「ヨハネ・パウロⅡ世教皇書簡」の抜粋

聖ベネディクトゥス生誕1500年に際して発布された使徒的手紙(2021年6月号の続き)

Ⅳ 祈り

 キリストへの真実で絶対的な愛は、祈りのうちにこそその全意義が示されます。
すべてのベネディクト会的生活と、毎日の日課は祈りを中心に転回しています。


 聖ベネディクトゥスによると、祈りの基礎は神のことばを聞くことです。
事実、受肉されたみことばは、この場所で、今日、二度と来ないこの特定の状況のうちに置かれている一人一人の人に語りかけています。
みことばは、聖書や教会奉仕職を通してお語りになります。
修道院では、修道院長や兄弟たちのことばを通して、共同体の中でそれが実現します。


 この信仰による従順のうちに、神のみことばは謙そんと喜びのうちに受け入れられます。
神のことばは、永遠の新しさを汲み取る源です。
この新しさは時と共に衰えていくものではなく、むしろ神のことばを日増しに一層力あるもの、一層魅力に富んだものとするのです。
神のことばは、こうして祈りの尽きることのない源泉となります。
なぜなら≪神が人間にお語りになるときには、同時に神ご自身が受けたいと待っておられるその答えをも、人間にそれとなくお知らせになるからです。
この祈りは、一日の色々な時間に分けられて唱えられますが、それは毎日の労働を生かす地下水の流れのようなものです≫
(パウロ六世教皇のベネディクト会女子修道院長たちへの講話。1976年9月29日。
 「パウロ六世の教え」ⅩⅣ1976年771ページ。)


 静かによく味わいながらする瞑想―それこそ真の霊的反すうなのですが―によって、神のことばは、祈りに奉献された人々の魂の中で強烈な光を放ち、その光が一日のすべてを照らし出します。
これこそ≪心の祈り≫であり、聖ベネディクトゥスの言う≪短くて純粋な祈り≫(戒律20・4参照)なのです。
私たちはこの祈りを通して神の呼びかけに答え、同時に主のあわれみという永遠の賜物を与えてくださるように主のみ心をゆり動かすのです。


 キリスト者は、測り知れない救いの神秘を含む神のみことばを毎日愛をこめて観想し、心を尽くしてその中に一層深く分け入ります。
それは生活全体にわたる努力はもちろんのこと、人間的知識ではなく、そのうちに神的ななにものかを含む知恵によって行なわれます。
すなわち、それ以上知ろうと努めるのではなく、こう表現することが許されるとするなら、「存在の密度を濃くすること」に努めることによって行なわれるのです。
つまり神とともに語ること、神のことばを使いながら神に語りかけること、神ご自身がお考えになることを考えること、一言で言うなら神のいのちそのものを生きることによってです。


 キリスト者は、神のことばを聞くことによって、様々なおびただしい出来事や時の流れを読み取るようになります。
つまり主がみ摂理によって、人類家族の中に繰り広げられる色々な事柄の成り行きを神のことばによって理解するのです。
したがって神の摂理によって配されることは、信者にとっては救いの歴史のすばらしいパノラマ(景観)となります。
同様に神の不思議なわざは、≪開かれた目と注意深い耳≫(戒律・序言9参照)によって、信仰を通して、理解されます。
人間を神化させる観想の光は炎を燃え立たせ、畏敬と結ばれた沈黙、歓喜に高まる歌、神への感謝の心は、祈りに特別な性格を付与します。
修道士が日夜歌う神への賛美は、このような性格を持つ祈りです。
その時、祈りはあたかも全被造物の声となり、ある意味では、天のエルサレムの一きわ高い歌声の先取りとなります。
神のことばは、この地上の旅路で人間の全生涯が神に向かって心を開くことであることを理解させ、また父に向かってささげられる祈りは、声なき人に声を付与するものとなります。
すなわち、喜びと苦悩、成功と失望、よりよき未来への待望が、ある意味でこの祈りのうちに脈打っているのです。

(次号へ続く)


<当院の聖櫃です>