あわ〜ストーンU

気ままに訪問記

この文章の著作権は「あわ〜ストーン」にあるので、無断で引用・改変等しないでね。寄稿者には了解済みです。
26.歴史文化を後世に伝える(一宇村)
 私たちは徳島県内を中心に四国内の鉱山・採石場をまわり、それにまつわる歴史文化的なエピソードを収集しています。昔の集落のことを調べていくと当時の生活の営みがよみがえってきます。彼らのことを知ることは私たちの祖先を知ることだと思います。私たちが今ここにいるのは祖先のおかげなのです。そのことにときには感謝したりときには思い悩んだりします。しかし、それもまた生きている証なのです。
 鉱山を調べ始めてから5年くらい経った頃、ある学術団体から論文を掲載しませんかとお誘いがありました。それまでも他で小さな記事を発表したことがありましたが、それを見た方が推挙してくれたのです。大きな喜びと小さな不安を抱えながらこの話を受諾して、その年の夏に初めての会合に出席しました。簡単な自己紹介の後、調査の方向性と各自の分担について話し合われました。自治体のバックアップを得てその地域を調査するので、首長の意向や住民からの目線に沿って活動を行います。結局、担当は専門分野すなわち鉱山跡となりました。
 一宇村は現在のつるぎ町南部の山間部にあり、巨大樹の里として有名です。幹の周りが数mもある巨木があちこちに点在し、マップが作成されて村おこしにも一役買っています。また春にはエドヒガンザクラなど、秋には剣山や鳴滝の紅葉などの被写体を求めてカメラマンが大勢やって来ます。かつては私もその一人でしたが今もときどき撮影に出かけます。
 村内には3つの鉱山跡があります。一宇村役場だった時代に訪れて鉱山のことを尋ねていました。名勝「土釜」にある釜脇鉱山、白井地区にある白井鉱山、内山山頂付近にある内山鉱山です。数回にわたって現地を訪問しました。
 釜脇については父親が働いていたという方を訪ねました。ご自宅は道のない山の中にあり小さなモノレールで行き来する場所です。役場で道を尋ねて、できるだけ近くまで車で行きそこから山林の細道を20分ほど歩きました。先に連絡していたので氏が庭で待っていてくれました。吐く息が白くなるくらい寒かったのですが、氏はなんと素足にスリッパで上着も脱いでいました。驚いて話を聞くとコタツに入って暑くなったので涼みに出たとのことでした。私と行動がよく似ているので親近感を覚えました(笑)。
 氏の自宅よりまだ奥にも数軒あるそうです。高齢者ばかりで山を下りるのも大変だと話していました。それでも急勾配の斜面をモノレールでシューッと滑っていくのは面白いそうです。そして街中の友人を訪ねて四方山話に花を咲かせ、腹が減ったらまた戻っていくとのことでした。あくせくして忙しく暮らしている私たちとつい比べてしまいました。どちらがよいとかは言いませんが、山の暮らしを一つ知っただけでも成果でした。
 白井鉱山については集落の中に駐車しました。ところが、目的のお宅が見えるのになかなか辿り着きません。それもそのはずで見上げるくらいの丘の上にあるからです。ふうふう息を切らしながら30分もかけて訪ねたのですが、何と留守でした。近所の方に聞けばご病気とのことだったので、鉱山跡の場所だけ確認して退散しました。内山鉱山については役場の方に案内していただきました。集落から車で10分くらいですがもう人家はありません。谷川を対岸に渡りそこから500m以上も沢登りをしなければなりません。もし行くならパーティを組んで行きなさいと言われたのですが、その余裕もなくこちらも断念しました。
 調査の過程で、「虎石」という採石場跡が残っていることがわかりました。この石は昭和40年頃に流行した飾り石で、緑泥石にチタン石が含まれ黄色い地に黒い筋が走っています。当時はかなり人気があったそうで、県北には今でも持っている家庭が多いようです。うす暗い谷川に下りて現地を目指しましたが、急流に妨げられてそこまで行かれません。野外調査の難しさを味わいました。一方で、地元の方の話を聞いて別の方向から肉薄できたので何とか論文の材料をそろえることができました。
 こうして調べ上げた内容を吟味して、原稿用紙8枚分の文章と数枚の図にまとめました。その後二回の校正を経てようやく脱稿できて、調査開始から1年かけて冊子が完成しました。分冊をもらったのでお世話になった方々へ再び届けに行きました。仕事の合間に遠い現地を訪問するのは大変でしたが、やり終えてほっとしました。これで50年後に誰かがまた鉱山跡を調べるとき資料として使えるでしょう。歴史を残す手伝いができて光栄に思っています。
更新日時:
2013/12/29
27.エクロジャイトの仏様
 エクロジャイトという岩石名を初めて知ったのは、東赤石山南麓の銅山川を訪ねたときです。瀬場谷入口の橋のたもとに巨大な石碑があって、そこにエクロジャイト学会の記念碑と彫られていました。深い緑色をした母岩に赤くて透明感のある柘榴石が無数に含まれていました。また、当時少し上流にあった筏津山荘でコーヒーブレイクしたとき、マスターから島根大学の調査冊子とさっきの石碑の断片をいただきました。これですっかりハマってしまいました(笑)。
 資料によると山頂付近のピークを構成する岩塊がそれです。深みのある緑色のオンファス輝石に柘榴石が含まれ、硬くて密度もある岩石だそうです。山頂までは2〜3時間かかりさらに露頭付近は足元が悪いため未だ登頂していません。いつか早めに登っておきたいと思っているのですが、銅山川や関川の川原でも採集できるので気持ちが萎えてしまいます。例えば、瀬場谷との合流地点の川中にエクロが転がっています。石碑のある場所のすぐ下にあるのです。また、床鍋や肉淵の沢にも流れてきており、わざわざ山頂まで行かなくてもそこで充分採集できます。
 川流れ品の見た目は赤茶色のくすんだ色合いで、とてもエクロには見えません。しかし、割ってみれば中は深い緑色をして柘榴石もたくさん入っています。赤色の粒子ばかりでなく桃色の脈になっている石もあります。ルチルやアパタイト、黄鉄鉱などを含むこともあります。また、チタン石や角閃石など他の鉱物も採集できます。
 高越山でもエクロを産出します。量はそう多くなく藍閃石エクロジャイトなどとよばれます。純粋な藍閃石はほとんど黒に近い紫色の繊維状結晶ですが、ここでは枕状熔岩を置換しているため鉱染状に含んでいます。しかし、エクロを構成している物はそれらとは異なり薄い青紫色の繊維を含んでいるのです。柘榴石はほとんど褐色に近い小粒の粒子で、それが母岩中に散らばっている様子はチョコチップ入り紅芋アイスそのものです。もう少しエクロらしくなると緑色のオンファス輝石に換わり、柘榴石の透明感も増します。
 日本にはもう1ヶ所、新潟県の青海で15年ほど前に発見されています。残念ながら現地でそれにお目にかかったことがなく、某ショップで販売されているのを見ただけです。そんなところまで行って採ってきて店に売る人がいるんだなと思いました。
 エクロジャイトとはどのような岩石でしょう。簡単に言えば地下50〜100kmのマントルからやってきた石です。地上から地下へ平均35kmまでを地殻といい、その下をマントルといってゆっくり動いています。大陸移動などもそれによって起こるのです。そういった地下深くから地上にやって来て地下の情報を教えてくれる貴重な石なのです。
 しかし、エクロはマントルから何年もかけてゆっくり上昇してきた訳ではありません。上昇するにつれて温度や圧力が下がってくると、角閃石や緑簾石などに変化してしまいます。だから、その変化が起きる暇を与えずマントルから短時間で一気に噴出してきたと考えられるのです。これは通常の火山噴火ではなくもっと大規模な地殻変動とよべるレベルです。
 東赤石山では3億年前、高越山では1億年前にそういった活動があったことになります。何という大スペクタクルでしょうか。今私たちが手にしている石は何億年という時間を旅してきているのです。
更新日時:
2013/12/29
28.歴史文化を後世に伝える(三加茂町)
 3回目に参加した学会調査は県西部の旧三加茂町でした。地図を見ると南部の山地に「三好鉱山」という地名があります。ということで、今回も出番がありました。
 この鉱山は10年前に調査されていました。鉱区は東西4km南北1kmで、東部の三好本坑と西部の滝倉坑に分かれます。本坑は以前に行ったことがありますが滝倉はまだ未訪でした。そこで、いつものように役場で誰かを紹介してもらって片端から訪ねてみました。
 まず、滝倉のすぐ下流の黒長谷(くろはぜ)集落に足を向けました。かつてここには数十軒の家があったそうですが、今残っているのはわずか数軒です。しかも毎日ではなく週末だけ帰って来たり、昼間だけ畑を耕したり鯉にエサやりするくらいです。そのため訪ねても留守のところが多かったです。また、ほとんどの方がすでに亡くなられていて話を聞くこともできませんでした。
 ようやくある年配の方から平野部に引っ越した集落の人を教えていただきました。もう夕方近かったのですが思い切って訪ねてみることにしました。応対してくれたのは御年80歳を超える方でした。急な訪問にもイヤな顔1つせず、滝倉のことについて覚えている限りのことを話していただきました。初めて電気が来たときのこと、大雪の日のこと、活動写真を見に行ったこと、木馬を引いて荷物運びをしていたこと等々、昔を懐かしむように1つ1つ教えてくれました。
 寒くなり始めた11月に初めて滝倉坑を訪れました。役場で地権者を記した地図をもらって、それを元に旧道や集落跡を探しました。今は林道が通っていますが四駆でもないと走れません。できるだけ近くまで車で行き、そこから4kmの道のりをゆっくり歩きました。途中に誰も住んでいない民家やお墓がありました。サカキが飾ってあり誰かがお参りしているようで安心しました。その一方で、このような場所まで来るのは大変だろうと思いました。
 林道の終点近くから古い集落脇の細い山道に入りました。足元は古い瓦礫や倒れた柱なので歩きにくいです。その先は道が崩れていて粘土質の急斜面になっていました。そこを通らなければ目的地に行けません。半ば泥だらけになりながらやっとそこを通過しました。谷川を埋め尽くす土砂や材木が見えてきました。コンクリ製の暗渠が割れて押し流され、その向こう100mのところにズリが見えました。ところが、そこへ通じていたはずの山道が消滅していました。谷川の斜面がごっそり崩落して足元から切れています。日が傾いてきたのでその日はそこまででした。
 12月に入って再度チャレンジしました。暗渠の近くまで行ってそこから山の斜面を登りました。木や竹をつかんで身体を持ち上げ一歩ずつ進んでいきました。15分ほど登ったところで何となく茂みが切れているような場所が見つかりました。地図と照らし合わせてみてどうやら昔の山道跡のようです。折れた竹が何十本も転がっていて歩きにくいですが急斜面よりましです。少し迷いながらも30分ほど歩いてようやくズリに辿り着きました。
 ズリは見上げるほど高く傾斜も急でした。北側3分の1が崩れて谷川に落ちており、これが暗渠を破壊したのでしょう。積み上げられた石は大体50cm内外ですっかり苔生していました。採集できるような鉱物はなく小さな磁鉄鉱と硫化鉄鉱を拾いました。この土地も高越鉱山の所有地になっています(先に本社を訪ねて了解を得ています。)。
 ズリの横に急斜面があり石垣で造った広場が残っていました。おそらく施設跡か住居跡だと思われました。辛うじてそれとわかる道を上っていくと金具や杉板が散らばっています。茶碗や盃の欠片もあり昔使われていた物のようでした。斜面の最上部に地下水が染み出している場所がありました。三好本坑と同様にそれは坑口かもしれません。ところが、風花がふわっと舞い降りてきました。そしてみぞれ混じりの冷たい雨がぱらぱらしてきました。帰りは車まで少なくとも70分はかかります。悔しかったですが、遭難する危険もあったのでここで断念しました。
 調査の合間に三好本坑も2回訪問しました。最下部の第6坑は以前より崩れていました。また、第2坑につながる山道も崩れかけてかなり危険な状態でした。もう少ししたら誰も行けなくなり跡形もなくなるに違いありません。その前に何とかできる限りの情報を収集して後世に残したいと思います。
 最後に役場や資料館の方々、地権者の方々、地元の方々にこの誌面を借りて厚く御礼申し上げます。また、打ち込んでくれたS君にも感謝します。
更新日時:
2013/12/30
29.鉱山跡の温泉地
 いい湯だな、アハハンって書いたら歳がバレるって言われたけど、若い人にはわからんだろうから書いといて。え?送った文面のとおり書くの?それだったら好きにしてな。
 山歩きが好きだから中年に差し掛かる頃に誘われてよく行くようになった。もう30年にもなるんかいな。山の稜線を伝って徳島県の端から端まで歩いてみたいって思って、なかなか行かれないけれど主な所は行けたかな。百名山もやっているけれどようやく半分行ったかどうかな。最近は人が住んでいる場所に近いところばかりで気晴らしているだけ。温泉にもよく行くようになった。
 神山温泉によく行く。次郎銅山という鉱山跡から源泉を引いている。鉄分が豊富で少し茶色くなっている。気になったので源泉を見に行った。勝浦に抜ける道から左に入った先に黄色い四角の水槽があってそれだった。こんな所からよく運べるものだと感心した。鳴門にも新次郎温泉というのがあるそうだ。酸性だからすっぱいだろう。
 吉野川市の温泉もいつの間にか2つになった。東山鉱山を源泉としていた東山温泉と高越鉱山のこうつの里がなくなった。高越大橋の下にふいご温泉がある。ちょっと狭いが岩戸温泉のように川が見える。夏向きかなと思う。高越山の登山道を歩いて山頂の社まで1時間半かかる。少し寄り道しているからそれくらいはかかる。下りてきて入る風呂は格別だ。たまに着替えを忘れて家に帰ってから取り替えることもある。
 四季美谷温泉も好みだ。前に大水に浸かってしまって大変だったが持ち直したようでうれしい。ス−パー林道を車でなく歩いた後で入るととても気持ちよい。確かこれの近くにも鉱山跡があったはずだ。鷲敷温泉の裏山にも銅山があったらしい。行ったことはないが見てみたい気がする。別府峡温泉は木頭の奥で高知県だがそこも泉質がよい。宿泊できるので一度泊まってみたい。
 祖谷温泉は有名な温泉だ。渓谷の下まで降りていってかけ流し天然温泉に入る。長湯しないとぬるくて風邪引きやすいから注意するが、白く濁っているのがとてもいい。硫黄分を含んでいる。ずっと奥に鉱山があったらしいが関係ないかもしれない。賢見温泉や白地温泉など大歩危小歩危には温泉がたくさんある。塩塚高原に行った帰りは奥小歩危がある。
 これから雪山装備がいる所が多くなる。横殴りの突風はみるみる体温を低下させる。鼻先や耳先が痛くなると凍傷になるかもしれない。準備は怠りなくしておこう。帰りは温かい温泉が待っている。
更新日時:
2013/12/31
30.四国の○大鉱物
 私たちで鉱物や岩石を選んでみました。昔の有名な研究者が選んだ全国何々50選とかいうのがありますが、それとは別に地元民の目線から選びました。@全国的にある程度知られている、A産出量がそこそこあった、Bかつて研究されていた、C郷土史や研究史に深い関わりがある。四国全体では500種類以上の鉱物が見つかっています。また、産地も500ヶ所以上あるため選ぶのはとても難しかったです。
 徳島県では眉山の金紅石や紅簾石、高越山のキースラーガーに斑銅鉱やエクロジャイト、水井鉱山の辰砂、白竜鉱山のサーサス石、土須鉱山のドスライトなどが挙げられます。香川県では五色台や金山のサヌカイト、猫山鉱山の珪線石、雨滝山の柘榴石などでしょう。高知県では白滝鉱山のキースラーガー、穴内鉱山の二酸化マンガン鉱(ハウスマン鉱、ブラウン鉱など)、国見山一帯のアンバー(鉄マンガン系鉱石)、円行寺周辺の蛇紋岩、西部海岸線の砂鉄などがあります。
 愛媛県では別子銅山のキースラーガーで、当時の坑夫がよんでいた何々ハクという石が挙げられます。他にも市ノ川鉱山の輝安鉱、五良津の金紅石や透緑閃石、赤石鉱山のクロム鉄鉱やかんらん石、東赤石山一帯のエクロジャイト、国領川の藍晶石、銅山川の砂金、西部マンガン鉱山群の二酸化マンガン鉱(ハウスマン鉱、ブラウン鉱など)などたくさんあります。なお、これらの鉱物や岩石には少量の別の鉱物を伴うのでそれも含めた物として挙げています。
 徳島県全体での三大鉱物は眉山の金紅石・高越山の斑銅鉱・水井の辰砂でしょう。どれもこれもその地域を代表する鉱物で、地元との歴史的な関わりがあります。範囲が狭くなりますが、高越山の三大鉱物・岩石は斑銅鉱(またはキースラーガー)・金紅石・エクロジャイトです。銅山から産出した標本として各大学に納入されたり、眉山にも勝る質と量が見つかったり、日本で3ヶ所しか確認できていない石だったりするからです。
 このようなランク付けするのにどのような意義があるのか。・・・意義なんてありませんよ。単なる遊びです!別に目くじら立てるほどのものじゃないと思います。でも一般の人が見れば何となく石に関心を持ってくれそうじゃないですか。昔の人もたぶんそのような気持ちで選んだと思うんです。
 賛否両論あると思うので、これについてのご意見は下記のメールへどうぞ。遊びのつもりで楽しくチャットしませんか?
 また、このサイト内で画像を掲載している標本は一部を除いて交換・寄贈が可能です。希望する個人・団体も下記のメールへどうぞ。
更新日時:
2013/12/31

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Last updated: 2014/1/2
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