少林寺拳法には六つの大きな特徴がある。今日はその中の「組手主体」というものを考えてみたい。
組手主体とは、技法習得のために必ず二人ずつ組んで演練を行うということだが、実際には技法習得というより、技の法形を忠実に再現しているだけに陥っているのではなかろうか。なぜなら、高度な技であっても難なくこなしているように見える反面、人前では思うように出来ない拳士が多いからだ。やはりそれは技の法形のみに執着しているからだろうね。人には色々な体質の人がいます。この技は「こうなって、ああなって」というように馴れ合いになっていないだろうか。またこの技は、「こうなる筈だ」等というようなことになっていませんか。
そもそも少林寺拳法の組手主体とは、理想を現実化している訳ではない。どんな場合に対しても、技の完成を導くために組手主体の方法を取り入れているのである。高度な組演武もいいが、「演舞?」としてなら楽しむだけにしましょう。
以前、大拳士にもなって逆小手からの前指固が掛からない拳士を見かけたことがあるが、相対技術の研究不足を認めるどころか、「お前には、この固め技が効かない」等と言っていた。余計なお世話だったのであえて口を挟まなかったが、あれは指導者(幹部拳士)としての信頼を失う言動だったね。いいですか。門下生に対して恥ずかしいとか、長年やって来たという「プライド」等は忘れましょう。「後輩や同輩及び格下に学ぶことはない」等の感情も捨てましょう。自分にない良いものは、誰からでも学び,学べる姿勢が大切なことなのである。そもそも組手主体とは、技の掛け手側と受け手側の相対修練なのだから、誰に対しても「この技はこう掛かるもんだ」等という「錯覚」を両者がしないことですね。故に技が掛からなかった時に、とっさに変化(応用)させることができるかが組手主体のポイントなのです。
「大技を掛けられて投げられたと信じ込む自分がいました。しかし彼は、自分から受け身をしたこと(飛んでいること)に気づいてはいませんでした。また技を掛けた方も、相手が自ら受け身をしたことに気づかなかったので、自分が投げ飛ばしたと信じて疑わなかったのです」
今一度、考えてみよう。
少林寺拳法は護身術であるということを...
|