アメリカに渡る
高校に入ってもセブンの事が頭から離れず、紀和商会とマルカツから
カタログを取り寄せたり、本を購入したりしましたが、
全く買う当ては無かったので、ただ写真を見て
楽しんでる位でした。そして、いろいろ調べてるうちに、浮谷東次郎が、
60年代にロータスセブンのロードインプレッションを雑誌に寄稿してるのを発見し、
俺様 「やっぱ東次郎はすげーや!!」
と、勝手に思ったものでした。思えば、浮谷東次郎が60年代当時乗ってた
クルマで、現在、「新車」で購入できるのはセブンだけでした。
時を同じくして、1989年当時、レーガン計画というのがあり、レーガン元大統領
の発案で、日米の高校生を交換留学生にして送り込むという、高校生は費用を
日本政府と米国政府が折半してタダでアメリカに1年間留学出来る話が
全国の高校にやってきて、それは、わが校にも募集があり、
俺様 「いきてー!」
と猛烈に思ったのでした。浮谷東次郎は18歳の時、東京の名門、
両国高校を中退して単身渡米しました。
俺様 「自分も東次郎
になれる鴨」
なんて本気で思ってしまいました(バカ.....)しかし、中退までは真似ができん(うーむ)。
東次郎なりきりグッズ(笑)。オワンヘルに山本光学(SWANS)の一眼式ゴーグル、
バンソン社のガントレットタイプの鹿皮グローブ。ヘルメットのカラーは、東次郎が
17の時、ヤマハで事故る寸前のカラーの設定(笑)。額に「SR」の文字が入れば完璧。
結局、そのときは行かずに、最初に渡米したのは隣県の短大に入った頃です。
短大の姉妹校がカリフォルニア州のサリナス市にあり、
表敬訪問して、大学で座学やフィールドトリップをし、
二週間ホームステイすると単位が貰えるという、
夢のような話でした。
ホストファーザーは消防士でした。
渡航費用は当時、隣県の知事だった本○俊太郎
という方から援助して貰ったのですが、
彼はその後、ゼネコン献金疑惑で辞職
してしまい、「あんとき援助してもらったのはまずかったかなー?」、と思ったりもします(謎)
サリナス市は、小説「エデンの東」の舞台で、作者のスタインベックの生家や、
スタインベック。生家は教会の隣で、没後、修道士の寄宿舎だったの
だが、今はレストランに改装されてます。「エデンの東」でサリナスを
貧しい農村として描写したため、現地では人気薄です。
近くにモントレー湾とかラグナセカサーキット、レッドウッドの国立公園があって
で、で、でか過ぎ(杉)ます!
カリフォルニアといえばローライダー。
ホストファミリーと大変楽しく過ごしました。
その時からですね、味をしめたのは。当然のように卒業後の進路として、
「アメリカ移住(爆)」を選択。
俺様 「なーに、しばらく高飛びして、帰ってくれば、景気も回復して就職もばっちりだ。」
とタカをくくってたのです。現実はその後、景気は右肩下がり、
1ドル80円台までの強烈な円高で、アメリカで働くのは
かなり読みが甘かったのですが、
当時はそんなの知りません。渡航前日、神宮球場わきの日本青年館で
待機して、テレビを見てると、そこにニュース。
友人 「なんかよー、長野県で天然ガスが噴出して人が倒れたんだってー。」
俺様 「ふーん。そんな事、あるんだねー。」
気にも留めずに翌日成田に向かいました。今、思い出すとあれは
松本サリン事件だったなー。1994年の初夏の出来事でした。
ここはメキシコ?!
いくら馬鹿でもただでは渡米は出来ません。浮谷東次郎は無理矢理ビザを取得して
結局2年もアメリカに居座り続けましたが、現代にそんなことしたら強制送還されるのが
オチです。しかし、海外には前回はタダで行ったので、今回も、
金を払う気は全くなかったし、なるべくタダに近い方法を探さなければ
なりません。そこで、財団法人 国際農業者交流協会の事業に乗ることにしました。
これは農繁期に農場で研修生として働き、農閑期に大学で勉強出来る。しかも、
ほとんどタダ、帰りには金を掴んで帰れる
というすばらしい(注:為替レートによります)制度で、迷わず選択しました。
13時間、飛行機に揺られ、シータック空港(シアトルータコマ空港の略)に降り、
最初に着いたのはワシントン州のモーゼスレイク市で、そこのビッグベント大学
ちょうど夏休みの真っ最中でした。
というところで語学の勉強をしました。
地平線だよ、地平線!
そこの隣には日本航空の研修所があり、
ビッグベンド大学の、航空学科のワッペン。
そこは懐かしのドラマ「スチュワーデス物語」
の舞台です。ここで当時ホリプロの期待の星だった「堀ちえみ」が、
どじでのろまな亀を演じたんだー、と妙に感心したものです。
さすが、ボーイング社のお膝元のワシントン州。
ここで日航の皆さんは研修します。スチュワーデス?見なかったなー(笑)。
最初に配属されたのは日系2世の経営するレタス農園で、そこで毎日
レタスの収穫をしていました。「地平線の先まであるんじゃないか?」という位
デカイ畑での作業、なんとすべて手作業です。朝は零下近く、昼は40度以上の中、
日陰も無い中、手で草むしりや収穫作業です(機械の後ろをついていくので、休めません)。
中腰での作業は堪えました。のどがカラカラになり、毎日1ガロンの水筒の水を飲み干し
ても、まだまだ渇きが癒えません(朝に凍らせていた水筒の水は、昼には熱湯です)。
噴き出した汗の塩分でジーパンを脱ぐとそのままの形で立ちました。
一緒に働くのは、メキシコ人の不法滞在者達で、話すのもスペイン語、
俺様 「一体、ここはどこの国だろう?」
仕事は最高にキツいけど、愉快な仲間たちだった。西海岸は、元々
メキシコとの戦争で得た土地(地名もスペイン語が多い)ので、メキシコ人
は、まるで当然の様に越境してきます。こんだけ働けりゃあ、ホントは
メキシコもきっと豊かになれるはずなのにねえ。経済格差は恐ろしい。
と思ったものでした。農場主は当時84歳ながら現役バリバリで、朝から晩まで
働き、超巨大なジョンデイアのトラクターを転がす凄いヂジイでした。
一緒にレーニア山にマツタケ狩りに行ったり(採れるんですよ!!)、
河でスチールヘッド釣りに出かけたのは良い思い出です。
先日、お亡くなりになったそうで、彼の、日系人独特の話し方、
農場主 「YOUはハア、MEはハア。」とか、
1ドルを「1円」、1セントを「1銭」、1フィートを「1尺」と言ったりするのを懐かしく思います。
彼らは第2時大戦中に排日法の隔離政策でキャンプ(収容所:だが日系人は不平は言わなかった)
に強制移住させられ、戦後無一文から立ち直り、そして農業研修生を受け入れてくれました。
彼らのアメリカでの勤勉な姿勢が、後の日本人の渡米の礎になったのは間違いないです。
渡米する人は、彼ら日系人に足を向けて眠れないと思います。
ご冥福をお祈りします。
今は息子が跡を継いでます(左二番目の太ってる人ね)。帰るとき、
シアトルいち、美味いと評判のステーキをご馳走になりました。
大物と出会う
秋までのお勤めを終わして、次に派遣された所は、カナダの国境近くのリンゴ農場でした。
そこは半端でない広さで、例えるとすれば、そうだなー、
山形盆地すべてが農場
私が住んでた付近です。コロンビア川が流れてます。気温は夏は40度を超え、
冬はマイナス20度近くなり、大雪も降ります。樺太と同じ位の緯度で、夏は
サマータイムのせいもあり、夜9時位まで明るく、「アフター5」は持て余します。
リンゴの畑には野生のサボテンも生え、ガラガラヘビ、コヨーテ、シカが出ます。
一歩、荒野に出ると、まさに西部劇の世界!タンブルウィードが、西部劇さながらに
コロコロと転がっていきます。ん〜、我ながら、すごいトコに住んでた(笑)。
といった感じでしょうか。恐ろしい広さでした。この広い農場のリンゴを手で収穫すると
思うと気が遠くなりそうです(実際、1つ1つ手で収穫します)。
この箱(ビン)一つ収穫して4ドル。収穫期の労働者は完全歩合制。
当然、手で収穫され、一つたりとも傷を付けてはならない。熟練者のメキシコ人は、
ハシゴ一つで、リンゴをもぎまくり、最高で一日12ビン収穫する(神業です!)。
俺様は最高8ビン。かなり出来が良いほうだ(素人は、一日1ビンがやっとです)。
昔の「ミキプルーン」の機械で収穫するシーンが登場するCMのせいで、当時は、
友人家族は私が、「楽な仕事をしてる」
と大きな勘違いをしていた(笑)。実際は戦場並です。仕事はキツイです。
気軽には人にはお勧め出来ません。
ほかには、農場の数倍広い
牧場には牛や鹿やダチョウがいて、カウボーイが世話をしてます。
日本では信じられないでしょうが、「チャールスブロンソン」みたいな顔の、
テンガロンハットに、パリッとアイロン掛けた、プリーツ入りのラングラー13MWZ
のブーツカット、トニーラマのカウボーイブーツ、チャップス(革製のオーバーパンツ)、
コンチョ(メキシコの硬貨をあしらったベルトの事)、「NFR」の出場記念のバックル
(NFR:ナショナルファイナルロデオ。ラスベガスで決戦を行う、世界最大のロデオの
大会。各地で予選があり、レベルは相当高い)でキメた本物のカウボーイ
が沢山いて、毎日クオーターホース(カウボーイ専用の馬)にまたがり、
牛に投げ輪や焼印をしてます(日本の農村では、まず見ないですね)。
そして、
これは、ペットのリャマ。こいつ一匹のために、この広さ!贅沢だ。
コンボイ数十台、
「DANNY BOY」ブランドは世界に通用する名前だ。後年、県農政課で、
「輸入リンゴ対策検討会」を開き、サンプルでアメリカ産のリンゴを取り寄せた。
見ると「DANNY BOY」だった。こんなとこで再会するなんて!俺は、アメリカ産
のリンゴには、悪口は言えねえなあ(笑)。
専用の機械(コンボイ、ヘリ、飛行機、クルマ、重機)の修理工場、
農機具からコンボイ、ヘリや飛行機まで、何でも整備します。
自家用ヘリに
農場主から、「キャンプに行くから手伝ってー」と言われ、良く分からないまま、
ヘリに乗せられ、見知らぬ山脈につれて行かれたことがあります。蔵王山位の
山、すべて自分の山でした。また、カナダの国境近くの「トナスケ」というとこ
には、「乗馬用」と称して数千エーカーの土地があり(インデイアンの元居住区)
そこで皆して馬にまたがり乗馬した事があります。そこの岩には古代のインデイ
アンの壁画が描いてありました。何しろ遊びのスケールがけた違いなので、
それが当たり前になってきた自分がこわいです(笑)。
プロパンガス会社、そして果物の選果、出荷の自社工場を持ち、
選果場からは1日4万箱のリンゴがコンボイに乗せられて、
全米はもとより世界中に発送になる。パイやジュースに使う青リンゴ、
「グラミースミス」種の生産量は、な、なんと世界一!
(ドール、デルモンテなんて問題にならない!)
当然、英語は通じません。
なんだか
俺様 「場違いなとこに来ちゃったかなー?」
という気がしないでもないですが、農場主(フランス系白人)と挨拶です。
ワタクシ 「あのー、ボスは?」
ボスの奥さん 「あー彼、今ね、日本にいるわ。」
ワタクシ 「日本!?」
彼は実はアメリカのリンゴ業界では知らぬ者は居ない大物で、USDA(農水省)に
直接掛け合い、アメリカ政府を動かして
ワシントン産リンゴの「対日輸出」を押し切ったその人だったのでした。
日本にはリンゴのキャンペーンに行ってて、総理官邸で、当時総理大臣だった
「村山首相がうちの農場のリンゴを持って笑ってる」写真
が現地の新聞に載って驚いたもんです(マジかよっ!って思いました)。
数週間後、ボスが帰って来ました。
一緒に写真を撮ってくださいとは、恐れ多くて中々言えませんでした。
私 「初めまして!、ボス。」
ボス 「おー、よろしく。いやー地震でビックリしたよ。
大阪駅出てすぐだった。日本の新幹線が正確で助かった。
日本はいいとこだね。」
彼はこう言ってニッコリ笑ったのでした。
「阪神淡路大震災」のニュースは、こんなド田舎(半径100キロ信号機無し)
では、断片的にしか入って来なく、それは「地下鉄サリン事件」の時も同じでした。
だんだん「浦島太郎」になってくみたいです。その後も、
噂1 「女子高生のスカートが短くなってるらしい(笑)」
噂2 「ルーズソックスというものがあるらしい(笑)」
噂3 「プリクラというものがあるらしい。(笑)」
という情報が寄せられましたが真相は全然分かりませんでした。あー、そうそう、
「野茂」がデビューして、近所のガキがみんな「トルネード」を真似てましたね(笑)。
L.Aにいた研修生はデビュー戦観たそうです(うらやましい!!)。
男らしさに磨きが掛かり、お祭りに行けば女がこっちを見て
俺を誘惑するようになった。全く、俺も罪な男だ(謎爆)。
帰国した時に、日本の様子が違っててビックリした記憶があります。
この農場では、灌漑の管理、選果、剪定、葉摘み、摘果、収穫、と朝の4時から夜9時まで、
死ぬほどハードなリンゴ尽くしの毎日で、最初は1人か2人での仕事だったのですが、
私は優秀だったのか、順調に出世して、最終的には16人の
クルー(グループの事ね)のボスになりました。
クルーの面子は全員、不法滞在者のメキシコ人、しかもスェットバック(河を越えて越境したの意。
不法滞在者の別称)の中でも流れのブランケットマン(毛布1枚で渡り歩く、流れ者の意)ばっかで、
相当ヤバソウな連中ばっかでした。(もう慣れたので普通です。)
こいつらです。最高にキてる奴ら。そいつのボスは、それ以上(笑)。
毎日、払い下げのスクールバスでお迎えに行ってましたが、
彼らはリンゴのジャングルのなかにある農場のキャンプに仮住まいしてました。
恐ろしい広さだ。春でリンゴの花が満開。でも広すぎて良くわからない(笑)
キャンプ(収容所)というだけあって長屋がいっぱいあってゴミだらけ、怪しい連中が
ビール片手にこっちを「ジッ」と見てます。裏には残飯で豚を飼ってて、時々ピストルで
撃ち殺して食ってました。(注:うまいんですよ、マジで)
焚き火にやぐらを組み、巨大な銅鍋でグツグツ煮ます。何だか人間の手足みたいで
気持ち悪いです。そぼろ状になるまで煮た豚肉を、別に取っておいた生き血に混ぜ、味付けして
トルテイアやチミーチャンガ(料理名)にして食べます。庭で栽培したハラペーニョ(青唐辛子)
や、トマテイーヨ(ホオズキ)の自家製サルサで頂きます。激辛ですが、病み付きになる味です。
俺様 「おーい、迎えに来たよー。」
すると、当時仲の良かった部下の若いメキの野郎が、血相変えて走ってきて、
メキ 「気を付けろ!!、クルマの鍵を掛けろ。身包み剥がされるぞ。」
俺様 「またまたあー。ところで、そこのカレンダーの日付、丸書いてあんの何?」
メキ 「これ?巡回売春婦くる日(爆)。20ドルだよ。買う?」
俺様 「いやー、エイズ怖いからいいよー。」
メキ 「エイズで済めばいいがな(謎)。
あと、これは巡回麻薬密売人くる日(核爆)。
買うか?」
俺様 「........」
メキシコ人は人情に厚く、毎週のようにパーテイーに誘ってくれました。楽しい思いでです。
カウボーイやってた日本人研修生の隣の家のパーテイ。特に友達でもないのに
私達も招待されました。「袖する中も何かの縁。」メキシコ人では普通の感覚です。
免許を取る
無謀にも、中型二輪の免許だけで渡米してしまい、クルマの免許を持ってなかった
のですが、アメリカでは、クルマも転がせないと飴玉も買えません(16歳から取れます)。
生まれて初めて運転したのは70年式のシボレーC10でしたな。(当然無免でした。)
田舎なので無免でも良かったのですが(おいおい)、21歳になったので合法的に
酒が買えます。(アメリカは21歳から解禁ネ)が、戦前、禁酒法が有った国らしく
身分証明書が無いと全くアルコール類は買えません。
なにせ街には「酒屋」が一軒しかなく、(ビール位ならスーパーで買えますが、)
テキーラやラム、バーボンはそこでしか買えません。そこの酒屋は鉄格子に囲われ
(アメリカの酒屋はこんなのが多い)、ショットガンを手元に置いたオバちゃんが店番です。
俺様 「これは免許を取らないとイケないでしょう!」
早速勉強して試験に備えました。そして試験当日、シボレーのS10を借りて試験会場
に向かいます。
「S-10」。こいつは正月に鹿をひき殺してしまってボロボロだ。後輩が
免許取る前日にやらかしたので、大ヒンシュクを買った(スマン!)。
自宅から60マイル程先の「オマック」という集落には道路になんと、たった一つ、
三色に光る信号機があり(貴重品)教習に適してたので、
ここでか免許が取れないのでした。受付で手続きを済ませると、教官らしき人が
教官 「じゃーこっち来てー。」
と言います。奥の試験会場に連れていかれるのかなー?と思ったらなんと受付の
脇の机に座らせました。機械のテレビ画面に映る問題を、ATMのような画面タッチで
ピコピコ押して解き進みます。後ろにはいっぱい人がいて「まだかまだか」と待ってます。
機械が2台しかないのです。すっごく、気が散ります。
時間は無制限、辞書OKなので相当長く掛かりましたが学科は合格しました。
(25問中20問正解で合格)。続いて路上ですが何と教習車はなく、乗ってきた車で
試験です。縦列駐車、車庫入れを教官に見せて合格。S10はオートマでしたが
免許はマニュアル車も乗れるし10トン車位までオーケーです。交付に払ったのは
全部込みで「36ドル」位かな?はっきり言って簡単過ぎます。
でも一緒に行った、沖縄出身の辺土名君は2回落ちたけどね(爆)
その日のうちに酒を買いに行ったのは言うまでも無いです。
大草原でパンクをやらかすと大変だ。車載無線で場所を言うが説明が難しい。
しかも英語なら簡単だがスペイン語だ。良く見ると、ホイールはエンケイバハ。
この1989年式ダッジラムは、ドリフト遊びに最高でした。実に壊れたので(笑)、
後にセブンを買ったとき、壊れても、「こんなもんだ」と、精神的に楽でした(笑)。
まーこの位になると結構乗った甲斐のあるクルマだ。リアがブリスターフェンダー
なので車幅感覚が要求される。諸経費込みで160万。安いね。農場の車だけど。