シャルマンは吹き溜まりだった・・・
 日暮里の駅を降りて、谷中の方に下ってゆくと階段がある。長い階段をおりると左側に、シャルマンがある。1階はJazz喫茶、2階はJazzスナック、汚い狭い階段を上ってゆくとガタピシのドア、扉を開けるとボックス席がふたつ、カウンターの中に懐かしいマスターが潤んだ目をして寄りかかっている。やだ、もうヨッパラッテるのね。「ジンライム、あとアツアゲ、」カリカリに焼いたアツアゲにジュっとお醤油、これはシャルマンの売れ筋1だった。・・・

 「働かせてください」 化粧っけのない、どう見ても水商売向きにはみえない思いつめた顔を前にマスターは少し目を逸らした。「たいへんだよ。」   結局、わたしはこのシャルマンで3ヶ月働いた。文字通り「酒とばらの日々」だった。常連さんは開成高校のOBが多かった。みんなマスターのことを.....どうしようもない....と思いながら気遣っている風だった。

 そのなかにひとり浮世絵の摺り師さんがいた。わたしはそのひとから復刻した豊国を二枚いただいた。「摺り損じなんだけど、よかったら」 わたしにはとても摺り損じには見えなかった。豊国はなよなよしててそれまであまり好きではなかったのだけど、今様十二ヶ月如月というその画は気に入って、今でも奥の部屋に一年中かかっている。マスターも浮世絵がすきで、なんと本物を何枚か持っていた。たしか国芳と北斎もあったと思う。私はとても羨ましかった。

 シャルマンで働こうとしたのは、もちろんJazzが好きだったからだ。マスターは夜もふけるとヴォーカルをかけるのが常だった。わたしはピアノが好きだったので内心不満で
「なぜ、ヴォーカルなの」と訊くと
「つかれないからだよ、ようちゃん」
「マスターはJazzが好きでお店を持っているのになぜ疲れるの?」
あのときはわからなかった。今はわかるようになったよ、マスター・・・・・
そして・・・・ひとの声はやさしいんだね。

 マスターはトニー・ベネットの”Autumn in Newyork"をよくかけた。あと、ヘレン・メリル、カーメン・マクレー・・・ビリー・ホリデーは一度しかかけなかった。ピアノはモンクがすきだった。多分みんなひっくるめてモンクが一等好きだったのだと思う。わたしはエバンス、レッド・ガーランド、ボビー・ティモンズ、そしてキース・ジャレット・・・キースのケルンコンサートが世に出て間もないころだったのだ。

 マスターは時おり、前後不覚に酔いつぶれてしまう。そうするとママを呼びにいくのは、わたしの役目だった。ママは谷中銀座でシャルマンというバーをひらいていた。お店を覗くと長いドレスのおんなたちがゆるやかに客とダンスを踊っていた。ママは黒のラメのドレスをまとっていた。こどものように小柄なのに足が速く、わたしたちは無言で、ほとんどひとのいない通りを駈け抜けた。そしてママはふた周りも大きいマスターを抱えるようにして、バーの2階にある住まいへ帰っていった。
  

 その日私は終電に乗り遅れた。ドアを叩けば泊めてくれるひともいないではなかったが、そんな気持ちにはなれなくて、谷中墓地で石のベンチに寝そべって空を見ていたらいつのまにか眠ってしまった。不思議と怖いとはおもはなかった。わたしは・・・たぶんマスターが好きになっていたのだ。

 シャルマンは枯葉の吹き溜まりみたいに、いつもほのかにあかるんでいた。ジャック・フィニーの小説のように時の流れから忘れ去られた場所だった。さまざまな人間模様があり、忘れえぬひとたちが幾人もいる。そのうちこのつづきが書けたらと思う。「語り」となんの関係が・・?ときかれそう・・・そうムリヤリだけどね。Jazzの本質は即興性でしょう?語りもそうだとわたしは思う。時と場所と聞き手と語り手の気分で違ってあたりまえ、一言一句同じでもいいけど、語りは生きているもの・・・Jazzと同じ1回こっきりなんだと思う。

                               13.10.12