魚菜王国いわて

池田大作解読

佐高信さんとテリー伊藤さんの共著「お笑い創価学会 信じるものは救われない」のことを今日は書きます。
これはかなり古い本ですが、私が読んだのは、ちょっと前のことです。
私はもともと宗教なんてバカにしてますから、宗教に関わる本なんて読む気もありませんでした。
しかし、「お笑い」と題名にあるので、これはきっと創価学会をバカにした本だろう、と想像しました。
でも、テリー伊藤さんの「お笑い」って、ぜんぜん笑えないんですよね。
内容は彼らの対話方式で、その対話の基本となる「テキスト」を載せています。
そのテキストがなかなか良いもので、特に、井田真木子さんのものが秀逸です。

この本の目的は、創価学会のF票(フレンド票。学会員の友達、知り合いの票のこと。いわゆる浮動票)を引き剥がすことと、はっきり謳ってます。
前回のつぶやきは、カトリックの教義厳格主義を人口問題から考えましたが、カトリック右派だけを批判してもバランスが取れませんから(なんのこっちゃ?)、今日は、日本の急進的宗教勢力の創価学会についてです。
ついでに、上記のF票剥がしにも協力したいと思います。
創価学会の基本的な知識らしいので、知っている方は読まなくていいと思います。
私同様、「無知の方」向けです。

池田大作の基礎
池田大作の前の会長は、戸田城聖という2代目会長ですが、戸田の残したことがものすごく大きかったようです。
一つは、欲望の全面肯定。
それを端的に示す文章を引用します。

次に述べるのは、戸田が敗戦後まもなく全国を遊説してまわっていたとき、当時は別の宗教団体に属していた女性が、戸田をかこむ座談会(学会でいうところの集会)に出席したときのエピソードである。
「その頃、属していた団体の“先生”は、座談会の壇上にのぼると、それまで先生の方を向いていた扇風機を聴衆に向けて、皆さんもどうぞ涼んで下さいとおっしゃるのです。しかし、戸田先生の集会に出ると、先生は扇風機を自分のほうに向けて、『見ましたか。皆さんひとりひとりが、こうならなくちゃいけないんですよ』とおっしゃる。そのとき思いました。これは戸田先生の勝ちだ」(中略)
しかも、戸田の布教の対象を“ロー・シーリング・クラス”、言い換えれば何をやっても上にあがれないと自らの頭打ち状態を諦めきった、“ロー・シーリング・クラス=天井が低い”な未組織労働者や、産業ベルト地域の中小商工業で働く若者などの貧困層にしぼっていた。
(「お笑い創価学会 信じる者は救われない」p44)

つまり、欲望の全面肯定というテーゼは、この「ロー・シーリング・クラス」にとって、まばゆい光だったのです。

池田大作は一人では何もできない?
戸田がもう一つ池田大作へ残したものは、上記の方法で獲得した学会組織です。
池田大作は、戸田に会った時点から、過剰の欲望を発露することを恥じない自分を、学会組織という閉鎖された空間で育てた。
それが池田大作のすべてであり、決してそれ以上ではないようです。

学会組織の中での“先生”の行動を挙げれば、たとえば、彼の著書の多くはゴーストライターによるものらしく、また、学会員にピアノ演奏を聴かせるのが好きだといいますが、実は、ピアノの下に著名な演奏家のテープを潜ませ、彼は、鍵盤に指を走らせているだけとか。
つまり、自分では何もしていない・・・・。
しかも、臆病さも相まって、公の場には決して姿も見せないようです。
次のように、佐高氏とテリー氏は、「口撃」しています。
文中の「折伏(しゃくぶく)」とは、強い論破による宗教への勧誘方法のことだそうです。

佐高
国会に喚問するという話が自民党から持ち上がったとき、公明党は大騒ぎになった。なんとしても、そんなケースは避けたい。それが、自自公連立政権への大きな流れを作ったと思うよ。
でも、そんなに権力が欲しいなら、そんな自分に自信があるなら、国会で堂々と反論すればいい。最高の折伏の場でしょう。国会議員ぐらい折伏できないでどうするんだと思うけどね。
以前、池田大作は「月刊ペン裁判」で証人として出廷したことがある。それを取材した記者から聞いたんだけど、あまりに威厳がないんで驚いたというんだ。ペラペラ軽い感じで話して、裁判長に媚びる。これが池田大作か、とびっくりしたという。
そういう経験が表に出ることが嫌になったと思うよ。
テリー
その臆病さがあるから、今日の地位を維持できているんですよ。
佐高
ああ、なるほどね。
テリー
外部に出てこない。接触しない。組織の中だけで権威づけをする。臆病だから、どんどん反対勢力を切っていく。ノホホンとしていたなら、こんなに長く君臨していられなかったと思いますよ。
(前掲書p212)

学会女性にモテる池田大作?
創価学会の人事権は、池田大作が握っているのですが、その人事は大抜擢方式。
これがまた格別で、面白い記述を引用します。

「学会というところは、どんな末端の信者にも上にのぼる機会が与えられているように思えるところなんですね。実際にそういう例も多い。たとえばの話ですけど、それまで近所の小売店のおかみさんだった人が支部長になるとか、そういったことですね。女性って男性と比べて不利だって、どこか越えられない壁があるんだと思ってるでしょ。学会ではその壁に小さな穴があいている。そこから這いのぼれば上にいけるのよ、と、実際上にのぼった人たちは言うの。でも、それを池田先生のお心次第なのよって」(中略)
「とくに女性の場合には、いわゆる何段抜きというような大大抜擢なんですね。そして、抜擢されたのは、池田先生みずからが目をかけたからだと、学会の女性ならすべて経験的に知ってますから、抜擢イコール、先生のおそばに侍ること、誰よりも近くに寄ることだと思っている」(中略)
「女性のスキャンダルが出ることは、彼女が抜擢された証拠なんですから、いやらしいわ、じゃなくて、うらやましいわ、いいわねえ、くやしいわねえになってしまうの。そういう構造になってるんですね」
(前掲書p57)

一家全員が学会員の場合、母親の方が熱狂的なケースが非常に多く、夫が少しでも池田批判をした時、そのことを学会へ密告することもあるのだそうです。
学会側は、このような密告を大歓迎。
“ロー・シーリング・クラス”で、しかも家庭内では夫に“敗れてきた”女性ほど、池田先生のほうを選択する、という心理的な構造を利用することによって、池田大作は女性学会員を掌握してきました。
さらに、次のような消費行動における心理も、それに拍車をかけています。

セールスにおける心理調査のひとつとして、内容に見合わぬ過大な価格の商品を買わされた消費者は、むしろその商品の擁護につとめるものだという結果が出ている。学会の女性たちは、末端においても幹部クラスにおいても“池田先生”という商品を買い取るために、それぞれ多大な犠牲を払ってしまった。いまさら、それを否定すれば、彼女はまた、元通り、家庭内権力闘争に敗れた家政婦がわりの人間になってしまう。
それだけはごめんだ、私は負け犬になりたくない。その気持ちが、学会の女性たちに通底するものである、“池田先生”は彼女たちの負の要素を利用して、実にうまく女性たちを財務集めに、亭主や不満分子の監視役に、また選挙対策に追い立てるのである。
(前掲書p62)

最も悲惨なのは、池田教から覚醒した学会2世。
両親が熱狂的な信者だと「帰る家」というものがないわけで、閉鎖された学会社会ゆえ「自殺か、諦めて池田のいいなりになるか」という選択を迫られることもあるようです。
以上が、井田真木子さんが書いた「池田大作 欲望と被虐の中で」の内容の一部であり、池田大作の創価学会の基本的な支配戦略です。
本当は全文紹介したいほど素晴らしい論文なんですが、そんなことは無理なので、読んでない人は、ぜひ買って読んでほしいです。
「お笑い創価学会 信じる者は救われない」は、たった495円+税金です。
この井田さんの論文の初出誌は、「諸君」1996年4月号です。

それにしても上手ですよね。
「欲望」の使い方が、ホント上手です。
変な新興宗教や詐欺的な商売って、人間のこんな心理的な作用を利用しているんでしょう。
「あなたのまわりにこんな危険は潜んでる」という私も、いつのまにか騙されていたりして。
もしかして、これを読んだ学会員がいたら、抗議のメールが来るでしょう。
まあ、そんなに抗議ばかりしないで、少しは批判を受け入れるおおらかさを身につけてください。
次回もありますから、お楽しみに!
(2004年5月17日)



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