3回目に参加した学会調査は県西部の旧三加茂町でした。地図を見ると南部の山地に「三好鉱山」という地名があります。ということで、今回も出番がありました。
この鉱山は10年前に調査されていました。鉱区は東西4km南北1kmで、東部の三好本坑と西部の滝倉坑に分かれます。本坑は以前に行ったことがありますが滝倉はまだ未訪でした。そこで、いつものように役場で誰かを紹介してもらって片端から訪ねてみました。
まず、滝倉のすぐ下流の黒長谷(くろはぜ)集落に足を向けました。かつてここには数十軒の家があったそうですが、今残っているのはわずか数軒です。しかも毎日ではなく週末だけ帰って来たり、昼間だけ畑を耕したり鯉にエサやりするくらいです。そのため訪ねても留守のところが多かったです。また、ほとんどの方がすでに亡くなられていて話を聞くこともできませんでした。
ようやくある年配の方から平野部に引っ越した集落の人を教えていただきました。もう夕方近かったのですが思い切って訪ねてみることにしました。応対してくれたのは御年80歳を超える方でした。急な訪問にもイヤな顔1つせず、滝倉のことについて覚えている限りのことを話していただきました。初めて電気が来たときのこと、大雪の日のこと、活動写真を見に行ったこと、木馬を引いて荷物運びをしていたこと等々、昔を懐かしむように1つ1つ教えてくれました。
寒くなり始めた11月に初めて滝倉坑を訪れました。役場で地権者を記した地図をもらって、それを元に旧道や集落跡を探しました。今は林道が通っていますが四駆でもないと走れません。できるだけ近くまで車で行き、そこから4kmの道のりをゆっくり歩きました。途中に誰も住んでいない民家やお墓がありました。サカキが飾ってあり誰かがお参りしているようで安心しました。その一方で、このような場所まで来るのは大変だろうと思いました。
林道の終点近くから古い集落脇の細い山道に入りました。足元は古い瓦礫や倒れた柱なので歩きにくいです。その先は道が崩れていて粘土質の急斜面になっていました。そこを通らなければ目的地に行けません。半ば泥だらけになりながらやっとそこを通過しました。谷川を埋め尽くす土砂や材木が見えてきました。コンクリ製の暗渠が割れて押し流され、その向こう100mのところにズリが見えました。ところが、そこへ通じていたはずの山道が消滅していました。谷川の斜面がごっそり崩落して足元から切れています。日が傾いてきたのでその日はそこまででした。
12月に入って再度チャレンジしました。暗渠の近くまで行ってそこから山の斜面を登りました。木や竹をつかんで身体を持ち上げ一歩ずつ進んでいきました。15分ほど登ったところで何となく茂みが切れているような場所が見つかりました。地図と照らし合わせてみてどうやら昔の山道跡のようです。折れた竹が何十本も転がっていて歩きにくいですが急斜面よりましです。少し迷いながらも30分ほど歩いてようやくズリに辿り着きました。
ズリは見上げるほど高く傾斜も急でした。北側3分の1が崩れて谷川に落ちており、これが暗渠を破壊したのでしょう。積み上げられた石は大体50cm内外ですっかり苔生していました。採集できるような鉱物はなく小さな磁鉄鉱と硫化鉄鉱を拾いました。この土地も高越鉱山の所有地になっています(先に本社を訪ねて了解を得ています。)。
ズリの横に急斜面があり石垣で造った広場が残っていました。おそらく施設跡か住居跡だと思われました。辛うじてそれとわかる道を上っていくと金具や杉板が散らばっています。茶碗や盃の欠片もあり昔使われていた物のようでした。斜面の最上部に地下水が染み出している場所がありました。三好本坑と同様にそれは坑口かもしれません。ところが、風花がふわっと舞い降りてきました。そしてみぞれ混じりの冷たい雨がぱらぱらしてきました。帰りは車まで少なくとも70分はかかります。悔しかったですが、遭難する危険もあったのでここで断念しました。
調査の合間に三好本坑も2回訪問しました。最下部の第6坑は以前より崩れていました。また、第2坑につながる山道も崩れかけてかなり危険な状態でした。もう少ししたら誰も行けなくなり跡形もなくなるに違いありません。その前に何とかできる限りの情報を収集して後世に残したいと思います。
最後に役場や資料館の方々、地権者の方々、地元の方々にこの誌面を借りて厚く御礼申し上げます。また、打ち込んでくれたS君にも感謝します。
|