タイ王宮と古都アユタヤ
05.12.14〜12.15


訪 問 先

タ   イ   アユタヤ遺跡      ワット・プラシーサンペットワット・プラマハタート
                          ワット・ヤイチャイモンコ

タイ王宮とエメラルド寺院                                             


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昨夜、20時30分カンボジャよりバンコクに到着し、マンダリンホテルで泊まる。

今朝、8時ホテルを出発、タイ王宮へと向う。

タイは6400万の人口で、内75%がタイ族で残りを華人、マレー、インド、ラオ系人他で構成し、

宗教は上座部仏教(小乗)95%、イスラム教4%、残りはキリスト教、ヒンズー教、シーク教等。


やはり、御多分にもれずバンコクもこの時間帯になるとラシュで車が輻輳する。

バンコクで一番古い町と言われるチャイナタウンにはいる。

バンコクの人口は600万であるが中国系タイ人が一番多いそうだ。

ガイド氏も中国系タイ人で、話しに依れば、こちらは金の店屋が多いので有名だそうだ。  

タイの金は純度が高いので、実質的にはお買い得と云う。


嘘か本当かそんな話しを聞きながら王宮地区へ到着する。


タイ王宮

周囲は白い壁の城壁に囲まれ、王宮の威厳が伝わってくる。


王宮上部テラスのパコダを初めとする建築物


バスを降り、早速、ガイド氏より仏塔を背景にしたタイ国旗のある所で

記念写真を、と云うので写真におさまる。

以前と違い写真も皆さん義理で撮っている様で揃いが鈍い様だ。



王宮の正面ゲイトが見えた所で、我々はここから入らず、

左手のエメラルド寺院のある上部テラスの方から入門する。


の王宮は四方1900mの壁に囲まれた18000平方mの敷地があり、

場内には宮殿の他、王室寺院、政府の省庁も入っている。

昔シャムのアユタヤがビルマ軍に落とされた後、タイはチャオプラヤー河の西側のトンプリーに都を移したが、

15年たった1782年に、ラーマ1世が王都としてトンブリ−はビルマに対し防御に弱いと考え、

対岸のバンコクに遷都したのが始りだそうだ。



王宮正面ゲートとラーマ5世の建てた宮殿

背景に見える尖塔の建物はチャックリー・マハ-・プラ−サート宮殿と呼び、現在はレセプションホール

として利用されているが、元はバンコク王朝100年記念(1882年)にラーマ5世により建てられた。

屋根はタイの伝統的な建築の屋根で、躯体はルネッサンス様式である。

建物は中央の玉座のある謁見の間を中心に両翼棟からなっている。



入ると正面にエメラルド佛寺院があり、その前に黒い色をした座佛像があり、

其前を通って、金色の仏塔へ向う。

仏塔の横に仁王さんの様な鬼神が、おどけた眼をして睨みをきかして立っている。


王室の建物を守る鬼神


白い階段を上った所に黄金の仏塔は立っていた。

この塔はラーマ一世の時代にスリランカ様式で建てられ、

コンクリートの上にガラスをはりその上に金箔を張り仕上ているそうだ。

ガイド氏の言う様に24金と見えて、より黄色く見える。



仏舎利の納められている黄金の仏塔


その東には優美に飾られた列柱で囲まれた王室の経堂があり、三蔵経が納められている。

その隣には中でも一番優美だと言われる王室御堂がある。

ガラスと鏡に青赤緑の色が散りばめられ、これらはタイの宝石を表わしているそうだ。

この建物は以前、エメラルド仏が安置されていたが、手狭な為、現本堂に移された。


北側にはラーマ四世がアンコールに行って感動し、造らせたと云われる

アンコール・ワットの模型があった。


       
     プラ・モンドップ経堂              王室御堂(元エメラルド佛安置)


その先には陶器によるモザイクにより小さな花で飾られたウイハーン・ヨート仏塔がある。

模様は違うが古代ローマのモザイクを見る様な細かな細工がされていて

金ぴかの中に逆に心を惹かれる。



遥か先に見えるのがウイハーン・ヨート仏塔


王室御堂の東には金色に輝くピラミッド型の仏塔があり、猿とバラモンの神々が支えている。



ピラミッド型の仏塔


その南にはエメラルド佛が安置されている王室の守護寺院であるワット・プラ・ケオが居座る。

この寺院は僧侶のいない寺院と云われ、本尊のエメラルド佛は人々に一番崇められていて、

本堂の中に入ると、須弥壇の一番奥に、小さいご身体(66cm)であるのに驚いた。

エメラルドと言われているが、翡翠でできていて、

もっと大きいものと想像していたが、これも有名物のガッカリの一つの様だ。




エメラルド佛寺院ワット・プラ・ケオの本堂

この仏像の由来は1434年チェンライにある仏塔が落雷で破壊され、中から漆喰に覆われた

仏像が発見され、その漆喰の剥げた所から緑色の仏像が現われた。

その後チェンマイ王が後継者が居ないまま他界した為、王女の一人がラオス王に嫁ぎ

王子をもうけたので、その子をチェンマイ王として迎え入れた。

しかし、ラオス王が亡くなり、ラオスに帰ることになりになり、その時エメラルド佛も持ちかえる。


その後、ラオスがビルマ軍に攻められ、仏像は変遷をし、1778年ラーマ1世がビエンチャンを

占領した時、再び持ち返り、遷都後、1784年バンコクに移された。


       
これらの塔はラーマ1世から8世まで8基あり、夫々の墓となっている。 尚、現国王はラーマ9世である。


寺院地区から抜け、王宮地区に出ると直ぐ左手に鉄の門扉があり、その奥に

ラーマ5世が6世の為に建てたビクト−リア様式の宮殿が見える。 ボロム・ピマ−ン殿と云い、

その後、7世より9世までが御所として使用した、現在は迎賓館として使われている。

その反対方向にはチャクリー・マハ−・プラ−サート宮殿があり、その前で

白いヘルメットを被った近衛兵の一団が王室の行事であろうか、赤い制服を着た

学童を従え、ブラスに合わせ行進していた。


此方の王宮は儀式や迎賓館として使われている為、こう云った風景がよく見られると云う。

現在の国王はジッタッタ宮殿に住まわれ、王室の行事がある場合は此方に出向かれるそうだ。

東南アジアで唯一植民地化を免れ、長く平和を維持した国だけに各代の国王が、

建物を競って建てた為か、その数も多く充実している。


午前中は終り、昼食をホテルのビュフェでとり、午後、古都アユタヤへ向う。



古都アユタヤ


アユタヤはバンコクの直ぐ北80kmにある人口16万の市で、1350年から400年余り続いた

アユタヤ王朝の古都で、全盛期には東南アジア最大の都市として発展したが、

1767年ビルマ軍の攻撃を受け幕を閉じた。

現在は世界遺産となり維持されている。

こちらもカンボジャのアンコールと同様、日本人の足跡があり、

アユタヤのチャオ・プラヤ−河を下った西岸に日本人街遺跡が残されている。


* 
アユタヤには14世紀から18世紀頃まで日本人町があり、傭兵や貿易商人がいたと云う。

特に関ヶ原の合戦の以後、主を失って、あぶれた浪人達が、海外に活路を求めた。

当時、アユタヤはビルマとの緊張状態にあり、実践を積んだ浪人を必要としていた。

また一方では朱印船による貿易から人々が流入し、そういった中、傭兵隊の山田長政が国王の信任を得て

日本人町の責任者となり,行政官位まで得るが、王位継承の争いに巻き込まれ亡くなった。   




ワット・ヤイチャイモンコン

こちらはアユタヤの東部に位置し、沢山の樹木が茂り、植物園の様な雰囲気で、

初代ウートン王がスリランカの留学から戻った修行僧の為に

1357年に建てた寺院と伝えられ、当時ヒンズー教にかわって、上座部佛教が

スリランカより浸透して来た。

日本の奈良の都が仏教で国を治めたと同様に

此方の史跡を見ると、多くの仏像と仏塔が残され、その意気込みが伝わって来る。




この仏塔はナーレスエン王が日本の武将と同じ様に、ビルマの王と兵隊を入れずに

差しで戦い、その戦勝記念に建てられたと云う。  高さが70mあるそうだ。



仏塔を取り囲んだ釈迦の坐禅列は壮観!




釈迦涅槃像




こちらの釈迦はどれも螺髪の上に角がある。





今も使われている本堂では沢山の仏像が置かれ、多くの燈明が挙げられていて、

カタカタと音を鳴らして、お参りの人達で賑わっている。



ワット・プラマハタート

ヤイチャイモンコンより10分程の所で、寺院は川沿いにあり、今日は祭りの為

道路や空き地に沢山の屋台が出て、賑わいを見せている。

バスを降りると、早速布袋を沢山抱えたオジさんがやって来て、7ヶ1000円と云う。

確かアンコールでは10ヶ7ドルと言っていたが??

屋台のラーメン屋は一パイ10バーツ(30円)だそうだ。

しかし、ガイド氏曰く、手持ちの水が無くなると、川の水になるそうだ。 ヤバイねー!


こちらの遺跡は聖なる木 トンポ(菩提樹)に包まれた仏頭で有名であるが

1374年に第3代目のボロム・ラチャンラット一世が釈迦の聖骨を納める為寺院を建てた。

クメール様式やスコータイ様式が入り混じり建てられている。



トンポの根に閉じ込められた仏頭、心なしか苦しそうにうつる。

ビルマ戦で破壊された仏頭が長い間に根っ子に包まれ、現在も多くの人が

参拝するのか、供えものが上げられている。



ラチャンラット一世が建てたと言われる仏塔は崩壊していた。



  
クメール様式の塔




手前はスコータイ式、背後はトウモロコシに似たクメール式




ビルマとの戦いで破壊された仏像、金で覆われていたそうだが、

いつの間にか剥ぎ取られ、持ち去られてしまった。




ワット・プラシーサンペット

プラマハタートを見た後、アユタヤの西に位置するプラシーサンペットに入る。

大きな道路の両側は屋台の店が並び、その横を象が屋根のある輿を載せ

ゆらリゆらり歩いていく。 突然、ガイド氏から声が掛り ”こちらで象に乗る人いませんか?”

20分500バーツ(1500円)と云う。  4人ほど勇敢な女性がいた。


声が掛るはずである、公園があり沢山の像が赤い服を着た御者に操つられている。


ここはウ−ト−ン王がアユタヤ王国を建国した時、王宮が設けられた場所だけに

所々に空間があり、何処か奈良公園を感じさせる。




ビルマ式の佛塔




仏塔を覆う木の上ではリスが戯れていた。



古都を思わせる空間

その当時は、多くの寺院や仏塔が立ち、花々の匂いや樹木に包まれた都大路を

象や修行僧が闊歩していたことであろうに。









仏塔の廃墟のかげに沙羅双樹の花が寂しく咲いている。

栄枯盛衰、諸行無常をあじわう一時。


* 沙羅双樹とは釈迦入滅の時、臥床の四方に二本づつ生えていたと伝えられている木。



鬱金の衣を掛けられた涅槃佛

身長が38mあり、ビルマ式と言われている。

漆喰が剥げ落ち、永遠の微笑が掴みづらい。


以前は漆喰の上に金箔が貼られて微笑も輝いていたであろう。


やがて、このあたりは黄昏て燈明が燈されるのであろう


我々は釈迦に別れを告げ、チャオプラヤー川の河畔でタイスキに舌鼓、

その後、バンコクよりミッドナイトのJALで飛び立つ。




旅の疲れか、ぐっすり寝こみ、目が覚めた時には、機窓に暁が光っていた。

間もなく、名古屋だ!


後  記

この度、カンボチャとタイの遺跡を通じて、両国の歴史に触れることができた。

カンボジャでは9世紀から15世紀までのクメール王朝は栄えたが、アユタヤ(タイ)に

アンコールを奪われ、プノンペンに都を移してからは、タイとベトナムから侵略や圧力を受け

国は衰退し、フランスに助けを求め植民地化への道をたどって行った。


一方タイはアユタヤ朝がアンコールを奪い、400年間隆盛を続けたが、1767年

ビルマ軍に敗退しアユタヤを捨て、トンブリ−からバンコクへと王朝を移していった。

アジアが西欧列強の植民地化に曝される中、隣のビルマが英国の植民地となり、

東のカンボチャはフランスの保護領となる中、時の国王ラーマ5世は唯一植民地化を防いだ。

 これがカンボジャとタイ両国の発展の運命を決定ずけたと言えよう。

カンボジャは第2次大戦後、独立はしたものの内戦が勃発し、ポルポトが原始共産制を掲げ

都市居住の資本家、学者、技術者等知識層を含めた大人達を、

殆ど、田舎に強制移住させ強制労働を強いた。

子供達は親から引き離され思想教育をされた。

その過程で200万とも300万とも云われる人達が虐殺されていった。


一の瀬泰造のカンボジアの友人も、その犠牲の一人である。

今回、シェムリアップの街を見たが、ホテルやレストランの建設が進み観光産業が

立ち上がっているが、中国や韓国系の店が目立っている。

これらは、ポルポトの暗黒政治による虐殺と思想教育による為で、

カンボジャにテクノクラートや事業家が少なく育っていない結果であろう。

タイとの経済格差は何時縮まるのか???

それには先ず教育が必要であるが、学校に行けない子供が多いと云う。

まだまだ、経済援助を必要としている。

しかし、彼等は仏教への信仰心が厚く、将来への希望を持っていること、

それが唯一救われていることであった。


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