魚菜王国いわて

法学について(副島隆彦・山口宏著「法律学の正体」)

掲示板での法学について話ですが、「匿名」さんの言うとおり、私の書き込みは「にわか知識」です。
法学は、大学の一般教養課程に組み込まれており、私も選択しましたが、全くわかりませんでした。
当然、単位はとらず(途中であきらめ)、別のを履修しました。
「法律学の正体」の著者を明かしますと、副島隆彦さんと弁護士の山口宏さんです。
どちらも法学部出身で、山口さんの方が「左」に傾いている、と紹介されています。
この正反対の考えの両者が共著していること自体、特筆すべきことです。
そして、法律学の問題点を、実際の条文を例にして指摘しています。

掲示板で私が出した

>なぜ、「法的構成」にそんなに頭を悩ませなければならないのか?

に対する答えは、外国からの法律の継受(字の通りの意味です)のため、あまりに日本の生活様式、習慣、文化などと、実際の法典との乖離がありすぎるからであり、それによって、「法的構成」、つまり、条文解釈が非常に難しくなるからです。
その勉強に対し、あまりに時間を費やしすぎて、「価値判断」の領域では、政治学のプロの学者にかないません。
こう考えれば、法曹界の人間が、どんなに頭が良くても、その道の専門家にかなうわけがない、というのは道理です。

法学部でやっている勉強の大部分は、正しくは「法律解釈学」です。
民法、刑法、憲法、商法、訴訟法等に分かれていて、それを勉強するだけで大変なようです。
法律学の解釈技術にも、文理解釈、限定解釈、拡張解釈、類推解釈、反対解釈、立法の過誤の6つがあり、字を見ただけで、「これは確かに複雑」と感じるのではないでしょうか。
したがって、一般的な社会現象に対する認識、すなわち、「価値判断」の基準になるものは排除されてきた、というのが現実のようです。
法曹界関係者の実務も、これらの事実から、大変なことがわかります。

掲示板では、憲法判断について、「司法消極主義」に触れましたが、なぜ消極主義なのか、という理由は、実際に実行されそうもない憲法判断をしても、裁判所の権威が傷つくだけだ、という内部的な事情にあるようです。
ここでもやはり、先にあげた理由が密接に絡んでいる、というのは、ここの読者ならもうわかると思います。

この本では、最初に結論のようなものを書いています。以下に挙げます。

ヘルマン・フォン・キルヒマンという19世紀のドイツの法学者がいまして、「法律学の学問としての無価値性」という論文をすでに書いてしまったんです。法律学の中核にあるのは、いわゆる法解釈学ですが、解釈学なんて要するに、条文が改正されて、研究の対象となる法典が大改正されてしまえば、今まで蓄積されてきたものが全て無意味になってしまう、と彼は言うわけです。また、フレッド・ローテルという20世紀のアメリカ人は、れっきとしたエール大学ロー・スクールの正教授でありながら、「禍いなるかな、法律家よ」という著作をものして、法理論というものが、いかに欺瞞に満ちたものであるかを情熱的に語りました。こちらのほうはアメリカですから、もともと法典が存在しなかったにもかかわらず、です。
(「法律学の正体」p12)

次に、「法律学の正体」の中で紹介している、川島武宜という法学者の書いた「ある法学者の軌跡」と星野英一「民法論集第一巻」からです。

そもそも私が民法学の研究室に入ったころは、「法律学」とはどういう学問なのか、私はよく分かっていませんでした。こういうことは、恐らく自然科学とか医学・工学とかの研究者になろうとする人々には、ないのではないか、と思います。私は、一方では、法社会学に対する興味を持ちながら、他方では、徹底的に伝統的な法解釈学のわくの中で民法を研究してゆこうとしていました。ところが、いつも私の心の中には、伝統的な法解釈学に対する一種のもの足りなさがありました。それは、今まで何回も言及したことですが、「法解釈学」は、私のもっていた「科学」というもののイメージとは甚しくちがったものであったからです。そうして、私は研究生活のはじめからこの「物足りなさ」、或いは「問題」に悩まされつづけたのでした。(「ある法学者の軌跡」)
(前掲書p15)
利益考量や価値判断の面においては、法律家に特に権威があるのではない、ということである。法律家なるが故の権威は、法律の技術的側面、例えば論理の進め方とか、概念・制度の沿革的な意義とか、いわゆる理論構成の面についてだけのことである。利益考量・価値判断については、法律家といえども、一市民として、または一人間としての資格においてすることしかできない(「民法論集第一巻」)
(前掲書p33)

次に、アメリカの裁判事情の一例の引用。

イギリスやアメリカの法律家というのは、ドイツの法学者たちの精緻で複雑でやたらと難解な論理体系に比べれば、極めて粗雑な理論体系を持っているだけなわけですけれども、結構それでうまくやっている。アメリカの裁判官の書く判決文なんか、そのあまりの突拍子のなさに、日本人は驚いてしまうでしょう。「正義感」が全面にあふれた簡潔な文章です。たとえば「加害者は、被害者宅に一年間毎週一回スープを届けるように」というようなものまであるわけですから。
(前掲書p38)

最後に、この本の目的を引用して終わりにします。

この本は、大学の法学部で習う法律学が、どのような内容になっているのかを、法学部以外の経済学部や文学部などの他の文科系の学部を出た人や、あるいは理科系の学部を出た人々向けにも書かれている。法学部に縁のない人々は、書店に法学(法律学)関係の難しそうな背表紙の専門書がたくさん並んでいるのを見て、それがいったいどういう学問なのか、と思っている。この本は、その疑問に答えようとして編まれた本である。
これまで法律学を、とても自分の手に負える知識ではない、と諦めてきた人々がこの本を読むと「なるほど、そうだったのか。自分が素人考えで抱いていた考えも、一部は当たっていたのだ」という気持ちになるであろう。この本が読者として想定する人々は細かくは次の三種類の人々である。
@これから法律学の勉強をしたい、あるいはしなければならないと思っている学生の皆さん。あるいは公務員試験や宅地建物取引主任者試験などの国家資格試験を受けようとする人たちが、法律学(六法全書)の全体像を把握するための、導きの書として役に立つであろう。
A冒頭で述べた非法学系の人々で、読書を愛する人々で、法律学に対しても、それなりの見識を持ちたいが、これまで適当な入門書に恵まれなかった人々。さらに加えて各々の専門分野において相当の教養をお持ちの文科系知識人の皆さん向けにも、知識と思想の水準を落とすことなく、楽しんでいただける。
Bそして最後に、法学部を卒業したにもかかわらず「法律学とはいったい何なのだ}という謎がいっこうにわからずに、社会人になってからも長らく疑問を抱き続けている人々、あるいはかつて法律学の勉強に嫌気がさした人々にも読んでいただきたい。「おまえ、法学部出だろう。こんなことも知らないのか」という、いわれなき雑言や不当な侮辱をうけたことのある人々と疑問を共有したい。
この本は、現状の日本の法学教育に対する渾身の批判の書でもある。著者二人の青年期のほとんどを賭けて流れ去った大量の時間への追憶が込められている。故に、この本はその場の思いつきが述べてあるような単なる対談集ではなく、息長く読者を持ち続けるべき本であるという信念のもとに編まれたものである。
(前掲書「まえがき」)
(2002年5月4日)

補足説明
「匿名さん」とはネット界では「青い鳥」と名乗っていて、発足当時の掲示板を荒らした者です。
詳しくはこちらを参照ください。
(2003年12月6日)



読書感想文へ

トップへ