セブンが我が家にやってきた
5月、とうとうセブンの納車です。ローダーでやってきたセブン。
意外と小さいです。家族の反応は、
母 「新車なのに少し錆びてる。」
父 「トラクターみたいだ。」
アメリカ最大シェアのジョンデイア。セブンと同じロータスカラーだ(笑)
サイクルフェンダー仕様なので、レーシング仕様かも(大笑)。
姉 「こんな小さい車が、そんなに高い訳が無い。」
と散々でした。当然、そんなものが耳に入るわけが無いです。
納車に来たプロオートの社長は、注意事項など、色々と質問する私に、
「壊れたら、直せばいいから(謎)」
という言葉を残して、お茶も飲まずに帰って行きました。家族は口々に、
「納車でさっさと帰るのはなんでだべ?」
と言ってましたが、私は当然無視です。
早速、乗ってみることにしました。すると、大変な事実が!
こ、こ、これは...
うーん、遅い(爆)
うーん、全然ブレーキが効かない。(大汗)
うーん、ハンドリングがクイックじゃない(不満)
吹かすと「クシュン、クシュン」とキャブから音がします。くしゃみでもしてるのかと
気になったので、ウエーバーのふたを恐る恐る開け、メインジェットを見たら、
105番という嘘のようなのが入ってました。これで大丈夫なのでしょうか?
後に、初めて携帯電話を購入した時、ガソリンスタンドで給油中に携帯電話を落とし、
マフラーとボデイの隙間に携帯を挟んだまま、県民の森と蔵王エコーラインを走って
しまったことがありました。当然、発見した時は、携帯は焼けて、「もう壊れた」と思って
たのですが、しばらくすると復旧。驚いてマフラーを触ると、ビンビンに走ったはずが
手で触れます。(ガスが薄すぎるのです。)
もちろん、当時、何も知らないわたしは、
俺様 「まだきっと、エンジンにアタリが付いてないのだろう。馴らしが終われば、
きっとギンギンに吹けるぞ!壊れたら、直せばいいんだから、細かい事を
イチイチ言うのはエンスーじゃない。」
なんて考えてたのです。こうしてセブンとの生活が始まりました。
気休めにメンテをする。
山形セブンクラブ
走行が500キロ位の時でしょうか、前を走ってた車がいきなり止まって車線を塞ぎました。
男 「止まれ、とまれー!!いいから止まれ〜!」
そして私が路肩に停車すると、何か言いたそうに近寄ってきたのです。
俺様 「や、ヤバイ人かも(緊張)」
な、何か私が悪い事でもしたのでしょうか?なにせ、まだ日本では若葉マークなので、
アメリカの癖が抜けず、軽トラックも左側から乗ろうとしたり、赤でも左折しようとしたり、
俺様 「左シフトは使いづらい。やっぱ右シフトの方が人間の性にあってる。だって、
棒は右手で持つモンだからな。(謎)」
と思ってたりで、日本の道には慣れてなく、不快な思いをさせたのか?緊張が走ります。
昔、スピード違反で保安官に止められたのを思い出します。あんときは、
岩陰から突然チェロキーのパトカーがサイレン鳴らして道を塞ぎ、
ギタギタに傷ついたマグライトで照らされ(何人そいつで殴ったのよ?)、
ベレッタのホルスターを解除してやってくる保安官が怖かったなー。
あんとき捕まってたら、保釈金が払えず雑居房に入れられ、ホモのメキシカンに
オカマを掘られるとこだった。あの時と違い、今回は
俺様 「ワタシ中国人!!移民シタテ!
ダカラ英語全然ワカラナーイ!」
作戦は通用しないでしょう。あー困った困ったと緊張してると、その方は
男 「これはお前のセブンか?俺も乗ってんだ。今、クラブ作っててよ、入らないか?」
と言ったのでした。それが、山形セブンクラブとの出会いです。1995年に作られた
山形セブンクラブは、当時数人しか居なく、そのメンバーに加わったのでした。
ツーリング行ったりサーキットに行ったりして楽しかったなー。結局、最年少ながら、
1998年から2000年初頭まで事務局をして、クラブの企画運営を任されてました。
山形セブンクラブ。イカした奴らの集まりだ(死語)
頑張って、私が知ってる県内のセブン乗りに、地道に声を掛けた結果、
クラブ員は最盛期で10数名まで膨れ上がり、結構なものになっていきました。
その後、2000年度の役員改選で任命された役員の判断により、個人間の連絡のみ
にしよう、ということになり、クラブ形式は解消、となったのでした。理由の裏には
急速に普及したインターネットがあります。解散時に最後に会長になった方から、
最後の会長 「後は任せたよ。」
と言われ、書類一式を渡され(この前まで私が使ってたヤツです)
今に至るのですが、山形セブンクラブの名前は消したくなかったのよねー。
ホント、今でも愛着あるもん。いつか、みんなして会いましょうね。
オープン当初の「ツインリンクもてぎ」へ行き、皆でバトルしたこともあった。
コレクションホールでは「至宝」、RC160がテスト中だった。ホンダワークス
伝説の小林メカ(現在は退社)が乗る。直管メガホンの「ホンダミュージック」
に感激しました。’50年代車でアイドリングが1万回転オーバー!すごすぎる!
修理屋を探し出す
店員 「適合が分からないから当店では出来ません。」
俺様 「おめーよ、オイルフィルターなんか、ミニと同じのはずだ。
オイル交換位、出来んのかよ(呆)?」
店員 「当店では出来ません。隣街の工場に持ってって下さい。」
俺様 「わかったよ(も〜二度と来ねえ)。」
これが東北地方では有名な、欧州輸入車専門店の某有名店で実際にあった会話です。
その店ではケーターハムの中古車売ってんのにもかかわらず、
何と言う屈辱。バーキンの敬遠のされ方にはホントに参ってしまいました。
(実際はオイルフィルターはトヨタ用がぴったり。世の中にはカートリッジ式の
オイルフィルターの適合は、大まかに2種類しかないらしい。)
「修理はプロオート」と最初は心に決めてたのですが、実際は走行不能になって
いちいちローダーで仙台に搬送してたら、一体いくら掛かるか分かりません。
やはり近場で頼れるショップを探さないと困ってしまいます。
困り果てて、その時は東根市は神町のアビコチューンナップにオイル交換を依頼しました。
アビコチューンナップ。70年代初頭、山形の走り屋は、蔵王ライン(猿倉ー温泉)がメインステージで、
アビコチューンナップの車両も参戦してました。こういうお洒落なお店も、かつてはギンギンに走ってた
のは興味深いです。ここに来ればエンスーな気分になれること請け合いです。仕事は親切丁寧。ピカピカ
の展示車に囲まれてクルマ談義は格別です。ショールームは音響環境にも気を遣って、たびたびジャズ
の生セッションが行われます。「クルマのある、豊かな生活」。ぜひ一度訪問する事をお勧めします。
地元ではエンスーで名高く、世界の名車が飾ってあります。これは期待出来そうです。
すると、雰囲気の良いショールームに通され、そこで我孫子さんはカウンターに座りだすと、
旧日本海軍式のコーヒーを煎れ、でかいステレオアンプにスイッチを入れ、
2時間程ジャズの話をしました。でも中々作業着に着替えてくれません。痺れを切らして、
俺様 「あのー、何のオイル入れるのですか?」
我孫子 「BPのクラッシクだな!旧車にピッタリ。
オイル漏れも止まる。」
バーキンは、新品組みのエンジンの筈だったなー?疑問はありましたが、言えません。
無事交換が終わり、また、ショールームでジャズとコーヒーです(あの時はご馳走様です)。
エンスーっぽい話題で、私は技術的な話も出来ず、ジャズもチンプンカンプン。困って、
辺りを見回します。すると、ドイツの名車、三輪の「メッサーシュミット」が(かわいらしい)。
思わず、
俺様 「あっ、メッサーシュミット....」
我孫子 「あー、このメッサーはよう、西ドイツのオリジナルで、
日本じゃあ、これほどのタマは、そうは無い!!
フルオリジナルの、極上車だ!」
俺様 「?でも幌のジッパーにYKKってありますね?」
口は災いと言いますか、我ながら大変失礼な事を言ってしまったなあ。
我孫子さんの機嫌が変わらないうちに退散しました。クラシック入れた
エンジンの回らないこと。オイル滲みは相変わらずで、何も
変わりません。(注:まれに、へたった個体には効果あり、という説もある。)
俺様 「何事も勉強。」
と心の中で思いました。今でも安孫子さんとは旧車ミーテングで良くお会いして
話したりしてます。(旧車の2輪BMWにまたがる、とても紳士な方です。)いつまでも
若々しいのは、趣味の旧車のおかげですね。とてもうらやましい。
俺様 「やはり、自分でも出来るコトは、他人には頼ってはいけないのかな?」
結局、バイク時代にお世話になった、ドウカテイで有名な「FACTORY」という
バイクショップに、頭を下げて、こまごまとした頼みをする日々が続いたのです。
「ファクトリー」の新ショールムです。美しい。