魚菜王国いわて

信仰もほどほどに

「我々と異なる思想だからだ。
それによって人々は神の言葉に疑問を抱き始める。
疑問こそ信仰の敵なのだ」

「笑いは恐れをなくす。
恐れなくしては信仰は成りたたぬ
悪魔への恐れをなくば神はもはや必要とされぬ。」

以上のセリフは、映画「薔薇の名前」からです。

中世のある修道院で殺人事件が発生し、その事件には、ある本の所在が関わっています。
その本には「笑い」のことが書かれていて、修道院院長などがその事実を隠すべく、本を読んだものが死ぬようにページの端に、毒の砒素を塗っておく。
そこを指でめくり、ページをめくる度にその指を舌でなめるため、死者の指と舌は黒くなっていた。
主人公は旅の修道僧で、彼が真実に迫りますが、最後に問題の「笑い」を記した本は焼けてしまい、事件の首謀者も死んでしまいます。

冒頭のセリフは、このような閉鎖された信仰の維持装置を言い表したものでしょう。
特に、

「疑問こそ信仰の敵なのだ」
「恐れなくしては信仰は成りたたぬ」

上記の映画では、カトリック教派閥や修道院の権力を維持したいがために。
そして、創価学会(こちらを参照)にも、この二つは完璧に当てはまります。
ん〜、これって、実は、政治組織とか、一般の会社組織とか、いろいろな偏狭な組織に当てはまりますね。
「疑問」が否定されるなら、進歩なし、ってことになります。

たぶん私は、典型的な日本人的宗教観だと思うんですが、都合のいいように神仏を拝んでいます。
正月には神棚を拝み、節分には豆まきをし、春分、秋分、お盆には仏様を拝み、クリスマスにはしっかりケーキを食べる、といった具合に。
美味しそうなお菓子が仏様に上がっている時は、丁重に手を合わせて拝み、ご馳走になります(笑)。
はっきり言えば、特定のものを信じていなくて、つまり、良い(?)ところだけをとって、ということは、他の信仰に敵対心などない、ということでしょう。

「お笑い創価学会 信じる者は救われない」のテリー伊藤氏に言わせると、日本人は宗教がいいかげんで、そのために何でも食えるし、そのいいかげんさのため、世界中のいろんな宗教が入り込んでいる。
そして、その宗教を商売や恋愛にまで利用している、と。
ホント「いいかげんだ!」と思われるかもしれませんが、でも、信仰で争いごとをすることはありませんよね。
これって、宗教の「平和利用」ってヤツかもしれません(笑)。
とにかく、どんな信仰をしようとも、他者に対する寛容さが必要であり、教義を厳格に信じないことですね。

それから、もう一つ。
私は、曹洞宗のお寺の檀家ですが、現在のお寺は、「どうにかしてお金がほしい」ように見受けられます。
俗にいう「葬式仏教」。
檀家からお金をどうにか巻き上げたいという意志を、この葬式仏教からくみとってしまうならば、これは、「信じるものは救われない」創価学会と大して違いない。
私の小さい頃、お寺の住職は、いろいろな地区の行事に顔を出したり、お寺保育所などもやっていたものです(今もやっているところがいくらかあります)。
確か、何かの新聞にも、「葬式仏教」から脱却するために、お寺も積極的に市民と交流を持つべきだ、という意見が載っていたと思います。
その例として、あの訳のわからないお経を、口語体にしたらどうか、とか、具体的なものもあったと思います。

「開かれた仏教」。

いいですねえ。
これができないんだったら、もう宗教法人として保護は受けず、しっかり税金を払ってください。
それなら、みんな納得すると思います。

いろいろといい加減なことを書きましたが、もしかして、私のように宗教に無知だと幸せ?
(2004年5月19日)



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