六百十五の昼(2004.10.31)  三年後

 トムの会のリハーサルがあった。前回仕事で行かなかったので、今日知ったのはわたしのおはなしがトリであったこと.......三年前を思い出す......あのとき、「おさだおばちゃん」を語ったのだがやはりオオトリであった。その当時の日記を読み返してみるとアフガン爆撃が始まった頃なのだ。

......わたしにとっても、とてもヤバイ、死に物狂いのでも実り多い年だった。仕事上ではピンチの連続、家庭内でもバクハツ寸前。健康の大切さもよくわかった。もうすこし大事にしなきゃね、自分のカラダ。

 と年末に書いている。次男の受験、12/6のおさだおばちゃんのあと、10日には芝居の初舞台があった。仕事でもやはり苦しい年だったのだろう。こうやっていつも生きてきたのだからどうってことはない。わたしはいつだって精一杯やってきた。そしていいにしろ悪いにしろ自分のしたことしないことの報いは両手にいっぱい受けとめてきた。だからひとからとやかく言われようと屈することはない。その目が怖しいのは神さま、恥じるのは己に対してだけである。

 リハーサルの内容は素晴らしかった。わたしはわたしの仲間を誇りに思う。そうして会がこのように成長してきたきっかけのひとつになれたことを誇りに思う。而して作られた、印刷された、すでにある物語を表現するだけの語りがよしとは思わない。語りは生成するものだから。そしてその理由においてわたしは芝居より語りをとる。生きているわたし、生きているひとびと、かって生きたひとびとのなかに語りはある。おにひめさんは「それぞれの段階があっていい」というが、わたしはわたしの信じられる語り手をひとりでもいいから残していきたい。

 あさってまでにカーロ・カルーソーを組み立てなおすこと。


六百十四の昼(2004.10.30)   後ろ姿

 Nさんが去って行った。一度辞めて再び戻って10年以上は在籍していた。根っからの職人だった。管理は苦手だったが、二度目に来た時は実によく後輩を指導してくれた。はじめはライン屋はラインをひいていればいいというのが口癖だったが、すこしずつ変わって他部門の手伝いにもきてくれるようになった。

 「一度してもらったから送別会はしないでくれ 煙のように知らないうちにいなくなりたい」と云ったとおり、いつものように五時過ぎタイムカードを押しいつもより力のこもった声で「お疲れ様!!」というとドアをあけて雨のなかに消えていった。
わたしも「お疲れさま」と送り出した。どうか、しあわせに......家庭に恵まれたひとではなかった。お父さんは退職した気のいい警察官で10年くらい前うちの会社に遊びにきたり仕事を手伝ってくれたりした。おかあさんは別居していたらしい。スキー場でであった看護士さんと大阪の教会で結婚した時は会社総出で参列した。ふたりの娘に恵まれ、家も買い、大阪からお嫁さんの両親も呼び寄せ幸せそうに見えたのだが......。
 わたしは遊びにきてくれと言われたのに家を訪ねることをしなかった。弟に任せるようになってから、社員さんとのつきあいが希薄になってしまっていた。

 絆をたしかなものにしようと思う。気持ちのうえでかずみさんとふたりで立ち上げた昔に戻ろうと思う。

 香田さんは殺されてしまった。そこに行ったのがわるいなら、イラクに住んでいるひとたちは殺されたひとたちはそこに生まれたのが悪いのか......戦争そのものが悪である。人間の闇から戦争は起こる。覇権を得るため、名誉のため、利権のために。美女へレナを賭けたトロイ戦争などはまだ素朴である。戦争を起こすのはたいてい男で、いちばん泣くのは子どもと女たちであろう。わたしは女のひとりとして自衛隊派遣を中止するようすこし努力しよう。自衛隊の隊員のために、その母や妻のために子どもたちのために 10万人のイラクの亡くなった方のために、子どものために、自衛隊の隊員のために、その母や妻のために子どもたちのために、わたしの子どもたちのために この国の未来のために たくさんの生まれてくる子どもたちのために 香田証生さんのために。

小泉首相の対応についての関連記事、どっちが大事!?

ごめんなさい!トムの会のおはなし会は3日ではなく.....11/2(火)でした!!



六百十三の昼(2004.10.29)   生きた証

 イラクで武装勢力の人質になっていた香田さんが殺されてしまったようだ。香田
さんにとって不運だったのは、日本が中越地震の被害のさなかで、まさにゆうたくんの救出にわいていた時期と重なっていたことだ。以前の三人のときのように世論は盛り上がらなかった。それにはあたかも三人が武装勢力とグルだったような政府の巧妙なやり方も影響しているような気がする。香田さんの家族はひとことも政府に要求しなかったし、被害者であるのに迷惑をかけたと痛々しいほど口にしていた。

 武装勢力がテロがいいとはいわない。しかし、こうなったのはなぜだろう。ブッシュさんは大量兵器を口実にイラクを攻撃し、中越地震の阪神震災の何倍ものひとが亡くなった。今も苦しんでいる人は大勢いるしバクダッドは銃声が聞こえない日はないという。天災は防ごうとしても降りかかってくるけれど戦争は人災なのだ。

 石油資本と兵器産業のために戦争を起こしたブッシュさんといち早くその尻馬にのり、応援した小泉さん、日本政府のしたこと、自衛隊の派遣は意味のあることなのだろうか? 民族自決は大原則である。世界中のどの国も自分の国のことは自分で決める権利を持つ。けれどもカルザイさんはアメリカの傀儡で、アメリカが後押ししなければまだまだ存続しないだろう。自衛隊はアメリカ軍の搬送をしているらしい。とすればあきらかに憲法違反だ。湯水のようにお金をつかってなぜそこまでしなくてはならないのか。

 日本のひとびとはだまっている。いつまでじっとしているのだろう。テロに屈しないというのは正しくきこえるが、ブッシュの戦争に見切りをつけ撤退した国はいくつもある。自国の国民が殺されないように、また過ちを認めて撤退することも勇気であると思う。わたしはもう時間がないからデモには行けない。だから、ここであちこちにメールを書こう、自衛隊が撤退するよう働きかけようと思う。香田さんの死が生きた証となるように、わたしが生きていることが証となるように。


六百十二の昼(2004.10.29)   風が吹いたら

 朝、5時半にTELのベルで起こされた。フォトショップで年賀状の素案にと、明け方近くまで写真を重ねて遊んでいたのでなかなか覚醒しない。ようようTELのところまで這ってゆくと亮だった。歯が痛くて眠れないのだという。すぐおいでと言って階下に降りた。手を尽くし顔色は良くなったが痛みは治まらず、結局亮は歯医者に行くからと仕事を休んだ。

 会社案内などようやく作成しペリージョンソンに送った。書式もほぼできあがった。今日Oさんにつくってもらったのは顧客アンケートのお願いとアンケート用紙、各課社内検査の書式、それから月末の支払い予定表を作り直してもらった。いままで事務員さんたちに任せぱなしであったのを、当分自分でしてみようと思っている。今日は末の支払いで消費税と決算の法人税を計500万弱支払った。りそなへの振り替え。社員会費などへの振り替え、電気代地代保険料の支払いなど、手がけてはじめてわかることもあって、さっそく作りなおしてもらったのだ。

 社員管理、得意先管理など14の大項目に書類を分類し、ケースとそのなかに入れるフォルダーに仕分けしてゆくうちに、自分のあたまのなかも整理されてきたようである。書類整理もあと一息だ。プリントアウトされた文書のほかにPCのなかのファイルを分類しPCのなかで認証してもらい、ツリー状にフォルダーに入れていくシステムもつくっている途中だがそのふたつが機能しはじめるとどのように変わるだろう。

 W自動車修理工場の社長がわたしの車を取りに来てくれたので駐車場の車止めに座っておしゃべりをした。日ざしが背にあたたかく、風は心地良かった。空を仰げば鳥が一直線に澄んだ空を横切ってゆく。戻り咲きの梅が風に揺れている。

 今日はO建築さんにひとつお願いした。本橋アパートの水道の配管工事で屋内の工事はO建築さんで本管と屋外をつなぐ工事は元請のうちだったのだが営業の打ちあわせのミスで家屋内配管と屋外をつなぐ工事が浮いてしまったのだ。それが50万だったのをOさんにお願いして半分もってもらった。いやな顔ひとつしないOさんにわたしは申し訳ないと思った。

 なにも考えないようにしよう。風が吹くように淡々としごとをしよう。


六百十一の昼 (2004.10.28)  ひそやかな痛み

 日々、自分に課すことが全部はできない。今日は仕事としてはほとんど進展しなかった。アポイントをとった人々との打ちあわせ、飛び込みの打ちあわせでほぼ終った。N行政事務所と中間処理の許可の件、電子入札、エーシーの建設業許可再取得について打ちあわせ。1年半が目安で350万円くらいという。ガテンの営業と打ちあわせ、昨今の人材の需給について聞く。..........

 新しい作業用ジャンパーの打ちあわせ、色はレンガ色、ロゴは伊勢丹カラー、黒だとおしゃれだが重い。採寸もしてもらった。パナックのタガタさんと打ちあわせ、11/5にカスタマイズの処理をすることになり、11月からの本稼動はなんとかなりそうであるが、3日分の売り上げはまとめて打たねばならない。文書管理システムは16日か17日。来月、大きな仕事が決まりそうだ。システム交換でこの4ヶ月の損益が出ていないため、盲運転をしているに等しいが当座の減り具合を見ると悲惨な状況なのだろう。早く軌道に乗せなければと心はあせる。

 とりあえず9,10月の損益は旧システムで出してもらうことにした。事務のパートのOさんはエクセルが得意で完璧な表をつくってくれる。ラインの町田くんはしごとをおぼえたいんです。という。だが、わたしはふたりにやめてもらわなければならない。人間関係やさまざまなしがらみのために。すこし痛い。とても痛い。

 長いこと見なかった夢をよく見るようになった。はっきりとは覚えていないのだが甘やかな余韻が昼日中ふとよみがえる。過酷な日常を中和しようとひとのからだはさまざまなしくみで己を護ろうとするのだろう。

 夜、気がかりだったダリへTELしようと携帯を弄っているその瞬間、ダリからTELがあった。夏樹のときのようだ。きっとダリとわたしのあいだにこれから先なにかが起こる。わたしはほんのすこし逃げ出したくなるが、修善寺のあの懐かしい顔と見た目よりずっと華奢な後姿を思い出す。なにがきてもみな受け止めよう、こうして会えたのだから。あの日会えたことはほとんど有りうべからざることだった。一瞬の邂逅、何万年の旅をしてきた星の光が出会う刹那のような魂のふれあい。夏樹とのケルンの夜を想い出すような......。
  ひたひたと波押し寄せる夜の浜で 満ちる時を待とう やがて月がのぼる。





六百十の昼 (2004.10.27)  楽しみというよりは....

 追われる。書類整理、ファイル化、チェックリスト、社内検査チェックリスト、ペリグリージョンソンの三上さんとの交信、今日本橋邸の最後の入金があった。休憩もとらずに仕事、一刻も早く軌道に乗せ、望みをみなに託したい。11月からのシステム本稼動をめざす。中小の建築業としては画期的なシステムだ。昼休み、紅い石榴のしたでカーロ・カルーソーを語ってみる。


六百九の昼 (2004.10.26)  見える自分、見えない自分

 今日ははじめて和みの里のデイケアに行った。手遊び、太郎と泥棒、パタパタ、つつじの娘を語った。

 仕事のなかでもっとも楽しいことは、ひととの出あいであり、もっともわずらわしいことも人間関係である。仕事は畢竟ひとづきあいである。他者を知ることであり己を知ることである。今日数人のひとと話して、見えていたようでわたしはどれだけのものを見ていたのだろうと思った。真実を語ってくれるひとは少ないし、己を知るひとも少ない。自分がそう思っている自分と周囲のひとがそうだと思っている自分との乖離はどのくらいあるのだろうか。愛がどれほどあるかまた見るひとの立つ場所で違うだろう。愛情が目を曇らせるのだろうか。それとも愛しているからこそ見えるものもあるのだろうか。自分というものはどれだけたしかなものなのだろう。7年経つとすべて入れ替わるという細胞、その肉体をそのひと在らしめているものはなんだろう。肉身にやどる魂のいろあいを見るには..........ことばか行動か.......ひとは知らず知らずひととの関係を推し量り評価し自分との距離と付き合い方を決めているのかもしれない。そこでやはり闊達に話し合い、隙間を埋めてゆく作業は必要なことである。

 ひとのことは誰しも長所短所がよくわかるが自分のことは存外わからないものである。耳にうれしいのは誉めことばだし、ひとはそんなに本音を言わない。刈谷先生の発声のレッスンではないが常に自分のフォームを確かめるための鏡が必要だ。曇りない目を持つことと、どの場においても率直にものが言いあえる環境を確立すること。他者に対し寛容かつ率直であること。

 これから数ヶ月はチャレンジであり冒険である。新しいシステム、新しい仕事、今までの失敗は失敗として認めよう。育て方の失敗、任せすぎたこと、チェックが足りなかったこと。ともに闘う心の許せる仲間を育て、またさがそう。

 語りを学んだこの4年間は決して遠回りではなかった。率直に自分の考えを述べられるになったし、おそらく話術も巧みになった。銀行との付き合い、業者さんとの打ちあわせ、もめごとの解消、未収金の回収もずっと手際よくできるようになった。このあいだのダイワとのこともそれだけではないが、真実や想いを相手の魂に伝えようとする語り手として学んだことが(多少のレトリックも含めて)どれだけ支えになったかと思う。さもなければ2000万円ものお金を出してくれようもない。ボランティアとして行政の教育福祉の一翼を担うことも将来会社のためにならないことではない。そのなかで培う人脈がある。

 だが今は一呼吸置こう。語りで学ばせていただいたことを現実においてどれだけ生かせるか試してみよう。ほんとうに求められているものがなにかまだわからないが、私はひとりではないのだから。
 
 
六百八の昼 (2004.10.25)   応える

 決めた。

六百七の昼 (2004.10.24)   どうするか

 生きてゆくうえでなにが一番大切なのだろう。プロとして語りをしてゆく方にとっては、語りを深め、語りを広めてゆくことは一本の道である。迷いはあってもまっすぐ語ることに専念してゆけばいいのだ。語ることで自分を高め深めてゆくことができる。だが、生活の方法が別なら、たつきの術を他に求めなけばならないとしたら、優先することは火を見るより明らかである。家族の暮らしを守ること、そのなかで久美ちゃんのように仕事に取り入れてゆければそれは素敵なこと。わたしのように語りとかが仕事の範疇にないとしたら.......余暇をあてるしかない。会社を守る、ひとを育てる、それが大切だ。

 語りとはわたしにとってなにか。なくてはならないもの、かけがえのないもの、生きてゆくあかしのようなものなのだけれど、それは個としてのこと、今はしなくてはならないことがたくさんあるのだろう。どうすればいい.......と言っても答はもう出ているのだ。

 生きる目的は人格の完成、夢の実現、運命の成就 望むことが必ずしも正しいことではない。いつか時間はまたできるだろう。命ずる声が聞こえる。その声に従わなければならない。自分の担うべきものを荷い、果たすべき使命を果たさなければならない。たとえなにがあろうと微笑みながらだ。


六百六の昼 (2004.10.23)   信じられないこと

 わたしは今までたくさんの不思議なことを体験してきた。目で見えないものの存在を信じるしかないとそう思うに至るほどの時には怖ろしく、時には魂が振るえるようなことを目の当たりにしてきた。

 けれども今回起きたこと起きつつあることはそういうものであると思ってしまうにしては.......重すぎる.。ここで書いてもいいのだろうかと頸を傾げつつ書いてみる。ある方とメールの交信をするときだけそれは起こる。これで4度目である。ふつうに送信してあとで送信済みアイテムで確認すると、一部分だけフォントの大きさが違っている。一番最初のだけは向こうからきたものだった。
会社に来ていただけると心丈夫なのですが......のところが大きなフォントになっている。
4日に送信したメールを見たら、何で会社に来ていただけると・・・・が大きい字なの?とこれはそのあとでそのひとから来たメールである。
わたしはなんとも思わなかった。その方の気持ちがついフォントを大きくしたのかなと思った。

 ところがその後たびたび今度はわたしの送信したメールで起きた。最後のものはおととい送信したもので今回の人の出入りは、結果として、わたしがいたらなかったから
のフォントが変わっていた。これだけ見る方にはわからないだろうが、わたしには自明の理であった。それゆえ衝撃だった。前後のことをすべて書くことはできないが、今までしてきたことに対して「それではいけない」というメッセージとしか思えない。残された時間になにを重点にしていけばいいか、ここ数ヶ月考えあぐね、なんとかおっつけながら行けるところまで行こう、あわよくばやりたいことをやろうといういい加減な気持ちへのこれは答だ。ほんとうに大切なことは別にある、それをまずしなさいということだ。


六百五の昼 (2004.10.22)   口角

 一ヶ月振りに刈谷先生のレッスンに行った。わたしのスケジュールが変わってもキャンセルしても先生はいやな顔ひとつなさらない。ほんとうに申し訳ない。
 鏡が吊り下げてあった。その顔を見ながら歌うように言われたが、すっぴんの自分の顔とにらめっこしながら歌うのはあまり楽しくはなかった。。ところが直接鏡ではないほんものののわたしを見ている先生の、チェックのポイントがよくわかる。えっと思った。口角を意識して挙げ続け、上の歯が見えるくらい維持していると高い声がらくらく出る。下がると落ちるのがよくわかる。

 先生はクラシックはフォームだといわれる。フォームはくずすな、スポーツも芝居もフォームが基本だと言われる。微動だにしないフォーム。そのとき櫻井先生の笑顔が浮かんだ。自然な微笑.......先生はアナウンサーだった。そして短距離走者が笑顔で走る理由を読んだことがあるのを思い出した。ひとは笑顔だと力が生まれるようにできている。

 そうであるなら、笑顔でいるか、眉根にしわがよっているかで人生も変わってくるだろうか。わたしはこのごろ声が低かった。笑顔が乏しかった。

 レッスンから帰ると約束していた事務局の日高さんが見えていた。受験の娘に家庭教師を頼むことにして上のこどもたちもお世話になった埼教家庭教師センターにお願いしたのだ。北辰を一度も受けていないといったら呆れられた。昨今は北辰の結果を持って相談会にいかないと私立はほぼ無理なのだそうだ。来週から信頼のおける先生が見てくださる。わたしは笑顔で仕事をしよう。デイケアから3本の依頼がはいった。カタリカタリのみなさんといっしょに笑顔で語りをつづけよう。


六百四の昼 (2004.10.21)   種を蒔くひと

 今日はカタリカタリの勉強会、櫻井先生がおみえになる今年最後の日。みんなに4.5分ずつ語ってもらった。はじめて語るひとも数人いた。かっこからんこからりんこん、千枚田の蛙、ぱたぱた、鳥呑み爺、同じく茨城弁バージョン、金の魚の骨、屁の話、驚いたことには民話が多かったし、楽しい話が多かった。それぞれがとても自然でなかには自分の語り口をすでに持っている方もいた。わたしの語りをご存知の方はアレと思われるにちがいない。わたしは楽しい語りもするが、ドラマティックなのや、ずんとくるような語りをよくするのである。

 が、見わたしたところ、そのような語りをしそうなひとはいない。みなトラウマなどとは縁がなさそうなのである。わたしは....かなり唖然とした。もちろんみなさんのの語りがまだまだ未熟ではあるがまさに語りであったのはうれしかったのだが、ついぞ自分の番になっても語れないほど衝撃だったのだ。櫻井先生はねずみと猫を語ってくださった。そしてサンドイッチをいただいたあとで、なぜ語るか.....を参加者ひとりひとりが語った。ひとりひとりの想いはここでは省くけれど、先生は文庫によくきた少年の話をしてくださった。その子は恵まれ充分に愛情を注がれて育っているようには見えなかったという。手足はいつも汚れていて、しばらく通ってきたかと思うとふっと姿を見せなくなった。

 数年後、中学生三年生になった少年に先生とお嬢さんは出会う。深々と頭をさげる少年に中一のミチカさんは驚いた。少年はひたいに剃りを入れ学校でみなから恐れられるそういう存在だったのだ。楽しいおはなし、ビスケットやキャンディ、優しいひととき....文庫で過ごした遠いしあわせな記憶を少年はしっかり覚えていたのだろう。それを聞いたとき、わたしはすこし泣いた。

 語ることでひとは救われる。語りは語るひと聞くひと双方に癒しとなる。けれど「癒しではプラスマイナスゼロではありませんか」....研究セミナーで片岡講師の言われたことばが今胸に突き刺さる。.....8/28の夏物語はひとつの終わりだった。わたしはひとつドアをあけた。これから、この地で わたしは種を蒔く。なかまたちとともに。たいせつななにかをつぎの世代に手渡すために。人類はながいながいことそうやって松明を受け継いできたのだもの。それを眦を決することなく楽しみながら手をとりあってできたなら....それが今日櫻井先生が教えてくださったことだと思う。


六百三の昼 (2004.10.20)   急ごう

 さまざまなことが霧が晴れるようにみえてきたのは、ただわたしが年をとったばかりではあるまいと思う。時間がそうは残ってはいないという明らかな徴なのだ。語るために生きているのではない。怒るわたし、哀しむわたし、喜びに満ち、憂いに沈み、生きているわたしがいる。そのなかから語りは生まれる。ひとびとと触れあい、鬩ぎあい、愛し、憎み、そしり、競い、あたためあい そうせずには生きられない世の中にいる。主張しなければ無視される。ことばを放っても届くとは限らないが、すくなくとも 口があり語ることばがあるあいだは語り続けよう。

 ひとつきぶりに庄司さんとTELで話したら、声が変わった...と言われた。若々しい元気な声と......それはわたしが日々闘いつづけているからだ。そうだ、この感覚荒野をバイクで奔っているような、風が顔を打ち衣服がはためき、空に不安を予兆させる黒ずんだ雲の群れ.......
(わたしの)語りはかわってゆくだろう。かわらずにはいないだろう。

台風が迫っている。
それ以上に時代を覆う重くたちこめた雲のような黄ばんだ黒煙のような
ひたひた寄せくる嵐の予感......
きっと乱世がくる.....100年の時をおかずに。
急ごう。
語ろう。
歩こう。



六百ニの昼 (2004.10.19)  夜に

 夕べのことだが、マトリックスのリローデットとリボリューションを観た。監督は日本のアニメの大ファンだそうだが、格ゲイとドラゴンボールと風の谷のナウシカと機甲師団ボトムズかなにかのイメージが無節操に挿入されていて、多弁に過ぎたため物語のテーマが拡散してしまって、途中まではおもしろかったし感動的なのに観終った後味はよくなかった。ネオとトリニティーのラブストーリーのままでよかったのにと思う。

 夜は遊んでいる。あまり寝ない。昼は仕事でリコーのことが片付いてからバリバリ進みだした。決算は終わり、システムの要素とコードの構成もほぼ終わり、文書類の整理もボックスにファイルを組み込んでもうすぐ片がつく。あとはシステムの工種、種別細別の組み立てとISOの教育目標、供給者評価、年間目標など。そしてパソコンのネットワークの文書管理システムの構築。これもファイルはもうできている。これから半月で仕上げる。システムもISOもあとは運用である。

 11月の3日はトムの会の発表会。カーロ・カルーソーを今度こそほんものにして語りたい。三度目の正直で手ごたえを感じている。1月は平和を祈って「第二楽章」から詩を二編か三篇。まなびすと久喜ではなにをするかまだ決めていない。ひまを見て秩父事件をテキストにしたい。


六百一の昼 (2004.10.18)  花咲ライオンズマンション前交番で

 世の中に信じられないようなひとたちが現実にいる....ということは知っていたが、目の当たりにすると呆れるというか魂消るというかことばもない。現場でクラウンがカッターのホースを縦に踏んだ。それもわざととしか思えぬ停めかただった。どいてくれるよう頼んだがどいてくれない。結果ホースがはずれ水はふたりの社員に撥ねそのうち数滴がクラウンにかかった。クラウンの持ち主は洗車代を要求した。元請会社の監督はそれを払い、うちに請求してきた。そこまではまだいい。

 翌日、ものすごい剣幕でTELがかかってきた。乱暴な物言いに甲高い声の男性かと思ったらそれはなんと........Yという女性からだった。バンパーに2.3ミリ傷がついたのでバンパーを取り替えるよう要求してきたのだ。水滴でどうやって傷がつくのか謎である。ことなかれ主義の監督からはなんとかしてくれと苦情がくる。かずみさんに相談したら元請に迷惑をかけるわけにはいかないだろうというので保険会社に連絡し、明日交番で事故報告を出すということに決めたが、あまり騒ぐので監督が泣き付いてきて結局一旦家に帰った社員が夜7時過ぎ交番に行った。

 すでに監督とYさんがきていて、とどのつまりは誰がどうみても理不尽な言い分を呑むしかなかったそうだ。交番のおまわりさんは「世の中には信じられないようなひとがいる。しかたがないからそこはおとなとして対処してください」とわけのわからないことを云ったそうだ。面倒なことを恐れ誰も毅然としないから己を知らない声高の人間の言い分がとおることになる。

 このようなことはときたま起こる。なかには作業をしている車にわざと飛び込んで修理代を請求するようなひともいる。建設会社が事故やトラブルを現場で起こすことができないことを逆手にとってくるのだ。こういう手合いにはお手上げである。それでも、あとでわらい話にはなるというものだ。


六百の昼 (2004.10.17)   重ねる

 あぁ あと400日重ねると1000日になる。一年とすこしでわたしはどこまで行けるだろう。真夏の夜の夢のイジーヤスというのはハーミヤの父親で高官である。キャストのなかでは二番目に書いてあるのだが.......正直つまらない。ダブルキャストの木ノ内さんはとても熱心な芸達者であって競演はおもしろそうだが、その木の内さんも発表を聞いてさみしかった...と言っていた。どんな小さな役でも自分を広げられる役ならいい......もしかして、イジーヤスを演じることでなにか広がるだろうか? どんなことでも一生懸命して無駄なことはない。しかしわたしにとってこの5ヶ月は多くのものを贄にしてかけつけるとてもとても大切な時間なのだ。

 その間ちいさなステージが3つある。物理的にほとんど不可能なのははじめからわかっていた。さて、どうするか!?

 1週間 無断欠勤している若い社員の家にカッター車の鍵をとりに行った。TELは携帯しかなく誰がTELしてもTELに出ようとしない。休んだその日などは心配した朋輩が100回以上はTELしたはじだった。いつも留守なので夕方7時頃からアパートの駐車場で待機していると9時頃生まれてまもない赤子を抱いて帰ってきた。その子の家は2DKの一戸建ての貸家だった。新婚の家とは思えぬ散らかった部屋......その後起きたことはなかなか忘れ難いことだった。わたしは実に気性の強い武州の女であったのだった。ともあれ鍵を手に戻った。それからしばらく会社の駐車場でかんがえごとをしていた。


五百九十九の昼 (2004.10.16) 三月羊

 母から借りた秩父事件関連の本を読んでいる。とても懐かしい感じがするのは椋神社や女部田、阿熊などおさだ叔母ちゃんから聞かされていた地名がでてくるからだ。それもそのはずで秩父事件の副首領加藤織平は縁戚筋の家の出なのだ。当時は日本の主要輸出品は生糸であった。最初のころは農家に任せていた製糸を政府は品質を向上させるため工場などで行うようになり、最盛期には芝居や大相撲の興行を呼ぶほど裕福だった農家のひとびともデフレの影響や不況と高い税金を払うために高利貸しに借りた借金に追い詰められていった.....

 座のかえり、10/7の開店だったひさQさんのお店「三月羊」に寄った。ひさQさんは語り手たちの会の会員である。ついでにひさQさんは最近結婚したらしい。初々しい新妻振りだった。連れ合いになった方はひょろりと痩せた、優しそうな青年だった。ポットのお茶とプレートのパンを頼んだがとても美味しかった。パンの味がした。

 ところで座のほうは配役が発表になったわけだが、さぁどうしよう...


五百九十八の昼 (2004.10.15) 快晴

 今日15日はダリのストレスケアセンターグランドオープン、花を贈った。ちょうどセレモニーの直前に届いたそうで間に合ってよかった。空は晴れて眩しい日ざしが踊る。どうかひとびとが癒されあたためられる場所として大きく許されますように......

 午後、浦和に向った。藍のゆったりした衣装を重ね着して、近所のちいさな宝石屋さんにたのんでおいたブルートパーズのバングルを嵌めていった。知らない方にフジ子・ヘミングといわれた。娘やネモさんにもそういわれたことはあって、とても光栄ではあるが、心中穏やかならざる気分でもある。見ず知らずの数人の方から語りはいつとか、語りをしてきたの?とか聞かれたのは、会田さんの宣伝が行き届いたということかもしれない。

 夜ワンステップでネモさんに会った。ネモさんはハイネケン、わたしはブルーベリー・ハイで乾杯!いい夜だった。料理は旨いしとびきりの友人との会話のキャッチボールはそれより上等のご馳走だ。会津について、ライフワークについて 残された時間について わたしたちは会話した。ジャズが流れる トミー・フラナガンのピアノ ある子どもについて教師であるネモさんは語った。

 その子どもはなにも言わない。けれどネモさんはイタイほどその子どもの存在を感じるという。わたしたちは語るとき、なにを伝えようとするのか?ものがたりを伝える?否.....ものがたりは入れ物に過ぎない。ではなにか?今はわたしはその答えをいのちそのものと思う。かがり火のように闇夜を照らす一回限りのいのちを伝える。ことばで?否 ことばだけではない。それでは貧しすぎる わたしの存在そのものをかけて聞き手に伝えようと試みるのだ。

 母と義妹に会いにいった。母から秩父事件の資料を借りてきた。




五百九十七の昼 (2004.10.14) 会社のレベル

 朝9時に見えたのは社員ではなく支店長であった。わたしはユーザーとしてみたR社の営業の他社との対応の比較を検証してさしあげた。それだけでなく昨日、SEのFさんが高速を使ってきてくれ対処してくれたことも(実はあたりまえなのだが)うれしいこととして伝えた。しかしついぞ反省とか今後の体勢についてどのようにしたいか聞いくことはなかった。要はうるさいユーザーのクレームの聞き取り調査を事業部に言われてしているだけという印象。

 さて信じられないことにR社はK社のM社長に36万円も支払い済みだそうで、わたしはあきれて「御社は裕福なのですね。請求書を精査せず確認もしないで支払うのですか?それを当方に払えというのですか?」と正すと、「伝票がまわり受注がおきたので払った。それがわたしどもの商ルールです。」「ほぅ、実際にことが起きたのはK社と当社で、あいだにはいった御社と応研さんはなにもご存知ないことでしょう」というと「受注が起きてキャンセルになり宙にういた状態になるので全額払うかわりにキャンセル料として支払った」という。「わたしは御社の社員に話し合いがつくまで勝手に支払っても知りませんよ。ぜったいに支払わないでくださいね」と何度も云ったのになぜひとことも話してくれずに支払ったのか?御社の社員は自社のことユーザーのことをほんとうに自分の血肉として痛みとして考えているのかと問うとはじめて落ち度を認めた。

 仮発注と聞いていたし契約しないうちにキャンセルしたのだが、こちらがあずかり知らないうちに見積もりの倍近いカスタマイズ料が請求されていたのだ。だが早く解決してさっぱりしたかったので「すでに支払ってしまったのなら今更M社長を呼んで話してみたところで益体もない。けっこうです。御社とA社とうちとで三分割しましょう」でこの件はおしまい。

 クレーム処理の方法によって会社のレベルがわかる。身内を大事にするか、痛みを伴ってもよりよき顧客管理のシステムつくりをしようと努めるか。わたしは今後パートナーとしてリコーもA社も選択しない。落とし前はきっちりつける。特に自分に対して。当然サノさんにも、三國さんにも、大森さんにも。どのようにつけるかは秘密だが.....これがわたしのやりかたである。そうしないとひとはみなすぐ忘れてしまうのだ。そしてこれはサノさんたちへの愛でもある。いささか屈折した愛ではある。


 正直 このあたりがわたしのウィークポイントである。いつも相手はひと、情で動いてはならない。
 

五百九十六の昼 (2004.10.13) 本性

 とうとう本性を見せてしまった。R社からは10時を過ぎても連絡がなく、クレーム係りにTELして最初は品よく話していたのだが、数回のやりとりのあと「請求書をふたつ送りなさい、御社がK社から受け取った請求書と御社がA社に送った...とあなた たしか さっき そうおっしゃいましたね。それをすぐに送りなさい!」と語り手および役者の粋を尽くして恫喝!?してしまった。それから激昂してA社に向かい「サノさん!!あなたは私が14日の打ちあわせのキャンセルを伝えたのにR社に伝えていないそうね、どういうことなの!?」と問い詰め....都合4人の男たちを詰問し、このたびの件のなりたちがわかった。

 どちらにもそう悪意があったというわけではない。充分に伝えていない伝わっていないそして独断があった。うちは末端のユーザーである。確とした根拠も理由もなしにお金を払え...と言われて払えるはずがない。具体的に当事者どうしで話せば簡単なことだ。それをM社長が話し合いを拒否しリコーをつかって自分は表に出ず進めようとした...それに怨念がからんでいた。最後にうちが選んだソフト会社P社とM社長の会社は同じ金沢でM社長はもとそのソフト会社の社員、それも基盤を持ち出したことで裁判の係争中であった。それが偶然うちで鉢合わせをした...ということだった。

 そのなかに巻き込まれたのはわたしがあさはかであったが、そのことでたいへんよいシステムの構築が可能になったというのも事実である。P社も採算を考えず、文書管理システムを含めたシステムの構築の提案をしてくれたのである。それはわたしの方からの働きかけもあったし、新しいユーザーの開拓を目指していたP社があたりまえの建築会社でない複数の業種を持つうちと一緒に作業を進めることでソフトのつぎなるバージョンのヒントをという思惑とも合致していた。
  
 もちろんそのなかにはP社のいはば裏切り者のA社へなんとしても客を渡すまいという思いもあっただろう。わたしは客観的に会社にもっともよい選択をしたつもりであった。その結果は今後出る。わたしの努力しだいだ。システムの構築にはビジョンと根気が必要だから。されども今回のトラブルはそのため生じた副作用のようなところがあり、わたしに責任の一端があるわけで、きちんと解決しなければと思う。今日リコーの社員がくる。


五百九十五の昼 (2004.10.12) 秋の憂鬱

 夕方、リコーに行った。とても感じのいい鶴見さんという課長と話した。ところがその方はわたしの思っていた相手ではなくリドックというソフトの担当で、ホルダーの名刺を見てのわたしの早とちりであった。とりあえず、クレームをふたつ伝え余計な圧力をA社にかけない念書を担当者からわたしの方へFAXしてくれるよう頼んだ。

 「わたしはわたしの編み物に責任を持つ、君は君の編み物に精を出したまえ」これはハインラインの名台詞.だが、これが今の気持ちだ。この念書が着き次第、A社に見せ安心させ、K社のM社長を呼びA社と三者で話し合いをし決着をつける。これが筋と思う。強きを頼んでその蔭にかくれ威を借りて、我が意を通そうとするのはビジネスではない。まして男のすることではないと思う。

 今度のトラブルはわたしの甘さが招いたものである。ひととひととのかかわりはおもしろいけれど情に流されてはいけない。やるべきことはやり、要求すべきところは要求し....しかしその前に組む相手を間違えてはだめなのだ。わたしは今回のシステム交換についてはっきり相手を間違えた。値段、品質もさりながら大事なものは信頼と安心なのだと客の立場に立ってしみじみ思った。ほんとうにいい勉強になった。

 めづらしく暗い顔をしていたのか、まりがしきりに おかあさん ダイジョウブ?とたずねる。だいじょうぶ、だいじょうぶ.....なにが来たって

 こんな夜.....静かに語ってみる......だれも聞いていないけれど......


五百九十四の昼 (2004.10.11) 行けるだけ行こう!もとい行くぞ!

 夜おそくネモさんからTEL。修善寺の報告をした。金曜日に浦和のONE STEPでネモさんと会って冊子「おとうちゃまのこと」を届けることになった。わたしの語りとは相当に違うのでびっくりするだろう。会う前に既にワンステップ、思い切り良くシェークスピアを演る! もうひとつのことも周囲のことなど気にしないで子どもたちのためになることをする!

 ネモさんに舞台に立つことで小さな場所での語りが大きくならないか心配....と言ったらネモさんは「lucaさんの語りはその場の空気を掴む語りだから....心配ないよ」と言ってくれた。今週の土曜には配役も決まるだろう。わたしは半分以上おやすみしたし、大きな役はいただけないだろうが、どんな役でも舞台で光る芝居をしたい。

 あすはリコーに行って話をつける。



五百九十三の昼 (2004.10.10) もうひとつの...

 おいもほりをした。中村さんから借りた畑にうちがつくったチップの肥料を入れ、さつまいもをつくってもらい、二畝をこども会に寄付、六畝を社員さんの家族にいもほりにきてもらったのだ。10時についたらふかしいもができあがったところ、プラントの熊ちゃんと池田くんががんばっていた。ちょっとふかしいもでは物足りないので、焼き芋と焼きそばの段取りをした。大きなドラム缶をふたつにぶった切ってつくったバーベキュー用の焜炉をふたつ用意して焼き芋を焼いた。こどもたちも続々やってきた。まい、あすか、せいが、あいこ、みさき、はやて、まさき、大きな子たちの名は忘れてしまった。

 ゆたかなふかふかした土には、みみずやとかげ、かぶとむしやくわがたの幼虫がいる。それにちいさなエメラルドみたいな蛙たち......子どもたちの天国だ。それにおいもときたら30センチもあるでかいのや、一株に6本も7本もぶらさがっていいるのや、ほりあげると歓声があがる。

 ビールやジュースをのみながらおとなたちは語り、最後はいっせいにおいもほり
夢のなかにも芋がでてきそうである。


5月で止ったままのもうひとつのカタリカタリ
あの日のわたしはもういない





五百九十二の昼 (2004.10.9)  おやすみ

 台風でレッスンもやすみ、おはなし会も、ダンスもやすみ、ジュピターさんのジャズ・セッションにもいけない....しごともやすみ.......残念だけどとってもしあわせ

浦和物語のつづきを書こうかな.......


五百九十一の真夜中 (2004.10.8) こんなふうに....

 雨が降っている....風が吹く.....台風が来る.....うっかりガラス戸を開けていたらしく、張り替えてまもない真っ白な障子に雨の染みがついている.....
リコーとどう闘うか策を練っていたら、眠れなくなってしまった。わたしは農耕民族ではなく騎馬民族の末裔であるのかしらん.......闘うことは好きであるらしい。常に自分がまっさらとは言い難いが、うそめいたことはいやなのだ。サノさんが気の毒で見ていられないが、かといって自分が引っかぶるのもいやで、ついわたしが決着をつけるから心配しないで...と言ってしまった。かといって、それがサノさんのためになるかは実はわからないが、賽は投げられたのである。

 HPが見られない...というメールをいただいた。メールを知っている方はお知らせすることもできるが前のアドレスで入っていた幾人かの方はWEBの海で迷子になってしまわれただろう。行きつけのサイトや検索したサイトが見つからなくてさみしい想いをしたことはあるが、こんなふうにやむなくひっこししたりしてなくなってしまったのに違いない。。またご縁があれば訪れていただけることもあるだろう......ありがとうございました。

 山下さんからロミオのダメだしのメールをいただいた。

あの日、特にいいなあと思ったのは、「あの夜空に輝く最も美しい星が二つ」以降のくだりです。星と目にちゃんと焦点が結ばれて、両者の間を行き来する視線の移動が鮮やか。ジュリエットの目の輝きが夜空の星の輝きと重なりました。たぶん壌さんは、3月の発表会のことを考え、もっと空間的にしっかり届く声やお客にはっきりとわかりやすく合図を送れる大きな演技をみなさんに求めてくるかも知れません

 ほんとはそこが怖い。大きな舞台に立つと演技も所作も大きくならざるを得ない。草月ホールは1000人収容と聞いている。そこで真夏の夜の夢か、空騒ぎをWキャストで...するとして、終ったあとで語りに戻れるのだろうかと思うと、思い切りよくやるという決心がつかないのだ。中途半端な芝居はできない、かといって........さあ困りました。

 わたしは心の底ではどうしたいのだろうと思う。語りか芝居かそれとも歌か..........
さて、逡巡もそこそこにして、娘とケビンのあたためてくれた布団にもぐりこむというちいさな幸せ.....外は嵐。


五百九十一のの昼 (2004.10.8)  台風

 山が動いた。仕事が動き出した。二進も三進も行かなかったシステム交換のめどがついた。金沢からP社のSEが営業のタガタさんと来社し、打ち合わせをした。その結果、日報入力、マスター入力の問題点がひとつずつ解消されたのである。通常の建設会社ならこうも手間取らなかっただろうが、うちの場合複数の部門があること、その部門のいくつかが建設工事のなかでも、細かい特殊ないわば末端の工種であること、労務材料などの要素が細分化され細かい損益の分析を既にしていたため、前年の実績と比較するには新しいソフトの方で調整が必要だったことなどから袋小路に迷い込んでいたのだ。

 可能性も見えた。土木またはカッターラインでも自社の歩がかりが算定できそうなのだ。損益を月々で見るのと工事単位で見るのと両方はむつかしい。が、運用しだい、料理の仕方しだいでさまざまな分析ができそうである。無理と思われたリサイクルでさえできる!!わたしはソフトで組む相手を間違えてはいなかった。

 もう一方の相手、ハードのR社とは喧嘩することにした。客をばかにするにもほどがあると思った。詳しいことはここでは書けないが、業界の慣習にユーザーを巻き込むのはどうか....。TELで担当に言いたいことは言い啖呵を切った。男相手にはっきりものを言うのは痛快である。業界で程度の低い男たちはたいてい心のすみで女をばかにしているのである。彼らは自分たちと同等に切れる女....うるさい!?女は本質的にキライなのだ。台風の低気圧のせいばかりではなく、戦意高揚したわたしはもう少しで雄たけびを上げるところだった。来週は戦争である。血を見るかもしれない。

 さて、それとはべつに今日も客人がひきもきらず、活気があった。そのうえ工事部のひとたちもISOをやる気満々でそれぞれが淡々と自明の理のように機械整備の点検表や工事のマニュアルを作り出した。できる、きっと!みんながいてくれれば!!  しまった!!明日は図書館の語りの日。いったいなにをしよう。


五百九十の昼 (2004.10.7)  会田さん

 今日は来客が多かった。TELのひきあいも多かった。雨が上がってからめっきりTELが多くなったようだ。ありがたいことだが、イレギュラーの仕事が手につかなくなる。わたしはTELはできるだけ自分でとる。営業の最前線であり、お客さまや社員さんからの接点だから......。TELで相手の気持ちはある程度見えるし、こちらの気持ちははっきりくっきり伝えられると信じている。語りと同じ、技術もあるが、上手くてビジネスライクな冷たい応対より、たとえ下手でもあたたかさとか相手を大切に思っている、ひとの息吹が伝えられる応対が会社の礎になる。

 2時半にすこし面倒な打ちあわせをセッティングしていたのだが、二社のうち一社しか来なかった。それも肝心の三国氏が来なかったので、早々に切り上げて浦和に向った。会田さんと会う約束をしていたのだ。8/28に浦和物語をしたスタジオプラネットのオーナーである会田さんは、同窓会の名簿から寺島さんのTELを調べてくれ、それが邂逅につながったわけで、お礼と修善寺での報告をしたかった。会田さんから興味深い話を聞いた。筋肉はトラウマを覚えているという。とすると筋肉を癒せばトラウマも消えるのだろうか......

 会田さんと話しているうちに、わたしのなかでこれからやらねばならないこと、したいことが朧の中からはっきりしたカタチをとって現れてきた。よい友人とはこういうものである。鏡を覗き見るようにようにお互いのいる場所が明確になる。わたしは50を過ぎてから幾人もの素晴らしい友人にめぐり合えた。ほんとうにしあわせだと思う。

 少し、話し過ぎたような気がした。帰りTAOでいくつか秋色の衣装を買い求め、グディーズカフェで美味しいピザをいただき帰った。




五百八十九の昼 (2004.10.6) 秋が.....

 9時からISOの内部監査がはじまった。最初にペリー・ジョンソンのコンサルタント・三上さんと打ち合わせをしたところ、弟がつくったマニュアルと会社の現況とあわないところをチェックしマニュアルを修正しようということになった。内部監査員のメンバーにマニュアルの疑問点をあげてもらうと...これがおもしろかった。なかでも、鈴木、池田の若いメンバーの視点がシャープで、わたしはわくわくした。会社の方針は1、事業をとおし、ひとを育てる 1、事業をとおし、地域社会の健全な暮らしに貢献する  今年の目標はひとを育てる.......

 そう、このひとたちを育てよう。そこに会社の未来があるのだし、育てながらわたしたちも変わってゆける。

 三上さんはおだやかで少年らしい清潔さを残したひとだ。その視点、眼力にはときどき目を見張るものがある。「鈴木さんをMRの補佐に使ってはどうですか?あのひとはのびるひとですよ」 MRとはISOの推進をするマネジメントリーダーで怖ろしいことに現在はわたしである。そうだ!早く鈴木さんを育てMRを任せてしまおう。
 30項目あるマニュアルの修正点、このうちの2/3をクリヤーできれば...予備審査はGO!という。

 窓をあけると、懐かしい甘やかなかおり....金木犀だ.....秋まっさかり......



五百八十八の昼 (2004.10.5) 図書館で

  明日はISOの内部監査、仕事に追われトムの会の例会になかなか出られない。12時近くなって顔だけでも図書館に廻った。7人が語り終わったところだった。105分になってしまうので、それでは長いから手遊びに廻ってと言われ、一瞬いいかなと思ったけれど、仕事をしていた戦闘的な余韻が残っていたのか「わたしも語りたいわ」と口にしていた。

 どこかで理不尽な感じがあったのだと思う。発表会の人選と内容がきもちよく納得できるものならいいのだが、グループによっては主催するひとの恣意的なものがまかりとおったりする。なぜ長く語っている方に金の髪.....とかおはなしのろうそくのよく知られたながい話を語りたがる方がいるのだろう。会場でいびきが聞こえるのはご愛嬌だが、ただ長ければよいのではない。シェアする気持ちがあればいいと思う。トムの会はそれでも開かれたいい会だ。新人も増え個性のさまざまな語り手が語る今度の発表会は聞き応えのあるものになるだろう。

 藤田さんの仕事振りが目を見張るようだった。仕事のできるひとがテキパキ仕事をこなすのを見るのは気持ちがいい。大友さんもかわっていた。夜の全体会は明日の内部監査に備えた勉強会と各部門の目標設定だった。社長からいもほりの話があった。うちの会社のチップで作った肥料で育ったさつまいもが食べきれないほどごろごろとれるのだ。みんなでほって、おいもを食べて秋の日を楽しく過ごせたら素敵だ。それから毎月1日に順番で会社の周辺の清掃をすることになった。これもかずみさんの提案、みんなかずみさんが話をするとき、とっても優しい目をして聞いている。人徳だ...と思う。わたしではこうはいかない。

 きょうは石神井のアパートの引渡しだった。△ハウスの森谷部長にお礼のメールをうち、本橋さんの家にTELして勝明さん、信男さんと話していたら、いままでのこと、これからのふたりのことを思い.....こみあげてきて、「なにか困ったことがあったらTELするのよ。元気にはたらいて、しあわせになってね」わけのわからぬことを言ってTELを切った。これで終った。もうだれもいない会社のキッチンでわたしは声をあげて泣いた。



五百八十七の昼 (2004.10.4) 学校で

 雨の月曜日はハッピーじゃぁない。車が出せないのでわたしは近くの小学校に向って歩いた。今日は1年1組でのおはなし会だ。......楽しかった。校長先生も見えた。本町小の図書ボラの仲間もみな元気そうだった。

 会社は修羅場だ。管理部(工事管理、営業管理、経理、総務の仕事をしている。会社の心臓部)のメンバーはわたしを含めて4人、みな仕事はできるが、人間関係はずたずたなのだ。それが決算のうえに、システム交換とISO。会社の業務の入れ替えをし、管理部の業務を営業、現場に一部移譲しひとりひとりの覚醒をうながし自己管理の部分を増やそうとするのが今回の試みなのだが.......タイムリミットは迫る。

 藤田さんを送りがてら車の中で話をする。わたし自身も変わらなくては...と思う。

 夜、かっちゃんからTEL。「今、熱海よ、修善寺より大きな枕があるの。枕投げをしにすぐいらっしゃい!」  飛んでいきたいよ.....



五百八十六の昼 (2004.10.3)  埋める・開く

  朝 せせらぎの音に目覚めた。昨夜よりこころなしか流れの音が強いのは雨が木々の葉を、川面をたたいているのだった。今日 わたしは家に帰る。

 庭園に面した廊下がカフェになっている。尾松さんと話した。「語ることはわたしにとって欠落したものを埋めてゆく作業です」というと「わたしにとってもそうでした.」と尾松さんは深く頷かれた。「フランス窓から....はもう成就したから語りません」というと「どうか語り続けて......」とおっしゃった。とのさんもやってきて朝のコーヒータイム。かっちゃんもあっちゃんたちもきた。とのさんたちは祭りのあと伊豆半島を巡る。だいすきなみんなに見送られ、心を残してタクシーに乗る。

 西荻のがざびぃに着いたのはお昼すこしまえ、わたしひとりのためにリハーサルをしてくれた。眼鏡をはずすよう言われ、ライトを照らされると客席はまったく見えない。わたしのロミオは二番目だった。それはわたしの最上のものかはわからない。しかし 仲間たちのは...直前の2日間でこうも変わるかというほど変わっていた。4月頃から考えれば夢のようだ。みんな堂々と立派だった。確実にひとつの回路が開いたと想われるひとがいた。開きかけているひともいた。

 芝居をする、ひとつの役に没頭することは 隠されていたチャンネルを開くということなのだ。だからみんな こんなに輝いているのだ。わたしはどうすればいい.....語りはトラウマを癒す、結果 ひとは明るくかるくなる。あまり傷ついていない若いひとには芝居 がいいのかも知れない。

 壌さんは日本語の復権のために戦っている。壌さんの戦いは自分の芝居のほかにワークショップを開いたり、地方でミュージカルを地元のひとたちと作り上げたりすることだ。この日壌さんはハムレットの台詞を標準語でなくいくつかの方言と狂言でした。それはなんという豊かな情感を秘めていたことだろう。音楽のようなリズムがあった。狂言の深い声にわたしは酩酊した。いつまでも聞いていたかった。このひとは怪物だと脱帽した。わたしはがざびぃの喫煙所・階段のうえで壌さんとひとつ約束をした。

 恒例の打ち上げ、みなよく飲み且つ喰らい語った。座の若いひとはすれてなくてほんとうに気持ちがいい。壌さんはそのひとが抱えるものをすべて読み取ってしまう。ねじれとか欲望とかも、そう天邪鬼みたいに。本来声には魂が乗るから、(それだからわたしはダリに惹かれ、かずみさんに寄り添うたのだけど)...語りや芝居で見者には底まで見透かされてしまう。浅くも深くも清んでいても濁りも。ことばを磨くことは....畢竟魂を磨くことにつながる!?
 
 久喜に着いたのは10時。立ってから50時間経っていた。なんという50時間・

 


五百八十五の昼 (2004.10.2)  成就・まくら

 眠れぬ夜が明け、わたしは時が満ちるのを待った。11時40分チェックアウト、ホテルサンバレー富士見に向う。ロビーの磨き上げられたガラスの向こうに誰かが背を向けてすわっている。すこし手をひろげ歩いてくる。あたたかい声.......36年の懸隔は眼差しとことばでたちまち埋め合わされ、わたしたちはお互いの足跡を駆け足で追った。28歳で唯一の肉親である母上を亡くされた寺島さんが立ち止まり、再び歩き出すまでの....そしてなにものかに導かれこの地に来たまでの経緯、わたしたちがはじめて出会うまでに起きたこと、出遭ったあとに起こったこと。寺島さんの仕事であるホメオストレッチストレスケアについて......わたしはそれを体験もした。ストレスは心の問題ばかりでなく脳と筋肉の緊張が大きな要因であるというその考えは斬新だった。寺島さんの手がわたしのからだを伸ばしたり曲げたりする。掌でからだを圧されると不思議なことに余分な力が抜け緊張がとけていく。からだがあたたかくなる。青い空とそよぐ梢が見える。やすらかさに涙が滲む。そしてわたしたちは8時に語りの会場で落ち合う約束をする。

 ふわふわと雲の上を歩いているようだった。修善寺の語りの祭りの会場、桂川ホテルのラブストーリーの部屋でわたしはつつじの娘を語った。語り終えたら3人の方が集まってきてすこしおはなしをした。そしてとのさん、かっちゃん、あっちゃんとの再会、宿泊場所である由緒ある新井旅館に移動、初代吉右衛門の泊まった部屋がわたしたちの部屋だった、窓の下は清流、遠景に山、ほのかに紅葉の曙光がみえる手入れの行き届いた日本庭園。けれどもわたしはひとつのことで頭がいっぱいだった。どうやってダリに「フランス窓から」を聞いてもらえばいいだろう。事務局にかけあったけれど、宿泊者以外の参加はなしと規則の一点張りである。寺島さんは旅館に問い合わせたが当然部屋はないという。

 あっちゃんがとのさんにTELしてく、おにひめちゃんがいいアイデアを出して助けてくれた。桂川ホテルのとのさんが司会をする菖蒲の間でわたしは語りができることになった。8時、桂川ホテルのエントランスに辿り着いたとき、タクシーが滑り込んできた。昼間の黒い衣装を着替えて,好きな色だという緑に身を包んだ寺島さんがいた。わたしの心臓はもはや限界だった。殺しても死なない女、鉄の心臓を持つ女と会社で言われているこのわたしが.......

 心のそこに36年間抱いてきた想いを当の相手のまえで語るのだ。戀うるとはそのひとをとおして善きもの美しきを求める天上へのあくがれそのものではないか...と語る......語りの祭りで!!  ダリが受け止めてくれるだろうか...という懼れはなかったけれど、生きること、愛すること、信仰という重いテーマを.......他の聞き手が受け入れてくれるか一抹の不安はあった。夏物語は個人のリサイタルだから聞き手も選ばれた方々であったから許された....のだと思っている。

 ダリは最前列のはずれで足を組み瞑目していた。わたしは語りだした。最初思い切り笑わせておいて................わたしの育った町浦和は起伏の多い表情豊かな土地柄でした........幾人かの戸惑いの目、でも頷いてくれる、じっと凝視めている目もいくつもある かっちゃんやあっちゃんのまっすぐな目が見守ってくれる。後半、牧師のことばからあと、わたしのまなざしはみなを見ていたが、ダリのためだけに語っていた。ことばが炎となってダリに向っていくように思われた。からだが熱かった。

 語り終えたあと、ロビーでダリは「すごかったね.....あの部屋にはふたりしかいなかったね 」と呟いた。ほんとうに周囲のすべては消えてしまい.、36年前のなだらかな坂道が古びた旧校舎が、フランス窓の淡い翠の翳が、光が眼前にあった、わたしたちの青春が.......。わたしは取り戻したのだろうか......あらたにかち得たのか、それは知らない。けれども そこに 友がいる。おそらく これからわたしたちに残された時間、ともしびを掲げあい、行く手を照らしあえる 温めあえる友がいる。

 櫻井先生にお会いしたので、「先生 申し訳ない語りをしました.....」とお詫びした。わたしは途中から聞き手のことなど考えてはいなかった。客観的でもなかった。自分の生命と語りがひとつになっていたから.....。先生はちょっと困った顔をなさって「本望なの?」と尋ねられたので「本望です」と答えると「それなら、いいじゃない」と優しく微笑まれた。先生が背中を押してくださらなかったら、夏物語をひらくこともなかった、36年前の想いはひっそり棺に納まり、わたしの身とともに煙と消えたことだろう。

 夜、とのさんがわたしたちの女部屋にきて、若武者組の五人は楽しい夕べを過ごした。わたしは艶話、恋物語をいつつも語った。それから枕投げ合戦、修善寺の変である。鳥取の雪辱を期し戦闘服もんぺに着替えたわたしは強かった。枕と座布団が10枚、宙に舞い、五人入り乱れての大乱闘の大喚声.....怒号の肉弾戦に肋骨のヒビもなんのその...勝利の雄たけびが静かな川面を揺らし......ジリリリ TELが鳴った。おそるおそる受話器をとると「他のおきゃくさまがお寝みですので どうかお静かに....」   わたしたちは布団に打ち斃れ、笑い喘いだ 肺腑が空気を欲している からだを血流が駆け巡る なんという充足感 


 
五百八十四の昼 (2004.10.1)  夜をこえて

 休みが重なるので今日中に末締めの請求書を投函しなければならない。だがトラブルがつぎつぎ起きて泣きたい気分だった。今夜は出立できないかもしれない。だが夕刻寺島さんと連絡がとれた。嘘のようにホテルの予約もとれた。7時過ぎ家に帰るとバッグに荷物を放りこみ、折りよく書類を届けにきてくれた高橋さんに乗せてもらって久喜駅に着いたのが8時。山手線、新幹線、伊豆箱根鉄道駿豆線と間髪を入れず乗り継ぎができて10時35分には伊豆長岡の駅に着いていた。アクアサンタホテルの301号室、ここで朝を待つのだ。



五百八十三の昼 (2004.9.30)  躊躇

 もう九月も尽きる。今になって、わざわざ半そでだの綿レースのスカートなど身につけて逆らってみたとて、秋は否応なくそこにいる。語りの祭りも直前に迫り、なんにもしていないわたしはもはやじたばたしても仕方がないから...あとは野となれ...の気分である。

 座のシェークスピアの発表会も1日自主稽古、2日5時間にわたる稽古、3日は通しで稽古をすると連絡がきた。わたしは稽古にも参加せず3日の本番前に東京に帰るわけで、これも腹をくくるしかない。システムもISOもとりあえず仕舞って月末の処理、決算を終らせなくてはならない。仕事は津波のように押寄せる。

 あぁ 面倒だ。修善寺もなにもかも。打ち捨てて、海を見にゆきたいなぁ。次週は行事が目白押しで息つく間もない。これでいい?  これでいい。自分で選んだのだ。明日もしかしたら夜行に乗れるかもしれない。一晩ひんやりしたホテルのベッドでゆっくり眠れたら......ダリに会えたら.......みんなに会えたら........

 ホームページを開いてもうすぐ三年になる。三年間支えてくれたネットウェブの業務が、今夜12時終った。



五百八十ニの昼 (2004.9.29)   記憶

 CDを何枚もパソコンに保存していた。もちろん聴きながら....ひさしぶりに坂上真清さんの水琴窟の響きのようなケルテイックハープも聴いた。あら  わたしはディアドラを語ったとき、坂上さんの演奏するBoru'sMarchをコピーしてディアドラの歌にしたつもりだったが、まったく異なる曲だった......弥陀ヶ原心中の数え歌も、ほうすけの歌も芦刈の歌も生まれてきたのだ、ものがたりのなかから......

 音楽を聴いていると記憶が甦ってくる、雨の日、ひとつの傘で肩をよせて歩いた。歩道に貼りついたプラタナスの葉の色。黄ばんでいたがまだ緑が沁みるようで、それが痛かった。夢を食べて生きていたから、ごはんもお菓子もほんのすこし、いのちをつなぎさえすればよかった。ふたりでいてもいっそう孤独で無口だった。和歌山の藍の海、会津の街道、甲府の町、ずいぶんと旅をした。わたしは遠い昔になにかを忘れてきたのだ。それはただのわたしの薄墨色の影だったのかも知れないが、痛みを堪えている、その痛みを耐える切なさがあかしのような、あまやかな慄きが記憶の底にあって、こんな雨の夜は身じろぎもせず、忘却の闇がわたしを抱きとめるのを待っている。思い出してはいけない、歩くことができなくなる。いずれ、わたしが心許ない存在になる、そのときまで。なにもかも打ち棄てゆだね、抱きとめる胸に溶け崩れる至福のそのときまで。

 


五百八十一の昼 (2004.9.28)   ホルスト

 惑星を聞きながら、日記を書いている。美味しそうな柿があったのでひとりでむいて食べたらかずみさんに叱られた。息子に「おかあさんのこしらえてくれるごはんが食べたいんだ」とせがまれた。でも、12時間仕事をして帰るともうなにもしたくない。あしたはおいしい夕食をこしらえてあげる、早く帰ってくる。

 パナックのタガタさんが見え、打ち合わせの結果なにかと明確になった。来月の半ばから文書ファイリングシステム稼動の準備をはじめる。工種に費目、細目、要素、品名マスター、書類リスト、保存期間、模擬審査、予備審査、本審査......システムとISOがあたまのなかでシチューみたいにぐつぐつ煮えている。これ、終らせたら ほんとに自分を誉めてあげてもいい。

 効率を良くするためのシステム、数字を集積するシステムってやっぱり、人間にそぐわない。ひとはアバウトにできているのだもの、わたしなぞは勢いだけで、携帯が車の鍵が化粧ポーチが財布がなくたって、靴がなくても這ってでも目的地に行く、動機さえあれば。100パーセント設定しないとひとつも動かないなんて難儀なことだ。だが、この二つが会社を安定させ、社員のみんなやわたしたちの生活を保ち、仕事をしやすくすると信じてはじめた、あとには退けない。

 山奥に行きたい、冷たい おいしい水を谷川から掬って飲みたい。砂浜でぼんやり波の音を聞いていたい、草原で風に吹かれ雲を眺めていたい。 わたしのふとんで娘とケビンが眠ってしまった。かずみさんは今夜もベッドを貸してくれるかしら。リクライニングだから呼吸が楽なんだけど、たぶんいい顔はしないだろう、大事な柿食べてしまったから。

 それにかずみさんになんと言って語りの祭りに行けばいい。具合の悪いことを知っているから心配するだろう。でも、仕事だけでは生きていけない。かずみさんや男たちのほとんどはどうして仕事なんぞを追いかけて、満ち足りていられるのだろう。堅固な建物も数字も時のまえに無残に崩おれる、否かたちを留めなくなるまえに解体されあとかたもなく処分される。

 そう、わたしがしようとしていることだって、わたしの眼から光が消え失せるとき、なにもかも消えてしまうのかも知れない、わたしの語るお話を聞いて涙ぐんだり、目に星を宿していたこどもたちだって、何十年か先には年老いて死んでゆく。でも、もしかしたら、その子たちもおさない子らに語りつぐかも知れない、もしかしたら.....想像してみよう......美しいおはなし、楽しいおはなしは、空気をすこし清くし軽くし、ひとにすこし生きる力をくれるかもしれない.........

 そして、そして.....ひとの魂が不滅であるなら、語ることには意味がある。わたしが信じているように、ひとつ物語を語ることが薄い青い透明な花びらを剥がすように罪咎をほんのすこしずつ消してくれるのであれば.........楽しければそれだけでよいのかも知れないが、想いには祈りには不可思議な力が秘められているのだから、信じよう...........




五百八十の昼 (2004.9.28)   トンネルは抜ける

 ハンドルをきると激痛がはしるので、とうとうかずみさんと病院に行った。5時から8時までかかって、椎名誠を一冊、レントゲンと注射2本と湿布クスリとサポーター、先生の愛情こもった叱咤激励。骨ではなくて軟骨と神経だそうでともかくよかった。どんなたいそうなことを言っても、からだのどこそこがまずいとダメなんである。軽口もでてこない、鼻歌もでてこない、しあわせに仕事ができない。今日は顔がひきつっていただろうと思う。

 お茶タイムも昼やすみも休まないでひとりで仕事をしているなんていやらしいと思うが、顔をあわせる、はなしをあわせるのがめんどうだった。周囲から聴くことと直接聴くことは違うとわかっていても、仕事以外であえて関わりたくない。体調がわるいとわがままになってしまう。

 でも、あすは三人だけだから、すこしは楽である。それに今日はいいことがあった。石神井の本橋アパートが△ハウスの厳しい検査に合格、2.3日中に引渡しである。骨組みのまま雨ざらしのアパートの下で途方にくれた本橋兄弟と会ったのが5月の半ば、お金をもらえるあてもなく、建てられる見込みも皆無に等しかったあの時から4ヶ月。ホラ、ごらん、どんな困難と思われることだって、こうして片付いてゆくのだから、システム交換がISOがなんだというのだ。必ずトンネルは抜ける。


五百七十九の昼 (2004.9.27)  戀文

 寺島ダリさんからメールが来た。伊豆長岡でストレスケアセンターを開くのが10月1日。忙しい日々を送っているようだ。フランス窓から....は聞いてくださった方はわかってくださるだろうが、寺島ダリへのオマージュであった。というより恋文であったかもしれない。......リサイタル.「.夏物語」の結果としてわたしはすこしのやすらぎと多くの懐かしい方々との邂逅、そして37年ぶりのダリの消息を得たのである。二ヶ月の努力の報酬としては上々である。

 もし、ダリ自身にこの物語を聞いてもらえるとしたら、それは会田さんのことばを借りれば鳥肌が立つようなことだ。37年間行き場なく彷徨っていたひとつの想いが受けとめてくれる腕に抱かれるかというところ、もちろん一顧だにされない可能性もあるが....さてそれをわたしはできるなら聞き手が多数いる場所を借りてしたかった。多数といってもひとりでなければいい。....ところが10月2日はケアセンターオ−プン2日目で7時まで仕事とのこと。 ホメオスタシー?をわたしに施してくれるそうだ。会いたい。が、 困った。1対1ノ語りハキツイ。ちょっと無理ではないでしょうか。だいたい2日のあいだに、語りの祭りとダリとの邂逅とロミオの舞台をわたしは勤めることができようか!?いつものわたしなら、もちろん頭から飛び込む。

 さりながら......肋骨の痛みが背中にまで及んで、横になると立ち上がれず、横になりたくても痛くて横になれない。笑ってもげっぷをしても(失礼)ヒビイテイタクて泣き笑い、深い呼吸もできない。(このときとばかり笑わせようとする悪いひともいる)そのうえ、このところの湿気で膝が痛くて歩けないという三重苦であります。

 さぁ どうしよう!?


五百七十八の昼 (2004.9.26)  朝と夜 命日

 わたしはたいてい真夜中に日記を書くのだが、眠気とたたかいながらだから、明るい昼に読み返すと、構文がおかしかったり、変換ミスがあったり..、ことばが足りなかったりで書きなおしたり 書き足したり....初書きとはまったく変わってしまうことも間々ある。いっそ 朝書いたほうがいいかなと考えてみる。...むつかしいけど、あした、いやあさってから試みるだけはやってみよう。
 
 ところで今日は小泉八雲の命日だそうだ。八雲の母はギリシャ、父はアイルランドの出だった。友人のひさQさんのサイトを見たら、自己紹介に北方、夕方系と書いてあってくすくす笑ってしまったくらい、わたしも北方、夕方系..........夕やけを毎日見ても飽きない。 つまり縄文人で憂愁のケルト族とは同類である。八雲は日本の風物をこよなく愛した。日本人の感性を愛しそしてその精神性が欧米の物質文明に駆逐されることも予言していた。わたしの部屋は物に溢れ、それこそ物質文明に足の先まで毒された口ではあるが、それだからこそ惹かれるのは黄昏の夕闇の世界。アイルランド系の作家がかなり好きである。最近のルグインはフェミニズムが前面に出ていてちょっと違うなぁと感じるのだが、パトリシア・マキリップとかイエィツ、ワイルド、ダンセイニなどなど。

 雪女郎伝説はたくさんあるけれどなぜ、八雲の雪女なのか、ほかのものを語ろうとは思わないのか。.....風景が美しい...日本の雪景色が語っていても彷彿と浮かんでくる。一度など、暖房のきいた二階の布団の上で語っていて、雪片がひらり舞ってきたことがある。それはもちろんわたしの幻影に過ぎないのだが..現実よりも眩しい雪だった。それは文章の力なのか、翻訳を超えて、八雲の呪文が籠っているのだろうか。 .....ひとのこころが美しい....雪女の結晶のような透明な美しさ、善悪を超えた魔性の精霊が蓑吉を見たときの慄き、蓑吉についてなにも説明されていないが、純朴な目のきれいな少年だったのだろう.....生身のひとを愛した精霊は初々しい少女に姿を代えお雪と名乗ってあらわれる....

 もうなんというか、官能と無垢が綯われ捩れて死にそうである。こんな語り甲斐のあるはなしもそうはない。.....そういえばしばらく語っていない。そして......最後..の蓑吉が約束を破ってあの夜のことを話すのを聞いているところ、一瞬にして精霊に立ち戻り、魔性を顕わにし、風となって輝く霧となって消えてゆくところ.......民話の雪女ではこんなに美しく語れない。

 八雲が残してくれた、昼と夜、現実と夢のあわいのものがたりを語りつづけようもうこの世にはない夢にしかない日本の美しい風物やひとのこころを語りつたえよう、黄昏の末裔の手向けに。

 


五百七十七の夜 (2004.9.25)  葉っぱの露、土砂降り

 久美ちゃんに頼まれていた池袋ジュンク堂のおはなし会、西武口を出てビルの谷間を歩く。とつぜん大地震かなにかでビルが崩れ落ちてくるイメージに襲われ「こんなところで死にたくない」という気持ちになる。東京の都心には長い時間いないように心がけている。死ぬのは仕方がないが、慣れ親しんだところがいい。ビルの谷では成仏できそうもない。ジュンク堂の入り口に着いたのが3時18分。8Fの会場につくまで7分かかった。ぐるぐる細いエスカレーターを昇ってゆくのだ。3時30分の開演5分前、まにあってよかった。児童書のコーナーのすみっこにじゅうたん敷きのスペースがある。そこにはベンチがふたつ。積み木などのおもちゃで遊んでいる3.4才を中心にした子どもが数人。

 パネルにどんぐりとどじょうとお池を貼って、どんぐりころころの歌と手遊び、それからローベルの大旅行、用意した絵本がみつからないので、ソーディー、ソーディーをした。このおはなしは目白ゼミで久美ちゃんが語ったのから覚えたので恩返しというところ。(余談だが目白ゼミはけっこうすごかった。メンバーは久美ちゃんと君川さん、今井さん、橋本さん、わたし。なにしろ初回でみんなにこてんこてんに叩かれて目のなかが真っ白になった。ほうすけをはじめて語ったのもここでわたしの原点と思っている) 本を読む手を休めておとなのお客さんが遠巻きに見ている。それからマークシーモントの「ウィリー.」..と夕べゲオで見つけた「まっすぐ、まっすぐ」を読んだ。幼い男の子がおばあさんの家にひとりで行くおはなし....文章はモノローグ.....子どもたちは自分が同じ冒険をしているようにだんだん近くに寄ってくる。それから黒部の民話16人谷をしたらみんな怖がって隠れてしまった。最後にパネルシアター「星の金貨」でおしまい。みんなで空の星を女の子のまわりにならべた。おかたづけも手伝ってくれた。

 まりという子は「あたしそれ知ってる」と連発する。ショッキングピンク三段フレヤーのスカートのちいさい少女はおはなしの途中でとうとつに「あなた、いくつ?」と聞いてくる。対話しながらおはなしをするのはなんて....たのしい。
終わりにひとりの女の子が大切な秘密を教えてくれるように「あたしの年と名前教えてあげる。しずというの、年は4歳」わたしはそのことばを葉っぱの上の露を受け取るようにたいせつに受け取った。

 夜、娘にドライブを誘われて、からだが辛かったが夜の市内を走った。突然、雨が叩きつけるように降り出した。雷の音、土砂降りの雨.......来週は語りの祭、シェークスピアの発表会。



五百七十六の夜 (2004.9.24) アップルベーカリー

 そのパン屋さんはお盆休みが過ぎても店を開ける気配がなかった。早く開けてくれないかなぁという期待がもしや....という危惧に変わるのに1週間もかからなかった。やはり.夜逃げをしたのだ。ガラス戸の向こうに置き去りにされたふとんが、カーテンも剥ぎ取られた暗い窓が家庭の不幸を暗示しているようだった。

 そういえば、あんなにいたパートさんが終わりの頃にはひとりも姿を見せなくなり、魔女の宅急便に出てくるおケイさんに似た、無口のおかみさんがひとりで切り盛りしていたし、トレーのパンの数も以前よりは減っていたような気がする。

 だけどパンの大きさも味も変わらなかった。どれもおおぶりの調理パンやペストリー、サンドイッチ、バーガー類の野菜もハムやフライも溢れそうだった。いい材料を使っていてぜんぜんケチケチしたところがないパン屋だった。わたしが好きなのはカマンベールチーズのかたまりが入っているパン、サツマイモのペーストと焼き林檎のペストリー、レタスと胡瓜とトマトの野菜サンド、会社で食べるランチはたいていそのうちのふたつ、子どもたちにはワッフルとかねじりパン、チョコレートをかけた上に色あざやかなスプレイを散らしたドーナツ、生クリームをたっぷりはさんだ外側はカリカリ香ばしいメロンパン。

 食パンも美味しかった。スカスカのスポンジみたいな食パンではなくてほのかにイーストの香りが残っているほんものの小麦の恵みのパン。バタが溶けた黄金色のトーストを食べると他の店の食パンは食べられなかった。昔、駅前にあったオルブロートアミーを除けば久喜では一番美味しいパン屋だった。

 セブンイレブンやデイリーヤマザキのパンは、パンじゃないとはいわないがはっきりいってビニール袋に入れられた工業製品である。大量につくられ、工場や店で大量に捨てられる。味ばかりじゃなくて、つくったひとと食べるひとの絆が感じられない。焼きたての美味しいパンが食べられるってことは立派な食文化なのだ。そういうおいしい町のパン屋がなくなってしまうってなんて悲しいことだろう。どうかどこか知らない町でそ知らぬ顔でパン屋をしていますように。あの美味しいパンが無くなってしまうなんてことが金輪際ありませんように........



五百七十五の夜 (2004.9.23)  愛に似たもの


山口さんの師である表現読み渡辺さんのサイトに行ったら気になるところがあったのでメモしておく。

 舞台のよみ声とにしらじらしさを感じるようになったとき、わたしは演劇に対する関心をなくしました。それ以来、ほとんど舞台に足を運ばなくなりました。もう三十年も前のことです。いわゆる舞台らしい声とは、わたしたち観客に向かって聞こえてくるのではなく、舞台の上空にまるで花火のように打ち上げられるものです。冷たくきどっているようであったり、あるいは極端にテンションが高いのに何の感動も伝わりません。観客などそっちのけの声です。それを鴻上尚史のように観客に届かない声という人もいます。しかし、それは発話者自身が、語るべきコトバの意味を理解していないのです。声の表現の多くは、自ら発するオリジナルのコトバではなくて、他の人がテキストにまとめたものを利用します。たとえ暗記してそれを声に表現するにしても、オリジナルのテキストの意味と、それをよむ者との間に理解の差はあります。世に行われている「語り」の多くが表現にならないのもその例です。テキストとよみ手との距離をどれだけうめられるか、ここに表現よみの理論と実践の出発点がありました。つまり、テキストをよむのではなく表現すること、その基礎にテキストの理解を置いたのです。そして、よむたびごとにテキストの理解と表現を生み出すための実践が行われています表現は必ず様式化するものです。しかし、様式の背後によみ手の理解があれば、そこにはリアリティが生ずるはずです。(一部割愛)声の表現の世界が商業的なレベルを超えて、リアルな表現になったとき、舞台の感動が生まれるでしょう。


 芝居を学びだして、改めて発声の重用性に気づいた。芝居における(声による表現)にはわたしが学んだかぎりふたつある。ひとつは響きによって聞き手に届けようとすること。もうひとつは自分のうちにイメージを喚起し、そのイメージを観客に伝えようとすること。このふたつは延長線上においていずれ収斂する。

 芝居においては通常地の文はなくせりふのみである。つまり役者は登場人物の視点でものを見、考え、行動し 発声する。そこに演出家の演出が加わるが、それはとりあえず考えないことにしよう。駆け足でも語り、朗読、芝居を試みて思うのはいわゆる朗読と語りのあいだの懸隔であった。表現読みとは朗読とは違うものなのだろうが、わたしはテープしか聞いていないのでコメントする立場にはない。私が思う語りは朗読よりはむしろ歌うことと芝居することに近かった。渡辺さんは別のところで語りは音楽には勝てないと言っておられて、それがとても印象的であったが、それはさておいて、芝居と語りについて考えてみよう。

 芝居では一枚のベールが客席と役者とのあいだにある。モノローグにおいてさえ、そこにいるのはわたしではなくロミオでありおはまでありジェリーであり、ピーターである。.....もちろんそこにわたしの人生のなにがしかを、戀のときめきとか人生における挫折とかをとっかかりにして発声するのであるが、わたし自身ではない。だから舞台から客席が見えずとも(ライトのせいでまず見えない)台詞を言うことはできる。朗読では自分はもっと後方にあって作品の世界を聞き手に伝えればよい。もちろん読む間、自分がその作品の世界にあるのはいうまでもないが.......当然、聞き手がいないと朗読も成立しないが、聞き手が見えなくてもできないことはない。

 ところが、わたしは.語りでは聞き手の表情が見えないと語れない。なぜなら聞き手の反応が語りを引き出す、相即挿入だからだ。聞き手と語り手は乗り合わせた舟の乗客であり、ものがたりが立ち上がるためには芝居より朗読よりずっと聞き手の比重が高いのではないかと思う。聞き手はものがたりのなかにあって、なお生き生きと自分の物語を生きている。それが語り手の語るものがたりに呼応するのである。双方のうちに自由無碍の交流が生じている。しかしながら、このような語りは語り手自身がこころを開いていないと不可能であり、ものがたりと語り手が不可分でないと生じないであろう。

 さて語りとはなにか。語りには本来テキストはなかった。語りは口承である。耳から(心で)聴いたはなしをひとはつぎなるひとたちに自分の人生を乗せ、自分のことばで語りついだのである。朗読は凸版印刷の発明と教育の浸透により、作者が自分の再話を文学作品として活字にしたところからはじまった。当初は個人がひとりで本を楽しむというよりは集まりのなかで朗読することが主流だったと読んだことがある。これはいはば、炉辺の語りを踏襲したのであろう。文字が介在することによってひとびとは地域に根ざしたものがたりだけでなく古今東西、古いもの新しいもの多くの物語や小説を手にすることとなった。普遍化によって得たものは多かったが失ったものもある。ちいさな、固有の、その地に根付いた、時代に埋もれたものがたり、息吹の感じられる、あたたかい 痛い 熱いものがたり。

 語りにはひとそれぞれのテーマも分類も思い入れもあろう。そのなかでわたしが語りに目指すものはちいさなものがたりの復権といってもいいかもしれない。大河小説も文学も読もうと望めばいつでも読める。暗記して文学や児童文学を語ることはほかの方に任せたい。できることならわたしはこの時代をともに生きているひとと肉声をとおして共鳴したいのだ、共有したいのだ。それだからテキストはしだいにオリジナルが多くなった。そこではテキストと語り手のあいだに距離はない、生きることと語ることはつながる。切ない、しかし美しい刹那がある、うんざりするほど面倒なときには苦痛にみちた日々、けれどひとと人が出遭いこころを通わせ命がもえあがる一瞬があって.わたしはそれを伝えたい。

 芝居について、渡辺さんがおっしゃられていることは理解もし賛同もする。蜷川オイディプス王はあらかた空疎な音で成り立っていた。響きだけはあったがそこには豊穣なイメージの祝祭はなかった。それなのにあれだけのひとに支持されるってすごい....と思う。が、しかしそのような芝居が原点ではない。ちいさな小屋で今日もやむにやまれず芝居をしているひとたちがいる。商業ベースにはほんものは乗らないのでは......と思うことがある。大きな劇場では役者の息遣いは感じることができない。声を張らざるを得ない。片岡輝さんが「語りはちいさな場所が似合う」と言っていたのと通じるように思う。

 芝居も語りも表現というが、表現するものとはなにか、そこには対象があるわけだがその対象と蜜実一体となっていれば、作法としての表現は要らない。表現は結果あらわれるものに過ぎない。芝居も語りもその場に命を得た即興性のもの...である。天気、風、聞き手、観客によってものがたりの様相さえ変わってしまうことがある。それでいいのだと思う。そこには理性をこえて生々しいリアルな生きている感じ。観客といっしょに生きている感じがあってそのうえにもっとなにかがあるのだ、言うに言われぬなにかが。リアリティさえ超えた炎のような水のような戦慄が。わたしは「そのような語りがしたい、芝居がしたい」と切に思う。そしてそのような語りを聞きたい。芝居を観たいと思う。

 ひとのこころに響くのは上手さを超えたものである。支えるのは真摯な生、人生への共感、ことばを換えれば愛に似たもの、そして今の自分を超えようとするつつましい努力。...........馨は不思議だ......ひとの心を揺さぶり、数十年前の情景をまざまざと甦らせる.....匂いさえも......愛しさも憎しみも安寧も......愛された記憶......今生で見たことのない景色さえ.....この...賜物.である声を磨きたい、もっともっとやはらかくやさしくひとのこころに忍びいるように.......もっともっと強くいのちを甦らせることができるように..

 

 



五百七十四の夜 (2004.9.22)   たじろぐ

 突然、空が真っ暗になり、雷鳴がとどろき、しのつく雨で一寸先も見えない。風よ吹け、雨よ降れ...だ。爽快の気が雨上がり漲っている。


 目いっぱい仕事をして充実感はあった。工種マスターの細別も進んだし、打ち合わせをして伝えたいことは伝えた。仕事はまず給料を得るためにするのだ。自分の置かれた場において託された仕事を誠心誠意してもらえればそれ以上は望まない。わたしはかずみさんの影としての役割を果たそう。

 仕事は気迫なくしてできない....と思う。明確なビジョン、自分が会社の将来に抱いているイメージを具現化するため、日々一歩一歩歩くのだ。実際は気が遠くなるような種々雑多な雑事が仕事のあらましを占めるのだが、それらをひとつひとつ果たしながら、そのなかに埋没してはならないのだ。

 既存の文書管理のシステムもその他も目に見えて前進した。産廃の許可のための調査もした。保険関係の手続きもほぼ終った。そのなかでも一番力が入るのは電話の応対である。他の事務員さんの応対は物足りないからだ。相手の気持ちに添う。笑顔が届くような応対をする。来た仕事はひとつも逃さないという気構えで応対する。以前道場で電話応対を一回したことがある。そのとき聞いていたうちの三人からそれぞれあとで、目を見張るような応対だったと言われた。

 それは電話においても見えない相手に誠心誠意目尽くそうという気持ちが滲むのであろうし、日ごろ冗談ではなく電話に命をかけているから.....だと思う。そして語り手としてのいささかの修練の賜物でもあるのだろう。

 先だって山口さんとTELで話した夜、山口さんが「森さんのお客さんがたじろぐような語りとわたしの手に乗るような語りをいっしょにしたらおもしろいだろう」とふたりの語りの会について呟いた。わたしはそのたじろぐような.....を聞いて思わず笑い出してしまった。夏物語の三つのものがたりのなかにはたしかに聞き手をたじろがせるものがあったと思ったから。

 異なるようだけれど、会社においての仕事、電話の応対、語りも踏み出すことでは変わらない。自分をひらき、対象のなかに踏み込みひとつになる。自分と他者の境界を一時外すのだ。現実と夢は現実と本質は実は紙一重のところにあって、だからありえないことが起こる。その力が自分のなかにも他者のなかにも存在することを確信して投げつづける、自分を........

 土曜はジュンク堂のおはなし会.....こどもたちに語るのはひさかたぶりで....さぁどうしよう....パネルシアターとおはなしと読み聞かせもひとつ.....わくわくどきどきしたいなぁ....させたいなぁ

 羽生の老舗の会社が事業の整理をしたという。仕事がないためだ。仕事もわくわくどきどきしながらしたいなぁ  厳しい状況のなかで生き残るのは夢を失わない会社であると信じて...あしたもあさっても。



 


五百七十三の夜 (2004.9.21)   空のみずうみ

 マリと喧嘩している。膝は右だけでなく左も痛い。階段の手すりにぶつけた肋骨が、笑っても咳をしても痛い。.ヒビが入ったのかも知れず、医者に行こうかと思案している。いろいろあって仕事に行きそびれ、午後家を出たものの、近くのジュエリーの店でおしゃべりして コーヒー屋で豆を炒り、轢いてもらって夕方会社にようよう着いた。

 庭の石に座って、風に吹かれながら空を見ていた。青いみずうみが天にある。金色の波が寄せている。西の空を光跡を真一文字に曳いて飛行機がゆく。光跡はやがて薄れ、空に溶け込み しだいに群青がひろがってゆく。明日はがんばろうと思う。先のことを考えると、気が遠くなりそうだが、明日は笑顔で早く会社に来ようと思う。


五百七十ニの夜 (2004.9.20)  泉屋のクッキー

 山下さんが演出するのにきのうの芝居で終るはずがない。いつのまにか足は銀座へ.....新人オーディションのBプロも観ることにした。


  「自分の耳」  ピーター・シェーファー    あらすじ

 チャイクは音楽会で知り合った女の子を食事に招待していた。内気で口下手なチャイクにとってそれははじめてのことで、チャイクはドキドキしてなにも手につかない。ビーナスに似た襟足をもつ彼女はチャイクにとって永遠の女性なのだ。見かねて助太刀を買って出たのが友人のテッドだった。ふたりは同じ貿易会社の同じ部署にいる、。テッドは要領がよく仕事が好き、女の子のあしらいもうまかった。テッドは花束を買ってきてテーブルにかざる。アパートの最上階だろうか、右斜めに窓、その下に立派なステレオとレコードラック(カバーがかかっている)
右手前に肘掛椅子中央にテーブルと椅子が三脚左のベッド兼用のソファ、その上の壁にはボティチェリのビーナス誕生の複製画。
右手奥にキッチン 左手奥、洗面所とドア

 チャイムがなり彼女が現れる。毛皮のケープをまとっている。チャイクと彼女の会話はかみ合わない。チャイクは夢見るケルトの末裔、自分の世界に住んでいる。チャイクは自慢のステレオで現代オペラを聞かせるが、すっかり夢中になり指揮者になりきって部屋中を駆け回る。彼女は心底驚きチャイクを異常だとさえ思ったので、テッドが料理とともに部屋に戻るとほっとする。テッドはステレオのスイッチを切った。チャイクにとってそれは冒涜であった。食事をしながらの会話はテッドと彼女のあいだで楽しげに交わされ、置いてきぼりのチャイクはワインをがぶ飲みし酔っ払ってしまう。

 テッドと彼女のあいだは労働組合の問題で一触即発の状態になるが、そこは世故に長けたテッドのこと、うまく矛を収める。会話のなかでテッドの決して陽気でもしあわせでもなかった少年時代が明るみに出る。テッドはしだいに彼女に興味を持つ。彼女の本性、多少見栄っ張りで、そこそこの楽しみとそこそこのいい暮らしを望みクラシック音楽など無縁だと見抜いてしまうのだ。チャイクがコーヒーを淹れているあいだに、テッドはチャイクがどんなにいい奴かを語りながら、彼女を誘惑する。彼女もテッドに興味を持つ。彼女が洗面所でテッドに聞かれた電話番号をメモしているあいだにチャイクが部屋に帰る。

 「君は無知蒙昧だ、無神経だ、君はここへくるべきではなかった、帰ってくれ」
「俺はいったいなんのためにきたと思ってるんだ!?おまえのドキドキぴくぴくをなんとか助けてやろうと思ったんじゃないか!?俺はここに来なくてもいくらでも行くところはあったんだぜ!!」ふたりはにらみ合う。テッドは一歩一歩チャイクを追い詰める。だが、チャイクはなけなしの勇気をふりしぼり一歩を踏み出す。

 そこに彼女が戻ってくる。テッドは物も言わず、足音高く去ってゆく。「あの方はどこに行ったの」帰ったことを告げると彼女はあとを追うが見つからずに戻ってくる。「わたしのせいで喧嘩したの、こんなひどいことってはじめてよ」ふたりのあいだに気まずい雰囲気、チャイクは語る。

 「毎日、毎日、送り状を60枚つくるような仕事をしてしあわせなのか、ひとはなにかを伝えられるはずだ、その方法を誰も教えてはくれなかったけれど、自分はとるに足りないものなんかじゃないって大物なんだって....信じられる時がある。家に帰ってレコードをかける。僕は指揮をする。ピアノの鍵盤を叩く、背中が体中がゾクゾクするんだ。そして誰かがそれを見ていてくれたら...とそう思うんだ。どうにも理解できない彼女がこの場を逃げ出そうとすると、チャイクは、一曲だけ聞いて、それでおわりだからと懇願する。彼女はしぶしぶ承諾する。蝶々夫人の愛の二重唱が流れる。

 彼女のこころは解きほぐされる。彼女は仰向いてチャイクのキスを受けようとする。.......チャイクは小鳥のようなキスをする。そしてチャイクは彼女の手を愛撫し足に頬ずりする。彼女は恐れをなして逃げる。チャイクは追う。彼女は逃げる。チャイクは追う、彼女はチャイクをひっぱたく。チャイクは自分のしたことに気づいて衝撃を受ける。彼女は彼の身を心配するが、もうふたりはかみ合わない。チャイクは自分の中に、永遠を求めながら肉欲に支配された許し難い自分を見てしまった。彼女は毛皮が偽物だということさえ告白するが、チャイクは彼女からこの場から逃げ出したい。婚約者がいると嘘をつく。彼女はもしかしたら気づいている。

「また、音楽会であえるかもしれないわね.........それともどこかで....」
チャイクは何も言わない。彼女は名残惜しげに去ってゆく。

 チャイクは呆然と電気のスイッチを消す。月の光が煌々と、立ち尽くすチャイクを照らしている。チャイクは蝶々夫人のアリアをかける。美しい旋律が流れるがチャイクは突然狂ったようにレコードに傷をつける。ポツンポツンと傷の音を立てながらレコードは回りつづけ、壁際にまるくなって蹲っているチャイクが洩らす嗚咽が低く流れる.......


 Bプロはよかった。同じ芝居とは思えなかった。AとBを両方観たことでものがたりが立体的に見えたこともあるだろうが.....
 開いている奴、開いてない奴という構図だけではない。永遠なるものと今、日常と非日常 男と女 

 チャイクの呻きはわたしのものであり、他の多くの演劇青年たち、漫画少年たち そして語り手のものでもある。わたしたちは今に縛り付けられ、食うことに生活に縛り付けられ、それでも夢見ることをやめられない。僥倖のように永遠と結ばれる一瞬があり、賜物のように喝采がある。背中が体中がぞくぞくする生きている瞬間がある。

 孤高のなかで体温を欲する寒い夜がある。精神性とは程遠いすこし生臭い動物的なぬくもりであってもそれなくてはいられない刹那がある。ひとはどうしてこうも多くを望むものなのだろう。

 帰り三越の地下鉄側の出口で泉屋のクッキーを売っていた、懐かしくて手にとってみた。昔、父が土産に持ってきてくれた、白地に紺色の模様のクッキーの缶。バターは少なめの甘くて固いホームメード風のクッキー.....清潔で高級で当時それは、しあわせの象徴のように思われたのだった。いつも取り合いで一番最初になくなってしまった、レモンピールやアンゼリカの小さな切れ端が乗っているドーナツ型のクッキーを買って帰った。昔と同じ味がした。





五百七十一の夜 (2004.9.19)  自分の耳

 いい演技ってなんだろう。いい芝居ってなんだろう。わたしはエンターティンメントとして芝居を観たいのではないようだ。だから芝居好きのひとと同じテーブルでは語れないだろうと思う。ただの上手い芝居なんて観たくない。特定の役者を観にいくのでもない。そこにある真実を見にゆく、かもし出される空間、人生、本質、生命を見に行く。わたしの人生が芝居や役者によって映し出される、光が当たってなにかが見えるのを確認しにゆく。

 「自分の耳」はよく煉られていた....と思う。が、コンビネーションに問題がある。銀座3丁目の路上でわたしは思わず山下さんにまくしたててしまった。ねえ、芝居ってなんですか?辛くて苦しい人生のなかに光ってるものがあって、劇場を出たとき、さぁ、歩きだそうって、そういうのが芝居じゃないの?終盤、かけられるレコード、プッチーニの蝶々夫人の方が胸を打った。つくりものではひとの心には響かない。それらしい演技なんて糞だ。役者に向き不向きなんてあるのだろうか。それなら54歳の女のわたしにどうしてロミオができようか。

 帰り、カフェでワッフルとミルクティー、松屋の地下でフォションの食パン、青カビのチーズとにんにくのと匂いのきついのばかり三種類、ミルフィユに天然もののぶりの刺身など、デパ地下でしか買えないものを抱えて電車に乗った。足をひきずっていたのは、きのうダンスをしすぎたばかりではない。かなり期待してたので困憊しちゃったのだ。それに言いすぎちゃったから自分で自分に嫌気がさしたというわけ....合併反対の投票をして、さて、そろそろ第一回の速報が出るころだ。
13748対16904で合併はなくなった。

 

五百七十の夜 (2004.9.18)    ...逆転

 よく数えたら9600字だった。ものがたりは二転三転する。が、何度読んでみても途中で眠ってしまう。疲れているのかもしれない。きょうは中村会計の又さんが決算の打ち合わせに見えた。いろいろ話したあと哀れむようにわたしを見て「奥さん、これからたいへんだね...」 と呟く。「え....どうして....?」 と訊きかえすと 「ひとりでがんばってすむものではないからですよ」と言われた。

 ちょっとギクリとした。そうね けっこうたいへんよ....死んじゃうかもしれない.......先に向こうにいったら、又さんの場所とっといてあげるからね.....と笑っていなしたけれど.....女性はたいへん...だ。気をつかうから潰瘍になるってところもあるのだろう。事務の3人と営業のひとり.......わたしは顔色を見ながら仕事をしている。

 それで、とうとう 帰り際に「ことばに出して言わなければ、気持ちは伝わらないのよ」と話した。気持ちにブレがあると、物言いと動作が乱暴になる。仕事をすればいいというものではない。やっています....やるだけはします......じゃないと思う。一触即発の不穏な雰囲気が漂っている。ストレスの原因はたいていひとである。わたしもだれかのストレスになっているのだろうが........

 刈谷先生のレッスンに行った。叱られても叱られてもわたしは先生が好きだ。根底に生徒への愛があるからだと思う。間違えて....すみません...と言うとそんなことは言ってほしくない....直してくれればいいんだよ....とおっしゃる。ヴェールジントゥットアモール♪.三回目でほぼ....わたしは家で練習はしないがたぶん覚えは早い。覚えないと歌が生き生きしてこないからつまらないんだ....教えていてもと先生はおっしゃる。あなたは勘はいい、だがプロ的な真剣さに欠けるというようなことも言われる。

 わたしにとって歌は目的ではないのだもの、語りのためのヴォイストレーニングそして最近は楽しみ....だが先日マリアカラスの伝記をwowowで観た。精神の力が歌にこもっている。それがひとの心を打つ。マリアカラスは偉大な女優でもある。トスカ.....アリア歌いたいなぁ......野望だと思うが先生にお願いして来年の二月の発表会で歌いたい。歌はことばではない、ひびきそのもので直でひとの心を打つことができる。精神=声 山下さんの声は謡で培われたのだそうだ。

 残照の原作を読んでズキリとしたのは、商人が零落する原因が商売を忘れ遊芸にうつつを抜かすところにあると書かれていたのである。なかには店をつぶしてどこぞのとのさまのお抱え能役者になったり、芝居小屋で役者になったもと豪商もいたそうだ。わたしはそんな奥深い境地までいってはいないが算盤ずくの商人が遊芸の世界で夢中になる気持ちは実によくわかる。まさにわたしもそうなのだもの。

 商売はおもしろいが死にそうになる。マイナスがありえないプラスプラスの世界だ。芸はその対極の世界だ。生は死、死は生.....補いあう。マイナスがマイナスでなくなる、逆転の世界。一銭一銭の積み上げも真実なら、一挙に天空に飛ぶことも真実である。どちらがおもしろいかはそのひと次第だし、どちらも努力と器量によるのだろう...家業をつぶさないようにどちらも一心に......あぁ そうすると家庭がだめになりそう.......夜はダンスに行った。



五百七十の昼 (2004.9.18)    残照

 夕べ CDを聞いて過ごしたのがよかったかのかもしれない。「 残 照 」6400字のテキストが終った。今まで最長だったディアドラより長い....たぶん50分くらい....推敲して削って削っても40分のものがたりである。最初思ったよりおもしろい....なかなか......である。そしてむつかしい........架空のものがたりを超現実にするという醍醐味   .語れるときがと.....いうより場所があるだろうか。

さぁ 10時半だ....しごとに行かなくては...




五百六十九の昼 (2004.9.17)  波間

 あぁ もう駄目だ。こんなまっとうな暮らししてると、気が狂いそう。朝起きて仕事して、仕事に行って 掃除して仕事。TELしてパソコン打って打ち合わせして お茶のんで 昼食食べて仕事。 目茶目茶仕事してる。飛びたい、ここではないところへ行きたい。 

 .....ふと気づけば空もない。異界に降りてゆこう。幾重にも垂れた紗を潜って薄闇とほのかなあかるみのたゆとう岸辺に足を浸そう。耳を澄ますと 地の底から韻律のおとない......目を瞑って.....浮かんでいよう     冷え冷えと心地よい無為の波間....



五百六十八の昼 (2004.9.16)  櫻井先生

 今日は木曜、カタリカタリに先生をお迎えする日だ。ひさびさにお会いするので、わたしは青と黒の新しいスカートに黒のジャケット、スカートに合わせて青いラピスラズリの首飾り。朝会社で仕事をし、9時半までに会場のふれあいセンターに着いた。

 みなの心が開くようなエクササイズをして先生を待つ。櫻井先生はポケットとオフタートルの切り替えのチェックがお洒落な黒のゆったりしたドレス、今日は2日目、さまざまな昔話、それから鳥呑み爺さを三人ずつのグループに別れて語った。終ったあと先生を囲んでコウボウムギでランチ、笑い声の絶えない楽しいひとときだった。ついでにコウボウムギの若いオーナーと12月に発表会を開く打ち合わせをした。

 先生を駅までお送りして仕事に戻る。銀行と病院で用を済ませる。事務所でTEL、来客と打ち合わせ、仕事をバタバタとこなし、社員さんと打ち合わせをすると7時半だ...こうして一日が終る....でも今日はなんだかしあわせだ.....つつじの娘の再話と残照.....できるかもしれない。




五百六十八の昼 (2004.9.16) 秋

 風の色が変わった。夏が去ってゆく....ふたたび夏はくるだろうか......櫻の散りぎわに感じることと、秋風が立つ日感じることがなぜおなじなのだろう....来年...わたしはここにいる...?来年、この街はここにある.....?つつがなくおなじでいられるってほんとうはとても不思議なこと。

五百六十七の昼 (2004.9.15) なぜだ!?

 パウエル長官が記者会見を開き、「イラクで大量破壊兵器はみつからなかったし、これからもみつからない」と調査の断念を表明した。アメリカのイラク攻撃の大義が消滅した。....煙のように。イラクで死んだ数万人のひとはなんのために死んだ。ブッシュに殺された。軍需産業に殺された。石油会社に、アメリカに殺された。そして日本が加担した。先頭切ってアメリカに賛同した小泉のしたことは日本国民が為したこと。我らはイラクのひとびとの殺戮に加わったのだ。

 悔しくてならない。

 日本は国連に多額の世界第二位の拠出金を税金から払っている。それなのに喜ばれも尊敬もされない。日本の常任理事国入りを「アメリカの拒否権が二つに増えるだけだ」と馬鹿にされる。日本をこんな情けない国にしたのは誰か!?
アメリカの言いなりになるしかないほど、我らの国日本はひ弱な国か...自らの意思をもてない国なのか........


五百六十六の昼 (2004.9.14) 金の色鉛筆・山口さん

 仕事が音を立てて片付いてゆく。ひとり増えるとこうも違うものかと思う。3人ともそれぞれ仕事のできる方たちでわたしはしあわせだ。弟の回収し残した未収売掛金もすこしずつ目途がつき、本橋さんのアパートの件、ラインの社員募集の件、ISOの書類整理、新しい作業着の選定、今年度の有給支給などなど、お客さんと接待しながら、社員さんの家庭の悩み事相談を合間に入れながら、粛々と進んでゆく。

 あいだ抜けてトムの会の例会に行く。11月の発表会の打ち合わせで9つの物語が決まった。新人さんが多いので今回はパスかと思っていたが、わたしも出番がありそうなのでカーロカルーソーにした。セミナーの終了発表で不本意な語りになってしまった無念を晴らさんがためもある。澤田ふじ子さんの遍照の海を語り用にテキストの編集しているが遅々として進まない。夜9時過ぎまで仕事をしているせいもあるが、できあがった小説を語りにするのは激流を遡るような力仕事である。主人公(作家)と自分のあいだに間隙があるためそれが手足を縛るのだ。自分のものがたりであれば、一晩二晩でおおよそは組み立てられるのだが......

 例会では4人の語りがあった。12月のはなし、甚平の黒い馬.....伊勢参りをした猫の話、屁のはなしなど。心温まるほっとするような語りもあったし、まだ活字のごつごつした感じが残っている語りも合った。聞き手にとってイメージのつたわらない生硬な翻訳ものを聞かされるのは限りなく苦痛に近い。わたしは時折たちあがり、叫びだしたくなる。....で合評のとき厳しいようだが苦言を呈した。夜、山口さんからTEL。意気投合するところもあり、認識の違いがあきらかになるところもある。わたしは山口さんを揺さぶりたい。山口さんの中身、燃え滾る、冷え凍えたものを解き放ちたい....なまじ技術がるだけにそのままでも通用してしまうからそれを惜しむ。

  試験の娘を学校に送ってゆく。途中 文具やで24色の色鉛筆を買う。CDのジャケットデザインが美術の試験の課題だそうで、なかなか粋な試験だと思う。娘は金色の鉛筆が入ってる...と歓声をあげ、わたしは金色の色鉛筆がほしくて仕方が無かった昔を思い出した。



五百六十五の昼 (2004.9.13) 山師・チョコレート

 偶然市役所で弟と会った。雰囲気が変わっていた。逞しさのようなものと...少し不穏ななにかを纏っている感じがあって...呼び止めて話を交わした。郡山で3.4年仕事をする。大金を掴んでそれからなにか事業をするようなことをいう。やっぱりと思った。子どもがいないから歯止めが利かないのだ。もともと夢見がちな山師的なところがあり失敗したのも一度や二度ではない。

 うまくいけばいいけれど、なにかあれば母や義妹が苦しむ。大きな火傷をしなければ本人は気づけないとは思うが あまり大きければ周囲にも火がつく。それですこし余計なことをしておいた。うまく作動すればよいのだが.....。野望を留めるのは愛しかないし、わたしの姉としての愛情は既に弟には受け入れられない。手を離れてしまったから。....

 今日から見えた新しい事務員さんはふくよかなあたたかい感じの方でほっとした。さっそく協力業者のリスト入力などをお願いし、自分でもいくつか懸案のことを片付けた。重荷が潰瘍を呼び興すからすこしでも片付けておかなくては....。しかし弟への心配もあってか痛みは治まらず、夜の食事は一縷の望みで板チョコを半分と林檎ゼリー.....まさかと思われるだろうがチョコレートには傷を修復する働きがある。...そして嘘のようなはなしだが、いつも辛い夜中の二時過ぎ痛みがなかった。これから当分チョコレート三昧で暮らそう。
 

五百六十四の昼 (2004.9.12) ご褒美の真珠

 今日は法事が多いのか、お葬式が多いのか電車のなかで黒いドレスと真珠の首飾りの女性を30人ほど見た。....真珠の似合うひとといえばフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」.....それから美智子妃、ジャクリーン・ケネディー.....ジャッキーはよく大粒の真珠の首飾りをつけていたが.それは模造真珠であったらしい。だが、模造だとかどうかなどほとんど意味はない。

 背筋を伸ばしたような凛としたもの、そして微笑が真珠には似合う。今井美樹?さんがドラマの中で悪女を演じたとき、長い一連の真珠のネックレスを無造作に頸に幾重にも巻いていたのが美しかった。さっそく鏡の前で試してみたが、頸が細く、肩甲骨のあたりが華奢でないと似合わない.....がっかりした記憶がある。なぜ真珠の話になったかというと、ネックレスを手に入れたからである。成人式の祝に母から贈られた7o玉の50cmくらいのを長年愛用していたのだが.、物足りなくなって大粒のネックレスを以前から探してはいたのである。

 それが△ハウスの件が解決した日、東急で9.5から10o玉の格安のを見つけた!!2500万円分の仕事をしたのだから少しご褒美をいただいてもいいかなと高揚感で舞い上がってもいたので頼んでしまった。オールノットにしてくれるという。真珠は粒は小さくても真珠層の厚いテリのよいものを買うのがよいそうだがわたしは粒さえ大きければよいので30年前のより安かった。それでもうれしくて帰る途中何度も覗いてみた。

 ワークショップで壌さんと山下さんが台詞を読むのを聞き声に痺れた。やはり声なのだ。どうすれば、地の底から、海原の底から響くような声が出せるようになるのだろう。10/3のちらしがもうできている。進化し続けるひともいれば、毎回ほぼ同じ繰り返しのひともいる。聞いていて疲れる台詞もあれば、幾度聞いても聞きたい台詞もある。

 小田急の帰り、西武新宿線で上井草へまわる。アパートの新築現場は内装も終わり、クーラーを設置していた。オーナーのご兄弟と登記の打ち合わせに来たのだが、持分登記を奨め納得してもらうのに、二時間かかった。最後は気持ちよく了解していただいた。利害がからむことはなかなかたいへんである。けれども見過ごしにできないのでつい踏み込んでしまう。サガである。

 遍照の海のテキストをつくっているのだが遅々として進まない。作家が創作したものはなかなか辛い。素材...事実から生み出すほうが早いし楽だと思う。




五百六十三の昼 (2004.9.11) 永福町

 今週も座のシェークスピアのワークショップである。潰瘍で眠れず疲れが溜まって膝も痛いが、どうにか電車に乗った。座はこのごろ催しが多く西荻のがざびぃは使えないらしく、稽古場は毎回場所が変わる。今日は高井戸なので、ジョルダンで検索したとおり、新宿まで乗り継ぎ京王線で明大前、そこから井の頭線に乗った。永福町でハタと遙かな記憶が甦った。この町にわたしは降りたことがある。もう三十年も前のことだ。漫画家の大島弓子さんを訪ねたのだ。電車の窓から垣間見る永福の街並みは賑やかで昔を偲ぶよすがもない。わたしの記憶にまざまざとあるのは、寂れたような暗い商店街、濃い闇、夜に匂う草や木々の緑だ。

 思えば大島さんに出会ったあのあたりから、わたしの人生は奔流に投げ出された木の葉みたいにくるくる、急転直下の連続になったのだった。......わたしはだれかのファムファタルであったかもしれないが、わたしの辿る道に待ち伏せていたのも男たちではなくて、数人の女性たちだった。寺島ダリさんも大島さんも...........いつか大島さんにも会えるだろうか....ひとつだけお伝えしたいことがある。

 さて高井戸でタクシーに乗ったが会場の高井戸会議室は見つからず駅の周辺をぐるぐる廻るばかり。ついた時にはもうほとんどのひとが終わって例によってわたしがラストだった。気負いはなかった。前回と変わったところがいくつかある。....演じるだけならロミオはジュリエットのいる窓と夜空しか見ないので......、観客を見ようとはしなかったのが観客と目線を合わせたし、またよく見えた。語り手としてロミオを演じるなら...どうするか....? 来たときにはいなかった山下さんがいる。声の強弱、緩急.......がより際立ってくる.....

 夜空に輝くふたつの目.....とかあの目が夜空に輝き......星があの顔に納まってもよいではないか......がどうも実感が湧かなかったのだが、一昨日明け方近く偶然観た誰がために鐘はなる....のイングリット・バーグマンの戀に輝く薄青の瞳を見たら、乙女の瞳は星にも喩えられようとしみじみロミオの気持ちが解ったのである。昼とも見まごう明るさに鳥が囀ることだろう.......でわたしの目には白く輝く光が見えた。

 幸運なことに山下さんのレクチャーはロミオのセリフ 昇れ!美しき太陽....でどうやって相手を振り向かせるか....1 聞き手をこちらに向かせる  2 太陽に輝かしいイメージを乗せる    これを全員でした。

 最後に山下さんが言われたこと。「観客のひとりひとりに人生があって、それぞれの方はそれぞれの物語の主人公なのです。そのひとりひとりの人生に台詞を響かせるのです」.............語りとどこが異なろうか.........さて、明日は最後の練習日。




五百六十ニの昼 (2004.9.10)  助けてください

 支払日、パタパタ忙しない日、M建設に集金に行き50万いただいた。これは今年の2月仕事をしたときの一部である。回収はそう簡単ではない。地道にこつこつ、チャンスを逃がさない。決してあきらめない....が鉄則である。

 浦和で用を済ませるともう二時半、おなかがすいたのでゴルゴンゾ〜ラのニョッキを頼んだ。美味しかった。伊勢丹でコンコルドのぐるぐるケーキとピオニア(葡萄)ぶりの切り身、カプリスなどを買った。4つも5つも紙袋を提げ夕立で濡れねずみになって事務所に帰った。

 家でソファで眠っていた末娘が突然「助けてください 助けてください.....」と叫ぶ。思わず「助けてあげるよ...」と応えると「ありがとうございます 」と言ってまた寝てしまった。



五百六十一の昼 (2004.9.9)  神さま.....

 今日は菊の佳節、仁叔母の命日だ。なぜか重い気持ちでわたしは上井草に向った。本橋さん兄弟の持分登記の件で印鑑をもらうはずだったのだが、おふたりが揃わなかったので要件は済まなかった。日曜に出直しということで信用金庫をあとにし、下井草で途中下車しカフェモンクに立ち寄ったが、稽古帰りの婦人たちの喧騒で賑わしく、ジャズに耳を傾けることもできない。

 家に帰って、少し休み 思い立って会田さんが教えてくれたダリのTEL番号を回してみる。転居している。ふたたびTELすると「寺島です......」快活な.....懐かしい声........包み込むようなあたたかい......その底に透きとおった微かな淋しさ.......15の時のわたしの耳は、心は確かだったと思う。

 しばしの会話のあとわかったこと.......静岡県の後押しでストレスケアカウンセリングの学校を開く準備のため、二週間前、伊豆長岡に転居したのだという。....夏物語の頃だ。バランスセラピーという新しいカウンセリングで、カウンセラーを養成するその学校の校長になるのだという。これほど適任の仕事はないというくらいダリにぴったりの仕事だ。神さま.....私は思わず呟いた。ダリのことばによれば出遭ったころのわたしはとてもアヤウソウデ心配だったそうだ。再会を約した。時は10月の初め、語りの祭のころ......もし、ダリにフランス窓から...を聞いてもらえば、遠い昔、抱きとめる腕もないまま中空に投げかけたひとつの想いが成就するのかもしれない........

 それとも想いは胸に留めおいて、語り続ければそのほうがよいのかもしれない.......今日は菊の佳節、友と邂逅するのに、うってつけの日だ。



五百六十の昼 (2004.9.8)   ヴィエントにて

 夕べは十二指腸潰瘍が4ヶ月ぶりで勃発して眠れぬ夜を過ごした。かずみさんが入院した途端、ぱったり納まっていたのだが、そう簡単に切れる仲ではないということだ。懐かしいとはいいたくないが、よく知っている痛み....これもスパイスのようなものだ。

 ヴィエントで会田さんと会った。会田さんは良家のお嬢さんがそのまま歳月を越されたという風情の愛くるしい方である。スタジオプラネットのオーナーで夏物語でたいへんお世話になり、どういうわけかリハーサルもしないで話し込んでしまい、その日以来旧知の友人という感じになってしまったのである。そして......会田さんからフランス窓から....のダリさんのTEL番号を聞くことになろうとは........帰宅すると、尾松さんから夏物語への熱いメッセージが届いていて、わたしの夏はまだ終らない。

 夜はお客様と桶川の円座という店で会った。いい店だった。そのことはあとで書くことにして、道中聞いた新しいCD、ケルティックハープのメアりー・オハラの歌が秀逸だった。風のような声......帰ったのは夜中の十二時を回っていた。



五百五十九の昼 (2004.9.7) ヒューヒュー

 仕事帰りにヨーカ堂の食料品売り場に寄って、ペットボトルの林、ドレッシングの森のなかをカートを押して歩く。なにも考えないこの時間がけっこう好きだったりする。今日は面接に明け暮れた。6人か7人みえて、それぞれ個性の際立ったおもしろい方たちだった。

 本橋アパート新築工事も大詰め、9日に登記の準備の件で石神井に行くことにした。
パナックの田形さんが見えて阿部ちゃんに説明してくれた。9月の声をきいてから階層ごろのコードを考えるのにあたまの中はいっぱいである。このシステムが根付くのに半年はかかるだろう。けれどもこれで土木は飛躍的に変わるはずだ。

 連絡会でみなの顔がぱっと明るくなったようでまぶしかった。弟がやめたことで光に預かるひともいる。自由に意見がでて ときどきは爆笑もあって、楽しい連絡会だった。一緒に働く仲間、闘うなかまがいる、みなから見たらわたしはとんでもないところにみなをひっぱってゆく船頭かもしれない。システム・サルガッソウやISOのトライアングルゾーンetc....だけれどそれは、わたしがみんなのことを考えてやっているのだ、会社を変えてゆくんだということをわかっていてくれるのでは.....と甘い勝手な思い込みをしているわたしである。

 台風の余波の強い風が吹き荒れている。会社のガラスのドアは強風に煽られて一枚割れてしまった。こんな夜、家のなかに居られるのはしあわせだ......



五百五十八の昼 (2004.9.6) ふつふつ

 junさんからメールがきた。junさんは文学座の女優さんでcatari'catari'の住人のおひとりで
ある。富良野で一週間演劇のワークショップ(RADA)に参加されて帰ってきたのだ。ちょうどわたしと同じ頃、「静かに!あの窓から洩れる光は.....」のロミオのセリフの課題に取り組んでいたのだという。

 junさんとの出遭いも運命的だったと思う。亡くなった友人夏樹とゾフィ・ショルが会わせてくれた。わたしと違って正真正銘の女優のjunさんの演劇への真摯な想いと出会うとき、わたしはなにを受け取るのだろう。わたしは少し懼れる。ほんとうのことをいうと、わかっていて避けていたような気もするのだが、いよいよ時が来たなと思う。たぶん二週間以内にわたしはjunさんと会うだろう。

 冬子も女優だった。不思議だ.......いまなにをしているのかな.......ひととひとがめぐりあうのは偶然のようでいて偶然ではない。わたしはなにかできるだろうか。

.......「語りの会」は私も三回か四回位参加したことがありますが雰囲気が全く違うように感じました。.........さんの語りは優しくしっとりとしていて心の中にじいーんと浸み込んでくるようでした。私の方へ浸み込んでくるのか、私が..........さんの語りの中へ吸い込まれていくのかわかりませんでした........

 
夏物語を聞きにきてくださった方の手紙の一部である。この手紙を読んでわたしは......決して表現ではなかった。わたしは語ったのだ...と実感できたのだ。語りについては思い残すことはない。これからも語りつづけてゆくだろうし、より高いものを目指すだろうが、なにを目指すべきか 明確にわかっている。

 けれど芝居は.....まだよくわからない。求めるのは名声でも自己満足でも表現でもない。演じることは自分を知ることである、からだと精神、声と心のつながり、世界と自分とのつながり、時の流れのなかのひとつぶの自分を知ることではないかと思うけれど......確信はない。

 不思議だ.....ジュリエットを演じたひとりの方がばらがばらという名前でなくてもその甘い香りに変わりはないはず...という有名な台詞....を演じたとき、確かに甘い馥郁とした薔薇の香りがしたのだ......イメージするとは意志の力なのか.....ことばや音で伝えるように匂いを伝える能力もあると聞いたが、そうなのだろうか。









五百五十七の昼 (2004.9.5)  しとしと

 赤羽駅を疾走する....宇都宮線を飛び降り、あぁもう埼京線が入っている......階段を駆け下り  「ジュリエットは太陽!  昇れ 美しき太陽! 」と小さく叫びながら通路を走り、階段を駆け上る....最後の数段はへとへとだ.....間に合った。ワークショップはいつもこのようにはじまる。荻窪駅について、時間が惜しいのでタクシーに乗る。山下さんから教えを受けるようになってわたしはとても真面目な生徒になった。

 今日もきのうと同じく全員の台詞.....なんてうまくなったんだろう。みな確実に階段を上がっている。30人いた仲間も近ごろ集まるのは20名そこそこである。けれど結束は固く駅前の和食の店に集合してランチ、宝塚ネタ、皇室ネタで盛り上がった。

 帰って久しぶりにテリーを連れて散歩に行く。歩きながら弥陀ヶ原心中を語っている。ずっとこんな風に頭から語りが去ることはないのか....そんなことはあるまい。今だけ.....あまり仕事が忙しいからなにも考えたくないのだ。ロシアの殺された子どもたちのことも辛いから考えない。わたしはわたしのやり方で平和のためにできることをしよう。

 7月からマリエに任せていた夕食を今日は久しぶりにつくる。お刺身にまっしゅポテト、冷奴、野菜サラダにスウイートバジルを入れたら香りがよかった。プランターでつくれないかな。やすみが終れば明日から戦争。事務員さんの求人広告を出した。どうかいい方が見えますように。




五百五十六の昼 (2004.9.4) ざんざん

 雨ざんざん降っている。今日はお昼前、荻窪で座のワークショップ、20名のシェークスピアの長台詞は圧巻だった。ポーシャ、マクベス夫人、ジュリエットはたいそう魅力的だった。パックはおもしろかった。わたしのロミオは今一だった。舞台に立ったとき、決まる...というのはほんとうだ。語る、演技する以前の問題だ。山下さんから、想いの内的圧が足りないといわれた。


木陰からキャプレット家を見上げる....バルコニーの向こう 窓に火影がうつる......愛しいひとはそこにいる。姿が見えないものか、人目会えたら.....その声を聞くことができたら......ロミオは立ち尽くしている。

 静かに。あの窓から洩れるは.......あれはジュリエットは太陽.....昇れ
   (ジュリエットのいる窓を凝視めている)        (昇れという意志で)
しき太陽.....あの妬み深いを葬ってしまへ....哀しみのあまり、早くも色蒼ざめて
  
(月に目をやる、月とジュリエットを対比させる)
いる
を、それに仕える乙女、あなたの方がはるかに美しいからだ。もうには

仕えるな  あれは妬み深い女だ。...そのお仕着せは蒼ざめた緑一色、阿呆のほ

かはだれも身につけぬ。脱いでしまえ.......あれはジュリエット おお 俺の戀する

女  この心が通じないものか............何か、話す?.............いや、なにも言
                   (全身を耳にして耳を澄ます)
いはせぬ。それがどうした!? あの目が語っているではないか!?  それ
(新しい発見の連続....生きて生きて.....テンションの高さ.....無責任なほどの想像の
に応えよう
..............いや、厚かまし過ぎる  俺に話しかけているのではない、
  
 飛躍)                         (広大な一面の星空)
輝く、もっとも美しい星がふたつ、なんの気まぐれかあのに頼んだらしい

...........留守のあいだそこで替わりに光っていてくれと......あの夜空輝き、星

がその顔に納まってもよいではないか!?  日の光にさらされた灯火さながら

、その頬の輝きに、星も恥らおう.........そして夜空に輝くふたつの目は、あたりを隈
   (ロミオの戀は世界を変える.....突如 光が満ちる....)
なく照らしだし 昼とも見まごう明るさに鳥も囀ることだろう
...............見ろ!!

手に頬を預けている.....あぁ あのを包む手袋になり、あのに触れることがで

きたら.........


 立つことからはじまる。足の裏まっすぐ地球の中心を踏みしめているという気持ちで立つ。息を吸い込む。....呼吸.....息を代える........テンションの段階......脱力をゼロ......セリフはスポーツをしているくらいの状態。

 新宿で梅村の社長と会って打ち合わせをする。帰って買い物をして刈谷先生のレッスン。「ようやく からだの中を声がそのまま通るようになったね」...と先生がおっしゃった。苦も無く声が出る。 あぁこれが先生が今までおっしゃってきたことなのか.......クラシックは型を教えるところなのだと改めて思った。口角を上げる、喉の天井を高く、決まったところに当てる。からだを開く、よい表情をする......そういうことができていい声が出る。いよいよこれから はじまる。すこし事務所で仕事をしてダンスのレッスン......これも突然楽になっていて驚く。不思議だ.....ひとつ階段を上がるとみな変わってゆく。

 電車のなかで考えていた。二年前結局できなかった「遍照の海」を再話する。そして加賀の千代女も。


五百五十五の昼 (2004.9.3)  どこかへ

 リンリン 虫の声が聞こえる。 ハタト焉ム。あぁ すこし つかれちゃった。シゴトッテスリキレルトコロガアル。......ワタシハウカンデイル アオイアオイソラノソコ ネェ ソラノソコニモカゼガフイテイルヨ トウメイナカゼ メヲツムッテ ナガレテユク.......

 夏物語でカラになれた.....か....なにかがわたしに降りてきたかどうか.....微妙である。ふと手をみると かすかに 震えていたから そうかもしれない。夜はきっとそうだった。だってわたしのちからではあそこまでは語れないもの。....昼の部でステージわきの熱気で息もつまる小部屋で聞いた先生の夢の家。....夜のおとうちゃまのこと....ですこし舌がからまるようなかすかに躓くような片鱗があって、あっ先生だ....わたしはいつのまに踏襲したのだろうって語りながら考えていた。語っているわたしと考えているわたしはべつにいて、わたしはそのデシャヴのような時間のずれが好きである。もっといえば、そのしたにもうひとりタカさんとわかちがたく融けあっているわたしがいる。

 芝居の時は、手にした台本が音を立てるかと思うほどガタガタ震えているわたしがいる。もうそのときわたしはここにいて、ここにいない。輝く星にもなれよう.....と思う。......語るとか、役者をするとかいうのは貴賤の極みにあるように思う。限りなく天に近くも地のそこの凶つ闇のなかにも行ける。それは人間にとって特別の切符なのだ。その切符を手にするためどれだけのものを投げ打たねばならないか.......ほんの入り口を覗いただけのわたしにもわかる。

 今の自分を超えることがもっとも大きな命題である。聞き手と観客と共有する空間というのは、その結果だ。もちろんこころをひらき、そこにいるすべてのひとを抱きしめる自分はいるが.......しかし究極自分を惜しみなく投げ出せるか.......限界を超えられるか......それしか興味はない。なんて寂しいひとりの道、でも、歩いてゆきたい道、今宵 だれもいない空にむかって わたしはまだ語ったことのない、物語を語ってみよう.........


 地上に結びつけるために約束はあるのかな......会田さんとヴィエントでランチの約束、すこしお洒落してゆこうか.......増田さんと約束......これは仕事ね......梅村の社長と約束.....そして「自分の耳」を観にゆく.......ひとつ終ったばかりなのに、残る暑さに吹く風のように心許ない.....誰か掴まえて放さないで......さうしないとどこかへいってしまふ




五百五十四の昼 (2004.9.2)  アンケート

 1:30から青葉のデイケア、今日は市役所の次長さんも見学に見えた。仕込みの時間がなくて、今までのおさらい....どんぐりころころの手遊びから、おはしにおさらに......ジャックと泥棒をおばあさんと泥棒に換えて山を登り、山をくだり、谷をわたり、谷を越えて......昔話をしてみんなで楽しかった。お茶と佐藤さんのお誕生日会をしておしゃべり。女子挺身隊に居た方、満州から引き上げてこられた方の話など乗り出して聞いた。三ヶ月おやすみして「先生(!?)のおはなしを聞くのがたのしみで....」とぽっつり言われたとき胸がきゅっとなった。他のデイケアからも頼まれてはいるのだがそれは無理としても青葉のデイケアだけはつづけよう。ここの方たちといっしょにわたしも年をとってゆこう。

 9:00まで仕事、今期は数年分の不良売り掛け債権の処理をまとめてした。うちが頼んでいる会計事務所は石より固いので、倒産したところでも債権放棄の内容証明を出さなければ....という。それを4通、ハガキを5通。ハガキが帰ってくればそこにはいない....もう取り立てはできない...というわけだ。
 だいたいが決算業務というのは国に税金を納めるための内訳書類なので、本来の会社の損益を求める会計事務とは本質的に異なるのだ....とようやく最近気がついた。実質の感じとはあまりにかけ隔たっている。

 今日から新しいシステムで日報処理ができるはずであったが、苦心惨憺して分類と品名のコードを入れ、マスター登録、区分設定をして、さて日報を入力してもらったが印刷されない。慌ててパナックにTELしたところ、要素の内訳を入れなければダメだという。これには口あんぐりだった。最低これだけ入力してあれば大丈夫という話がぜんぜん違うのだ。つまりパナックの営業はソフトの内容に精通していないのだった。要素の内訳が一番重要でここで仕分けがされる...とふたりで検討して気づいたとき、わたしと美子ちゃんの目の前はくらくなった。800の品目について内訳と仕分けを入れる。それはなんとかするとしても要素ひとつに内訳が100個しかない。うちは部門かんりをしているから経費の要素だけで内訳が600ある......もう死にそうである。

 ようやくアンケートを読む勇気が出たのでおそるおそる読んでみた。おとうちゃまのこと....が一番支持されていたが、フランス窓から.....も熱い共感をよんでいるのに驚いた。それぞれの方の青春の思い出とオーバーラップしたようだった。フランス窓は聞き手の前で語るのは正真正銘、昼の部がはじめてだったが、三つのなかではもっともイメージを届けられた.....なぜなら歳月を超えてわたしの胸の底深く沈潜していたものがたりなのだから。    弥陀ヶ原心中がよかったという方も3人いてほっとした。わたしはこの物語を早く終らせよう早く終らせようと内心思って語っていたし、聞くひとにたいする 気恥ずかしさから脱け出せなかった。トムの会や会田さんに聞いてもらったときのトラウマに呪縛されていた。聞き手にもこの物語にもすまないことをした。もう一度語ってみたい。

 コーヒー・ケーキやワイン・料理については好評で無いほうがという方はひとりもいなかった。今後どうするかわからないが、試みとしては成功したようだ。今度はいつ?12月ころ?  と聞かれたがそれはとても無理である。ただ、どこか喫茶店かカフェで隔月でも語りの会を開けたらいいな.....と目論んでいる。後先のことは考えないでつっぱしるわたしのことだから、きっとそのうち実現する....と思う。




五百五十三の昼 (2004.9.1)   天の話、地の話

 昨夜 母のところに届いていた手紙を受け取った。それは、夜の部を聞いてくださった越谷の方からの手紙だった。27年間朗読をなさっているという。語りを聞いてあなたを抱きしめたかった.......フランス窓から...を聞いているとき、次から次へと母校の白亜の校舎、窓から見た風景...が目に浮かびさまざまなことが甦ってきたという。夫君とはその学校で出会われたのだそうだ。

 他の方からも、お話を聞きながら つぎつぎと情景や思い出やふとそのときの想いが記憶の水底から浮かぶ泡沫のように浮かび、切なくなったりしあわせな時を思い出したりした.....と聞いて、聞き手の方はその物語を生きながら、自分の物語も生きていらっしゃるのだなぁと思う。

 わたしは当初リサイタルのタイトルを「天の話、地の話」としたのだが、天の話と思っていた「オタストの娘」(アイヌ神話)もしないし、みな実の生きている、生きていたひとのお話.....地の話だけになってしまったと思って夏物語に変えたのだ。

 けれどリサイタルも近くなって、三つの話にはみな天への憧憬があるのだ.....とひとの裡なる深いところには、わずらわしい、塵芥にまみれた日常のいとわしさのなかにあってさえ、いと高く、美しく、清らかなるものを求めるものがたしかに存在するのだ......地の語りは天の語りに通じるのだと思い当たってそれはうれしくなったのだ。

 わたしたちは宗教に関わりなく、日々の暮らしと命の安寧を暗黙のうちに祈っているのではあるまいか。こうしてなにごともなく生きているということは実はとてもたいへんなことなのではあるまいか。畢竟生きることは祈りなのではるまいか。

 古来、語ることは祈りであった。神の弥栄、地の弥栄、豊穣を命の繁茂をひとは祈り続けてきた。ことばを換えればしあわせをいのりつづけてきたのである。生きること、祈ること、語ることははひとつにつながる。それは今でも根底では変わるまいと思う。

 わたしは生きるよろこびをたずさえて行きたい。子どもたちやお年寄りのところへ。そして歌い、語り、ともに遊びよいときを過ごしたい。限りあるいのちを輝かせたい。さぁ 明日はデイケア、なにをしよう?なにを語ろう?
 そして9/25 大宮のジュンク堂で久美ちゃんや子どもたちが待っているよ、うんと楽しいおはなしを用意しよう.....わたしは生きていてよかった.....あなたに逢えてよかった(伽耶のせりふだ).....わたしは生きて、生きるよろこび哀しみを語りにしてみなと分かち合うのだ。そして、それはたぶん神さまが喜ばれることのような気がする。

 リサイタルをしてよかった。



五百五十ニの昼 (2004.8.31)  もっと、ゆっくり落ち着いて

 櫻井先生からダメ出しをしていただいた。思いもかけないところだった。弥陀ヶ原心中の伽耶のセリフ 「あがらい」.......わたしはこのセリフの情景をほんとうには掴んでいなかった。はじめて会ったふたり.....他の客とは違う清潔な初々しい学生を前に伽耶はなにを思ったのだろう。

 もっとよくなるはず......と先生はおっしゃる。そんなに焦らないで 落ち着いて とおっしゃる....わたしの気は急いて もっと遠くに行きたい。あの丘を登れば、あの森をぬければ、きっと なにかが見えるはず......と思ってしまう

 そう 落ち着いて ゆっくり  
でも......胸がどきどきします  もっとなにかを掴みたい 抱きしめたい
走りだしたい ....... 日々のくらしはいとおしみながら........


五百五十一の昼 (2004.8.30)  語ること

 四年前 青山のASKで櫻井先生にお会いしたことが語りとの出合いだった。目くるめくようだった。新しい世界がひらけるようだった。それは実は自分との出会いであり、他者との交流であり、生を抱きしめることであると....薄いヴェールを剥ぐようにわたしは知ったのだけれど。子どものためのただただ楽しいお話もあったが、どうしても語りたいと心の底から求めるお話は そのひとつひとつに命をこめるとき、決して楽しいものではなく時には血が滲むように痛かった。 

 ......雪女 乳母櫻 父の思い出  おさだおばちゃん 月の夜晒し .....ほうすけ
 カイアス王  絵のない絵本  わたしがちいさかったときに 芦刈の歌 つつじの娘  お月さんももいろ  ディアドラ .....カーロカルーソー......おとうちゃまのこと  フランス窓から  弥陀ヶ原心中

 ........あらためて主だったものを数えてみると半数以上がここ一年のことに驚かされる ..こうしてわたしはすこしずつ開かれていったのだ。それは挑戦というような乾いたものではなかった。けれど、カサブタをむしるようにせずにはおれなかったし、このようにして顕わになってゆく自分がすこしずつ 好きになってもいた。

 ひとは語る性(サガ)をもともと持っている。それは読むことよりもっと本質的なものである。歌うにちかいことである。それなのに語り...というもっとも本質的な文化を落語や漫談などの特化した一部を除いてわたしたちは失っていたのだ。文字がもたらした功罪については問うまい。ひとは多くのものを享受したのだから。しかしたとえば文部省は書く読むと同じようにもっと話すこと、語ることを教育の根幹にすえるべきだったと思う。さいわい 最近の指導要領の改訂ではおそまきながら話すことの重要性を覚ったようではあるけれども。

 こうしたなかで、細々と語り文化を守ってきたひとたちがいたのだ。村で町で家庭のなかで。 櫻井先生はながいこと、家庭におけるお話の重要性を伝えてこられた。また、おとなのための語りも提唱してこられた。語りは本来ひとのためのもの、おとなもこどももないのである。ひとは伝えたいのだ。そうしなければ生きてはゆけないのだ。ひとりでは生きてゆけないひとの能力のなかで、もっとも必要なひとつがコミュニケーション能力である。そしてひとは喜びも痛みも知恵も未来への希望も共有することができるのだ。


 わたしもこの語る...という賜物をたいせつにしよう。そして世代を越えて伝えてゆくためにできるかぎりのことをしよう。櫻井先生からいただいたほのかなあかしを掌で護るようにして次代につなげよう。




五百五十の昼 (2004.8.29)   感動の質

 電車のなかはいつの間にか秋の装いだ。今年の夏は暑く長いと思っていたけれど、いつのまにか行ってしまうのだろうか。虫のすだく音が聞こえる。

 娘たちとがざびぃに「動物園物語」を観に行った。15分前だったのに席はほとんど埋まっていた。今日は壌さんがピーターを演じるのだから当然といえば当然なのだけれど。椅子席はもうないのでわたしたちは最前列で床に座る。あのベンチ、唯一の大道具のベンチは目線の先である。My Favorite Things が流れ 木漏れ日が揺れる公園.......ジェリーがあらわれ、公園のベンチで本を読んでいるピーターに目をとめ 話しかけるわたしは冒頭から泣きそうだった。波動が伝わってくる...ジェリーの絶望的な孤独が胸を打つ。.....ジェリー役の成田浬さんの伸ばした指先が細かく震えているのがわかる。あぁ このひとも芝居の底知れぬものに取り憑かれたのだ。

 ジェリーがピーターに語る[ジェリーと犬の物語]がはじまる。孤独なジェリーは大家の飼い犬、地獄の番犬ケルベロスにも見まがう黒犬となんとか良好な関係をつくろうとしていた。黒人のおかまやプエルトリコ人の家族の住む貧民街のアパート、ジェリーの住むのは最上階のベニヤで仕切られた部屋、中身のない額縁ふたつ、少々の衣料、壊れたトランク 皿ふたつ......がジェリーの持ち物だ。 

  ケルベロスはいつもジェリーの足に噛み付こうとする。ジェリーは上等のハンバーガーでなんとか手なずけようと、毎日ケルベロスに投げてやるが犬はなつこうとはしない。怒ったジェリーはハンバーガーのハンバーグに致死量の猫いらずをまぜて殺害をはかろうとする。もちろんジェリーはほんとうは犬の死を望んではいない。あたらしいかかわりを望んでいるのだ。ジェリーはせめて犬とあたたかい許しあえるような関係を持ちたいのだ。しかし、回復した犬は上目遣いでジェリーを眺めるだけの犬になってしまった。ここでジェリーは気づく。噛み付こうとする行為そのものが犬のジェリーへの愛に似たものだったということを、そしてその関係はジェリーの手で壊崩れもとには戻らないのだということを。

 ジェリーはもうここ(地上)にいる理由もない。そこでジェリーが考えたことはなんだったか.......公園でジェリーは偶然出会ったピーターになにを求めたのか  4月の公演、井上さんのジェリーを見た帰り、わたしは久喜駅のトイレの前で突然自分を支えることがことができなくなった。深い慟哭がわたしを捉えたのだ。人間の絶対的孤独、そしてたとえどんなものでもかかわりを持たずにはいられない盲目的といってもいい魂の飢餓......

 それで今回の座の公演を楽しみにしていたのだった。わたしは涙が流れるまま見ていた。竹内さんも来ていて、終演後 やはり打ちのめされていた竹内さんと言葉すくなに歩いて帰ったのだが.......いったいひとはなにに心動かされるというのだろう。わたしは今日のこの涙、この動かされた感じが腑に落ちなかった。どこか違う、存在の根底ではない、もっと浅いところから湧いた感じがした。今回のキャストは芸達者であったがなぜ.....。うまいに越したことはないが一番大切なのはうまさではない。ラストが落ち着かなかった。ケレン味というのは魅力ではあるがありすぎると興を削ぐ。客を驚かそうという意図があったとは思わない。でもあれはステレオタイプの驚き方だ。観客の反応も気になった。笑う場所ではないのに迎合してわらうひとがいたから。

 いったい 同じ感動でもどうしてこう違うのだろう。



五百四十九の昼 (2004.8.28)  終わり・はじまり

 今日はたくさんの助けが必要だった。わたしはJunさんからのメールと君川さんの声を心にしまい、佐藤先生の葉書とおさだおばちゃんの形見のポーチをバックに忍ばせた。 ......そして橋本さんのサポート スタジオプラネットの会田さんの協力なしではできなかった。カタリカタリやトムの会、セミナーの仲間が見ていてくれる。わたしはみなさんの力をお借りして今日、語ることができた。今日の語りがわたしにとってどのような意味があったのかどなたも知らない.......と思う。わたしは今、泣いている。ひたひたと寄せる哀しみのような感謝のようなしあわせのような心の岸辺を洗う波。

 櫻井先生がきてくださった。わたしを語りに導いてくださった先生が、うしろにいてくださった。そして母も.........抱かれて語っているようだった。あまりに重いテーマなので昼一度語ったら、夜は別のお話にと書いたら櫻井先生は「昼、夜同じ方がいいですよ。わたしが軽いおはなしは引き受けるから.....」とおっしゃってくださった。違うのを語っていたら こんなに悔いなく終らせることはできなかったと思う。昼と夜は雲泥の差だったと先生はおっしゃった。わたしも夜の語りが今の自分のできるかぎりと思うけれど、生硬だった昼の語りもそれなりにいとしい。

 フランス窓からはレクイエムで...弥陀ヶ原心中とおとうちゃまのこと....は遊女伽耶と中島たかさんの代弁をしたのだが、三つの話を通してわたしはひとのなかの神性を語りたかった。生きることの切なさとその輝きを語りたかった。戀すること、そのむこうにあるものを語りたかったのだ。

 昼きてくださった、95歳の井出先生が「あなたはわたしのあずかりしれないすごい人生を過ごしてきたのね」と言われた。底まで見られたようで恥ずかしかったけれど、井出先生は聞き取ってくださった。先生の目は澄んで、まだわたしはまっすぐ見詰められているような気がする。さぁ これで先に進める。




五百四十八の昼 (2004.8.27)   戀うる

 戀.......とは その人の持つ神性に惹かれることではないのだろうか......

五百四十七の昼 (2004.8.26)   明日へ

 美容院に行くのは4ヶ月振り、ようやくやまんばヘアともお別れ、帰り伊勢丹で口紅も買ったし、きのうは歯医者にも行った。すこし人間に戻れそうだ。
 井出先生(長年ガールスカウト埼玉支部長をなさった)や吉池リーダー、恭子さんご夫妻、藤井先生、研究セミナーの友人、語り手たちの会の方たち カタリカタリの仲間、ネモさんはじめネットからの方、会田さんのおともだち 語りを知っている方、知らない方......どうか聞いてください。みなさまが聞いてくださってはじめて物語がたちあがる.......生きることの切なさと出遭い、光を放つ一瞬をいっしょに抱きしめていただけたら........


五百四十六の昼 (2004.8.25)   そして今

 山下さんを検索してみたら、新進の演出家であったので驚いてしまった。優しいひとで傷つきやすそうな方だったが........壌さんもそうだが、狂言を長くなさる方はなぜ的確な目を持っているのだろう。そして波長があうのだろう。山下さんと初めてあったそのときから、なにか懐かしい以前から知っていたような気がしたのだ。
そして話をするうちそれは確信にかわった。

 山下さんが演出する芝居に森くんが出る。行ってみようと思う。どんな芝居を見せてくれるだろう。29日は壌さんの動物園物語、これは28日のわたしへのご褒美のつもり.....早く観たい。

......というわけで今になって弥陀ヶ原を変えている。山下さんが疑問に感じたところ最後のふたりが決意する場面を伽耶と忍によりそってみる。



五百四十五の昼 (2004.8.24)   過去へ

 13:00 青山にて山下さんと待ち合わせ。聞いていただいたが、弥陀ヶ原もフランス窓も言葉を失い語れない。家では語れるのに人前でなぜ語れないか考えたが語りたくないからだと気づいた。なぜ語りたくないか、ここまで語ってよいのかという恐れとトラウマ。山下さんに言わせると主観と客観、地の文とセリフの問題。弥陀ヶ原はもっと登場人物になりきってもいい、すなわち客観に徹せよということ。フランス窓はテーマの拡散をなくするため1行削除、テーマを絞るため二行追加。山下さんが演出する劇のテーマとフランス窓のテーマが酷似しているとのこと。たくさんの示唆をいただいた。おとうちゃまのことは文句なしとお墨付き。

 青山アンデルセンで食料を買い込み、チェックイン。夜景が美しい。6:30から9:00練習 9:00〜12:00昏る。12:00〜2:30練習 2:30〜5:00眠る 7:30〜10:00練習 11:00チェックアウト 集中した練習ははじめてだ。音がまったく無い。なにを語りたかったかわかった。 なにを伝えたかったかわかった。まったく異なる三つの話はひとつ共通のテーマを持っている。
 
合間夢を見る。ちょうど40年前のあの教室。外はしんと櫻の花が散っている。教室には誰もいない。静かな時間が過ぎた。過去との交流。会いたかったひとたちがわたしのところにおとづれた。



五百四十四の昼 (2004.8.23)   天と地のあいだ

 きのうの朝、福島から義父と義妹夫婦と甥が遊びにきた。義父は86歳、二人の妻に死に別れ辛酸を舐め風雪に耐えたこともみな歳月に流して穏やかな澄んだ目をしている。かずみさんに会いたかったのだろうか。声楽もダンスもきのうは休み、まりがダンスを楽しみにしていることを知っていたのでかずみさんに娘たちを送ってもらい、わたしはひさびさに10人分の食事をつくるおさんどんをした。さてテーブルにご馳走が並んだところで気がついた。うちには割り箸も塗り箸もないのである。かくてお客様はフォークで和食を食べる仕儀となった。我が家は客が泊まることを全く想定していないので、4人分の床をとるにも台風がきたような大騒ぎである。ひとり分は寝袋を出した。夜は近くの温泉に案内した。観音の湯というこの温泉は数年前白石さんというお得意さんが掘り当てたのだが、今まで一度も行ったことはない。からだの芯まであたたまるなかなかの湯で、湯治が目的ならほとんど循環湯の鬼怒川などに行くよりよほどいい。

 今日は朝食を準備してから西荻のワークショップに向う。壌さんの前でロミオを演じる。他のひとはきのう終っていた。ジュリエットと月との対比を際立たせる、昇れ、美しき太陽の昇れ!をもっと意思を持ってとのダメ出し、方向性はよい、ことに後半は非常によいとのこと。あとで山下さんから昇れの前に息を換えるその時、昇れという思念で息を吸い込むといいと教えていただく。終ったあと14名の仲間とみかさで食事。30代から70代のそれぞれが一家言を持つ個性豊かなあたたかい仲間である。駅まで歩くあいだ、ふたりの女性がロミオが素敵だった、16歳の少年にどうしてなれるのだろうと言ってくださった。それはことばで外側をつくらないからだと思う。わたしでなくなる、わたし以外の存在になる、それだからわたしは芝居がすきなのだろう。

 4時トッパンホール、鶴城さんの琵琶リサイタルに行く。一番前の座席に座る。一弦のひびきでわたしの心臓は掴みとられる。涙が流れてとまらない。ひびきのなかにいるのかひかりのなかなのかわからない。琵琶のひびきのなかにほとんど官能的な陶酔がある。澄んだ声は祈りのようだ。アッシジの聖フランチェスコの物語は思っていたよりはっきり聞き取れるのだが、物語に突き動かされているのかひびきそのものかよくわからない。夢うつつの二時間。となりの女性も泣いていた。琵琶など和の楽器は本来他者に聞かせる目的でなく、奏者が天地と一体になるために演奏されたのだと隣の学者風の紳士が話していた。

 コンサートには語りの世界編集会議のあとの櫻井先生と稲葉さんもみえて、終演後 ご一緒に軽い食事をした。

 



五百四十四の昼 (2004.8.22)    まぼろしのワダツミに向って

 それでもわたしは読んでくださる方を意識してないのではない、これを今読んでくださる方、これから読んでくださる方に、webの大海に向って囁きつづけている。どなたが読んでくださるのだろう。わたしには見えないが、夜半、また主婦の仕事が一段落した明るい昼、そして早朝、お気に入りから、または検索してきてくださるあなたに向って語りつづける......わたしはここにいます。わたしは生きて、ときに自信を失ったり、なにもかも放りだしたくなったり、絶望したり蹲ったりしながら、夕陽に背を押され、やさしい方のひとことで甦り、美しいものから力を得て立ち上がり、また歩きはじめます。あなたもどうか健やかでお元気でいてください。歩きつづけてください。まぼろしの宙の大海、幾星霜にわたってひたすら歩きつづけるひとびとの群れ、それぞれ孤独に自らの闇と光を抱いて歩き続ける......だがわたしたちはひとりではない、孤高の島が海の底で大いなる大地に繋がっているように、わたしたちは遙けき彼方に遡る共通の記憶を持っている.......そこに向って語り手は語り続け、役者は自らを投げ放つ。.......



五百四十三の昼 (2004.8.21)  では、なんのために

 朝、事務所のそうじ、登記所、銀行からユザワヤへ....。会社の印鑑証明のカードをまたも(たしか4回目)なくしたので再発行に30分かかった。そのためヤスコさんを20分待たせてしまった。衣装のオーガンジーを二枚重ねにするために色あわせをした。といっても洒落た衣装ではない。

 それからヤスコさんとラポウザで食事をしてスタジオプラネット。会田さんおひとりを前に語るのはいささかきびしかった。弥陀ヶ原で意識に引っ掛かっていることばが出てこない。結局、もっともきわどいことばを削除することにした。でも、本番になったらどうなるかわからない。それにしても語りにするにははなはだ無理のある、内容ばかりを集めたような気がする。夜の部はまったく変えてしまおうか....どうしようか........

 ところで、この日記という本来人目につかないことを前提にしているものを公開する.....ということをなぜするか.....といえば  わたしの場合自分の今を明確にするためである。実際読み手からの反応はほとんどないのだから(櫻井先生と妹のほかは)書く側からいえば読み手を意識する局面はほとんどなく、どう受け止められているかもわからない。

 だが、自分で読み返してみるとなかなかおもしろい。これはすべてとは行かないが(赤裸々という方もいるようだが書く側から言えばそんなことはない。事実はもっとシビアであるしもちろんその程度の理性は残っている)かなり率直に日々を書き留めているからだ。すくなくとも日記をweb上で書くようになってから、自分を知る、してきたことを見直すことが容易になり、今なにをすべきかが明確になった。かなり進化の速度が上がったといえよう。なにしろ自分の予定や気持ちを公開するということはそれをカタチにするプレッシャーを自分に課すことになるのだ。読んでくださる方が立会人である。こうして怠け者のわたしは怠けるわけには行かなくなり、毎日フルスピードで駆け廻ざるを得なくなった。

 ずうっと昔の読書三昧、寝たいときに寝て、したいときにたまに仕事をする、高等遊民の暮らしが懐かしくもあるが、このスピードというものは習慣性があって、止ることができない。止ってしまうと生きている感じがしない。......が.....こうした暮らしもそろそろ考え直そうと思っている、ISOとシステム交換と社内改革と決算がいっぺんに来た、いわば明治維新と太平洋戦争と盆と正月がいっぺんに来たようなときに、語りのリサイタルをやるなんてことも偶然ではないのだ。ひと括りする時が来たのだろう。


 わたしはいよいよ人生の最終局面にさしかかったようだ。まず第一にひとを育てるのが今おもしろい。最初はカタリカタリだった。伸ばそうと育てればひとは伸びる。つぎにISOの真髄が教育にあることに気づいた。企業がはひとで成り立っているのであるから企業の成果をあげるには畢竟ひとを伸ばすことがもっとも有効である。......それにこんなおもしろいことはない。次に芝居、本音を言うと語りより揺さぶるものがある。語りは合評があろうと現場ではひとりだから、企画からなにから自分の裁量でできるかわりに他者の厳しい視線にさらされることもない。(発表会、リサイタルのほかは)芝居はまず台本という枠があり、多くのひとの視線にさらされることにより現在の位置が自他ともに知られるのだ。
 技術と肉体と精神の座標が、高みに投げ上げる力そのものが、ばしっと明らかになる。それが潔くていい。井の中の蛙、張子のトラは通用しない。過去の栄光も役には立たない。今、この一瞬だけ。

 自分がまだ育ちきらないのにおこがましいのだけれど、ひとを伸ばしながら自分自身も変わってゆけるような気がしている。.....ではなんのために.....もちろん食うため生活のためではあるが その先は生きるため 自分の生を充実させ輝かせ完結させるためである。究極一切の目的はこの生において自分をよりあるべきものへ近づけるためにある。響きあって抱き合って.......ひとつになるためには自己投棄、そこに行くには絶えざる自己との格闘、なんというアンビバレンス。

 あすはISO、そして日曜、ロミオのセリフが入ってない。いまだに台本を見て演じているのはわたしだけに違いない。


五百四十ニの夜 (2004.8.20)  語るということ

 日本の文化をタテの文化と云ったのはだれだったのか、萩原朔太郎は、日本文化の特殊性について地理的な国土環境の文化が、必然的に「縦の文化」に深く繋がっていったと書いているけれど、地理的なものとか、人間関係のタテヨコとは違う、もっと深いものがあるように思う。

 ストーリーテリングから連想されるものはわたしの場合単に語り手と聞き手の関係、すなわちヨコの関わりである。もうすこし進めれば過去と現在をつなぐという意味での縦という考え方はあるかもしれないし、西洋でも大昔、語ることは神への祈りであったのかもしれないが、日本の芸事の根本には縦すなわち天と地をつなぐという根本的な理念があるように思う。芸とは自分を磨く、高めるものであったばかりでなく、荒ぶる魂、悲惨な運命に斃れたものの魂を鎮め、悲しみを洗い清め、聞くひと、見るひと、語るひと、弾くひと、踊るひと、その場に居合わせたひとたちのよどみを祓い、本来神の子として持っている明るい、直い魂を呼び戻すためのものだった。

 そこには古神道につながるものがあって、わたしの心をざわめかせ、あこがれと畏れで充たす。あるのは自己の保存、自己へのこだわりではなく、全き自己投棄である。真の自分に近づくためには卑近な己を棄てねばならないということだ。これは世阿弥も語っている。「自分を棄てることで得られる境地を妙という」妙というのは世阿弥の言う最上位の状態である。そこで自己を棄てからっぽの器になり、そこに相応のなにかが充たされる。相応というのは魂のありよう、肉体の鍛錬、そして技術に相応ということなのだ。めざすのはそこだけ、生きているうちにどこまで行けるだろう。

 実際、ここまで書いてしまうともはや、書くことはなにもないのだった。


五百四十ニの昼 (2004.8.19)  さぁ.....

 カタリカタリ秋の講習会、櫻井先生の乗る電車が遅れたので、お見えになるまでの40分、ガイダンスと発声、声のひびきでどう伝えられるか、ことばにサブテキストを入れるとどう変わるか、実践してもらった。それから参加型の語りをして楽しんだ。参加者20名+お子さん5名。

 先生が見えて、だれかお抹茶をたててくれた。現在の状況、講座に望むものを半数の参加者に語っていただく。それから語りの歴史、口承の語りとは、なぜ語り代えをしてもいいかなど........資料の本を手にとりながらわかりやすく説明していただいた。モノガタリのモノとはなにか。最後に幽霊話をふたつ語っていただいた。宿題は「ひとはなぜ語るか」をまとめること。

 コーヒーをご一緒して鶴城さんのコンサートの話になった。先生もいらっしゃるという。お送りして、さぁ、仕事。銀行に行き、振込みをすませ、事務所にて、新しいソフトのマスターに入れるコードの打ち合わせ。既存の6台と新しい5台のうち10台のパソコンをつなぐのだが、サーバーが古い3台のパソコンを受け付けないので、SQLサーバーのインストールができなかった。

 
 
 ハシモトさんが衣装のことで業を煮やしてきてくれた。明日ユザワヤで11:00〜13:00、13:00からスタジオで会田さんと打ち合わせ。会田さんは卒論が遊郭や遊女のことだったそうで、話していくといろいろ共通点がありそうである。



五百四十一の昼 (2004.8.18)  旧友

 わぁ、わぁ 徳永さんからTEL、菅野さんからTEL きてくれるセミナーの旧友たち、竹内さんも!! やっぱり練習しよう、これから!!

 8月になってから毎日事務所で11時間労働である。社員さんたちからの相談もよくくるようになった。今日は新しいパソコンが5台入った。わたし用のパソコンもきて、名前は虹とつけた...家で今使っているのが宙(そら)、となりにあるのが風、次は森ってことはないね。

 明日は櫻井先生にお会いできる。カタリカタリの講習と夏物語の打ち合わせ......2時からパナック田形さんがソフトのインストールと講習、あさっては浦和、しあさってはISOの内部監査員講習、日曜はワークショップ、月曜は会計事務所と打ち合わせ午後青山、怒涛の一週間.....


五百四十の夜 (2004.8.17)   愛の一家

 パール街の少年に続いて愛の一家を読んだ。子ども向けの良質の本はおとなにとってもよい読み物である。子どものための本をジャンルにわけると、1神話.伝承民話の類 2童話 3生活をあつかったもの 4科学読み物 5推理小説 6伝記・歴史などである。ファンタジーは1.2.4にまたがるが独立させてもよい。ピーターパンやメアリポピンズやファージョンやピアスの諸作 などを2の童話に入れるのも無理があるように思う。 3のジャンルでは愛の一家や飛ぶ教室、日本で言えば住井すゑさんの夜明け朝焼けなどが忘れがたい。読むひとは思わず一家に巻き起こる物語に引き込まれ自分が家族も一員ででもあるかのように一喜一憂するだろう。あとフランスでやはり路地裏の子どもたちのおもしろい話があった。悪童物語などもわすれがたい。

 今日TELでふたり夏物語の申し込みがあった。どうなるのかいささか不安である。

 19日の櫻井先生をお呼びしての勉強会の日程が近づいてきた。都合3日のメニューを送っていただいたが、とてもびしっとした内容で思わず襟を正してしまいそうである。


五百三十九の夜 (2004.8.16)  掘り出し物

 なんとなく一日が過ぎてしまい、とリかえすべく夕方あちこちに出かける。本屋で中三の娘のために問題集を三冊、GP6などで服を探すが黒のヘンリーネックのTシャツを格安で買いミスタードーナツで一休み。それからブックマーケットに行って見つけた!!長野の昔話、生駒姫とか黒姫山のおはなしはすぐ語れそうだ。あと波津淋子さんの漫画を三冊、そして......講談社の少年少女文学全集を6冊、なんとこのなかに以前から探していた「パール街の少年たち」が入っていた。ハンガリーのブダペストを舞台にした少年文学の傑作である(と思う)。引越しの時手放してしまいそのあと手に入れようにも、もう長いこと絶版になっていたのだ。それが、わずか100円である。これだから古本屋は堪えられない。作者のモーリヤックがあの劇作家のモーリヤックと同じ人とは思わなかった。


五百三十八の夜 (2004.8.15)  たくや

 今日は兄弟で母のところに集まった。それに従妹の恵美ちゃんが次女、三女を連れてきたので総勢17人の大賑わい。母も楽しそうだった。料理やワインやチーズをみんなで持ち寄る。ケーキは妹がいつも二種類くらい焼いてくる。今日のケーキはニューヨークチーズケーキとパンプキンプディング。お煮しめ 山菜おこわ、サラダ二種 オードブルなどなど。子どもたちが100均に行こうというので100均でビンゴと景品を買って、みんなにも景品を供出してもらって、ビンゴ大会をして盛り上がった。なにしろ一等が現ナマ500円玉だった。1ッ等はもちろんわたし....である。心の中で 夏物語の成功を賭け、かならず1等になると信じていたのでほっとした。

 みなでばかを言い合っていい一日だった。混乱に乗じてわたしは琢を抱きしめた。わたしはたくやが好き、今の黒い目のこれ以上まっすぐになれないくらいのびのびしたたくやも好きだけれど、10歳のころの視線を斜めに崩した、やたらテンションが高くて喧嘩ぱやい、か細い少年がどんなに愛しかったか、あぁ彼はどこにいってしまったんだろう。事情があって父親が家を留守にしていたあいだ、たくはちりちり青い炎をあげて燃えているようだった。母親と派手なバトルを繰り広げ、均衡を保っているようだった。食は細く、ジョークを飛ばし、明るく閃光を放っていた。惣にしても、まりにしても、敬にしてもみな成長してしまう、それがあたりまえなのだけれど 見ていて痛い気がする。

 

五百三十八の昼 (2004.8.15)  続ひびき

 1項のひびきについては日本の古典芸能の方々にある種共通の認識であるような気がする。私自身、意味や文字ではなくひびきにある...という点では然りであるが、それだけでは豊穣とはいえないと思う。ひびきの解釈によって限定されたものにも無限の豊かな世界ともなる。?たとえばアを発する時、なにをイメージして発するのか.......ひとつひとつの音には音魂がある。それを理解して発しなければなるまい。

 けれど、それだけでいいというのではない。それだけでは受け取る側は(わたしの場合は)一色の濃淡のイメージでしか受け取れない。オイディプス王を観て感じたことであるが、共有しよう、伝えようという想い、語り手なり役者なりが文字でなくことばでなく、どれだけ豊かなイメージを抱き、伝えようとする切なる想いに突き動かされているかがたいせつなのではないか。
 



五百三十七の昼 (2004.8.14)  ひびき

  1ことばの実態は意味としての音声や文字にあるのではなくひびきそのものにある。

  2鎮魂ということばはふるくはたまふり、たましずめと読まれていた。古神道では鎮魂の本来の意味は「魂振り」という身体的行によって人間本来の生を輝かせ、躍動させることといわれている。「魂振り」と「魂鎮め」は相即不離である。

  3悲しい物語を語るとき、題材そのものは過去の事実であったとしても、語られるときは現実のものではない。聞き手は悲しいと感じつつもそれが現実に起こっていることではないと知っている。そこで安心して自らの悲しい体験をその登場人物に重ねて、自分のこころの奥に潜んでいるつらい想いを涙とともに意識の表面に吐き出すことができる。そのとき表面に現れた想いはそこに執着しない限り消えてゆく。そこに自分でも気づいていない心の傷やつらい想いを昇華してくれるカタルシスがある。悲しい物語を語る意味は悲劇的体験によって鬱積した人間の情念の世界、悲しく辛い否定的想いをいずくへか解き放ち、心の重荷を取り去ることにある。それは聞き手のみならず語り手自身も救う。
   
  4このとき、語り手の意識がたいへん重要になる。語り手は自分が悲しみのなかにあって語ってはならない。悲しみを超えた醒めた意識を持って語らなければならない。ことばを換えると無心になるということである。日常性(生活感情)や強い自我(自己主張)を持ち込むと、カタルシスとして虚空に祓われるべき想念が消えてゆけず日常空間に累積されてしまう。

  5語りには技術が必要だが、その技術に命を与えるのはインスピレーションである。インスピレーションがないということは何も創造されなかったということである。創造するのは語り手としての自己ではなく自己は単なる触媒、媒体でしかない。神の器になることである。その器になるには無心にならねばならない。無心になるということは祈ることである。

  6インスピレーションに二度と同じものはない。もう一度同じものをやってみようと思った途端スルリと逃げてしまう。一度おこなったことを握り締めてはならない。舞台はつねに一回の真剣勝負である。

以上は琵琶奏者、中村鶴城さんのHPから語りに通じるところを語りにことばを換えてまとめたものである。わたしは語りについて鶴城さんの考えにとても近いものを感じる。壌さんよりももっと感覚的に近い。ことに1項、3項.5項、8/22に琵琶の演奏会がるそうだができれば行きたいものだ、それもアッシジの聖フランチェスコを謳う.....なのだもの。わたしは数年前アッシジに行きたいがためにイタリア旅行に行ったのだ。

  7自己表現というものがもしあるとして、それが単にそのひとの生活の生々しい体験やそれに伴う感情や想いをぶつけることであれば、ひとはわざわざそのような狭隘な生な自己表現を求めて足を運ぶだろうか。もし表現すべき自己があるとしたらそれは日常の塵芥にまみれた魂魄にではなく、それを突き抜けたところ、もっとも根源的な存在としての霊性にあるのではないか。それは自分自身にもよくわからない深い存在の淵にあり、その解らない自己を求めて彷徨い、格闘する魂魄の遍歴、思索の旅としてではないか。自己が自己と対峙する、自己が己のうちなる自己を問う。芸術の本質とは、自己との孤独な対話である。舞台はその対話のなかで積み重ねられてきた思索をひとと分かち合うための創造的空間である。自己を確認する場である。時と空間の中に荘厳された場である。自己を表現するのではない。自己を問う姿がそのまま表現となる。


五百三十六の昼 (2004.8.13)  わが語るところのものは...

.......痛ましいであろう....プーシキン.......ではないが傷ましいばかりでなく救済であってほしい。 どんぐりで2:30から5:00までコーヒーとポットのウバ茶とともに三つの演目をイメージを追いながら小声で語ってみる。1時間15分かかる。すこし長いかもしれない。若干訂正するところがある。明日から当日まで声を出してみよう。一回フルートの会田さんと打ちあわせをし、衣装を揃え照明を準備すること。

 洗礼で原罪と自罪のすべてが消える.....というのは知らなかった。というよりあまり人間にとって調子のよい話だから忘れてしまったのだろう。罪というものがそんな簡単に消せるのなら地上にこれほど多くのひとが徘徊するものか!?愛する者がいるということほどの罰があろうかと誰かが語っていたが、まさに...と思う。

 愛するひとがいなければ苦しむことはさほどはない。なにが苦しいといって愛する者が苦しむのを見ること、愛する者を失わねばならないこと以上の苦しみがあろうか......食うことができずに苦しむ、金によって苦しむ、病によって.....、不安によって.....愛によって.......どうやら十戒のうちのなにを破ったかで落とされる場所が違うような.........文明国に生を受けたのはほぼ、ひとのギリギリの問題ではなく、愛の病による者が多いのではないかしらん.......


 さて、語り手はなにを語るか.......民話、童話、言い伝え、近代の小説、なにを語る、どのように語るかでそのひとの拠って立つ場所が見えてしまう。わたしは......愛と死を語る.......ことが多い。すなわちこれがわたしの病、トラウマ、もっと深く詮索すれば地上に堕された理由(わけ)なのではあるまいか。

 弥陀ヶ原....が遊女の物語であったのは.....またクラリモンドが遊女であったのは単なる偶然ではあるまいと思う。十に満たぬ以前に見続けた夢のあれにはどんな意味があるのだろう。己のことでさえ知るを許されるは氷山の一角、ましてひとのことなどわかろうはずはない。


五百三十五の昼 (2004.8.12)  お盆前

 会社に行く前に弥陀ヶ原心中を語ってみる。見えてきた......橋本さんがよく泣かないで語れる.....と云った意味もわかった。映像がところどころ鮮明に焼きつくように.心象風景も見えてきて心臓が鷲づかみにされそうになる。そうか...図書館で語ったときはまだハンパだったのだ。わたしは多くの女のひとに替わってこの話を語りたい。鎮魂のために......。

 フランス窓から.....これも自分の心象から生まれた話だからテキストを見ないでも語れるには語れる。.......宗教的な語句等の間違いがなければよいのだが。三つのなかでは一番むつかしい。

 一日忙しかった、盆正月前は事務はほんとたいへんだ。いただきものをアミダ籤でみんなにわけた。今年はビール、それもアサヒが多かった。社長を囲んでみんなが和気藹々となんとも楽しそうに語らっていた。.....昔のように。そう、うちの会社はそういう会社だった。今度のことはかずみさんにとってよいことだったと思う。

 昼間、デイケアの加藤さんを市役所にたずねちらしを渡した。新しい次長に紹介してもらい20分ほど膝をまじえ歓談。9/2のデイケアに来てくださるという。課長とも立ち話をした。夜仕事帰り久喜座の練習を見に行った。良きにつけそうでないにしろ久喜座はやはり久喜座だった。三ヶ月のあいだにすこしよそよそしい雰囲気になっていてすこし傷ついた。


五百三十四の昼 (2004.8.11)  引継ぎ

 午前中、顧客情報の引継ぎを弟とする。昼前上井草へ向う。14:00ジャスト信用金庫へ、△ハウスとの話し合いの経過報告、覚書に署名してもらう。契約書、登記について兄弟で共有にするよう提言、不動産屋の選択について提言、うるさい工事屋といわれようが施主さんのことを考えれば言わないわけにはいかない。現場視察、運良く帰る車に便乗できた。ほとんど眠っていた。

 Yさんと腹をわって話す。Nさんとも面接、 Nさんは男だが泣いてしまった。もちろん苛めたわけではない。ひとのこころは打てば響くのだ。全体会議、パパになったKくんに祝福と金一封、内部監査員の任命、SW分析の弱点克服についてディスカッション、9月〜6月までの損益の部門ごとの検証、去年は機械と車両の導入で軒並み損料が跳ね上がった。

 帰り 運転しながら気持ちが悪くなってあせった。脳貧血?
 あぁ ぜんぜん練習できないまま時間が飛び去る、どうしよう......



五百三十三の昼 (2004.8.10)  半分泣いた

 事務所からトムの会定例会に行ったのが11時、今日は研修室、会議室がいっぱいでステージのある視聴覚室だった。みなのあと、最後に弥陀ヶ原心中を語った。4人泣いた、4人は複雑な表情と...いったらいいだろうか。橋本さんは目が真っ赤になるほど泣いていた。語るといっても半分は読みながらではあったのだが、淡々と語ったつもりではあったのだが......

 合評で、聞いていて苦しい、生々しいという意見がやはりあった。そりゃあ覚悟はしていたが、その場では代弁とか、実際に近代にあったことを知ってほしいからとか答えてしまった。もうすこしやはらかいことばに代えてみる?でも、そうは言っても文字を代えればってそれだけでさほど変わりはしないのではないかとも思う。語り方.....わたしは語りたいのだもの......でも語りたいからって苦しい思いまでさせて.......救いがないからか.......強いていえばわたしが語ったからだ。あの話はわたしには語れるのだものひとによって響く語り、届かない語りはたしかにある、うわべの上手なだけの語りなどしたくない、聞きたくもないと今日も思った。でもひとによっては苦しい思いまでして聞きたくはないでしょう....ナマでなく昇華した哀しみに持ってゆくにはどうする........

 ちょうどその場に.......山下さんが23日青山で聞いてくれるとTELが入った。よし、まずテキストの手直し、あとは山下さんにプロの耳で聞いてもらうこと。

 10日の支払いと給振り、融資の打ち合わせ そのあと浦和の会計事務所で相談、本橋共同住宅の契約書について、利益をどうするか、管理部の陣容と今後について又さんと話し合う。又さんから「奥さんは入力業務などしないでほしい、経営者ははたから見てぼうっとしているように見えても常に経営について考えているのだしその余裕を持っていてほしい」と言われる。夏物語のことを聞かれた。覚えていてくれてうれしかった。

 妹の家に廻った。弟もやってきて弟にソワレのワインを10本頼んだ。妹にケーキを3ホール、ケータリングの料理も頼む。妹夫婦はグッディーズカフェを経営している。サラリーマンの時はきっちり片付いていた家がこのごろは雑然としてきてわたしには居心地いい。甥の琢也と良太も顔を出す。なんて美少年!!

 三人でワインを飲んでおしゃべりしているうちに12時近くなり、妹に自転車で送ってもらったが、(アルコール入りなので)間に合わずお泊り。ふたりに末弟の相談に乗ってやってくれるよう頼んだ。



五百三十ニの昼 (2004.8.9)   化粧

 化粧すら忘れてしまった。髪は伸び放題、鏡は見ないようにしている。わたしはここにいる。ビジネスの最前線で闘うわたしは......裏切りと微笑と.....売掛金と未収金と.....住民税と残業手当と......に塗れてわたしは.......語れる.....だろうか。これは賭けだった、最初から....。だから....できると....思ったのだけれど。


五百三十一の昼 (2004.8.8)   葛藤

 きのうは神楽坂の踊りの会を断った。今日はワークショップに行かなかった。イライラして子どもたちに当たった。そぅ 家族が一番たいせつだ。だけど.....

五百三十の昼 (2004.8.7)    それだけではない

 ワークショップに出かける前チケットの件で望月さんからTEL、チラシを見て西洋のおはなしと思われたらしい。チラシはゴーチェの死霊の戀をイメージしたものだから、実際に会場に足を運ばれおはなしを聞いた方はギャップを感じるかもしれない......それでも揺り動かされるものがあれば許してくださるだろう。三つとももとになっているのは真実あったおはなしだから、聞き手と交流したときになにかが起こると思う。

 ワークショップには遅れてしまったが、宝石ということばをさまざまなサブテキストで語るレッスンをしていた。こよなく美しい大切なものというサブテキスト、争いをもたらす醜悪なものというサブテキスト、ほしくてたまらないものというサブテキストなどなど.....それにわたしはイメージを重ねてみた。海の宝石、艶やかなまろやかな大粒の真珠、碧玉、紅い珊瑚........

 そしてロミオ......不思議なことがあった。ロミオのセリフは半ばまでそのまま、後半ダメだしがあった。ところがワークショップが終ったあと放心状態で帰り道カフェでお茶をのんだあとテキストを読んでみたが、それはわたしの知らない台本、さっき読んだのとは全く違うものに思われてならなかったのだ。つまり意識が飛んでいた。お浜の時もそうだったけれど、芝居では簡単にトランス状態になってしまう。どうしてだろう?.....当然、語りには客観的な視点があるからだろう。地の文を語るには冷静な視点がいる..........にしても

 弥陀ヶ原心中でわたしはなにを伝えたいのか、虐げられた会津のひとたち、貧農に生まれたばかりに廓に売られた娘たち......の替わりに語るのだ.......けれども、それだけではない。


五百二十九の昼 (2004.8.6)   弥陀ヶ原

.......は月山の八合目にもあった。食いつめた百姓や年寄りが死ぬために足をはこんだ場所だった。月山は霊山だがそういういわれの場所だそうな。....ところで弥陀ヶ原心中ができあがった、一週間遅れたがよしとしよう。

 今日はパナックと打ち合わせ。その他書類つくり、管理部打ち合わせ。

五百二十八の昼 (2004.8.5)   バラッド

 午前中佐野さん来社、リース契約。その後TELでパナックのタガタさんと打ち合わせ。午後1:00ぎ△ハウス、解体の件だめでもともとときのうお願いのメールを部長あてに送っておいた。今日経理部長。M部長との話で50万円出してくださるとのこと、契約の差し替えの書類に捺印。M部長、ツカサの社長をひどく叱る。もっと真摯になれ、森さんに土下座して謝れという。土下座されてもしょうがないし過ぎてしまえば、いい勉強になった。△ハウスのえらい方々はほんとうに人間味があっていい方ばかりだった。帰り、下井草の現場を見にいったが迷子になってぐるぐる小一時間廻ったあげくあきらめた。

 駅の近くにカフェ・モンクという喫茶店をみつけジュートの滑り止めの敷きつめてある階段をのぼった。ガラスを嵌めたドアを開くと、思ったとおり流れてきたのはくジャズ.....名盤バラッドだった。コルトレーンのサックス、マッコイのピアノ まっすぐな音色、リリックででも甘すぎず、優しく、透徹した 沁みるようなサックス 地中を流れ 野に溢れ出すようなマッコイのピアノ.....なんて美しいのだろう。コンテンポラリイだけどクラシックに通じる格調、ギリギリのそこしかない細い細い道を辿る完璧な旋律......目を瞑って聞いていたら涙が溢れた。

 カフェ・モンクは由緒正しい喫茶店だった。すみずみまで掃除の行き届いた店内は白い壁、カップも皿も白、梁、ムクの一枚板カウンターの天板、テーブルはでオーク色、射し色はオレンジ、マスターは礼儀正しく、奥様は理知的な方だった。



五百十七の昼 (2004.8.4)   会津鳥っこ数え歌

 午前中は会社の連絡会そのあと健康診断、朝の連絡会ははじめてだが悪くない。腹蔵の無い意見が出た。このごろN課長とM課長の顔色が気になる、Nさんは奥さんがノイローゼで早く帰ることが多い、Mさんは今日聞き出したところ、奥さんがフルタイムで働きだしたようだ。Nさんは医者からから転地を奨められていてちかじか遠くに行きそうな気がする。彼は一度辞めて戻ってきたのだが、今度はほんとうの別れとなるだろう。Mさんには4人の子どもそれもまだ幼い子がいるのだから一番下の子が小学校三年を過ぎるまではフルタイムは無理ではないかと話した。Mさんは喘息で年に一回は一月近く休むのである。目の前のお金に目が行くのはわかるけれど、無理をすればどこかにひずみがでる。家庭が壊れてはなにもならない。

 浦和の駅前で水密桃を売っていた、美味しそうだったので6つ買い求めた。重たい想いをして家に戻ると進物の桃がとどいていた。
えてしてこんなものである。

 ひぃとつ ひばり ふぅたつ ふくろう.......鳥ッこかぞえうたを電車のなかでぶつぶつ唱えていたら 気の毒そうな顔を三度された。弥陀ヶ原心中のはじめと終わりに歌ううただ。プロットができ雰囲気やイメージが生まれたが仕事が忙しくて集中できない。いつカタチができる?すこし焦っている。


五百二十六の昼 (2004.8.3)    続戦場

 夜中目覚めて 弥陀ヶ原心中をテキストにした。1/3くらいは行った。これってかなりすごいことになりそうだ。ここまで語って大丈夫....だろうか。まったくバラバラのお話なのに三部作になっている。どうか語れますように。準備が万端整いますように。

 朝8時から事務所で大車輪で働く。事務能力は皆無と思っていたがこんな潜在能力があったのかと自分で驚いている。語りたい思いが原動力になっているのかしら.....?会社全部門の職務分掌表(スキルマップ)顧客マスター、協力業者マスターの完成、収集運搬日報作成、スキルマップを基にした全部門の教育基準、採点表、債権譲渡契約書 内容証明の作成など。

 夕方N建設に取り立てに行った。ここの会長とは20年来の付き合いだが、糖尿病で失明してもう10年になる。透析もしているそうだがすこぶる顔色はいい。部屋に入るなり「おっ 声が変わったね 軽くなった」と言われた。以前はもっと甲高い声だったそうだ。腹式のせいかもしれない、ちょっとうれしかった。集金は6日に返事をくれるそうだ。市町村合併で起こるハッピーなこととか近隣の建設会社の動静など情報を聞いて帰った。

五百二十五の昼 (2004.8.2)    戦場

 七月いっぱいで弟が辞めた。寂しさを振り払うように仕事に打ち込む。昔はこうして事務所で先陣を切って働いていたのだっけ。電話応対は営業の先端だと思っている。かかってきたTELは逃さないで、必ずお客さまの満足のいく仕事をさせていただくという信念でとる。その間仕事は絶え間なくあって月末の請求書、立て替え金、ISOの書類つくり、新システムのためのコード見直しなど、美子ちゃんと藤田さんとわたしは今日目の色を変えて仕事をした。

 夕方、かずみさんが自治医大から戻って「ごまが死んだ」という。ごまちゃんは置き場で飼っている犬、テリーの母親だ。仕事が終ってかけつけるとごまは5M四方の檻のなかに横たわって死んでいた。風がごまの黒い長い毛をかすかに震わせている。わたしは手をのばしてごまのくびすじをなでた。まだ温もりが残っている。二匹の仔が風のように走ってきてわたしに飛びついてきた。ハーフと光成だ。猟犬のように面長で精悍な顔、しなやかな体つきでわたしに体をすりつけ顔中嘗め回す。さびしかったんだろう。母犬が死んだことはわかるのだろう。

 夕暮れ迫る置き場で1時間 ごまのそばにいた。辛抱強い犬だった。仔犬のときかずみさんが拾ってきた、声が出ない犬だった。二年ほど置き場にいてたまによるとうれしげに尾を振った。今年4匹の仔を生し一匹はもらわれ、一匹はわたしと暮らしている。きのうは元気に外の肥料の山で遊んでいたという。
「ごまちゃん、おまえ ほんとうにがんばったね。えらかったね。こどもたちのことは心配いらないよ。」すこしこわばったごまの手足をなでながらわたしは囁いた。そして、わたしもごまのように精一杯生きて子どもたちを残して死んでいくんだなぁと思っていた。


五百二十四の昼 (2004.8.1)    かずみさんとわたし

 
 冷たい素麺の昼食のあとかずみさんと栃木までドライブした。採れたてのお野菜を山ほど買って、今日は岡ひじきのサラダ、茹で玉蜀黍、青唐辛子と豚肉の味噌炒めにしようと思う。それからパントマイムで天然酵母の美味しいパンを山ほど買った。ここのパンは噛めば噛むほど滋味があって美味しい。そして隣の野州麻紙工房で前から気になっていた丈高いスタンドを見せてもらった。スタジオはそれはシンプルで素敵なのだが灯りがひとつあったらいいと思ったのだ。このあたりは大麻を栽培している。折りしも刈りいれ時だったが、汗を滴らせかけつけてくれた若々しい奥さんからいろいろと伺うことができた。

 それからかずみさんとカキ氷の看板を見つけ蝉時雨のしたでふたりならんで氷イチゴをサクサク食べた。青い空のした車は高速を走る。緑なす山々、湧きあがる白い夏雲、しあわせがこみあげてきてとちゅうまで歌を歌っていたのだがつい眠り込んで三度もしかられた。


五百二十三の昼 (2004.7.31)  拮抗


 行き着く涯などどこにもない広野を盲滅法歩いているわたしがいる。...天上を振り仰ぐとくらくらする。単純にいって生きるとはinと outの繰り返しなのだ。エナジーを取り込んで発散する、消費する。食物も情念も.....そしてたいていinよりoutの方が快感である。観客、聞き手サイドでは相当の技量の演奏、演技、語りでないと魂までもは揺り動かされまい。個人においてたとえば恋人と別れた直後とか......特別の状態にある場合は別として。しかしoutputする側には相応の喜び、快感があるのではないか。そのうえに入神の演技、演奏ときたらそのときの魂の喜びは世俗的なもの全てを犠牲にして惜しくないほどのものと思う。役者と乞食は三日したらやめられない....とはよく言ったものだ。けれども入力する観客、聞き手がいなければ当然outoputすることはできないのだ。

 聞き手や観客になった時、本質では押し流されたい、圧倒的な流れに巻き込まれ、ひとつになってうねりたいと望む気持ちがある。最後はやはりひとりで岸辺に打ち上げられるのだが。つまりいい劇や語りでは入力出力が拮抗する。矢のように突き刺さり溢れ抱きあう........が、たいていはそこまでいかない。あぁ楽しかった...くらい。そうするとある種のストレスがたまって語りたい、芝居がしたいという気持ちではちきれそうになる。

 そんなことを考えるとチケットを買ってくださるというのはなんてすごいんだろうと思うのだ。見えないカタチのないもの.......信用して買ってくださるのだからその期待に応えなければと思う。そうしてできるなれば聞き手と語り手が拮抗するような語りがしたいと思う。



五百二十ニの昼 (2004 7 30)  ワークショップのまとめ

◆ヨーロッパの演劇人はヨーロッパは新しいものをもはや生み出せない。掘り起こすものがない。日本は演劇の宝庫であると言っている。JAPANは敬意と興味の的である。能舞台には何もないが全てがある。過去現在未来、あの世この世が顔の向き照明ひとつで変わってしまう。それはヨーロッパの演劇人にとって驚天動地であった。歌舞伎はサイケで大胆、文楽は世界一の人形劇である。見ているうちに人形の遣い手が見えなくなる。ライオンキングは文楽がヒントだった。日本文化は触媒となり得る。国際人とは自国の文化を知る者である。日本を日本人自身が見直す時ではないか。日本のなかで日本を発信しよう。
◆この国にかってあった、香しい、力強い、情緒連綿たることばの復活。

◆登場人物は台詞のなかでなにを期待しているか、実際は言えないことの方が多い。表の台詞より裏の気持ちが大切。登場人物の体内の熱。中に溜まっているもの。
◆登場人物のトラウマを共有する(役者、観客)登場人物を観客に愛させる。
◆役を演じる時気をつけること。位取り(身分、格式)品(しな、品のある無し)意 気(自分を支え、飛ばそうという圧)
◆舞台上のリアリティー→舞台では増幅する、筋力ではなく意欲で。うたう→リアリティ 非日常の灯を点す。充分に観客に伝える→聞かせられていることに気がつかない。
◆すべての人にわかる巨大な普遍性をもって伝える。(人間という人間の普遍性)いっしょに手を握っている。自分の物語などどうでもよくなる。
◆精神の天上をめざす。しかし内圧に標準を合わせパ〜ンと飛んでゆくためには技術の裏づけが必要だ。楽器としての声。肉体の鍛錬。
◆自己限定する者、自分に負ける奴は役者にならなくていい。安全な人生、観客席に戻ればいい。きのうより今日、今日より明日と変わってゆくことが自信になる。

 きのうから腹筋をはじめた。想いを飛ばすために大きく高くなくとも深い余力のある声を出すために体は鍛えたい。倍音は背中の下から出す。コントロールはむつかしい。

 今日パナックとリコーと契約の段取りをし、最後はあっけなく決まった。サーバーを立てざるを得なかったため予算ははるかにオーバーしたが仕方あるまい。

 ゆみちゃんが明日でやめる。ゆみちゃんの気持ちに気づいたのちわたしは無駄と知りながら翻意に向けて努力したが、一旦決まった気持ちは元にはもどらなかった。これも仕方あるまい。かずみさんや折さんからゆみちゃんの話があったとき「若すぎるし無理だと思う」とは話してあった。世話になっている会社からの話だから断れなかったのもわかるが、ゆみちゃんを手取り足取りして教えてきた事務のふたりの時間は戻らない。わたしはすこしばかりいや相当に腹がたった。誰にとはいうまい。かずみさんにも「今後管理部の人事はわたしに相談なしに決めないでくださいね」と釘をさした。それでもゆみちゃんがいるあいだに、ISO関連、電子ファイリングのための書式作成、社員マスター、協力業者マスターの入力をしてもらえてよかった。よしこちゃんには顧客、協力業者、商品コードの見直しリストつくりを頼み、藤田さんは基幹業務、しみじみわかったことは仕事をきちんとこなしてもらうにはわたしが指示し段取りしなければだめなのだということ。朝の最初の30分もしかしたらもっとのんびりお茶のみをしている。弟夫婦に任せているあいだにそういう風にしみついてしまった。朝からパッパと仕事に取り組めば残業も減るだろうと思う。8月からがんばろう、もっといい会社にしよう。



五百二十一の昼 (2004 7 29)  虹

 .....身を灼き尽くす.....愛に似ている.......束の間浮世を棄てて何かに身を捧げること.......観客と.......を共有すること..........肉体と精神の集中..........至福.........レパートリーを増やすこと..........

 これは語り手ではなくパリオペラ座のエトワール(花形舞踊手)たちがバレーについて語ったことばだ。夕方、東の空に大きな虹がかかった。きのうも二本の虹がかかったそうだ。わたしはきのう虹は見られなかったが雲の縁が金色に輝く絢爛たる日没を見た。このところの空の美しさは不吉な感じさえする。目も綾な奈落、再生を内包する終焉。きのう送った夏物語の案内に返事がきた。どうか聞いてください。闇と光、絶望と赦し、そして希み........


五百二十の昼 (2004 7 28) 着物

 この夏、母は箪笥から着物を出しては風に当て、出しては干していた。そしてわたしに自分のものを持ってゆくようにと云った。母は着物が好きで、妹やわたしの娘時代に次から次へと誂えてくれた。たとう紙に包まれた袖を通したこともない加賀友禅や茜色の紅葉の付け下げなど、14.5着もあったろうか.....持ち帰ると箪笥はたちまち一杯になってしまった。

 はじめは面倒なものを押し付けられたくらいにしか思っていなかったわたしも一枚いちまい紙縒りを解いて着物の模様を眺めているうちに見る間に気持ちが広がっていった。赤い亀甲模様の羽織は祖母が手ずから織ってくれた七五三の祝い着を染め直したものだった。祖母は秩父の出で美しいばかりでなく機織の名手だった。淡いクリームの綾織りの地に梅の大木を大胆に染め抜いた振袖は昔手伝っていた弁護士の奥さまからいただいたものだった。それは奥様が反物のまま長いこと箪笥にしまっていた思い出の品で成人式の前にわたしに下さったのだ。
 ほとんどは娘たちに譲るしかない派手な色柄だったが、なかに灰紫の乱菊の羽織や青い縞のウールや見事な染めの紅葉模様があったりして、語りに和服...と考えたこともなかったがこれを着て雪女やつつじの娘を語ったら.....と思いついたのである。

 それにつけてもなぜ老いた母は突然身辺整理を始めたのだろう。父の命日が過ぎたからだろうか....それとも訳もなく......なんとなく不安である。



五百二十の昼 (2004 7 27) 心積もり

 夜なべをして「夏物語」のためのちらしと封筒と手紙を印刷した。会社概要と名刺も頼まれていたので一晩印刷屋のようだった。わたしのプリンターのインクは5色同梱なので、青ばかりつかう習い性からインクがすぐ無くなってしまう。日曜日にスタジオプラネットに届けるポスターを三枚、ちらしを80枚、地図を80枚、概要二冊、名刺を600枚でカートリッジ二個がカラになった。

 ちらしの送付が済めば、あとは弥陀ヶ原心中を仕上げて物語に集中するだけだが、三つの戀のものがたりをどうやって生きていけばいいのかやってみないことには正直わからない。昨年の暮れも短期間のあいだに芦刈の歌、つつじの娘、ディアドラ...と戀の物語がつづいたのだが、並行してというより順番に切り替わったようだ。おとうちゃまのこと....は中島敦夫人タカさんの想いを一人称で語るのだが、弟が友人の光さん(中島敦のお孫さん)を誘ってみるという。もしおいでいただければこれにすぐる喜びはない.....アラ、中島敦さんの文体になってしまった。

 パナックとリコーと佐野さんとの第一回打ち合わせをしたが.寄り合い所帯でどうも頼りない。心配になってきたがあとにはもう引き下がれない。すでに供給者マスター、社員マスターと作り始めている。売り上げ、仕入れ商品コードも見直しを始めた。システム切り替え、ISOの書式つくりと電子ファイル化を粛々と進める、暑い夏。


五百十九の昼 (2004 7 26) 理論

 役者には強い精神とそれを高みに投げる技術の裏づけが必要だと壌さんはいう。だれにもわかる普遍性、たとえばことばがなくとも、おはまの真情はチベットの母にもニューヨークの母にも通じるはずだという。そしてきのうよりも今日、今日よりも明日と自分に妥協を赦さない孤高の厳しさを役者を志す者たちへ壌さんは要求する。それは語りにも通じるものだし、わたしは壌さんについてゆきたいと思うのだが、つい立ち止まってしまうのだ。

 たいして芝居を観ているわけではない。オイディプス王とほかにすこし......でもわたしは魂の底から揺さぶられはしなかった。上手い、すごいとは思った。でもいつもなにか型のような箱のようなものがあってそれが邪魔をしているような感じがある。古典芸能は型がある。自分を棄ててカラにしてはじめて到達する境地があるという。現代劇においても役者はそこにいてはいけないという。その役の人物がいるだけだ。壌さんはいつもそこにいる。半透明の枠が残っている。そんな気がしてならない。

 そのことをここしばらく考えつづけてきたわたしは、きのう打ち上げのとき、アルコールの力を借りて言ってしまった。「壌さん、壊れてください......」蜷川さんも認める名優の壌さんに素人のおばさんが言うことではなかった。.....がわたしはわたしの魂の耳が間違っているとは思わない。壌さんは気づいただろうか。動物園物語でコワレテくれるだろうか。わたしの魂を揺さぶり乾いたコンクリートの上に叩きつけてくれるだろうか、冷たい青い深淵に突き落とし、天の高みに放り上げてくれるだろうか。そうしたらわたしはどうするだろう。

 偶然というには、その動物園物語があるのは8/29......夏物語の翌日なのである。



五百十八の昼 (2004 7 25) 穣さんは......

 ワ−クショップに「行く時間」をつくるのはたいへんなことだ。仕事、家事、その他でいっぱいのスケジュールに往復時間もいれて7.8時間をすべりこませるのだから睡眠時間を削るしかない。でも先々週の金、土、先週今週の金、土、日とつづいたワークショップで得たものはわたしのちいさな犠牲を遥かにはるかに上回るものだった。ことに瞼の母の壌さんのレクチャーはわたしを揺さぶった。日本語への想い、役者とは、人間とはなにかを含めて。

 30人の受講者は20代から50代まで座員の人もたまさか中に入った。今日わたしと組んだのは偶然これも語り手だった。籤引きの結果わたしはまた母親のおはまで本音をいえばがっかりだった、一度は忠太郎になりたかったのだ。相手の方は上手いひとだがやりにくかった。息子への滲む思いの出しようがむつかしいのである。きのうの方はわたしより年配で決して上手ではないのだが心がこもっていた。わたしは思わず「あなたと忠太郎の間の隙間を埋めて....」と頼んだ。

 好きな場面を順に演じてゆく。わたしは5分、おはまとして生きた。最後に講評があった。壌さんの講評は実に的確である。上手下手を超えてそのひとの立っている場所が鮮明になる。わたしのおはまの講評は短かった。「非常によかった。おはまがそこにいると納得できた。.....ただ最後おはまが忠太郎になぜ堅気になってこなかったのだと口説くところにもっと情念をこめたほうがいい...」と言われた。

 おはまにはなぜ忠太郎がやくざになってしまったのか、子を置いてでてきた自責の念、天と逆らいようのない運命に母親としての抗議の気持ちがあったのである。わたしには忠太郎への想いしかなかったから、この指摘は納得できた。壌さんがわたしの相手役に告げたのは耳を覆いたくなるほどのことだった。あなたは上手く見える。だがあなたは自分がこうだと考えている忠太郎、こう見えたい忠太郎を演じてみせているだけだ。これは役者をこころざす者にとって致命的なことだよ。

 これは語りにも通じることだ。語り手はわたしが語りたいものがたりを語るのではないのだ。ものがたりに命をこめるのと似ているように見えるがまったく立つ場所が異なるのである。

 ワークショップが全て終って家のことが気がかりだったがわたしは打ち上げにすこしだけ参加した。壌さんにどうしても伝えたいことがあったのだ。
よく弟に言われる。「あなたはひとこと多い」....だが言わないでいられない。そのことにとてもたいせつなことに相手が気づいていないとしたら.........気づいたとしても手をつかねているのだったら、たとえそれがそのひとにとってつらいことであってもだ。
なぜって、わたしだったら伝えてほしいから。....この項つづく


五百十七の昼 (2004 7 24)  ことばなんて......

 朝8時から事務所に行く。きょうは期せずして管理部の4人が揃ってしまった。午後からはゆみちゃんとわたしだけなので土曜といえども遊びにいけない。自分の仕事もさりながら、IT化とISOそして引継ぎのスケジュールと他のひとの仕事の段取りが忙しい。まりのダンスとわか菜の塾の手配、買い物........で電車に飛び乗ったのは6時すこし前だった。

 ワークショップ二日目、瞼の母.忠太郎と茶屋のおかみになっている忠太郎の生みのおっかさんの会話を15組で実演する。
 壌さんは「ことばなんていらないんだよ!!」と云った。もちろん、ことばが要らないはずはない。ことばに囚われるな....ということだろう。ことばの向こうにあるもの、情念の内圧.....放たれたことばの奥の言えなかった想いを伝えろよ......ということなのだろう。小奇麗に整った台詞の応酬は無意味な信号だ。交流する。呼吸。語りもまた伝えるのはことばではない。


五百十六の昼 (2004 7 23)  命日・スヲッチ

 思い出した。今日は父の命日だった。朝会社の大掃除、管理部の打ち合わせ、電話の応対について統一する。仕事の振り分けについて次週繰越、それから△△ハウスの打ち合わせ。ミネ部長から査定についての話、本橋邸の工事について再開できるよう骨をおってくれたので、リフォーム工事についても通常二次下請けにこのような支払いはしないのだが、△ハウスとしては破格の支払をしたいということだった。全額ではないが快く諒承した。

 なんだかうれしくて小田急で青い透明アクリル樹脂のスヲッチを買ってしまった。馬鹿なんである。実はパールも.....ほんとうにおバカである。それから座のワークショップに行った。ことばもない。うずうずする。こんなにも血が騒ぐ。


五百十五の昼 (2004 7 22)  夏期講習

 朝事務所、11時刈谷先生のレッスン、仕事のことが心配ではじめは上の空だったが歌っていくうちにわずらわしいことはみな消えてしまった。午後カタリカタリの夏季講習、台詞について.....あかずきんちゃんとおばあさんにばけた狼の会話を2人一組で相手を代えながらやってみる。56通りの狼と赤頭巾ちゃん、たいそうおもしろかった。それから音の響きで伝える練習、イメージを伝える練習........語りとはなにか........代弁者について.........パネルシアターと語り......カタリカタリのメンバーの独創性といったら........一番美しいものみにくいもののお話がまったく異なる再話になってしまい.....果たしてこれでいいのかとすこし心配になったりもした。

 あとはひたすら仕事。わか菜を夏期講習に押し込む。


五百十四の昼 (2004 7 21)  同じ轍
 
 一日仕事に明け暮れる。同じ轍は踏むまいと念じてはいるがひとはなんて弱いのだろう、芝居や語りがしたくてしたくて.....でもゆみちゃんのはなしを聞いて目が覚めた。ゆみちゃんは思いつめた目でわたしもう自信がないんです....と云った。わたしが事務所にこないとダメなのだ。それも夜ではなく朝から....そうしないとうまく運ばないのだ......今日はISOのコンサルタントと打ち合わせ.ISOのアタマ・目的をすげ替え、顧客満足度ではなく会社存続のための要求事項にする。こんな乱暴な提案に三上さんは乗ってくれた。

 不適合も同様にクレームや良くない状態...から会社の存続をあやうくする要因に変えた。その内容は顧客からのクレーム、地域住民からのクレーム、社内の人的ミス、(機械、安全に関わる人的被害、下請け業者、顧客による危機)など多岐にわたり人事考課にリンクする。そして会社の求める社員の役割・職務分掌表から、足りないところを補う教育の必要性、個人別の教育プログラムにすすみ、その効果の判定からやはり人事考課へリンクする。

 ひとを育てることが企業の根本であり、企業存続、顧客満足度向上への近道であると確認できたことは180度の転換である。そのために努力できるのはしあわせだ。けれど...けれど.語りたい。


五百十三の昼 (2004 7 20)   真夜中に

 あすはISOなので夜を徹して書類つくり、職務分掌表があと一息のところ フリーズしてしまい すべてパァになってしまった。


五百十二の昼 (2004 7 19)   たとえ.、空の天井しかなくても

  ニヶ月半振りの刈谷先生のレッスン、わたしは楽器になる。調律される心地よさ、発声ってなんて気持ちがいいのだろう。Ah,mio cor  .....落ちてないね、むしろ前より.......と刈谷先生は云った。「あなたは家で練習しなくてもいい。レッスンだけで.....そういうタイプのようだ」

 練習しなくてもよい...とお墨付きをいただいたのもうれしかったが.....それより教えていただいたことが身についている......のがうれしかった。クラシックの発声こそしていないが倍音について自分なりに考えてはいる。ハイ...という音の練習をするとベルカントと倍音の差がよくわかる。まだ倍音ではよく出ない。

 帰り、ついどんぐりに寄ってしまい、良心の疼きを感じながらチ−ズケーキをオーダーしてしまった。ギターの音色、コーヒーの香り、静かな時間が流れて弥陀ヶ原心中のプロットがあらかたできあがった.....かや....佳耶または伽弥、茅、の吐息をくびすじに感じるようになった、もうすこし......。歌も芝居も根本はライブである。むかしでいえば河原乞食、空のした、明日の食い物のあてもない。....今だって光を浴びる、中央に出られるひとはほんのひと握り、でもね、若い人たちが演劇や歌に血道をあげるのは解る気がする。

 口には言えないものがあるのだ。絶対の孤独でありながら、大きな坩堝のなかにひとびとの魂とともにあって、赦されていて、世界の秘密とつながっている感じ.....天の高みからひとすじの光が降りている......そこにいる......地上にいるけれどつながっている感じ....

 もっと若かったら、しがらみがなかったら、なにもかも棄てていいのなら、わたしも空の下、風に吹かれ、日に晒されて......カーロ・カルーソーはわたしのひそかな夢だったのだと今日、知った。


五百十一の昼 (2004 7 18)   山下さん...ヴィジョンとサブテキスト

 昨日に続いてシェークスピアのワークショップ、わたしたちのグループについて指導してくれるのは壌さんの演出助手もするという山下さん、彫りの深い横顔、ビロードのような声、役者にうってつけのルックスである。だがあとで聞いたところでは山下さんは役者としてより演技指導の方がよほどおもしろいという。役者は演出家もいるし、一部分しか変えられないが、演技指導で若いアイドルやタレントやまったくの素人の演技が目が覚めるように変わるのは何度見ても飽きないという。

 わたしたちは山下さんについてとても幸運だった。他のグループは声を張り上げてときに声に酔いしれているように見えるが、真の魂を揺さぶる演技はそうしたものではない。声は大事だ。音にはそれ自体ひとを揺るがすものがあるからだ。けれど音に頼るとそのほうが楽だから音で聞き手を動かそうとしてしまう。オイディプス王がつまらないのはそこなのだ。

 ちょっとした実験をして(これはどこかでしたことがあるが)わたしは自分の問題点を知った。順番に雲と言う。一回目は自分が茜雲、入道雲、雨雲、飛行機雲のうちどれを伝えようとしているか音の響きだけで聞き取ってもらう。一巡したら次にイメージを思い浮かべて同様に聞いてもらう。三回目は音とイメージの両方で伝えようとする。おのおの、聞いたあとどの雲だと思ったか挙手し、発声したひとはどの雲だったか答える。

 一回目の音が一番理解できたようだ。一回目は正答率22/30二回目は15/30、
3回目は13/30だった。わたしときたら音では正答率4/5イメージでは1/5.......語り手から送られるイメージを掴もうとしていないのだろうか。手馴れてくるとそうなるかもしれない。イメージを追おう追おうとすると疲れてしまうし.....
 昔ヒッピーたちの経典となったSF・砂の惑星というシリーズがあった。それにヴォイスということばがでてくる。それは相手を従わせる声......という意味で超能力のひとつとして使われていたが、声には本来そのような力がある。あの人の言うことには逆らえないとか説得力があるとかいうがそれは単に論理的であるだけではない。声にある抗えない力なのだ。

 実はそれはわたしが知らず知らず見につけた力でもあって、今日この場でわかったのはとてもよいことだった。今後、語るときも役になっているときにも音に頼るようになったらどうする!?イメージを鮮明にするのはつらい苦しいことがままある。役に埋没してしまったり、役と同化してしまったり、それで身を持ち崩すことだってあるだろう。研ぎ澄まされた感受性は両刃の剣であり、本人の度量によっては自滅することさえある。

 .........大竹しのぶは(演技とは)役と同じ波動になることだ...といったそうだ。いい役者だが大竹しのぶが本領を発揮する役柄は巷の生活にまみれた女である。演出の蜷川さんはどれだけ大きいものに意識を飛ばせるかそれがその役者の器だ....と云ったそうだ。役でも語りでもスケールの大きさは語ったり演じたりする者の世界観とイメージする力によるのではないか。そしてそれ、ひとの底知れぬ奈落や神にも近い崇高さに意識で触れ、圧倒されない引き摺りこまれない本人の人間力の支えが必要なのではないか。視るを通り超えて、見る者になることなのだ。

 わたしは最後に質問した。演じるとは役になりきることではないか、なりきって舞台の上で反応すればよいのではないか。山下さんの答え まったく同じ人間にはなれないから同じ角度の視点をさがすのです。むつかしいかもしれませんがふたつの方法で役に近づいてください。信じるに足るヴィジョン(イメージ)を各場面に持つことがひとつ、もうひとつは、この台詞のこの場所でどう相手に感じさせたいか、動かしたいかというサブテキストを台本に書き込んでゆくこと、いずれこのふたつはひとつに収斂してゆくのですが........

 おもしろくておもしろくてたまらない。わたしはパッと掴んでそのひとになりきるタイプだと思うが、それではできる役が限られるかもしれない。少なくともロミオになりたいなんて夢にも思わなかった。わたしは15.6の育ちのいい悪ガキになる。少女をひとめで恋した少年、その戀を成就するには名も親も富も棄てなくてはならぬ。それでも手にいれたい抱きしめたい少女が手をのばせば届きそうな窓の向こうにいるのだ。.....静かに.....少年は自分の胸に手をあてる、もしまわりにひとがいたら気取られそうなほど心臓が動悸している。静まれ、ぼくの心臓、あれはあの窓の向こうにいるのは.....あれは東....ジュリエットは太陽.......

 あぁ なんて.....


五百十の昼 (2004 7 17)   ロミオ

 朝 かずみさんを病院に送ってゆく。治療しているところを見せてもらったら、半月前と比べて傷口は格段に良くなっていた。つやつやしたピンク色の肉が盛り上がり、一番抉れていた足の裏も傷の深さが6ミリくらいになった。こうして順調に行けば一年もかからなくてすむだろう。

 時刻は過ぎていたが西荻窪に向う。座のワークショップの小発表会でわたしはロミオの台詞を言うことになったらしい。マクベス夫人とか魔女ならやりやすいのだが、15回のうち3回しかワークショップに出席していないから贅沢はいえない。壌さんの言によれば杉良太郎とか寅さんの渥美清さんとかひとつのキャラで演技するひとをアクターといい、役によって自分の内側から入れ替えることのできるひとをコメディアンというのだそうだ。日本ではコメディアンというとお笑い芸人をさすがそういうことではないようだ.....コメディアンは役柄によって脈拍さえ変わるという。日本にはアクターは数多くいてもコメディアンはほとんどいないということだ。わたしには窪塚しか思い浮かばない。

 「性別、年齢は関係なく、たとえば森さんはロミオだってイアーゴーだってできる」といわれても恋する15.6の少年になりきるのはむつかしい。とりあえずロミオの生きた(架空のひとではあるが)時代の背景なりと調べてみよう。

 芝居でなく語りにしても自分をいっときからっぽにすることには変わらない。....わたしの場合は.....。 カラにすることでなにかが引き寄せられる。自分の奥底に眠っていた記憶、感覚、彷徨うもの、エナジー、.そして光のように満ちるものがある。 電車のなかで綾さまのかぞえうたが生まれた。


五百十の昼 (2004 7 16)  夏物語

 おすがが来てくれた。衣装はわたしの手には負えないところがあるので助けを呼んだのだ。夏物語が否応なくかたちになってゆく。ネモさんに鳥っこかぞえ歌を調べてくれるようたのんだ。廓に売られた士族の娘、綾さまが3階の窓から故郷会津を偲んでうたっていたかぞえ歌。スタジオのオーナーでフルート奏者のジュピターさんに連絡をとった。

 夜仕事の打ち合わせをしたあと、ひとりデニーズでお茶をのみながらものがたりがわたしに降りてくるのを待ったが、デニーズではあかるすぎてだめみたい。このごろどんぐりはお客が増えてにぎやかになってしまったし、どこか静かなほの闇いかたすみはないかしら。
綾さまのひっそりした姿はぼんやりして、まだよく見えない。綾さまの姿が光を帯び、吐息が聞こえてきさえすれば、テキストはすぐできる。その場で語ることはできる。

 おとつい 恭子さんの家に駐車料を払いにいったとき中島タカさんのことを聞いた。タカさんはわたしが開けたその格子戸を開けて入ってきたのだそうだ。久喜の町にはそぐわない一風変わったなりをして、うら若い花嫁だった恭子さんは、こころのなかで...西洋乞食と呼んでいたのだそうだ。....タカさんがまた近くなった。

........けれどおはなしができたところで聞き手の方が居ない限り、ものがたりは命を持たないのだ。決めたばかりでちらしは配っていないから、週末発送すれば反響はあるだろうが、今のところ聞きに行くよといってくださった方は5人だけ.....はじめてのことではあるし心細いかぎりだ。どうかおいでくださいね。あなたのお力を貸してくださいね。メールをお待ちしています。        






五百九の昼 (2004 7 15)  もっと恐い話

 今日はシンデレラタイムまでお仕事。ISOの21日までの宿題、社是と年間の方針、それを具現化するための各部門の目標ができた。難関の職務分掌表も半ばできた。並行して進めている社内文書一覧表が完成すれば職務分掌表とリンクさせてゆける。

 さて今日は大失敗、カタリカタリの例会は来週ではなく今日だった。12時を過ぎて連絡がついて飛んでいって謝った。でもみんなすがすがしい楽しげなようすだった。前回出した宿題の発表がとても楽しかったのだそうだ。聞けなくてそれに楽しみにしていた試みができなくて残念だった。それで結局来週も勉強会をすることになった。8月から3ヶ月櫻井先生がきてくださることになっていて、みんなで盛り上がっている。人数も月がかわるたびに増えているしいい会になりそうだ。

 ところでアメリカが日本本土を太平洋地域をにらんだ軍事基地の拠点にしたいといっているようだ。これはイラク派兵よりさらに恐い話だ。アメリカにとっては思いやり予算でなんでもかんでも駐留米軍の面倒をみている日本は居心地がいいだろう。けれどそれが日本の国益や太平洋地域や世界の平和のためによいこととは思えない。


五百九の昼 (2004 7 15)  雲の切れ間

 雲の切れ間から青い空が見えるように、先のことが見えることがある。ひとはそれを霊感という。夜なべに名刺の作成をしていたときのことだ。駐車場に並んでいる作業車の写真を名刺に載せようとしたのだが、電信柱や背景の家々がじゃまなので、フォトショップの消しゴムツールで背景を消していた。ピクセルに染み付いた汚れを拡大して丹念に消してゆく、これは実に気の遠くなるような根気のいる作業である。終盤にさしかかったとき、突然長男と結婚するであろう娘の顔が浮かんだのだ。

 10年前、弟の時もそうだった。新しい事務員さんに葛目の事務所ではじめて会ったとき、この娘は弟の嫁になる.....わたしはこの娘に弟を託せる.....よかったとまるで周知の事実のようにわかったのだ。それはほとんど有り得ないことだった。なぜなら弟はその時青森の雪子という美しい娘と婚約していてすでに父も実家に挨拶に行っていたのだ。けれど弟はその後しばらくして戀に落ちた。

 見えてしまうのは存外興醒めなものである。驚きはない。あたかも何年も前からそうであったかのように見えるのだから.....。えにしというのは時に逃れようもないものなのだろう。ひとは自由に生きているように見えて、選択の余地などそうはないのかもしれない。百年の戀に遭遇したように見えてもその出会いは生まれる前から決まっているのかもしれない。名刺はなかなかよいできであったが、わたしは酔いが冷めたような白っぽい気分だった。夜明けも近い。



五百八の昼 (2004 7 14)  はじまる

 ISOに本格的に取り組むことを始めた。社内システムの再構築と並行し、なおかつパソコン化、電子ファイリングも同時進行する。その間8月決算があり、弟と義妹の退職とそれにともなう業務の受け渡しがある。いままでトラブルのとき意外はかさこそ裏方をしていたわたしが、合間はさぼっていたわたしが半ば表舞台に立って毎日事務所に通い先頭切って仕事をしなければならない。実に面倒だ。これで...リサイタル・夏物語などできましょうか......!?

 ところがいわれない自信が、きっとできるとささやくのである。そぅ 楽しみがなければ仕事に一所懸命になれないし.....楽しい和やかな会にしましょう......先生のおっしゃるように......浮世の憂さを忘れましょう.......。


五百七の昼 (2004 7 13)  夢まくら....ちょっと恐い話

 朝から髪振り乱して仕事をした。給与計算して銀行に振込み依頼をしたら11時を回ってしまったが、米田さんのことが心配でトムの会の例会に顔をだしてみたらマレーシア人の司書さんが英語でストーリーテリングをしていた。所望されてジャックと泥棒をみんなで楽しみ、手遊びなどした。マレーシアの子どもたちのお土産に黒目がちの司書さんは云った。

 それからおはなしの講評をしたのだけれど、ことばの解釈や技術的なことに終始してしまうのが気になってつい口を挟んでしまった。テキストにこだわってこだわってつくりこんでゆく手法は、一歩間違うと危いことになる。スケールがちいさくなるような気はする。山口さんとあるところでは近く気持ちもわかるが、語りには飛翔し異世界に赴き、なお聞き手をひっさらってゆくおおきな力が必要ではないだろうか。その力はどこからくるというとイメージする能力、自分を開き捧げられるかどうかにかかっているような気がする。

 志木からみっちゃん叔母ちゃんがお見舞いにみえた。みっちゃん叔母ちゃんは母の妹で、母同様、長年小学校の教師だった。同じ姉妹でも気性の強い母とは違い小柄な温和なひとだ。3年前つれあいの叔父さんが病に倒れたとき、わたしは幾度も渋谷の病院を訪ねた。ちょうど語り手たちの会の研究セミナーがはじまった年で、やはり今と同じようにトラブルが続き、訴訟もあったりしてたいへんな時だった。叔母さん夫婦には娘がふたりいたが、おじさんはよく「洋子ちゃん、うちはふたりしかいないから、病気にでもなったら困るなぁ 従弟会でも組織してその時は助けてくれよ」と冗談まじり本気半分で語ったものだった。そんなことからわたしは酔狂といわれるかもしれないが、御通夜の晩 叔父さんの枕辺でひとりでお守りすることにしたのだ。あの夜も暑かった。明け方、叔父さんの足もとに横になって仮眠していると、叔父さんが夢枕に立った。ひとこともしゃべらなかったが静かなおかおで軽く頭をさげられた。わたしは夜が明けてから、朝の光のなかを志木駅に向かい家に帰った。




五百六の昼 (2004 7 12)  祭り

 支払日、ビルドさんと....ハウスさんからの入金のおかげででなにごともなく支払いが済んだ。手形決裁も済んだ。ほっとしてカタリカタリへ、今日は新しいメンバー3人のために課外授業。赤頭巾ちゃんを人形を使って語ってみせ、順番に自由に語ってもらう。大きないびきが聞こえたので狩人はおばぁさんが脳溢血で倒れたのかと家に飛び込みました....で笑ってしまった。おなじ人形でもそれぞれの個性がにじみ出て楽しかった。それから、ローベルの大旅行をおなじように順番に語ってもらった。ローラースケートがスケートボードになったり自転車になったり、谷を越えたり、北の国から南の国まで歩いたり...したがねずみはおかあさんに会うことができてぎゅっと抱きしめてもらった。昔話ではない創作を語るときは、できるだけ本に忠実に.....と余計なことをいわねばならないほど、語り初心者の三人の想像力は豊かで、素敵な語りだった。

 次回20日は実験的なことを企画しているので、楽しみ.........。教えるというのもおこがましいが、教えることは実はとてもとてもおもしろい。人を育てるのは最後のとっておきの道楽である。
 
 午後事務所に美味しいシュークリームを買っていったら、弟もフォションのアイスクリームを手にあらわれ甘いお菓子をひさびさに堪能した。お客様やTELで仕事はなかなかはかどらず、住民税の打ち換えと給与計算の途中までで終った。

 ところで今日は久喜の提灯祭り、数百の灯をともした山車が何台も主要道路を練り歩く。もともと喧嘩祭りで山車同士がぶつかりあう勇壮さが売りだが、死人が出てからよほど大人しくなった。ちなみにわたしはここ三年見に行かない。




五百五の昼 (2004 7 11)    いっぱいの

 冷蔵庫のポケットの掃除、システムキッチンの引き出しの片付け、山のような洗濯物、それから買出し、ジャパンで水とお〜いお茶をケースで、モロヘイヤのジュースを半ダース、シクァイヤのもろみ酢、コーヒーなど買い求め、八百屋で野菜、果物を仕入れ、トランクは一杯になった。6人家族なので毎日の食料確保がたいへんである。かずみさんは食事の時間がずれると機嫌がわるい。時間の無駄を省くために生協の宅配を頼んだらいいかもしれない。

 糖尿病メニューは糖分と油、炭水化物総カロリーも制限される。そうダイエットメニューなのだ。これで痩せなかったらわたしは女じゃない。食後はおくすりタイム、今すっぽんの粉末をカプセルに入れたものと、これは大山先生のお勧めで血液サラサラのために魚の油とビタミンEのカプセルものんでいる。子どもたちがサプリメントを買いあさっているのを苦々しく見ていたにもかかわらず....なんのこともない。

 青い更紗でピアノカバーをつくろうと戸棚をかきまわしていたら大きめの赤いノートが一冊....アメリカンファーマシィかそれとも...白いメリーさんがいた関内の森永ラブで買ったものだ。薄青い罫線と赤い縦線が入っている書き易い気に入りのノートだった。ページを開いてみると、昔、勉強していた宝石鑑定について、4Hくらいの尖った鉛筆で几帳面にまとめられている。

 なかに日記風に数頁記されていた。1.14......これはかずみさんに出遭う1週間まえに書かれたものだ。25年前の1月21日わたしたちは会ったのだ。

 生きるのはたやすくない.....と書かれていた。......人生を夢と思うことによってかろうじて均衡を保っている私。燃えさかる生と暗く静かな深淵である死とのはざまの苦痛のまどろみ......だが夢ではないのだ。各人各様のこの人生は、.....それぞれに刻印された闘いの傷痕は。私が私であるためには、私は私から私を解き放たなければならない。  中略 世界に愛されるためには世界を愛さねばならぬ。世界を愛するには真の意味で自分を愛さねばならぬ。自分を愛するには知らねばならぬ。 後略....

 どうやら若いわたしはしあわせではなかったのだ。これだけ自己に捕らわれていたらしあわせになれるはずもない。もちろんかずみさんと出遭って結婚して御伽噺のように即しあわせになったわけではない。この頃、わたしはアメリカに渡ろうと決心していた。なぜとどまったかといえば、愛されたから........わたしをそのまま認め信じられないほど掛け値なしに、うっとうしいほどまっすぐ愛してくれたから......

 ひとを救うのはただそれだけでいいのだ。器いっぱい愛されてはじめてひとは自分を愛することを知る。自分を愛してはじめて他者をも愛することができる、自信を取り戻すことができる。はじめはおそるおそるであったけれど家族や廻りの人たちを愛し自分のためでなく闘うこと、それは究極、自分を取り戻し真に生きるための一番の近道であったように思う。

 子どもたちにしてやれることもそれしかないのだろう。抱きしめて受け止めてありのまま愛し.......背中 ずっと.見ている....ただそれだけ




五百四の昼 (2004 7 10) やってしまう

 夕べ、先生からメールをいただいて、8月28日の語りの会を開くことに決意した。それで今日はプログラムをつくりなおし、昼・夜おなじものにし「死霊の戀」と「風の薔薇」を削った。「フランス窓から」と「弥陀が原心中」は新作である。「おとうちゃまのこと」を含めてすべて創作で日本のものということになる。小話はふたつとも英国もの、そのうえに櫻井先生が後ろにいてくださる。語ってくださるのはやはり英国の幽霊譚と英国旅行のお土産話。

 5月のはじめにあきらめてからうつうつと語りのことを思っていた。それだったらたいへんでもいっそやってしまおう、ISOも決算も会社のこともみんなまとめて面倒みてしまおう.......ということ......少人数のおとなのための語りの会、マチネは美味しいコーヒーとケーキ、ソワレはワインとパンとすこし料理も楽しんでいただいて心おきなく語りあえる会にしたい。

 3時は県立図書館のおはなし会、カタリカタリの勉強会のためにこしらえたパネルシアターをしてみた。夜はダンスのレッスン、バレエとストレッチ、踊ったのは四羽の白鳥の踊り!!ピンクレディのUFO、ミッキーマウスマーチ、世界にひとつだけの花、あとラテン......鏡を見ると吹き出しそうになるので乙女先生のうしろに隠れておどった。帰り、公園と古本屋に寄った。



五百三の昼 (2004 7 9)  障害

 障害を一つ一つ乗り越えてゆくのはおもしろい。でも、どうしても語りのことは最後になってしまって、届いたギリシャ風の手染めの衣装に袖をつけたり、裏地をつけたり......その昔巫女が身に着けたという大地の色のドレスに羽織る帷子のようなものを作りたい....昭和遊女考をまとめたいと思いながら......まだ手もつけられない.......。これも楽しみのような苦しみのような........

 

五百三の昼 (2004 7 8)  降ってくる

 瓢箪からコマとよく言うが今度のシステム変更、パソコン環境整備がまさにその連続だった。最初P社のソフトに惹かれそれがひょんなことからD社のソフトに出会い、土木のみでなく会社全体の見直しができると九分九厘決まったところに、P社が引っさげてきたのは、文書管理システムと建設と携帯のソフトだった。あらかじめ設定しておくと、自動的に文書のファイリングができてしまう。もちろんセキュリティと段階に応じた開示の権限が設定できる。そのうえに携帯から日報の入力が可能である。

 当初は人工と機械くらいだがサーバーを立ち上げれば使用材料、売り上げなどすべての入力が可能になる。そして回覧もパソコン内でまわし決裁もできる。ペーパーレスになるということだ.。それもユーザーとしての意見を伝えながらいっしょに手を組んで開発してゆこうという提案であり、カスタマイズなどこちらの要望を通してくれそうなのだ。この魅力的な提案にわたしは揺れ動いている。

 D社のソフトは正直棄てがたいが、P社がここまでやってくれるなら会社のためにはこの方がいいように思う。Mさん、Kさん、Tさんとうちの会社の目指しているもの、現状、建設業にとってIT化を計ることの重要性をとことん話し合い理想に近づけるためにはどうしたらよいかディスカッションを重ねたことでわたしは多くの可能性を見出した。その可能性を試行錯誤しながらひとつひとつカタチにしてゆくことにわたしは今からワクワクしている。

 

五百三の昼 (2004 7 7)  七夕

 今宵は七夕、逢いたいひとはいるけれどだれにも逢わなかった。逢う約束のような希望のようなものをとりかわしたような気がするが、相手がどう感じているかわからない。ひとがひとと合う語り合うのは、相手のなかにいる自分との邂逅といってもいい。わたしたちは落ちぶれ果てた神の末裔であって、あなたももと神、わたしもまたもと神である。ひとはひとりでは自分を知ることができない。自然やひととのせめぎ合いをとおして可能なことなのではないか。それは個と個の係わり合いだけでなく、時と場所を越えた、哲学者や文学者との読書を介しての交流や、舞台や、映画、絵画などと対峙することでも起こりうる。一流のひと、一流のものに接すること、これはもちろん、売れている、メジャーである必要はない。市井にも妥協をゆるさず、自己の限界を乗り越えようとする一流のひとは数多いるのだ。

 仕事ののうえでもそうしたひとに会うことがある。D社の三國社長もそういうひとだった。△ハウス工業の森谷部長も魅力的なひとだった。このまえにも書いたが、仕事であれ、趣味的なことであれ、そのひとの人間性、人格、その奥の目には見えないものががおもてに現れる仕事や芸の根底にある。ゆえに芸術でもビジネスでも魂を磨く......のが一番早いし、逆に芸でも仕事でも自己の甘さを糾し修練を課しつづけることが魂を磨くことにもなるのではないか。トップ企業の創立者や一芸に秀でたひとには、一種独特の澄んだまなざしがあるように思う。金儲けや名を売ることなど生臭いことを考えているうちはまだまだなのである。

 きのうは相当疲れていたらしく、浦和に行くはずが上野まで乗り越してしまった。スイカ(果物ではなくて定期のほう)は見つからないし、さんざんだった。親切な方にであって心あたためられ、目に見える意地悪ではないが、疎んじられた気がして落ち込んだ。仙人の境地までまだまだ遠い。



五百二の昼 (2004 7 6)  ........

 海辺のパラソル、傘6本、スーツ二着、ドレス一着、ストッキング、靴下、ボトル4本、スリッパ一足半、パジャマ一着、本5冊、パネルシアター2枚、バッグ2、ファイル3、ジャックとマメの木の人形、特大ホチキス、ラッピング材料、ひざ掛け5枚、軍手一双、その他もろもろ 車に入っていた。車を修理に出した。

 なんだか余分なものを削ぎ落としたように躰がかるい。空だからカラダというのだそうだが、魂の入れ物という風袋のほうではなくて、中身をかるく感じるのだろう。かっこつける気は毛頭なく、ひとの思惑などぜんぜん気にしない。先のことを心配もしてないし、ただ目の前にあることをするだけだ。やけっぱちというのでもなく、それなりにこれからすることに楽しみもあるのだが、評価も結果も求めない。これはたいへん居心地がいい心境である。こういう空に浮かぶ雲のような心理状態がつづくといいのだが......それは無理というもの.....だ。

五百一の昼 (2004 7 5)  炎帝

 暑い クーラーの効いたリビングから二階のパソコン部屋に来ると寒気がするほど暑い。サウナのなかにいるみたい。今日もたくさんのひとと話した。朝は本町小のお話会.....それから仕事......よどみなく時は流れ日常から遊離した緊急の時間、精神が研ぎ澄まされからだがことごとに反応しアドレナリンが分泌され瞬時に決断が求められる戦時態勢は終った。終るということはそのために努力したことが実を結んだということではあるが、からだはまだ平和に馴染んではいない。....というか生と死、裏切りと誠、成功と失敗のギリギリの接点にいたときの肉体と精神の高揚を懐かしんでさえいるようだ。

 わたしはまだ、穏やかな暮らしなど望んではいないのだろう。息つく間もない闘いのなかでしか自分の再確認ができない....とは言わないが......日常を維持する恒常的な地道な努力が必ずしも得手でない。だから奮い立たせるために会社でも家庭でもシステムの再構築こそ存続と幸せの命題....と掲げよう。......自分のために......それはとても創造的な仕事であり秩序と安定をもたらすだろう。ISO、CALS、パソコンによるシステムの統御、ITを通して入札をはじめとする公的なものへの参加が求められる世の動きとなった。文書、図面のやりとりだけでなくISOの打ち合わせ事項の確認もメールによって認証できる。ISOは顧客満足のみを求めるシステムではなく、社会から人材、材料、情報を取り込み、(従業員)教育を柱にしてそれに有意なるものを付加し、企業が社会へよりよく還元することを企図した円環のシステムへ会社全体を切り替える再構築ともいえるのではないか。


........家庭を顧みないという同じ愚を繰り重ねないで、大切なひとたちをしあわせにしようとする渾身の努力をしながら、なお糸を紡ぎ続けること............語ること.....闇に光をなげかけ.....かたすみに埋もれていたものをそっとさし上げてみなさまにの魂に届ける........地に生きるわたしたちに脈々と流れる天への憧れと地の上の痛み、哀しみ、そしてそれらを超えたあたたかく清らかなものを揺り起こして立ち昇る祈り.........そ.の磁場を共有するための媒体となること.......みずから.ほそいひとすじの炎となることを己に課し歩きたい。


五百の昼 (2004 7 4)   折り返し

 1000の昼もちょうど半ばに辿りついた。いろいろなことがあった。1000といえば3年足らずで手が届く日数だけれど1000の日をかぞえるとき、わたしは何に気づきなにを手に掴んでいるだろう。厚子さんから花束を贈っていただいた。ネモさんからTELがあり康子さんからメールがくる。多くの友人にささえられてわたしはここにいる。

 今日は午前中、そうじに精を出し昼過ぎのびのびになっていた娘の誕生日のプレゼントを買うためにバーゲンに行った。最初はマルイでまず7Fのバッツに行く。バッツは縫製もしっかりしているし、ガーリィなものからパンクぽいのまでさまざまなテイストのものがある。わかなは黒のチュールの重ねのミニのワンピースをピンクのタンクトップとあわせた。ウェストをサテンの黒のリボンで結ぶのだが、わたしは内心ギョっとした。祭りに着る衣装だというので、口は挟まないことにした。まりえはあざやかなグリーンのジャージ、ラインストーンでどくろがしるされている。これもなにも言うまい。わたしはきれいなピンクのTシャツ、それからわかなはギルゴンガン?のピンクの帽子を買った。

 つぎに伊勢丹にまわる。仕事用の勝負服にテーラードのしっかりしたスーツがほしいのだが、バーゲンももう四日目だから、これはというのは残っていない。レマロンで黒のパンツスーツと麻のグレイのジャケットなどで妥協した。バーゲンに勝つには情報収集と迅速な行動が必要だが今回は仕方ない。

 それから新都心を郵便局に向って歩く。○○ハウスに請求書を明日までに届けるために朝の10時便で送ろうというのだ。郵政省にしてはよいアイデアだがどこの郵便局でもいいというわけにはいかないのである。

 大宮新都心は近未来的というかラピュタ的というか奇妙な街だ......回廊と広場があちこちに配され、無機的でいて空へ向う祈りを思わせるような風の吹きぬける街.......間違いなく非常にお金をかけた、なにかしら隠し持つものを窺わせるような街.......その威容を見下ろしながら食事をした。キリッと冷えた冷製ビシソワーズとシーフードとオレンジのサラダとトルティーヤ、オレンジを入れたアドリアンドレッシングが爽やかで美味しかった。

 うちに帰ると冬子から手染めの衣装が届いていた。これから空のような海のような青い衣装に袖をとおして夢を見よう。薔薇色がかった白い砂岩の階段を逍遥しよう。回廊を歩き高窓から身を乗り出し、双の手を空にゆだねよう。愛するひとの凱旋をしからずば死の報せをこの身に受けとめるために.......


四百九十九の昼 (2004 7 3)   月の公園

 家に着いたのは10時過ぎだった。テリーが気づいてテラスの窓を引っかくので、散歩に行こうよと娘たちを誘った。風がひんやり爽やかだった。三人でブランコに乗って、娘たちは空まで届くほど鎖がしなうほど力いっぱいこいでいる。わたしは”わたしを月までつれていって”をくちずさみながらブランコを揺らした。風が露に濡れた草の匂いをはこんでくる。月の公園で犬たちを放し娘たちも息を切らして走っていた。

 夕刻車窓から見た長野の山なみが、剣しく奇怪な様相で迫ってきてわたしはつつじの娘を想った。.......ひとつ山を越え、ふたつ山を越え、みっつ山を越えた頃には娘の胸は張り裂けそうに苦しくなり、膝は震え足はもつれた.........ほとほとと戸を叩く音に戸を開けた若者は娘を見て驚いた。......どぉして ここへ.......おまえにあいたくて.....山を越えて......   そいつはぁ魔物だ、魔性のもんだ、人間じゃぁねぇぞひとつやふたつならともかくひと晩に五つも越えて通えるものか.....

 おらぁ おまえが魔性のもんじゃねぇかとおもうようになってきた.......わたしは.....おまえにあいたい一心で山を越えてくる、ただのふつうの娘なのに........
若者はとうとうある晩、娘のかよってくる山道の刀の刃と呼ばれる切り立った崖下に隠れてむすめを待った.........両手を握りしめ風のように奔ってくるそのすがたは月の光に照らされてものすごく.........おのれ 魔物め 思い知れ!.......娘はまっさかさまに谷底に.....落ちていった。


四百九十八の昼 (2004 7 2)     磨く

 キッチンの壁と床を磨いた。キャビネットは洗剤で拭き清めればリフォーム当時の輝きを取り戻すけれど、木の床はそうは行かなかった。それでも、スポンジでこすり雑巾で拭きながら、魂もこんな風にゴシゴシ磨けたらいいのになぁと思った。成熟とは進化というより回帰であるように思う。無から有を生じせしめるのは神のみである。すべては自らのうちに在ったものだ。かってあったもの、またそのありようにひとつひとつ気づいてゆくのが人生かもしれない。ひとりひとりの魂に標された運命(定め)に気づいてゆくのが生きるすべかも知れない。

 テレビ台を買いにヤマデンに行き、ついでに配線工事とBSアンテナの取り付けをたのみ、2/10に注文した電子レンジを受け取ってきた。衛星放送も3年も見ていないしレンジも2年つかっていない。ようやく人並みの暮らしになるというものだ。それからわか菜と30Kの玄米を精米してきた。以前は抱えあげた米袋がもう持てなくてふたりでやっと車に運び上げた。

 かずみさんを通院先の武蔵野整形外科に送る。大山先生は闊達おおらかなお人柄で一目で魅了された。医者も実にさまざまである。どのような職業でも職務に関する知識、わざの根底にあるのは人格であり、そのおおもとは魂のいろあいである。相性もあって響きあうひとに出遭えるのは幸せである。

 夜行バスに乗る。都市を照らす清明な月の白光、そのしたに束の間のよろこびに酔い、ささいなことに苦しみ日々をおくる人々が住まっている。



四百九十七の昼 (2004 7 1)   帰還

 早朝からそうじの仕上げをして、病院に行く前にテリーを置き場の母犬と兄弟犬のところへ返しに行った。かずみさんが入院してすぐ、餌を与えにいったときテリーだけがあとを追ってきて、つい連れ帰ってしまったのだが、家の玄関で飼うのは不潔だから置き場に戻すようかずみさんに云われていたのだ。

 テリーはとても甘えんぼで手はかかったが子どもたちやわたしの気持ちをケヴィンとともに受けとめてくれ、一家の主がいないさびしさをすこし埋めてくれたのだった。遅く帰ってガレージに車を入れると、まずテリーが鳴く、それからケヴィン、ドアを開けると二匹が足もとにまとわりついてあぁ家に帰れた...とほっとした。つらい時をいっしょに乗り越えてきたから、戻すのは切なくて瀬戸際の今日まで延ばしてきたのだ。
 しかし置き場につくと、テリーは歓迎されなかった。兄弟たちはすっかり忘れてしまい吼えたて、可哀想にテリーはおびえてしまって車の外へ出ようともしない。母犬はさすがに覚えているらしかったが、仔犬にとって二ヶ月がどんなに長いことか、三匹の犬は生まれたときは似たようなころころした黒白の犬だったのに、テリーだけが全く違う犬のようだ。ヨークシャーテリアのように丸みを帯びた長方形の顔、毛はふわふわ長めでやはらかい。他の二匹はぴったり毛が寝てちっさなソバカスのような斑点がたくさんある。

 わたしはあきらめて連れ帰ることにした。なんとかあとで考えることにしよう。宇都宮線に飛び乗ってタクシーに飛び込んで病院内を疾走する。チェックアウトはなかなかたいへんだ。荷物を詰め入院費を払い傷も消毒をすませ、山のような薬をいただき、挨拶まわりをし、昼食をいただいて病院をあとにした。迎えにきた弟の配慮でプラントに立ち寄った。かずみさんは杖をたよりに一歩一歩歩いた。働いているみんなの顔がパっと明るくなる。それはさながら領主の帰還だった。

 事務所に残るというかずみさんを置いてOと○○ハウス打ち合わせに行く。あちらは5人、こちらは2人、本橋さんのアパート建築の件、大筋で合意した数字はトータル2600万円、○○ハウスが1800万円出すということだ。プロパンが都市ガスになったので本橋さんは喜ぶことだろう。苦しいがやるしかない、少しずつ切り詰めれば、トントンくらいになるだろう。リフォームの方も査定して払ってくれるというのはいささか驚いた。朗報を伝えようと本橋さんの家にさっそく伺ったが留守だった。

 53日間の戦い、第一幕は終わり、疲労困憊したわたしは家まであと一息の御陵公園のそばで右側の舗車道ブロックに激突し、乗り越え公園の駐車場にとまった。。一瞬眠り込んだらしい。バイクが見えた気がしたのでえらいことになってしまったと車から降りて歩き出すと、2人の少年が「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。バイクを見て「あなたたちは大丈夫?」と聞くと「よけました......」とのこと、よかった。車は満身創痍だが走るのは走るし、、今日受け取ったものの大きさに比べればたいしたことはない。あとで現場を見に行ったが、車一台やっとすりぬけるほどの巾を十数メーター走り抜け、門にも塀にもバイクにもぶつかってはいないのである。神業のようなテクニック....寝ぼけたわたしにできようはずもなくどなたか助けてくださったとしか思えなかった。

 テリーはベランダの犬小屋でおとなしくしていた。このまま家族として暮らせそうだ。終わりよければすべてよしである。

四百九十六の昼 (2004 6 30)  エピローグ

 今日は晦日、支払いと[お帰りなさい]の準備と連絡会、寝ようと思ったらもう朝の光が張り替えた白い障子を染めている。7月1日がもうすぐ明ける。かずみさんの退院の日、○○ハウスと最後の話し合いをする日、ふたつのことのエピローグ。けれどそれは新しくはじまるなにかのプロローグ。


四百九十六の昼 (2004 6 29)  なぜテレビ!?

 朝、建具屋にTELして障子を取りに来てもらった。それから畳屋と連絡をとり、いよいよ掃除に突入する。昼過ぎ電気屋がテレビを持ってくる。液晶の37インチは前にあった50インチのブラウン管タイプと比べて1/10くらいの薄さである。これは進歩といえるのだろうが木製の重厚なキャビネットと比較するとお手軽な感じは否めない。

 医療費は思ったよりかかって交通費その他も計上すると二ヶ月で200万近くになるだろう。保険で幾分かは戻るとしても我が家の家計は破綻寸前である。それなのになぜテレビを買うためにヤマダ電機に走ったかといえばかずみさんがテレビを好きだからである。わたしはあまりテレビを見ないのでその心理はよくわからない。帰るとすぐテレビをつけ眠ってからも消すと怒るのは見るために見るというのではないのだろう。ひとつはそのあいだ頭のなかがからっぽになるからだろう。もうひとつは胎内回帰、つまり母親の血流音、外部から聞こえる環境音に近いのではないかしらとも思う。

 男たちがパチンコを好むのはあのザァザァという玉の流れる音が血流音に似ているからという説があるのを知っていますか?放送終了したあとのザァザァという音もそこはかとなく血流音に似ているような気がする。 

 不用なものは処分することにして、たくさんの布団、座布団、衣類を出した。自転車型の減量マシン?孵化機、背の高い旧式の電子レンジ、シュレッダーにかける書類。なんてたくさんの品物に囲まれてわたしたちは日々を送っているのだろう。かずみさんの帰宅を迎えいれるための支度、これが無駄のないシンプルで機能的な生活への切り替えになるように。

 夜、義妹と病院に行くとかずみさんは微笑って迎えてくれた。安食先生が挨拶に見え、通院先として隣町のむさしのクリニックを紹介いただき向こうで待っていてくださることを聞いた。よかった!  スズキクリニックに傷の写真を持っていって断られた時はほんとうにがっかりしたがむさしのクリニックの大山先生は週に一回自治医大に見えているそうだから連携の面からも交通の面からも一番良い選択になると思う。お礼を言ってお別れしたあと松村先生も見えた。

 そのあと母と弟夫婦とわたしで食事をした。こちらも和気藹々で別れられそうだ。

百九十五の昼 (2004 6 28)  夜の電車

 閑散とした夜の電車の乗客は昼間の取り澄ました都会のひとびととは異なっている。たとえば母娘連れ、こんな時分にどこへ行こうというのだろう。母は65くらい、娘は32.3、農家の出か母の手は節くれだって肌もなめしたような褐色だ。娘はピンクがかった色白で、ふっくらした手にはえくぼがよっている。

 だが、それさえのぞけばふたりはなんて似ているのだろう。組んだ足の角度といい、心持突き出た唇が半開きになっているところといい、ひそやかに目配せする表情といい....ふたりはお互いの相似にはまったく気づいていないのだろう。生まれながらの遺伝子の所以なのか、それとも子どものときから知らず知らず娘は母のしぐさを模倣しているのか、おそらくその両方からくるのだろう。わたしと娘たちもやはり衆目をそばだてるほど似ているのだろうか。

 目の前の若い男、声高に携帯をかけている。傍若無人な態度だがなぜか憎めない。それはお国ことば丸出しのまったく無防備とも思える声音にあるのだ。男は携帯を切ると白いビニールのレジ袋のまま、なかの缶から雫を滴らせながら液体を飲み出した。どうやらビールらしい、この赤ら顔はそういうわけだったのか。と見るとシャツを引っ張り出した。なんということ。ジーパンのボタンが外れて、水色チェックのトランクスが見える。今度はガリガリ手を掻き毟り、ウッホウッホ掛け声をかけながら体操を始めた、それから駅に着くとそそくさと、だが感心に足もとの缶を拾って電車から降りて行った。

 帰り、小山駅から20くらいのひどく痩せた男がぶつぶつひとりごとを言いながら乗ってきて前に座った。すこし危険を感じて隣の車両に移ろうとしたのだが、男はちらちらとわたしを覗き見している。近ごろ珍しいレトロな麦わら帽子、黒い蝙蝠傘,、よれよれの紙袋に詰まっているのは所帯道具だろうか......赤いチェックのシャツ、青白い顔、貧相な顎にどじょう髯。一見アキバ系だが、濃厚に漂ってくる土俗的な雰囲気はなんだろう。.....深山の谷川の岩の上に座らせたらよく似合うだろう。

と、男は紙袋から茶色のものを取り出して窓際に坐らせた。それは黄色のチョッキを着た小さいくまのぬいぐるみだった。まるで幼い子どもに窓から景色を見せているようだ。なぜかわたしは胸が詰まって男とぬいぐるみを凝視めた。やがて久喜駅が近くなって、わたしは思わずポケットをさぐった。男に小銭をわたしたい衝動に駆られたのだが、あまり失礼だと思いそれはひかえ、開いたドアに向って男とすれ違うとき「またネ」と声をかけた。男は顔をゆがめるように曖昧にわらった。夜中の11時新宿行きに乗って男はくまのぬいぐるみとどこに行こうというのだろう。プラットホームで立ち去りかねていたわたしはそのどじょう髯の若い男の人生の無事を祈って走りだした電車に手を振る。そのとき男は気がついた。ぬいぐるみのとなりで今度こそはっきりと男は微笑みわたしに手をふった。


四百九十四の昼 (2004 6 27)  女の箪笥

 簪やら半襟やら紅白粉を昔は小間物といったのだろうか。かずみさんが帰ってくる前の大掃除をしていたら、そのときそのときの心の留め置かれたものへの愛惜から棄てかねていた細々したものの数々が、引き出しのなかから積み累ねてきた年月ほど出てきた。今はつかわないディオリシモ.、数十枚のスカーフ、色とりどりのベルト、25年前の婚礼衣装のレースの手袋,信じられないくらいウェイストの細いビスチェやパニエなども....

 ベルトは棄てた。スカーフはお気に入りの数枚を除けば使わないことはわかっているのだが棄てられなかった。ビスチェはとっておくことにした。女の見栄と言われてもしかたがないが、華奢なウェイストの時もあったという記念に....。貧乏性でなんでもとっておくから箪笥の外まで衣類や小間物があふれ、机の上も本やCD、テキストや装身具が崩れ落ちなんばかり....である。こんなガラクタを残されたら処分するのにさぞ困るだろう。これからは少しずつ減らしてと思うのだがイヤリングや傘、口紅、銀のバングル、手鏡、レースのポーチ、そうしたきれいな意匠のものは永遠に女を惹き付けるものなのだ。殿方にはわかるまいが........この後ももすこしずつ増えていきこそすれ減ることはないだろう。

 ところで、わたしは壌さんを師と仰いではいるのだが、あの詠み芝居はあまり関心しない。観客あるいは聞き手は表情のない詠みを聞いていると素に帰ってしまうように思う。


四百九十三の昼 (2004 6 26)  依代(ヨリシロ)依座(ヨリマシ)

 わたしの師は(勝手にこちらがそう思っているだけだが)櫻井先生と声楽の刈谷先生と俳優の壌晴彦さんである。最近読んだ本に壌さんがこんなことを書いていた。

 僕は劇のなかの役は全て神々だと思っているわけです。役が代弁する価値が大きく立ち上がり、価値と価値が、または人間と人間を超えるものとが激しく対立する様を観客が仰ぎ見る。だから俳優の内的宇宙は巨大なうえにも巨大でなければならない。そこに宿る強烈なエネルギーを肉体という砲台で支えて遥か彼方に飛ばさなければならない.........ひとりでなんかできませんよ。神との共同作業.......やっぱり役者は依代なんだと思いますね。
 
 これを読んだときわたしはゾクっとした。......というのも語りをするとき、自分が依座もしくはなにかの媒体になっている感じは以前からあって、それこそがわたしが語りに惹かれてきたもっとも奥底のものだったからだ。と同時に語りを続ければ続けていくほど、語っているときわたしは何物かの代弁をしているという感覚が強くなっていった。以下は研究セミナーの最後のレポートからの引用である。

....... だが、語り手は誰を代弁するかと問われれば、それを第一義の答えとは思わない。私自身は語り手として、語れないものたちの代わりに語りたい。滅びた者、力足らず敗れ去った者、静かになにも言わず息をひきとった幼いものたちの代わりに、これからは語りたい。見えざるもの、形なきもの、ことばなきものの代わりに語りたい。
     そして、そのうえに 天意に添う語りをしたいと願っている。神さまが実在するや否やはそれぞれ個々の判断ではあるが、わたしは大いなる意思があると信じたい。美しきものや良きもの、無償の愛を語ることは天の代わりに語ることになるのではなかろうか。.......


 この時は神意の代弁をさせていただいているのではないか....とは気恥ずかしいのと誤解されるかもしれないという危惧もあって書けなかったのだが、たとえば雪女であってもディアドラであっても滅びたもの、見えざるもの、かたちなきものの代弁者として語るとき、その後方にいるのは実は.......なのだということをひしひしと感じるようになったのである。そのときわたしはそこにいてそこにいない。それは自分を開け放ってはじめてできることであり、終ったあとのこころのやすらぎはことばに尽くせぬものがある。当然自分の実力を超えた語りができるように思う。といってもそこに技の鍛錬が不要かといえばそうではなく、むしろ依座としてお使いいただくには不断の努力が必要なのである。 

 壌さんは役者の立場として書いているが語りは聞き手との共同作業である。(内心芝居もそうではないかと思っているが....)聞き手のいないところでは依座にはなれない。なにも降臨しないのだから.........そしてわたしは壌さんのような名優ではないから神さまとの共同作業などとはとてもいえない。語るわたしに我があれば依座には決してなれない。自らを放擲してはじめて神が媒体としてお使いくださるのだと思う。

 それでも言っていることは本質的に同じだ。だからわたしはとてもうれしかった。壌さんとは畏れ多くて師と生徒として以上の話をしたことはないのだが、なぜ心を惹かれたのかわかったような気がした。

 神道において、神事の際に神がやどる物体を依代という。神体も同じく神が. やどる物体だが、神体が恒久的なものであるのに対し、依代は一時的であ.る。神霊は,媒介物に依り憑くことによって初めて具体化されるものと古来考えられてきた。その媒介となるものには,樹木・石・御幣・人間・動物などがある。一般に依り代とは,樹木・石・御幣などの物体をさし人間に憑依する場合はヨリマシ(依座)と言われる。古来、ウタウもカタルも神事だった。


四百九十ニの昼 (2004 6 25)  傷痕

 自治医大の処置室で一三さんの傷口を見た。自宅に帰れば通院となるのだが、病院の休みなどで自宅で消毒をしなければならないときのために処置を見てほしいと大濱先生から言われていたのだ。幾重にもまいた包帯やガーゼを剥がし表れた傷口、ザックリと深く切れ込んだ石榴のように赤い傷口、黄色身をおびたもう死んだ組織が1/3ほどを覆っていてそれを剥がさないと新しい肉が盛り上がってこないのだという。

 どうしてか知らないがそうした傷口の消毒はどこでも患者自身がするのだという。薄紅い消毒液に足を漬けてピンセットで挟んだガーゼで傷口をゴシゴシこするのだ。「森さんは我慢強いから」ときれいな看護士さんが言う。前の病院でも幾人かの看護婦さんがそんなことを言っていた。「イタイ....?」尋ねると「そりゃぁ 痛いよ」という。最初は正視できなかったわたしもこれはかずみさんの足でかずみさんの傷だと思うとその生々しい傷がいとおしく思えてきた。

 病院のお盆休みを心配するわたしに安食先生が「自治医大には誰か当直がいるからそのときはTELしてきてください」と云ってくださったので、すこしほっとした。三箇所のえぐれた傷がいつか乾いた褐色の傷痕となった時、わたしは「あの時はたいへんだったね」と指先で傷痕をなぞったりするだろう。かずみさんはたぶん「くすぐったいよ」と云って笑うだろう。

 面会時間終了のチャイムがなって、今日は時間とおりに帰ろうと立ち上がるとかずみさんは沁み入るような声で「すまなかったね。気をつけて帰れよ。」と云った。

 
四百九十一の昼 (2004 6 24)  命日

 子ども夢基金の岡崎さんからあたたかいメールをいただいた。おはなしフェスタ「久喜の秋」を断念するのはとてもつらかったから、9月に来年度の申し込みがはじまるからそのときに.....と読ませていただいたときほんとうにうれしかった。この生のなかであとどれだけのことができるだろう。かぎられた時のなかでなにを選択するのがいいのだろう。自分を棄てることができれば.......でもほんとうに棄てるとはどういうことなのだろう  生きること 生かすこと よりよく生きるとはよりよく死ぬことと同義である。そしてそれは愛することとほぼ同義である。ひとを愛し自分を愛し世界を光と闇、生と死を愛すること。

 きのうは5番目の子どもの命日だった。13回忌....まだ三ヶ月の流産だったからお位牌もないのだけれど、ときおり からだがとても大儀だった緑こぼれる5月のことをきのうのように思い出す。

 ○○ハウスの......部長からTEL 7/1にきてほしいとのこと、いよいよ大詰めである。アパートのガスや水道工事の見積もりをとる。建設ドットウェブのソフトの運用がおおすじでまとまる。保険関係、住民税、などなど細かな雑務をかたづける。
 
 病院の帰り駅に降り立つときょうも10:00をまわっていた。モスによって暫しボーっとするのが日課になった。ガラス窓にうつる夜と夜をあざむく明るい屋内のはざまでどこにもいない自分を見いだす、その諦めに似た至福の刻。


四百九十の昼 (2004 6 23)  泉があったなら

 ジャズとシャルマンを検索してこのサイトの「シャルマンにて」にきてくださった方がいる。そのlanternjさんがシャルマンがまだ開いていてマスターも健在だと知らせてくださった。本橋さんのことが落ち着いたら階段を上ってあの懐かしいシャルマンの扉をあけることもできるだろう.....かずみさんの足がよくなったら旅をしよう海にゆこう.......そんなことをささえにして一日一日...苦痛のような喜びのような日を送る。...というか駆け抜ける....おんなだてらにわたりあってやだねぇとひとりごち....でも信用金庫の瀬戸さんがポツっと「これほどやってくれるところはありませんよ」と呟くのを聞くと信男さんがにこっと微笑うのを見るとうれしい。

 ビジネスの戦場はいやだけれどわたしは向いていないわけでもないらしい。しかたなくやっているこのことが実は豊かな果実を生むこともわかっている。語りや芝居を知らなかったら、こんなに苦しくなくてそれなりに仕事をしていたのだろうか。いや、語りを学んだからこそ、伝達のわざをわたしはビジネスに活かすことができたのだ。

 語りたい...語りたい....泣きたいほど語りたい.....おとうちゃまのこと....を電車をまちながら遠い町の駅のベンチで語ってみた。すこしも忘れてはいない...語れるね......でも聞いているのは線路だけ.....

 大工の大澤さんに約束した坪単価を出せないことを話した。頭を下げ、限られたなかで、わかいひとが喜んで入居してくれるような部屋、ひとつひとつが個性的な部屋のアパートを建築してくれるよう頼んだ。もう面会時間もとうに過ぎてかずみさんの病室に行く。叱られたりして、わたしもつい云いたいことを云ったりして、ぽつぽつと心のひだを確かめるようにことばをかさねる。わたしはほんとうにかずみさんがすきなんだと思う。でも、かずみさんはなにも云わない。思っていてもなにも口には出さない。男の美学ってしょうがないね。


四百八十九の昼 (2004 6 22)   一歩

 朝、民商のTさんにTELする。事は順調に運んでいるので今回の話し合いは当事者だけで行いたいから席をはずしてほしいとお願いすると「あなたに命令される筋合いはない」と声を荒げるので「民商さんが見えるならキタムラさんは来ないと云っています、わたしも退席します」と云うと「信用金庫から同席してほしいと頼まれたのだ」という。「信用金庫にはわたしの方から話します。今はとてもうまくいっていて大事に大事にしてゆきたいのです。民商さんは庶民の味方ですからアパートが建てばよいのではないですか」というと「あなたの解決法がよいとは限らない、あとになってみなければわからない」という。

 わたしにはすこし応えたが「誰しもその場でベストの努力をするしかありません。わたしはアパートを建ててあげたいのです。この現場で一銭でも儲けようとは思っていませんよ」と云った。なおも食い下がるので「Tさん、あなたはわたしの提供した情報をつかって手を打っている。それなのにTELで知らせようともしないでだまし討ちのような設定をするのはフェアじゃありませんね」というと「わかった、あなたの好きなようにすればいい」と引き下がった。

 すぐ信用金庫にTELして「今日の打ち合わせの出席者は誰ですか」と問うと「キタムラさんと森さんです」というので「施主さんたちと民商さんも来ると聞いていますが」と切り返すと黙ってしまった。「Tさんは信用金庫さんから同席を頼まれたといっていますがそうですか」というと「こちらからは頼んでいません」「こういうやり方はよくありませんね。事態はよい方向に進んでいるので民商さんが入ると混乱するから当事者だけで話し合いましょう」と提案した。

 2時半、打ち合わせが始まり、信用金庫は施工業者であるうちに融資したお金が支払われていないことを知った。そしてわたしは○○ハウスのハギさんが再三キタムラさんとともに信用金庫を訪れていたこと、○○ハウスの経理から二度にわたり、融資はいつおりるのかというTELがあったことを知った。また実行されていない最終融資のうち登記費用その他で200万近い相殺があることも知った。

 この場で施主の勝明さん信男さんに建築確認の図面で施工してよいか確認した。今懸命の努力をしているが全額は戻らないこと、バルコニーもできないし計画も縮小せざるを得ないことも話した。信用金庫の担当者さんが信男さんに再度わたしに一任するよう促してくれた。

 もうひとつ明らかになったのは信男さんが実行された融資の金利10万余、改築のローン31000円、借りさせられたサラ金の金利19000円を支払いつづけていることだった。そにため家賃も支払えないのである。まだ暑い日ざしのなかを信男さんは仕事場に、勝明さんは自宅に自転車で去っていった。後姿を見送りながら早く決めてあげたいと思った。

四百八十八の昼 (2004 6 21) つかれる

 からだの芯が疲れきっている。重い。寝室まで上がることもできずリビングに沈没する日々。これを書いている今は23日の未明だが、もう21日になにをしたのか何を考えたのか覚束ない。そうだ夜特急に乗ってかずみさんに会いにいったのだ。台風の手ひどい愛撫で傘はあっという間にお猪口になり骨が折れた。タクシーで病院に急いだ。

 本橋邸の建設について○○ハウスと折衝。建築確認をとった図面をようよう手に入れる。明日西京信用金庫に行くことにしたが、図面のことで本橋さんにTELしたら民商と本橋さんも行くことになっているという。!!キタムラさんとわたしはそのことを知らされていないのだ。だまし討ちのようである。


四百八十七の昼 (2004 6 20)  黄昏

 病院の帰り駅から降り立って、不二家ののぼりを目にして今日が父の日であることに気づいた。戻りかけていたのをふと振り返るとすこしの間に、空の様相が変わっていた。澄んだコバルトの空、薔薇色の雲がたなびく、光満ちて静寂と恩寵の時間、わたしは息をのんで刻々とうつりゆく空の荘厳を見ていた。5分にもならなかったろう....魔法の時は過ぎてその残滓のオレンジの光を追うようにわたしは裏小路を歩いた。真昼の猫の瞳孔のような細い細い三日月が中空にかかっていた。


四百八十六の昼 (2004 6 19)  みちづれ

 10:00から自治医大病院で糖尿病の勉強会があった。先進医療、遺伝子医療の将来や食事療法、実際にお昼のメニューを選択していただく....などのプログラムのなかで、最後に出席者のひとりひとりが自己紹介と近況を語った。みな18年とか30年とかの先輩で心臓にカテーテルを入れたとか脳梗塞とか、網膜症とかさまざまな合併症と闘っている。

 わたしは4月からこれまでの経過、そしてこれからは糖尿病を生涯の伴侶としてかずみさんと糖尿病と妻のわたしの三人四脚で歩き続けるのだということ、生き直しのきっかけとして前向きに生きていきたい....などと話した。

 終って病室に戻ったのは3時でふたりとも疲れ果て、ベッドでならんでうとうとした。義妹のあけみちゃんが見舞いにきて、7時にいっしょに電車で帰った。あけみちゃんのことばはかざらないがあったかかった。


四百八十五の昼 (2004 6 18)  !!

 きのうはドットコムの説明を聞き、今日は大塚商会のシステムの説明、さすがに大塚商会、リフジェなんとかという壁に投影する機械を持ってきた。いよいよ経理のシステムを大幅に入れ替える。そのために二社に絞ったのだが、語り同様世間は狭く、この二社は深い因縁の関係だった。きのうの友は今日の敵である。

 そのために本橋さんの現場には行かず、Oと大澤さんに任せた。その日に△ハウスが動き始め現場を見たいと言い出したのである。ところが、ハギさんにお礼のTELを入れるとこちらへ向っているという。虫の知らせかトイレから床から朝みんなで会社の掃除をしておいてよかった!!

 来社されたのは5名、なかに部長がふたり、そうそうたる方々を前にわたしは質問にこたえ、トップ企業のあり方まで説いてしまったのだった。


四百八十四の昼 (2004 6 17)  カタリカタリ

 今日は6月の例会、早朝からパネルシアターのパネルとちいさなものがたりをつくった。10:00からパネルつくり、椅子用の大きなホチキスでとめるだけだからおしゃべりをしながら1時間のあいだに14のパネルができた。それからお茶を飲みながらわたしのものがたりを見てもらう。そして劇団四季もやっているという発声練習。

 実はパネルシアターをするのははじめてである。本道は語りだと思うが幼い子ども向け、またおとなににも導入にはおもしろい。そして語り初心者にはとっかっかりとして道具をつかうと入りやすいのである。ただし、著作権のこともあるので安易に本を写すようなことは控えてほしい、オリジナリティーのあるものを、こんな使い方はどうか....自分の心と頭で考えてほしい。

 それから「ところがけれども物語」をした。ずっと前櫻井先生のASKの講座で楽しかったレッスンだ。二つに分かれて、片方のチームは主人公を不幸のどん底に、もう一方はしあわせにする。12人の奮闘でハゲの王子様の壮大なラブストーリーと原爆で壊滅した世界の復活と永遠の命を持った少女のSFがたちあがり、みんなで大笑いしたり感心したり.......これはおもしろかった。12人の資質がはっきり窺える。

 合間にアイルランドの伝承の語り手ニック.ヘネシーのタイトルは忘れたが「世界でもっとも美しいもの、みにくいものの」語りをした。わたしは櫻井先生の語られるのを2回聞いたが語るのははじめてである。次回の宿題はこれを自分バージョンで語る、それかオリジナルのパネルシアター、両方でも可。カタリカタリは14人に増え、それぞれ個性的なメンバーで将来が1年先.2年先が楽しみである。

四百八十三の昼 (2004 6 16)  暁光  企業の良心

 朝七時前というのにキタムラさんからTEL、午前中早い時間に△ハウスに行ってほしいとのこと、今日は民商の弁護士さんから本橋さんの件で説明を求められているので......と伝えると今度は○○はうすのハギさんからどうしてもきてくれとのこと、民商を延期して○○はうすに行くことにする。

 本橋邸の仕様書、契約書、取引内容のコピーを用意し電車に乗る。途中キタムラさんにTEL、お金が出そうだというので電車のなかで祈り、どのようなアプローチをしようか思いをめぐらす。実は昨日遅く、中野弁護士に差し押さえの申し立てを裁判所から取り下げるようFAXを送ったのだった。それは対決から話し合いへの転換だった。

 わたし自身の気持ちの変化は盛岡の井匂先生と克也さんの庭で起こった。わたしは陸橋の枕木をしきつめたポーチに寝そべって赤松の梢に区切られた空を眺めていた。木のぬくもりが背中にしみて、風がここちよくて、ぐみがゆれ、きいちごがゆれ、わたしはたとえようもなくしあわせだった。そのときハギさんからTELがあり、わたしはもう疲れることはやめにしようと思ったのだ。

 あれほど頑なに本橋邸の件は一切無関係だと言っていた△ハウスにもどんな状況の変化、新たな認識が生じたのだろう。受付で要件を伝えると12号室で待つよう云われた。しばしあって憔悴したハギさんが迎えにきた。場所は前回と同じ10号室。わたしはあえてキタムラさんとの間に椅子をひとつ置いた。

 今回は経理部長と経理の係、センター長、ハギさんが相対して座った。最初に債権譲渡契約とその返事の内容証明について経理部長から説明があった。わたしは冗談交じりにツカサさんとは口頭の契約と聞いていますが、譲渡禁止の特約はほんとうにあるのですか?と尋ねた。

 それからわたしは求められるままにゆっくり静かに話した。そもそものはじまり、なぜ疑問を持ったか、本橋兄弟の上に起こったこと........経理部長は350万余り受け取るべきでないお金を受け取っているので返還する用意があるがそれでいいか.....と問いかけ.......わたしは6月いっぱいに1500万円のお金がないと工事の再開ができないこと、結果として土地が競売にかけられてしまうことを話した。そしておたがいにゆずりあい、よい解決に向いたい、訴訟をしても意味がないこと。わたしたちも利益を考えず、工事の内容を見直し切り詰めるので、キタムラさんと○○はうすさんで1500万円用意してほしい、キタムラさんに多くの責任があるのは承知しているし努力してほしいが、限界があるのでここは○○はうすさんにお骨折りいただきたいと頭を下げた。

 それは語りだったと思う。信男さんがどうしても○○ハウスにしたいと云ったこと。信男さんの住んでいた家はおとうさんとおかあさんが建てた○○はうすであること。経理のおふたりが帳簿を見ながら春日.....だ。築26年だとささやいている。キタムラさんは○○はうすさんのふところにはいりたかったのです。いい子になりたかったのです。わたしはセンター長の目を見つめた。とても長いけれど一瞬に過ぎなかったのかもしれない。それでもセンター長とわたしの心の奥底がしっかりつながったのをわたしは感じた。

 帰り際、経理部長とセンター長が部屋の外で見送ってくれ、わたしが会釈して帰ろうとするとうしろから「ご主人の具合はどうですか?」とセンター長の声、わたしは振り向いて近寄り「ご心配いただいてありがとうございます、おかげさまで切断は免れそうです。今日のことを話したらさぞ喜ぶと思います」とお礼を云った。

 答えはまだ出ない。けれども心が通じたのは、本橋さんたちの代弁をさせていただいたのはほんとうにうれしかった。企業の論理、利益を超えて良心があることをわたしは信じたい。いたずらに争わず相手を裁かず、魂に向って話せば......ちょっとは警察のことなどでプレッシャーもかけたけど.....ひとの本質は善だから必ず通じるのだと思った。わたしは語り手で今日はほんとうにいい語りができてうれしかった。


四百八十二の昼 (2004 6 15)  金色の夕焼け

 今日は給料日、近くの得意先が不渡りを出したと聞いた。先代からの懇意である。まだ1回だから耐えしのぐと思うしそれだけの力はある会社である。が.淘汰の波がここまで近くに来たかと思った。市内の建設業の会社にも先を見越して廃業したところもあれば、倒産したところもある。やめるも続けるもたいへんなことである。

 未収売掛金が嵩んできたので、回収に力を入れるよう営業に話した。それから全社で部門を越えた協力態勢を整えること、今後の目標、ひとりひとりが変わることが会社を変えてゆくこと、時代に合わせて変わってゆかなければ生き延びるすべはないこと...など。連絡会のことである。みなの顔つきがすこし変わってきて以前より活発な意見が出るようになった。


 連絡会の前、病院を訪ねたら、見上げるように背の高い医師が三人、緊迫した雰囲気である。それにしてもどうして外科の先生たちは背が高いのだろう。ベッドに座っているかずみさんがちいさく見えた。前夜、主治医の松村先生から金曜日に転院というお話があり、そのことで今朝、金曜日は都合がつかないということ、これからの長い戦いのために19日の栄養指導を受けたいということ、6月いっぱいと考えているので転院をする際お含み置きください。とTELで伝言をお願いしたのだが、そのことで半ば詰問され、必死の応戦だった。

 医者という存在は周囲から尊敬を受けるし、それだけの自負もあり、なかには威圧的な方もいる。ともかく事情を説明し(以前にも説明したのだが)6月いっぱい、自治医大にいられることになった。さぁあと半月....帰り道、空が金色の光で充ちた。一瞬のことだった。


四百八十一の昼 (2004 6 14)  華やぐ

 朝、本町小に行く。前に子どもの前で語ってから50日もたっていた。教室に向う途中で.....「わたし今語りに興味あるのよね、語りの方に行きたかった...」 という声がする。今この学校でボランティアをしているおかあさんのうちすでに5人がカタリカタリのメンバーだが、すこしずつ増えそうだ。

 3年1組ははじめてのクラスなのでジャックと泥棒をする。担任の男の先生もいっしょに山を登り、山を下り、テクテクテクテク.....それから水からの伝言......子どもたちの目がきらきら輝き、しんとしずまる。お手伝いのおかあさんがおわったあとで泣きそうになったと云っていた。

 今日からゆみちゃんが研修に来た。事務所のなかをきれいにそうじしてくれた。22歳のゆみちゃんがいるだけであたりが華やぐ、命の気が巡りにも伝播する。若いってすごいことなんだと思う。○○ハウスから内容証明が届いている。司工務店と○○ハウスの契約には譲渡禁止の特約がついているので応じられないというのだ。ふ〜んなるほど、譲渡禁止の特約については契約を確認したつもりだが.......個別の工事は口頭で契約すると云っていたはず、キタムラさんも契約書、注文書のようなものはもらったことがない....と言っていたが...おもしろい成り行きである。

 下請けと孫受けのあいだで諍いが生じたので調停した。裁判だのなんだのと言っていたが2時間半かけて話し合い、しこりがとけてお互いいい顔で帰っていった。怨念も語りあうことでほぐれ、あたたかいかかわりとなり得る。

四百八十の昼 (2004 6 13)   森とクローバのステージ

 早朝、ひとりで森を歩いた。小鳥の声が深く澄んで森に木魂する。遠くに岩手山、そして姫神山、歌いたい語りたい想いが躬に充ちてわたしは......風がささやく
波がつたえる はるか昔の.....口をついて出たのはディアドラの歌、ケルトの旋律、苔むす樹にもたれて語ったのは二千年語り伝えられた戀のものがたり。

 井匂先生に所望されてクローバのうえで歌ったのは先生の大好きだというカタリカタリ.......蒼穹をいただき三人の聞き手の前で語りもさせていただいた。...月は銀、お天道黄金........先生と克也さんのもてなしへの、40年前先生がわたしのおさない心に点してくれたゆらめくあくがれへのささやかな返礼だった。


四百七十九の昼 (2004 6 12)  ちいさな旅

 前夜、決心して盛岡に旅立つ。はやてで二時間、夜帰ろうと思えば帰れる距離だ。行くべき時ではないと心は乱れながら、恩師が心待ちにしていると聞いて行かないではいられなかった。夜寝ないで一日家をあけるための準備に費やした。洗濯にそうじ、こまごまとしたこと、自分の良心をなだめるために必要なことだった。どこかで休みたい、このわたしが置かれた場、戦う場と異なるところに自分を置きたいと思う心もあったに違いない。

 盛岡への旅は今年はじまったことではなく中学の同級生でもある橋本康子さんとのあいだで長年の懸案であったのだ。それがこの春先になってまとまり、櫻の頃恩師に会いにいくはずが、先生がご母堂を亡くされわたしの都合もあってのびのびになり6月の12日に決まっていたのだ。

 恩師は阪下井匂先生という。学校を出て赴任したばかりのわたしたちと10しか違わない初々しい先生だった。先生はまっすぐな気性で中学に入ったばかりのやはらかいわたしたちの心に楔を打ち込むように痕跡を残された。それは痛くもあって、いまだにかすかに血の滲むような思い出さえある。

 30年ぶりにお会いした先生のお声と語調、ひとを思いのままにするようなすこしく強引な物言いは変わらなかった。でもほのかにクリーム色を帯びた肌理細かいほほ、繊細な指先、くびれた腰は片鱗さえ失われて、目の輝きこそ昔の光をとどめていたが、そこにいたのはわたしの知らない年老いた婦人で、わたしは声と姿のギャップに眩暈がした。

 そして、克也さんがいた。白麻のジャケット、中折れのソフトを身に着けた勝也さんは先生の連れ合いで、日に焼け骨格の浮き出た精悍な顔立ちは銀の鬚でソフィストケイトされてはいたが、わたしは微かに懐疑と逡巡、飼いならされていない健全ではない危いなにかを嗅ぎ取った。それは同類と云ってもいい感覚だった。ひとことでいえば魅力的なひとだった。

 わたしたちはちゃぐちゃぐ馬子、さんさ踊りの行列の後を追って河のほとりに着いた。そこには樹影濃い岩手県立図書館があって、勝也さんが見せたいものがると案内してくれたのはかっての平民宰相原敬の顕彰碑だった。戊辰戦争殉難者に向けた50年祭で原敬は祭文を捧げた。戊辰の戦いを「政見の異同のみ」と明確に宣言し,敗北者から賊名を取り去ってその寃をそそいだ。原内閣誕生の一年前のことである。そのとき詠んだ句が刻まれていた。この句が好きなんですと勝也さんは云った。.......戊辰戦争の敗戦処理は冷酷であった。仙台,会津,南部,米沢の諸藩に厳しい削封,転封の処分が行われ,東北は明治維新を幕開けとする日本近代化のスタートにおいて,大きなハンディを背負うことになる。かずみさんの出身は会津であって、わたしはもっと勝也さんとそのことで話がしたかった。....この項つづく

四百七十八の昼 (2004 6 11)  平和

 戦争は疲れる。わたしはもう厭戦気分......でもほうってはいけないのだった。自分の問題ならまだしも本橋さんのことがある。来週は話を聞きたいといっている弁護士のところに行こう。


四百七十七の昼 (2004 6 10)  2ラウンドの終わり

 10日というのに△はうすからの応答はない。社内調査のため返答は後日というFAXがきたのみ。センター長にTELするが平行線。最後は「わたしをサギ師呼ばわりした」と27日の繰り返しだった。建設業界のそれも年配の男性ははなから女を対等には見ないでばかにする節がある。ことに理詰めで話し追い詰められると激昂する。、たとえ冷静に話しても怒らせては意味がない。

 しかし責任はある。決して軽くはない。(売り上げをあげるため)本橋邸の什器、備品、設備という名目で○○ハウスに食い込みたかったキタムラさんに振込みをさせた。銀行に行って融資をまとめるように指示した。以上の二点は本人が27日に語ったことだ。100万は消費税・350万は手数料、残りの1650万は司に還流、それからはみなキタムラさんの問題だが、結果として本橋さんのお金は食われた。

 でもね、これはもとはといえば、会社の締め付けのせいじゃないのかな。販売管理費を稼ぐために30パーセントもカットする。口頭の契約....と本人も云ってたが、それで下請けの赤字は増えるわけだ。そしてノルマが科せられている.....たぶん営業にもセンター長にも.......本橋さんのお金が振り込まれるとき、キタムラさんは△はうすの決算だから......と云ったそうだ。売り上げ至上.......そこにお客はいない。

 債権譲渡契約と内容証明を送ったことで調査がありたぶん業者との癒着、工事の不手際などが社内的に明るみに出たのだろう。センター長はそれであんなに怒っているのだ。がこちらもたぶん回収できない。○○ハウスは手直しなどの相殺でツカサ工務店の債権をかぎりなくゼロにするだろう。クロスカウンターで相打ちというところ。戦術としては本橋さんの件と分断すべきだった。ちょっとストレートに行き過ぎた。つぎは搦め手から。......内容証明は直接支社のトップである支社長の手元に行くことがわかったのは収穫。

四百七十六の昼 (2004 6 9)  なにかが

 新しい気持ちに切り替えるために会社の模様替えをする。おおがかりな模様替えで配置をすべて換えてしまった。パソコンの配線、電話の配線がたいへんである。あすはパソコンも電話も大丈夫かしら?

 事務の藤田さんとメールのやりとりをするよにうになって数日.....短時間でもいいから会社にきてください............という文面の会社にきてくださいが大文字になっていた。それから会社にくるようにしているのだが、藤田さんはフォントを変えたわけでもないのに大文字になっていたという。半信半疑でいたら、今度はわたしが送信したメールの一部が大文字になっていた。間違いなく送信をクリックしただけなのにいつものように送信済みアイテムで確認すると大文字なのである。それはメッセージのように思えることばだった。不思議である。およそ不可思議なものと縁も所縁もなさそうなパソコンにもなにかが宿るのだろうか。

 
 キタムラさんが来社した。奥さんは○○ハウスとわたしがグルだと思っているかもしれないが....わたしはもう目が覚めました。利用されたのです......と云う。ほんとかしら。そうともいえないような気がする。どっちつかずの蝙蝠かもしれない。でもキタムラさんにはぬくもりがある。きのうセンター長とハギさんの三人で10時半から12時まで話し合ったそうだ。わたしがTELした時間である。北村さんが2月からの工事だから払ってやってくださいというと「100万や200万払ったってしょうがないだろう」と云ったとのこと。わかってないなぁ......気持ちが感じられないんだよね。100万や200万でひとは泣いたり笑ったりする。アシサワ邸のことにしろ先週か今週の土日には請求の話をするといったところがまだ手直しが終っていなくてハギさんに確認すると担当者が休みなのでわかりません。そのあとはナシのつぶて。債権譲渡契約のことを怒っているらしいが、わたしは手続きをとる前に再三再四ハギさんにはっきりしてと確認した。最後のTELは5月31日の3時半だった。誠意を見せてくれればことを荒立てようとは思はない。

 こちらの条件をキタムラさんに伝えてもらうことにする。返事は6/10の12時までとする。

 病院で担当医の松村先生に今後のことを相談する。できれば6月いっぱいは入院させていただきたいが、ベッドの都合、待っている患者さんがいるのなら系列の病院に転院したい。その後通院の病院の相談、定期的に診ていただく相談。先生はこれは1年はかかる、それもリスクがあることを承知してもらいたいという。長い長い戦いがつづく。食事療法と通院、どちらが欠けてもならない。けれど少なくとも今わたしは愛するひとたちのためになにをしたらいいか知っているのだ。あとは果てしなくそれをするだけ........





四百七十五の昼 (2004 6 8)  やはらかな......

 会社....病院......会社.....わか菜が帰宅した。会議が終って夜10時娘たちと食事に行く。いつのまにかまどろんでいる。そういえば今日は自治医大駅から雀の宮まで乗り越してしまった。めったにないことだが熟睡してしまったのだ。そうとう疲れている。

 10:30と1:05に△はうすのハギさんにTEL、ツカサ工業のキタムラさんにtEL。キタムラさんは明日来社とのこと。わたしは明日担当医と打ち合わせのはずが本橋兄弟が弁護士に相談に行くというので付き添ったほうがいいか思案中。

 トムの会の例会に30分ほど顔を出す。5.6人しかいなかったが今回のことを語ってみる。ライフストーリーがひとつできちゃったというところ。6/19は県立図書館。

 夜、義妹にわたしはいつもそばにいるよ、なにかあったら力になるよ、ほんとうの姉妹よりもっと縁の深い姉妹になろうね.....と話した。ちいさなやはらかい手だった。演劇が好きな義妹に壌さんから譲っていただいたオイディプス王のチケットをあげた。
 もっと早くこころをひらいて話せばよかったね、お互いに....でも遅すぎることはない。気持ちを伝えるのに遅すぎることはない。


四百七十四の昼 (2004 6 7)  漠とした....

 朝、知能犯係りすなわちサギ担当の○○警部補にTELする。ツカサ工務店のキタムラさんを呼んで聞いてくれたという。「やっぱり、○○ハウスにお金が流れたようだね。キタムラは○○ハウスに話して折半してお金を返すと云っていましたよ。」........そんなに簡単なものかしら......

 良い方にとれば会社のためにしたことだろう。だが会社に知れたら、センター長もハギさんも間違いなくクビだろうし、自腹を切るか、それとも伝票類の改竄とかして繕うことは可能だろうか........漠とした不安   センター長に送ったメールの返事は来ない。 支社長に送った手紙の返事も来ない........手詰まり状態だ。キタムさんにTELすると今日はすぐに出た。今日センター長に会って話すという。支社長のアドレスをいくつか推理してメールを打ってみるがヒットしない。....ともかく今は待ち。できれば穏便にすませたい。誰もクビにならないでみながすこしずつ我慢してアパートを建てられる方法はないか?

 大澤建築さんにうちとしては本橋アパートを建てたくツカサ工務店ならびに△はうすと折衝中であること。7月1日から再開した場合の引渡し日の確認、また万が一話し合いがつかない場合の精算の準備も並行して進めてほしい旨伝えた。大澤さんは諒承してくれたと思う。うちはそれで済む。けれど本橋さんは土地を競売され住むところも失い、借金300万円を払い続けなければならない。決して高くはない収入、かつかつの暮らしのなかで.....なんとかならないものだろうか.......

 会社から病院に向う。グリーン開発の社長さんたちがお見舞いにきてくださった。会計事務所の中村所長も見えた。こんな遠くまでありがたいことだ。かずみさんがひきとめるのでもちろんわたしもそばにいたいし.....浦和に向ったのは7:28の電車....あたりはもう暗い。娘から携帯にメールが入る......泣きたい....ここは北朝鮮の強制収容所...来るんじゃなかった.....の文字......もぅ 学校には行きたくない キツイ キツイよぉ ひとがきらいになりそう.....もぅ 死にたい

 わかな.....わかな.....ひとをきらいになったらおしまいだよ......おかあさんも今キツイの......ひとがキライになりそうなの  でも泣かない 逃げない 死なない......
つぎからつぎとメールを打ち続ける  わかな 肩がこったよ 帰ったらマッサージしてね.....愛してるよ.......おかぁさん わかなも愛してる......おやすみ、いい夢を見て...

 ヨーカ堂の鏡に映るわたしの顔はすこし目が血走っていた。闘う女の顔だった。あぁこれからがほんとうの戦いだ。相手は自分自身。とげとげしてちょっとしたことばに傷つきそうになる。わたしはひとをきらいになってはならない。ひとの汚れ、無神経さ、ひとの苦しみに気づかない鈍さ、それはみなわたし自身が持っているものだ。だから赦せないのだ。そこを通り抜けなくては.....仮にキタムラさんがセンター長がハギさんが頬かむりしようとも、恨んだり憎んだりしてはならない。それはわたし自身を貶めるからだ。

四百七十三の昼 (2004 6 6)  和解

 小さいほうのといっても15歳の娘が5時前、意気揚々と修学旅行に出発した。わたしはなかなか子離れできないのだけれど、今度は忙しくて娘の面倒を見る余裕もなく、」娘はひとりで制服をクリーニングに出し、ブラウスにアイロンをかけ、荷物をつくり、朝食まで自分で用意して出かけていった。どうか愉しい修学旅行を...わたしは祈るような気持ちで娘の後ろ姿を見送った。

 午後、二日振りにかずみさんに会いに行くと「なんでもっと早く来ないの」と笑いながらもやや咎めるように云う。あぁ さみしいんだなと思う。わかな 出かけた?こづかいいくらやったの? みんな30000円持ってゆくんですって.....だから20000円わたした....残ったら返すって云ってた.....オレもきのう10000円やったんだよ。.....ほぅ それは知らなかった。
 彼もきのう来たよ。....なんて云ってた?  自分が悪かったって云ってたよ。......それで....?オレがこんな(状態)なのに泣くなよと云った.....仕事を続けたい風だったけど、うんとは言わなかった。ほかのことをやったほうがいい.....8月まで手伝うって.........そぅ よかった........お互いによかったね。

 病室にはピンクの薔薇の花かごが揺れていた。わかりあうことができれば、ひとはけっこうしあわせになれるのだけど、それがなかなかむつかしい。おたがいに苦しめあったりするのは気持ちが届かないからだ。わたしは語り手だ。もっともっと、人の気持ちが開くような、自分のこころが差し出せるように日々語りたい。

四百七十二の昼 (2004 6 5) 妙

 まどろみから覚めてバスの車窓から見える風景にはっと目を見張ると、そこは紛れもなく安曇野だった。夕暮れの空の雲さえ微妙な虹色に輝いている。山なみやひろがる田園がみずから光含んでいるように見える。

 自分を棄てることで得られる境地を妙という。師のことばに慄然とした。たしか世阿弥も花鏡でそれが最高の境地であると書いていた。無心とあった。我執を棄てることでより高次のものと結びつく。それはリヴァイアサン、新生である。芸の道だけではなく生きる要諦にそれがある。

 11時を回った駅頭でこのごろよく見かける高校生らしい二人組みが路上ライブをしていた。あかはだかなつたない歌声に心をうたれ一曲ニ曲聴いてみる。生きることはイタくてツラくて、でもそのなかで掌をひろげるときらきらした儚く美しいものがある。それをたよりに重い荷を両手に歩いた。

 いつかわたしも路上ライブをしよう、歌って語ろうと思いながら歩いた。


四百七十一の昼 (2004 6 4)  この日

 朝から警察へ送るFAXや法律事務所に出す書類、△はうすのセンター長に送るメールなのであたふたした。TELも多くて病院に着いたのは5時近かった。
担当の松村先生から話があるから手術が終る8時過ぎまで待ってくれるよう連絡があり。とうとうきたか、手術の承諾書のことかなと思いながら今日は6時半までしかいられませんと伝えると、サブの安食先生が見えた。

 実はこの自治医大付属病院に転院した5月21日の午後、わたしは7名の医師を前に説明を受けた。糖尿病も相当な状態であったし、そのうえに足は切断を免れず腿の上部から切断する方がよいだろうという衝撃の宣告だった。わたしはふわふわしながらそれでも希望は失わないでいた。きっと6月5日にははっきりするとなぜか思っていた。
当時、かずみさんの傷口は無残なものだった。5月12日の手術で腐ってしまった右足第二指の切断しその周辺の除去で白い骨が見えるほどだったし、足の裏も深く抉り取られ、脛の両脇は膿みを出すため切開され管が入れられていた。それよりなによりレントゲン写真を見た医師が敗血症を起こさなかったのが不思議だと言うほど、いうなれば死にも近かったのである。

 この日安食先生は「切断しないで治療しましょう」とおっしゃった。傷も安定しているし本人の気持ちを尊重したいと思います。糖尿病の治療をしながら傷口の消毒を続けます。通院しながらあと一年か二年かかるでしょう。
 

 これからの摂生と節制しだいではあるが大きな山を越えさせていただいた。転院など、さまざまなことをみてもなにかしら不可思議な力の後押しがあったような気がしてならない。そしてわたしは高山に向った。


四百七十の昼 (2004 6 3)    銀婚式

 朝方益体もないTELに追われ、病院には行かれず10時の開店を待って色とりどりのケーキを11個求める。事務の藤田さんに試験に受かったらケーキでお祝いしようねと約束していたのだ。藤田さんは資格挑戦が趣味で数限りないライセンスを持っている。若い頃勉強したくてもできなかった、そのときの夢を今資格をとることでかなえているのだ。今回は一級建築事務である。そして最終目標は税理士試験の突破....がんばってね、藤田さん。

 午後から練馬に向う。本橋さんを伴って警察に相談に行くのだ。おにいさんの勝明さんが待っていた。信男さんは仕事が忙しいらしい。勝明さんが銀行が競売とかいっているようだというので、警察に行く前に西京信用金庫上井草支店に立ち寄ったが担当の瀬戸さんは折悪しく留守で支店長もしくは代理と思われるひとから話を聞いた。もともと借り入れのときの約定では金利支払いが6月から、元本返済は8月からはじまるのだそうだ。延長はできるがそのためには建築業者から工期完了日次の確約をとらなければならないという。わたしは自分の身分は明かさずに経緯をそれとなく聞いてみた。この貸し方には疑問の点がいくつかある。だれが主導となって借り入れの手続きをしたか?なぜ信用金庫は工事にとりかかってもいないのに中間金の支払いをしたか?   ともかく容易ならざる事態である。

 警察で生活安全課に案内される。ここでは以前信男さんがツカサ工務店のキタムラさんに強要されてサラ金を借りたことで相談をしていたが、弁護士に相談しなさいと言われたのだそうだ。担当者が留守だったので替わりの方に、これは悪質なサギではないかと思われます。民事だから介入できないというのであれば、どうすればサギとして成り立つのか教えてください。と資料を手に説明すると、知能犯係りの刑事さんを紹介してくれた。この方が実にいい方だった。話をすすめてゆくうちに普通の取引とは思われぬところ、1○○ハウスに振り込まれた21000000円の行方  2金の払えるあてがないのに工事を発注していること 3何度も何度もお金を兄弟から引き出しているところ....がはっきりしていった。おとといキタムラさんに書かせた領収書も役立った。

 決め手になったのは会社にTELして仕事を脱け出してもらった信男さんだった。刑事さんは「キタムラにわたした270000円はどうしてハンパな金額なの」と問うたがとつとつと話す信男さんの「それしか通帳になかったのです」ということばに「ひどいことをするなあ....」と呟いた。文字通り身包みはいだやり方に憤ったのである。こうして不可能と思えたが、捜査をしていただけることになった。すでに2時間半が経っていた。

 新倉インターで見た夕日はとても美しかった。かずみさんのところへは行けなかったけれどわたしはとてもしあわせだった。たとえ、どんな結果でもやるだけのことはした。
もしこのことで本橋兄弟のお金が戻ってこなくてもまだできることはある。夜9時を回って母のところへ立ち寄った。なぜかとても会いたかったのだけれど、そこで弟と腹蔵なく語り合うことができた。「かずみさんに会いにいったほうがいいよ。あのひとはいつもあいつはよくやっているよと誉めていた。あなたは仕事に失敗してふらふらしていたときひろってくれたことは忘れてはいけない。こころから話せば通じるものだよ」というと弟は頷いた。わたしは弟としてあなたがとてもかわいかった。ほんとうによくやってくれたね、ありがとう....とわたしも弟に伝えることができた。

 病院には行けなかった、かずみさんと25年間歩いてきた......を分かち合えなかったけれど、いい銀婚式だった。


四百六十九の昼 (2004 6 2)   第二部

 第二部が始まった。内容証明を作成し二通の手紙を投函する。これから波状攻撃である。今夜は本橋さんの名で内容証明を三通作成する。そして明日は警察へ行く。本橋さんの説明の補完と補佐をするつもり....それから写真をとる。アパートと本橋さんの写真だ。警察が民事事件事件にどこまで関わるか、分水嶺はどこかとても興味があるし、確認してみたい。
 かずみさんからTELがきた。あなたと25年間いっしょにいられて幸せだった。これからもよろしくね 愛しています.....と恥ずかしげもなく言えるのは明日が銀婚式だから。

 長女がプチ家出をしてしまった。次女とケヴィンとテリーといっしょに捜しに行った。月夜の公園、空気がしっとりしめっていて、クローバが匂う。犬たちは喜んでクローバのなかを転げまわる。娘とわたしはブランコに乗る。力いっぱいこぐと夜空と木々が舞い上がる。風をはらんでわたしは世界を抱きしめる。

 娘がとつぜん「何を考えているの?」と聞く。「天上の正義と地上の正義は違うのだろうなって考えていた、あなたは?」「わか菜は死ぬんだろうって考えていた」「そうだね、みんないつかは死ぬ、でも魂は不滅だっておかあさんは思うよ」  

 長女はまもなく帰ってきた。わたしはまりのことはそんなに心配しない。心のなかであの子はばかなことはしないし、ぜったい大丈夫だと信じているのだ。あの子はいつか飛び立つ、わたしは誇らしく、そしてすこし寂しい気持ちで飛び立ってゆくまりを見送るのだろう。

 

四百六十八の昼 (2004 6 1)   引っ張る

 今日は病室の引越しの日、長男と病院に向う。来てもらってほんとうに助かった。かずみさんもうれしそうだった。免許をとってくれよ....と話していた。当分息子が運転手をしなければなるまい。帰り駅前のゲームセンターに寄って前から見たかった息子の妙技を見せてもらう。さまざまなゲームの機械が並んでいる。騒音のなかドラムのともうひとつ音楽系のをやってもらう。、子どもたちからギャラリーが集まるよ...と聞いていたが、その身のこなしには一部のスキもなく神がかり的なといってもいいものがあってたかだかゲームではあるがわたしは自分でも戸惑うほど胸を打たれた。この子は大丈夫だなぁと思った。

 電車のなかで会社のことを話しながら帰った。途中別れて有楽町に向う。朝TELして交通会館の郵便局に忘れものをしたことがわかったのだ。キタムラさんにTELしてみる。あのね、キタムラさん、あなたにお渡しするものがあるのよ ちょっと会えない?もし会ってくれないならお宅に伺おうかしら おくさんとおかあさんがこのことを知ったら悲しまれるでしょうね.....。....

 忘れ物を受け取ってぶらぶらしていたら、携帯が鳴った。キタムラさんが始めてTELをよこした! 練馬にいるらしい。池袋で会うことにした。わたしは慎重に準備を整えた。大きめなバッグを買って荷物をいれる、テープレコーダーをセットする。コインロッカーに荷物を入れるところで肩を叩かれた。キタムラさんだ。静かな場所をさがす。3FのTOPSで軽い食事をしながら話す。ひとはいっしょにものを食うとなぜかこころを開きやすくなる。

 2100万円の内訳がわかった。なぜ○○ハウスのハギさんが焦っていたかもわかった。27日のセンター長の文言の意味も.....みんなテープのなかだ。それからキタムラさんに本橋さんに渡していなかった2100万円と1000万円の領収書を書いてもらう。これからどうやって戦うか見えてきた。

 夜9時も過ぎて娘と修学旅行の買い物をする。可愛い下着のセットや部屋着やタオル。ピンクと白とブルー.......



 千の昼、千の夜    2004年4月から5月
 千の昼、千の夜    2004念1月から3月

トムの会
カタリカタリ