病気の修友について (戒律36章)  アクイナータ・ボックマンOSB

現代の状況

 私たちの社会では、病気に表わされるような人間の限界を受け入れることは困難に思えます。
病人にとっては自分の立っている足元が崩れてしまったように見えるのです。
もはや自立を立証できず、仕事を通して自分を役立たせることもできません。
苦しむこと、忍耐、辛抱、服従…これら全ては私たちの考え方や習慣から出来上がったものと衝突します。
それは彼らを世話する人にとってと同様に、肉体的、精神的に苦しんでいる人にとっては難しいことです。


古代の状況(集会7章34節)  泣く人と共に泣き、悲しむ人と共に悲しめ

 新約では、キリストは病人を癒す人として記述され、外に表れる病気だけでなく、内部にある病気をも治されました(マルコ2・1〜12)。
「医者を必要とするのは健康な人でなく病人である。私は正しい人でなく罪人を招くために来たのである」(マルコ2・17)


古代の修道制度とベネディクト以前の戒律

 砂漠の霊母シンクレチアの知恵は今も現代に通じるものがあります。
悪霊の策略はたくさんあり、悪霊が敗北を飲み込まねばならない時、彼は体を病気にさせます。
彼は、もし許されれば何かの重い病にかからせ、心を失った人々のうちに神への愛を見えなくします。
けれども神があなたを苦しめたことを喜びなさい。
なぜならあなたは鉄のようだったけれど、火によってさびを落としたのだから。
もしあなたが病気を適切に処理したならば、あなたはますます強く前進するでしょう。
あなたは金ですから、火によってさらに良くなったことを立証するでしょう。
あなたの体を痛めつけるために、天使が送られたのです(Uコリント12・7)
喜びなさい!あなたは誰に似たものになったか見てみなさい!なぜならあなたは、幸いなるパウロの運命に値する者となったのです。    (シンクレチア7)


 三人の修道士が収穫人として雇われることを望みましたがひとりは病気になり、自分の修室に戻っていきました。
それで他の二人が彼の祈りの支えを受けて、この病気の修友の仕事もすることに同意しました。
支払いの日になって、彼らは修友に自分の分を受け取るように言いました。
しかし彼は、自分は働かなかったのだからと言って断りました。
しかしながら他の二人は、収穫はこの病気の修友の祈りによって完成されたのだと断言したのでした。


 後代になってセビルのイシドールは、ほとんど全ての伝説を統一して言っています。
病人の世話は賢明で信仰の人に任されるべきである。
彼は病人たちを熱心に世話し、必要とするものを与えるべきである。
病人は回復するまでより良い食事が必要である。
一たん元気になったら以前の食事の規定に戻らなければならない。
健康な者は病人が特別な世話をされることで立腹してはならない。
なぜなら健康なものは病人に我慢しなければならない。
誰一人として、本物の病気を隠してはならないし、また偽りの病気を装ってもならない。
むしろ働くことが出来るものは神に感謝して働きなさい。
働けない人々はそうできない悲しみを表わし、あらゆる親切を受けるように。
彼らは病気を口実にして個人的な所有物を持ってはならない。
病気が貪欲のマントの下に隠れていたり、あるいは夜行性の汚れが隠されないためである。


師の戒律とベネディクトの戒律

 師の戒律(530年頃成立)69…病人は歌隊席に来てはいけない。
食事の席からも禁止される。もし病人の修友に熱がないなら、典礼に与からねばならないが、横になって祈ってもよい。
もし彼が働くことを欲しないなら、食事は少なくしなければならない。
師の戒律70:師は他の章の食事について話す時、断食の決まりは病人のためにゆるいものとなり、仕事も軽くするよう手はずを整えています。
ベネディクトの戒律36:ベネディクトの戒律が師の戒律と違っているのは、大変際立っています。
彼が最大の配慮を示すように、3回命じるとき、病人の側からの過度の要求についてさらに触れています。
彼らはこの方法で奉仕する人たちを悲しませるからです。
病人たちは大きな愛をもって世話されて、今度はあまりにも多く要求する危険があるからです。
この危険について、師の戒律は一度も言及していません。
健康な人々は自分たちの高い所からきれいな言葉を発することができます。・・病気の人が理解できるようなものでしょうか。
特にこのような状況にあって、もし病人がすでに自分自身や他の人々とも上手くいっていないとしたなら、苦しんでいない人からの良い言葉でも受けいれることは難しいでしょう…批判的な言葉はなおさらのことです。
この点に関して病人の下で苦しんでいる奉仕者たちは多分彼を助けるには、最もふさわしくない人になるでしょう。
病気が癒されたあとなら、気難しい患者に道理にかなったことを言ったりすることがあってもいいかもしれません。
しかし今は忍耐する時です。

 ここでは世話をする人たちも、奉仕するために必要な支援を受けます。
今日私たちがいっそうよく気付いていることは、もし何の励ましも受けず、長い間ストレスを受けているなら、落胆にうちひしがれないため世話をする人たちも、またケアが必要だと言うことです。
病人たちも彼らに奉仕する人たちも両方が重荷を分かち合わねばならないことがはっきりしてきます。
両方とも癒しのプロセスに自分たちの役割をもっていて違ったやり方で奉仕するのです。
すでに述べたように、収穫のために雇われて、そのうちの一人は病気だったけれども、自分の分け前の賃金を受け取った三人の砂漠の師父たち思い起こします。

 「奉仕する人々と奉仕される人々との間には根本的な差異はない。
私たちは皆仕える者であり、ただその仕え方が異なるだけである。
たとえもし私たちが病気になり、他の人に重荷になっていると思っても、私たちはお互いへの奉仕に貢献すべきである。
病人の役割は取り替えられないかけがえのないものである。
神は彼らを最高の奉仕、つまり苦しむことを犠牲とすることという奉仕に召されている」
  ヨハネ・パウロ二世.  Salvifici Doloris26-27参照

 今日、私たちはまた病人をあまりにも完全に引き離してしまうという危険について気付いています。
それで私たちは彼らを共同体に入れ共同体のメンバーであることを感じることができるような方法を探しています。
そうして彼らは共同体の聖務にいくらかでも参加し(即ちビデオカメラとか何か簡単な科学技術の助けを借りて)、コミュニケーション(レクリエーションや講話の伝達)の流れの外に置かれないように。
訪問する人は読みものを読んであげることもできます。
病人の中には共同体のために小さな仕事をもらうこともできるでしょう。
病めるブラザーやシスターたちにとって、自由であることと、共同体に属しているという気持ちの正しいバランスを整えるためには多くの共感が必要です。

 人としての係わりは組織体としての係わりの前に来るのだということを知っておくことは大切なことです。
今日、私たちはこのことを非常に良く理解しています。
というのはしばしば私たちは病人のための科学技術に大変恵まれているのですが、しかしながら人への思いやりある貢献は決して他にとって変えられるものではないからです。

 健康は、身体的な仕事と典礼ないしレクチオとの間のバランスを必要とします。
一般的にベネディクトは、一人ひとりの純粋な必要を十分ではあっても多すぎることなく与えようとしています。
後者についてベネディクトは、弱い人々には注意を払うように多くの戒めを与えています。
これらはみな病気に対しての予防のための策です。
ベネディクトの戒律は予防医術のユニークなシステムであると言われていますし、36章は特に西洋医術の始まりとなりました。

 ベネディクトが表わし、かつ指示している病人に対しての温かい真剣なキリスト教的配慮は、注目に値する一連の病人看護のための施策、施設や研究を生み出しました。
全て、病める修友の健康を取り戻し、癒すことを目的としたものでした。
そしてそれらはベネディクト会修道院を病人看護のセンターとし、のちの世紀において医学的進歩のセンターとしたのでした。
    (抄訳:Sr.MB)

チューリップ

皆様のお祈りに感謝して シスターヨハネ久保燿子

 主のご復活祭おめでとうございます。
自然界も新しくすべてが一度に蘇生しています。
皆様お身体の具合はいかがですか。
 この度の私の入院に際して、励ましのお言葉をいただき、嬉しく感謝の申し上げようもございません。
お蔭さまで皆様方のお祈りによって、思いもよらず、復帰できましたことが、私自身、夢のようでございます。
相当に危険性のある病状であったことをシスターたちから聞きました。
まるで人ごとのように感じられ、今も信じられません。
 またシスターたちは言うまでもなく、病院の諸先生をはじめ、医療にたずさわる皆様方の助けを借りて回復できましたことは、まるで奇跡をいただいたような思いです。
夢の中にあった自分を毎日振り返って、有り難く受けとめております。
体のあちこちの痛み、容貌など、まるで変っている自分を受けとめるのは難しいですが、皆様方のお祈りによるこの有り難い回復に感謝し、深くお礼申し上げます。