5月24日、語り手たちの会の櫻井先生、今井さん、村田さんをはじめとする産経学園グループのみなさん4名と山形は寒河江向けて出発した。大宮を9:00に出て、在来線に乗り継いで寒河江についたのは12時を回っていた。
寒河江付近のグループ、ムーミンママとピーツクの方が迎えにきてくださっていた。それから一行はホテルのバスでネーチャーセンターに向かった。車中からはこぶしや藤、桐、やまぼうしにうつぎありったけの花木が一斉に今を盛りと咲いているのが見えた。新緑とあいまって目が洗われるようだった。センターに着く。ここでトイレ休憩のあと、お昼のお弁当包みを持ち長靴に履き替え、杖をついてトラッキングに行くのだ。センターのすぐ南西側は残雪が目に眩しい。足元の危うさに気をくばりながら最後尾につく。あぶなっかしい足取りのわたしをかばってメンバーの方が荷を持ってくださる。先生は先頭に近くはりきって歩いていらっしゃる、清冽な雪解け水がさらさら音を立てて流れている。小橋をわたる。芽吹いたばかりの蕗のとう、みずばしょうが白い炎のような花弁を天に向けている。そしてなによりぶなの木が、すっくり伸びた、手を入れられていないぶなの木が、雪の重みで撓んだぶなの木が美しかった。みずみずしい葉のいろ、日に透けて風にゆれてきらきら光る葉のゆらめき、空気は澄んで風はわたしの頬もやさしく掠めてゆく。

 

 10分ほどあるいて、やはりわたしは残ることにした。膝がわるく、転びでもして一行に迷惑をかけてももうしわけないと思ったし、こころゆくまで、ぶなの林のなかにいたかったのだ。
 ひとり残ってくださるというのをだいじょうぶだからと先へすすんでいただいて、みなさんを見送るとわたしは残雪の上に腰をおろした。みなさんになんとかついてゆこうと緊張していた両足を労わって、まずお弁当をひろげる。竹の皮に包まれたおにぎりのなかは香り高い蕗味噌である。待っていたように小虫が飛んでくる。そそくさとお弁当をしまい、こんどは誰もいない周囲に一礼して語りをはじめる。月の夜晒しのぶなの森がざわわ、ざわわ.....というところが想像ではなく語れる。ディアドラと騎士たちの森での暮らしも、みの吉のたきぎを背負った後姿も浮かんでくる。

 見たことがなくても想像することはできるけれど、ことばが命を持つには、語り手のなかでことばとそのものがひとつに重なるほうがよいのだろう。まだ幼くて感受性が絹糸を幾重にもぴんと張りめぐらしたようであったあのころ、その鋭さのあまりやはらかな皮膚が破れて赤い血の筋がにじむようであったあのころは、想像の世界のほうがずっとずっと美しかった。実在の世界は影のように薄ぼんやりしたものに過ぎず、わたしはいつも実際の場面に立ったりものを見たりしたときがっかりしたものだった。
 恐ろしいものがひとつふたつと失われ、強くなってゆくごとにわたしの想像力も萎え飛翔もかなわなくなった。...それは言葉を変えればわたしがこの暗い不条理の世界と和解し自分の生きる地歩を固めてゆく過程でもあったのだけれど.......今は幼いころの残滓をかき集めてイメージを構築し、語っている。
 ひとはたいせつななにかをうしなうことなく、贄をささげることなく意味のある何物をも手にすることはできないのだ。

 
  さて、こうしてものがたりのなかを彷徨い語っているうちに、みなは意気揚々とセンターに帰ってきた。わたしたちは車ですぐの今日の宿に向かった。