駒場の蓮正寺の裏の林に黒い高い煙突が立っている。本太中学校の校庭からも、煙突から幽かに黄がかった灰色の煙が細く立ち昇っているのを見ることができた。中二の9月頃だったろうか、蒸し暑いどんよりした日、風の具合か煙が校庭に降りてきて重苦しい不吉な臭いがした。今思うとこどもの頃の一時期、わたしには空を振り仰いで焼き場の煙突から煙があがっているかどうか確めるくせがあった。黒い霊柩車が通ると反射的に指を折って親指を隠すのと同じようにそれは悪い運命から逃れるためのまじないだった。

 瀬ケ崎保育園の園庭を借りてガールスカウトの夏のキャンプをしたときのことだ。岸野リーダーがリクレーションに肝試しをしようと言い出した。蓮正寺の墓地のなかにある井戸からふたり一組で空き缶に水を汲んでくるというルールだった。月の夜、蓮正寺に着くまでは熱に浮かされたように笑い声をたててさざめいていた少女たちも蓮正寺の門の暗い杉木立につくとシーンと静まりかえり声も無い。みなは寺の石門の外で待ち、ふたりずつ空き缶をひとつ持ってなかにはいる。わたしはそのとき中三でサブリーダーをしていたがスカウトの数が奇数だったので一番幼い子と組むことになり列の最後に並んだ。はじめの組が小走りに戻ってきた。目を瞠り緊張したようすだ。つぎつぎと少女たちは水の入った缶を手に戻ってきては安堵の声をあげる。

 いよいよわたしたちの番になった。握り締めた少女の掌が汗ばんでいる。「大丈夫よ、なにもいないからね」と云いながら実は怖かった。左右に整然と並んだ墓のあいだを進みながら、わたしは一瞬立ち止まった。 無縁仏の墓、となぜか思った。墓地の中央、古い墓石を縦に幾重にも積み上げて、それは古代の遺跡のように立っている。晧々と月光が墓地を照らし、晨としてこの世ならぬ美しさだった。井戸を見つけて水を汲む。ぎーぎーと乾いた音がする。やはり小走りにわたしたちは出口に急いだ。静かな夜、騒がせてごめんなさいと心のなかで詫びながら走った。その夜、三作子ちゃんが高熱を出し,岸野リーダーは肝試しを悔やんだ。 

 それから遡ること三年、妹が小学校三年のときのこと、ともだち三人と誘い合って、蓮正寺の墓地にあろうことかピクニックに行ったのだそうだ。お墓の前で、お弁当を食べ写真も撮ってなにごともなく家に帰った。ところが後日現像じた写真には、奇妙なものが写っていた。中央の少女の左肩にあるはずのない手がのっていたのである。この写真はわたしも見たので確かなことである。墓地には他にだれもいなかった。中央にすわった少女は写真をとる前に「わたしはぜったい幽霊なんか信じないわ」と言ったそうである。
 
 さてその妹が幼稚園のころ、ある日わたしはかねてから考えていた計画を実行することにした。あの世とこの世の境、当時はそんなふうに思っていた焼き場の探検である。ひとりでは怖いので妹と弟と隣の直ちゃんも連れて行くことにした。いつも涙を溜めている4歳の令ちゃんは足出まといなので置いていこうとしたが、おばさんに見つかってしまい、しかたなく連れていった。

 今でこそ駒場はレッズの本拠地として賑わっているが、当時は寂しい場所だった。蓮正寺の遊園地から見下ろすと一面の水田で、水田のはるか向こうは原山、小さな工場や住居が細々添うように立っていた。遊園地の南側の急な石段を降りると軌の残る細い道がつづいている。わたしたちは蓮正寺の墓場を左に、右手に田んぼを見ながら固まりになって歩いた。ぐるっと回り込むように道をたどると左側に黒々と丈高く繁みがあってその奥に焼き場があるらしい。わたしたちは顔を見合わせ、とりあえず面子は立ったし、帰ることにした。ところがなぜか細いけもの道に入り込んでしまった。鬱蒼と暗い木立、足元の笹薮が行く手を阻む。どうやら焼き場の裏手らしい。それが、おかしなことにいくら歩いても帰り道が見つからない、わたしたちは口もきかず、一列になってただ歩いた。なんだか妙な気配にみなが気付いていて、たぶん顔は蒼白になっていただろう、足だけはすべるように前に進む。緊張に耐え切れなくなったようにちいさい令ちゃんが泣き出した。「しーっ 」兄の直ちゃんが押し殺したように言うが令ちゃんは泣き止まない。わたしはしゃがんで令ちゃんをおぶって歩いた。妹も弟も直ちゃんも目を黒く光らせてひきつった顔でついてくる。 そして.....なにかがあとをついてくる。わたしたちのそばにいる。足音もなく、ひそやかな鈍色の気配だけを漂わせて。

 歩いて歩いて気の遠くなるような時間が経って ふっとオレンジ色の夕暮れのなかに出た。見覚えのある農家の萱の塀に褪せた陽があたっている。どこをどう歩いたのか駒場から遠く離れて北宿へ向かう通りの近くにいたのだ。わたしたちは安堵でへたりこみ、ひと休みしてそれから長い時間をかけ足を引き摺り家に帰った。あの色のない重い気配はいつのまにか消えていた。

 夕闇が落ちると、木立の影にはなにかがひそんでいた。明るい昼でさえ目に見える世界の裏に得体の知れないなにか、とてもなつかしくて、けれど恐ろしいなにかが確かに存在することを、突然日々が綻びて、得体のしれないものに連れ去られるかもしれないことをこどもは感知していたように思う。もしかしたら、確固としたものなどおとなにとってもありはしないのだとさえ、知っていたのかもしれない。



  平成14年11月22日