件のアメリカ謀略説を聞き、一般の角栄論を疑うようになってはいました。
それが、今は、ロッキード事件そのものを否定し、田中角栄は無実である、という認識に変わっています。
ロッキード事件の裁判の争点は、ロッキード社からの賄賂5億円を、丸紅を通じて受け取ったか否か、にかかっていましたが、その5億円とは、丸紅からの単なる政治献金であり、ロッキード社のトライスラーL1011の全日空機種選定とは、何ら関係なかったらしい。
5億円が政治献金となれば、ロッキード事件そのものが存在しかったことになるので、当時の稲葉法相(三木内閣)は、これを「使途不明金」として、ロッキード事件から切り離し、別の「ピーナッツ」の領収書、金銭受け渡し場所の捏造へと事件を進めていった。
「進めていった」と書きましたが、これは、マスコミを使った国家ぐるみの田中角栄潰しであり、本当に進めていったのです。
例えば、ロッキード社のコーチャン氏の証言に関する「不起訴宣明」を最高裁が認めたことが、その一端を示しており、次の引用で意味がわかると思います。

日米間の司法取決めによれば、証人が偽証をおこなった場合、日本の依頼によってアメリカは調査をおこなわなければならない。ところが「不起訴宣明」があれば、日本側は偽証を咎めることも、アメリカ側に偽証かどうかをたしかめることもできない。コーチャンが最高裁の「不起訴宣明」をもとめたのは“偽証”を咎められた場合の逃げ道だったのである。
日本の司法は「偽証をおこなってもよろしい」という“お墨付き”ばかりか、偽証の免罪符まであたえ、コーチャンに証言をさせ、それをもとにロッキード裁判をおこしたのである。
(新野哲也著「角栄なら日本をどう変えるか」p91)

これらの謀略に最も加担し、今責任の問われなければならない言論人は、田中批判の急先鋒であった立花隆氏であり、よく言われる「知の巨人」の正体は、実は、嘘の上塗りだった、ということも書かれています。
それにしても、田中角栄が政界や官僚、司法から、それほどまでにどうして嫌われたのか?

それは、田中角栄に学歴がなかったからであり、しかも、小泉内閣の叫んでいる「改革」が恥ずかしくなるような、大改革をしようとし、それで危機感を強めた官僚側とその族議員連合が手を組み、また、それがアメリカの利害と一致し、なんでもありの裁判を進め、有罪をでっちあげました(つまり、学歴のない人間に使われるのが嫌だった、という了見の狭い人たちの話)。

話はアメリカ謀略に飛びますが、これに関しても簡単な話ではなく、ロッキード社のトライスラーの話よりももっと大きな事件へと発展しかねないことになり、それが解明されれば、アメリカの軍産複合体まで解体されてしまう状況になってしまうので、その矛先を、田中角栄への責任のなすりつけみたいな結末ヘと導き、一方、アメリカ国内では、マスコミを徹底的に抑えました。
それゆえ、このロッキード事件は、田中角栄がいけにえにされた、と言っても過言ではないと思います。

以上のことは、先ほど引用を示した新野哲也著「角栄なら日本をどう変えるか」に詳細に書いてあります。
プロローグの部分は、少し辟易する部分もありますが、最近読んだ本の中では、第一級のおもしろさだと私は思います。
題名と内容は一致せず、題名のことは一つも書いていません。
そのことは、著者も「あとがき」でお詫びしているように、この本は、ロッキード事件の全容を、アメリカから日本国内の事情まで解明したものです。
少なくともこれを読めば、現在生存している政治家の評価が変わることは確実です。
当の田中角栄自身についても、かなり変わります。
吉田茂が認めた「百人に一人」の逸材であり、日本の政治史上で、最も多くの議員立法を成立させ、本当に優れた政治家だった、と言われています。
そして、意外にもクリーンな政治家とも書かれていました。
それを示す文章をここで引用します。

角栄に同情的な田原総一朗にして角栄を“金権政治の嚆矢(こうし)”であるかのようにいうが、自民党の金権政治はとっくの昔から腐臭を放っていた。むしろ角栄は、国のカネにはビタ一文、手をつけなかった稀有の政治家だった。角栄は自前の事業経営をとおして政治資金をつくった。そのなかに結果として“土地転がし”の疑いがあったとしてもそれがいかほどのことか。
(前掲書p200)

へえ〜。
まあ、これが他の政治家に嫌われた理由の一つかもしれません。
学歴だけあっても自らは何もできず、他人のカネ、すなわち、税金をかすめようとする政治家や官僚からみれば、それは「いやなヤツ」だったのでしょうが、そう思うほうが、国を治めるものとして失格です。

田中角栄は、どのような人と付き合うべきかについても、細心の注意を払う人だったようです。
児玉誉士夫とは面識もなく、友の小佐野賢治に勧められても、付き合わなかったそうです。
児玉誉士夫は、アメリカの手先でした。
アメリカという国は、こういう手先を使って、政治家の弱点を狙います。

日本の有力政治家の大半は、アメリカに弱みを握られている。スパイ罪のない日本では、外国諜報機関が自由に政治家や官僚のスキャンダルを漁り、それを外交工作にもちいるのである。反米がタブー視されている保守政界では、いまもなお真顔で「角さんのようにはなりにくい」というブラック・ジョークが語られている。
(前掲書p201)

これは、私が「リバータリアニズム入門」の続きの中で、「それほど国会議員はアメリカを怖いようで、何か与党側やその他の国会議員はアメリカに弱みを握られているのかもしれません。」と疑ったこと自体、実は、政界では常識であったようですね。
(2004年4月10日)



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