スペインの手ふきガラス、琉球ガラス 居間の食器棚には青いガラスのコップがならんでいる。書棚には青いガラスのリングツリー、水さし、花瓶......。いつからだろう、青いガラスを集めるようになったのは、目にすると買い求めずにおれなくなったのは。

 わたしは幼いころ,丈夫ではなかった。よく熱を出した。病気になるといつもは厳しい母がやさしくなった。パックやボトルのジュースなどない時代だったから、母は林檎をおろしがねで擦ってふきんで搾り林檎ジュースをつくって飲ませてくれた。父は役所からいつもより早く帰った。こどもが病気になると父は決まっておみやげに水あめを買ってくるのだった。そういうときは両親のあいだに諍いもなく,家の中は祝福されたように静かでおだやかだった。だからわたしは病気が嫌いではなかった。ひとつのことを除いては。

 熱を出すと悪夢がやってきた。黄とオレンジに燃え盛る火炎の車がゴーゴーと音をたてて追いかけてくる。走っても走っても車は追ってくる。もう逃げられない。追いつかれそうだ。後ろを振り向く、すると火の車はさっきより何十倍も大きくなって追ってくる。わたしは死に物狂いで走る。呑込まれたらおしまいだ。また振り向く。すると炎の車は聳え立つように何百倍、何千倍にもなりますます速度を速め地響きを上げて追ってくる、炎の舌がわたしを舐めそうだ。絶望で胸が張り裂けそうだ。もうダメだ。わたしは汗まみれになって目を覚ます。動悸がとまらない。今の今まで恐怖に追われ転びそうになって走ってきたように。10歳の頃、あれと同じモノを地獄絵図のなかで見た。火車とあった。

 あの恐ろしい悪夢に捕まらないために、こどものわたしが考えたのは眠らないことだった。三間しかない家の居間と寝室は襖で仕切られ、玄関のささやかな廊下と寝室の間には障子があった。両親が起きている時は襖から細い黄色の光が漏れている。しかし両親がとうとう寝んでしまうと、あとは闇である。わたしの家にはスタンドも常夜灯もなかった。薄ぼんやりと天井が見える。天井のしみが広がっていくように見えるのは錯覚だろうか、わたしはふとんをかぶる。風が電線を揺さぶりヒューンヒューンと共鳴する、柱が軋む、なにかが家に覆い被さっているようだ。襖の鶴が羽を広げるあれは鶴なんかじゃない。長い長い夜わたしはひとりでただ耐えた。それでもあの夢に捕まるよりはずっとよかったのである。

 気も遠くなるような時間が過ぎて、幾度も幾度も確かめた障子に嵌められたガラスの色が漆黒から群青になる。そして玄関のガラス戸で切り取られた空の色を受けて障子のガラスは水の湛えられた青いガラス瓶のように青く青く輝き、矢車草のブルーになり淡い水色になり白いただのガラスに戻る。そしてわたしはようやく安心して眠りにつくことができるのだった。

 青いガラスの色はこどもにとって救いであり希望でありかぎりない慰撫の色なのだった。そしておとなになってもそれと知らないでわたしは遠い記憶のなかにある救い、希望、慰めの象徴である青いガラスを求めずにはおれなかったのだった。




2002.3.6