私が生まれてはじめて、「語り」として意識して物語を語ろうとしたとき、最初に選んだのがラフカディオ・ハーンの「乳母桜」つぎが「雪女」だった。なぜそれらの物語を選んだのか、はじめはなんの不思議も感じなかった。語りをはじめて一年ほどたったころ、過去を遡りさまよいあるいていくうち、思い当たったことがある。

 私は子供のころから雪がことのほか好きだった。幼いころはもとより、多感な十代のころなどは朝から雪が降ってそれが休日であろうものなら、雪のなかを日がな一日武蔵野の面影が残る三室のあたりを彷徨したものだった。
 そして桜、花のころは毎年そわそわして落ちつかず、満開の花の下でただ坐っているのが無上の喜びだった。私は自分が日本人であるから雪や桜が好きなのだと思っていた。もしかしたらそれが遠い記憶に根ざしたものなのかもしれないなどとはきづくよしもなかった。

 私の母は教師だった。当時、昭和三十年代には職業婦人を母にもつ者はクラスに二、三人しかいなかった。自分が妻となり母になった今、小姑の伯母に四人の子供を預け、優しいけれど支えが必要なロマンチストの夫を支え、教師として母として妻として気丈に生きるしかなかった母の立場がよくわかる。しかしあの頃は、ただ恐い母だった。私たち子供は母よりも父を慕い、母に叱られると父の懐を逃げ場にしていた。そんな母にたった二つ優しい思い出がある。

 
私が五、六歳。妹が二、三歳だったと思う。夕方、雪が降り出してきた。ふたりで外に出ようとすると、母は常になく優しく私たちを呼び止めかいがいしくえりまきをまいてくれたのだった。私は母の優しさにとまどいながらとても嬉しくて、母がまいてくれたオレンジに赤い縞の入ったマフラーのとろんとした肌触りと、母の冷たいゆびさきの感触を四十年以上たった今も懐かくはっきりと思いだすのだ。

 それから二年ほど経った春休み,母と私と妹と乳母車におとうとをのせて、蓮正寺の公園にピクニックへ行ったときのことである。母はやわらかな日ざしの中で芝生にすわっていた。黒のセーターに辛子色のツィードのスカートを着た母は、とてもきれいだった。風がふくと桜の花びらがさぁっと散ってその中にいると夢のような、目眩がするような気がした。母はこぼれ落ちた花びらをひとひら、ひとひらひろいあつめて針にさし糸にとおして、くびかざりをつくってくれた。そのくびかざりは完成することはなかったのだけれど、わたしは心のなかでこのまま時間が止まってくれたらと願っていた。

 この二つは私のもっとも清らかな美しい思い出である。私はそのときの澄み透った幸せな気持ちを忘れられなくて、雪が、桜が大好きになったのだと思いあたったのだ。そうしてそれが心の奥に沈みこんでいて、雪と桜にまつわる愛の物語をだれかに語り、伝えたかったのだと思うのだ。



                                  2001.3.27